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2022年3月16日 (水) 12:20時点における版
庄内沖地震 | |
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庄内沖地震の震度分布 | |
本震 | |
発生日 | 1833年12月7日 |
震央 | 北緯38度54分 東経139度15分 / 北緯38.9度 東経139.25度座標: 北緯38度54分 東経139度15分 / 北緯38.9度 東経139.25度[1] |
規模 | M7.5 |
被害 | |
被害地域 | 羽前・羽後・越後・佐渡 (特に庄内地方) |
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プロジェクト:地球科学 プロジェクト:災害 |
庄内沖地震(しょうないおきじしん)とは、1833年12月7日[2] (天保4年10月26日)14時頃に山形県沖(北緯 38.9 東経 139.25)の日本海で発生した地震。規模は、マグニチュード 7.5(Mw 8.0)程度と推定されている。地震により津波が発生し東北地方と新潟県の日本海側だけでなく能登半島にも被害を及ぼした。
出羽国沖地震(でわのくにおきじしん)、庄内地震(しょうないじしん)、あるいは羽前沖地震(うぜんおきじしん)とも呼ばれる。
概要
庄内地方で壊家475戸、津波による溺死者 38人。能登半島の輪島で溺死者 47人。宇佐見による調査で震度6の揺れが推定された場所は新潟県から山形県にまたがる長さ80kmの地域、震度5は新潟から秋田に至る約250km 最上川沿いの山形盆地まで、震度4は津軽・北海道松前から能登半島まで及んだ。
津波
津波遡上距離の違いから1964年新潟地震よりも大きな津波が発生したと考えられ[3]、津波高は波源に近い湯野浜から府屋間で5 - 6m、局地的に7 - 8m。新潟県の角田浜・五ヶ浜では地盤高5m以上の砂浜に遡上、佐渡の岩谷口も6.4m、波源から遠い輪島でも津波高は5.3mと考えられている。新川河口では、2.5km 程遡上し[3]被害を生じたが[3]、阿賀野川等での遡上到達点は未解明である[3]。
震源域は1964年新潟地震に重なるとの見方もあるが、新潟地震の震源域の北側で発生した地震とも考えられ、1983年日本海中部地震の発生以降注目され積極的な調査が行われた。
規模
河角廣(1951)は規模MK = 5. を与え[4]、マグニチュードは M 7.4に換算されている。宇津(2001)は M 7.7[5]、宇佐美(2003)は M 7 1/2±1/4と推定している[6]。
大長(1989)は湯野浜28km沖に震央を仮定して M 7.8とし[7]、相田(1989)は津波の数値実験による断層モデルから、地震モーメントを1.26×1021 N・m (Mw = 8.0)と推定している[8]。
出典
- 理科年表 第85冊 丸善 ISBN 9784621084380
- 羽鳥徳太郎、「羽鳥徳太郎:天保4年 (1833) 山形沖地震とその津波の規模」 『地震 第2輯』 Vol.43 (1990) No.2 P.227-232,doi:10.4294/zisin1948.43.2_227
- ^ 日本地震学会『日本付近のおもな被害地震年代表』
- ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日) 2020年12月2日閲覧。
- ^ a b c d 矢田俊文、「一八三三年庄内沖地震における越後の津波到達点と水死者数 『災害・復興と資料』 2014年 4巻 p.27-31,hdl:10191/29647
- ^ 河角廣(1951)、「有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値」 『東京大學地震研究所彙報』 第29冊 第3号, 1951.10.5, pp.469-482, hdl:2261/11692
- ^ 宇津徳治、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、2001年
- ^ 宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年
- ^ 大長昭雄(1989): 天保4年(1833)の庄内沖地震, 萩原尊礼編著: 続古地震, 東京大学出版会, pp. 434.
- ^ 相田勇(1989): 天保4年の庄内地震による津波に関する数値実験, 萩原尊礼編著:続古地震, 東京大学出版会, 434.
関連項目
外部リンク
- 山形県の地震活動の特徴 地震調査研究推進本部
- 天保四年(1833 年)山形沖地震津波の調査 (PDF) 『歴史地震』 2011年 第26号 95頁
- 越後・佐渡の津波被害 - ウェイバックマシン(2014年5月24日アーカイブ分)