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「エドワード七世の戴冠式」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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実際の戴冠式の撮影が何故不可能であったかは本文で説明されていますが、導入部にも反映しておく事と致します。
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『'''エドワード七世の戴冠式'''』(エドワードななせいのたいかんしき、{{lang-en|The Coronation of Edward VII}}、{{lang-fr|Le Sacre d'Édouard VII}})は、[[1902年]]に[[フランスの映画|フランス]]の[[ジョルジュ・メリエス]]が監督し、[[イギリスの映画|イギリス]]の{{仮リンク|チャールズ・アーバン|en|Charles Urban}}が製作した[[短編映画|短編]][[サイレント映画]]である。[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]女王の死去により、新たに[[イギリスの君主|イギリス国王]]に即位した[[エドワード7世]]と王妃の[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]]の[[戴冠式]]を再現した作品で、本来なら長時間にわたる式典の主要な段階だけを取り上げ、約6分のワンシーンの映像にまとめている。これは[[映画史]]初期に普及したジャンルで、時事的な出来事を劇的に再現した「再構成されたニュース映画」の1本である。1902年に行われた実際の戴冠式に先立って作られ、戴冠式の当日に公開された。
『'''エドワード七世の戴冠式'''』(エドワードななせいのたいかんしき、{{lang-en|The Coronation of Edward VII}}、{{lang-fr|Le Sacre d'Édouard VII}})は、[[1902年]]に[[フランスの映画|フランス]]の[[ジョルジュ・メリエス]]が監督し、[[イギリスの映画|イギリス]]の{{仮リンク|チャールズ・アーバン|en|Charles Urban}}が製作した[[短編映画|短編]][[サイレント映画]]である。[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア]]女王の死去により、新たに[[イギリスの君主|イギリス国王]]に即位した[[エドワード7世]]と王妃の[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]]の[[戴冠式]]を再現した作品で、本来なら長時間にわたる式典の主要な段階だけを取り上げ、約6分のワンシーンの映像にまとめている。これは[[映画史]]初期に普及したジャンルで、時事的な出来事を劇的に再現した「再構成されたニュース映画」の1本である。1902年に行われた実際の戴冠式に先立って作られ、戴冠式の当日に公開された。


アーバンは実際の戴冠式を撮影することが不可能だと分かると、メリエスに戴冠式を再現するよう依頼した。戴冠式をリアルに再現するため、アーバンがイギリスで式典の詳細な情報を入手し、メリエスがフランスのスタジオでそれを基にしてセットや小道具を作った。撮影は[[ウェストミンスター寺院]]内部を再現した屋外のセットで行われ、実在の人物と顔の似ている人物を俳優に起用した。作品は6月26日に予定された戴冠式に間に合うように完成したが、エドワードが病気になったため、実際の式典と本作の公開の両方が8月9日まで延期された。公開されるとイギリスやその他の地域で高い成功を収めたが、少なくとも1人のジャーナリストが式典を偽造したことで強く批判した。エドワード自身も本作を鑑賞して喜んだと伝えられており、メリエスの最も評判の良い作品の1つであり続けている。
アーバンはイギリス政府からの許可が下りず実際の戴冠式を撮影することが不可能だと分かると、メリエスに戴冠式を再現するよう依頼した<ref>[[#製作]]を参照。</ref>。戴冠式をリアルに再現するため、アーバンがイギリスで式典の詳細な情報を入手し、メリエスがフランスのスタジオでそれを基にしてセットや小道具を作った。撮影は[[ウェストミンスター寺院]]内部を再現した屋外のセットで行われ、実在の人物と顔の似ている人物を俳優に起用した。作品は6月26日に予定された戴冠式に間に合うように完成したが、エドワードが病気になったため、実際の式典と本作の公開の両方が8月9日まで延期された。公開されるとイギリスやその他の地域で高い成功を収めたが、少なくとも1人のジャーナリストが式典を偽造したことで強く批判した。エドワード自身も本作を鑑賞して喜んだと伝えられており、メリエスの最も評判の良い作品の1つであり続けている。


== プロット ==
== プロット ==

2022年3月24日 (木) 01:58時点における版

エドワード七世の戴冠式
The Coronation of Edward VII
監督 ジョルジュ・メリエス
製作 チャールズ・アーバン英語版
製作会社 スター・フィルム
ウォーリク・トレイディング社英語版
配給 ウォーリク・トレイディング社
バイオグラフ社英語版
公開 イギリスの旗 1902年8月9日
上映時間 約6分[1](フィルム長107メートル[2]
製作国 フランスの旗 フランス
イギリスの旗 イギリス
言語 サイレント
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エドワード七世の戴冠式』(エドワードななせいのたいかんしき、英語: The Coronation of Edward VIIフランス語: Le Sacre d'Édouard VII)は、1902年フランスジョルジュ・メリエスが監督し、イギリスチャールズ・アーバン英語版が製作した短編サイレント映画である。ヴィクトリア女王の死去により、新たにイギリス国王に即位したエドワード7世と王妃のアレクサンドラ戴冠式を再現した作品で、本来なら長時間にわたる式典の主要な段階だけを取り上げ、約6分のワンシーンの映像にまとめている。これは映画史初期に普及したジャンルで、時事的な出来事を劇的に再現した「再構成されたニュース映画」の1本である。1902年に行われた実際の戴冠式に先立って作られ、戴冠式の当日に公開された。

アーバンはイギリス政府からの許可が下りず実際の戴冠式を撮影することが不可能だと分かると、メリエスに戴冠式を再現するよう依頼した[3]。戴冠式をリアルに再現するため、アーバンがイギリスで式典の詳細な情報を入手し、メリエスがフランスのスタジオでそれを基にしてセットや小道具を作った。撮影はウェストミンスター寺院内部を再現した屋外のセットで行われ、実在の人物と顔の似ている人物を俳優に起用した。作品は6月26日に予定された戴冠式に間に合うように完成したが、エドワードが病気になったため、実際の式典と本作の公開の両方が8月9日まで延期された。公開されるとイギリスやその他の地域で高い成功を収めたが、少なくとも1人のジャーナリストが式典を偽造したことで強く批判した。エドワード自身も本作を鑑賞して喜んだと伝えられており、メリエスの最も評判の良い作品の1つであり続けている。

プロット

この作品は、1902年ウェストミンスター寺院で行われる新国王エドワード7世と王妃アレクサンドラ戴冠式の重要な段階をまとめている[4]。まず承認と宣誓が行われ、国王は聖書に接吻し、宣誓書に署名する。戴冠式で用いられるエドワード王の椅子に着席した国王は、カンタベリー大主教フレデリック・テンプル英語版により聖油を注がれる。次に国王は剣を奉納し、絹の法衣をまとったあと、宝珠王笏を授けられる。そして国王は大主教により王冠をかぶせられ、王妃とともに玉座に座り、参加者全員から敬意を表される。

背景

戴冠式の法衣をまとったエドワード7世とアレクサンドラ妃を描いたルーク・フィルズの肖像画。

イギリスの君主であるヴィクトリア女王は1901年1月22日に亡くなり、その時点でヴィクトリアの長男であるプリンス・オブ・ウェールズのアルバート・エドワードがエドワード7世として即位した[5]。エドワードと1863年に彼と結婚した王妃のアレクサンドラの戴冠式は、1902年6月26日に執り行われることが予定されていた[6]

フランスの映画製作者ジョルジュ・メリエスは、革新的な物語映画シンデレラ』(1899年)や『ジャンヌ・ダルク英語版』(1900年)ですでに高い評価を得ており[7]、1902年の夏には自身最大の国際的な成功作となる『月世界旅行』(1902年)の製作を完了していた[8]。それまでにメリエスは、映画史初期に普及したジャンルである「再構成されたニュース映画(actualité reconstituée)」[注 1]を何本も撮影していた。再構成されたニュース映画は、現実の光景や出来事をそのまま記録した映画史初期の主流のジャンルアクチュアリティ映画英語版とは異なり、セットや役者を使って時事的な出来事を劇的に再現した作品のことである[8][11]。メリエスのこのジャンルでの主な作品には、1898年の戦艦メイン号爆破事件を題材にしたシリーズや、『ドレフュス事件』(1899年)が知られている[12]。1902年はメリエスにとってこのジャンルにおける最後の作品を撮影した年であり、それは順にプレー山の噴火を描いた『マルチニク島の火山の爆発英語版』、半硬式飛行船の事故を描いた『飛行船パックス号の災難英語版』、そしてエドワード7世の戴冠式を描いた本作である[8]

アメリカの起業家であるチャールズ・アーバン英語版は、エジソン社の代理店であるマガイア&ボーカス社のロンドン支店の営業部門を任されていたが、1898年に自身の映画会社ウォーリク・トレイディング社英語版を設立した[13][14]。アーバンの会社は、メリエスのキャリアで最も実りの多い時期に、メリエスが経営する映画会社スター・フィルムのイギリスでの代理店となり[15][16]、またバイオグラフ社英語版を通じて時折メリエス作品をアメリカでリリースしていた[1]

製作

Georges Méliès
ジョルジュ・メリエス
Charles Urban
チャールズ・アーバン

チャールズ・アーバンは、本物の戴冠式の様子を撮影することに関心を示したが、イギリス政府はウェストミンスター寺院の中に映画用カメラを持ち込むことを許可しなかった[15][17]。たとえ許可が与えられたとしても、ウェストミンスター寺院の内部は暗すぎるうえに、カメラのクランクの回転音が式典を邪魔してしまうため、実際の式典を撮影することは不可能だった[15][18]。そこでアーバンは、ビジネス上の関係があり、再構成されたニュース映画を作る手腕が高く評価されていたメリエスにその撮影を依頼した[19]。そのためこの作品は、一般的な再構成されたニュース映画のように、実際の出来事を事後的に再現したものではなく、予想された出来事に先立つ再構成作品として作られた[17][18]

この作品はメリエスとアーバンの共同製作として作られ[20]、メリエスがフランスのセーヌ=サン=ドニモントルイユに建設した映画スタジオで撮影を行い、アーバンがプロジェクトの委託と資金提供を行った[1]。メリエスは当初、自身のファンタジー映画で使用した人工的な演劇スタイルで戴冠式を再現することを検討した。メリエスがアーバン宛ての手紙で提案したと思われるアイデアの1つは、亡くなったばかりのヴィクトリア女王の幻影を登場させるというものだった[21]。しかし、アーバンは、それまでのメリエスが試みたような出来事の想像的な再現ではなく、来たるべき戴冠式のよりリアルな事前再現を求めた[19][21]。アーバンが5月26日付でメリエスに宛てた手紙には、次のように書かれている。

私は(実際には何時間も続く)戴冠式を5分から8分ほど続く「ワンシーン」だけで作ることに決めました。…このことを何人かの政府高官に話したところ、彼らはそれをうまく作りさえすれば、おそらく国王が私にその作品を見せるように命じるだろうと言いました。ですので、この作品は「あなたの傑作」でなければなりません。…注:この作品のどこにも商標[注 2]を入れないでください[1]
戴冠式で使用されるエドワード王の椅子。メリエスは式典関係者から入手した情報を基に、この椅子を含む道具類を制作した。

アーバンはリアリティを求めるため、戴冠式を準備するイギリスの高官などの関係者の協力を得て、ウェストミンスター寺院内の外観図や、道具類の資料など、式典の進行の詳細について正確な情報を手に入れ、それをメリエスに渡した[4][23]。メリエスはアーバンの助言と資料に従って、すべての舞台装置や小道具、衣裳などを制作した[4][17][23]。撮影の調査のためにウェストミンスター寺院を訪れた可能性のあるメリエスは[24]、寺院内部の身廊と交差するところからの視点で北翼廊を示したセットを、トロンプ・ルイユの技法を使用して組み立てた[15]。メリエスは撮影に使うレンズの幅に合わせて、セットの大きさを実際のものよりも縮小しているが、それでもセットはメリエスの映画スタジオの中で組み立てるには大きすぎたため、モントルイユにある自分の庭に作られた[1][17]。メリエスは舞台装置を無駄にはせず、『英仏海峡トンネル英語版』(1907年)や『千一夜物語英語版』(1905年)などの後年の多くの作品で、本作で使用した玉座や肘掛け椅子などの小道具を再利用した[1]

この作品では約40人の俳優が出演しているが、メリエスはできるだけ実在の人物と顔の似ている人物を起用した。例えば、アレクサンドラ妃はシャトレ座の踊り子を起用した[15][23]。エドワード7世には、ル・クレムラン=ビセートルの洗濯屋で働いていた男性が、顔がそっくりだったという理由で起用された[23][25]。この男性は、メリエスの1907年のファンタジー映画『英仏海峡トンネル』でも同じ役を演じた[21]。また、メリエスの甥(兄ガストン・メリエスの息子)のポールも、国王の戴冠式用の剣を持つアテンダント役として出演した[26]。ウェストミンスター寺院のトリフォリウム英語版に着席した列席者たちは、前の1、2列だけが本物のエキストラで、その後ろの人たちはトロンプ・ルイユによるだまし絵で描かれている[27]。メリエスは俳優の演技やメイクについても、アーバンから次のようなアドバイスを受けた。

メイクや演技は完璧でなければなりません。実際には、国王は王妃より数インチ低いですが、これを作品で示してはなりません。国王はこの点で非常に敏感であり、常に王妃より少し背が高く見えることを望んでいます[1]

この作品は、実際の戴冠式が行われる数時間を、その最も重要ないくつかの瞬間だけ網羅した約6分間のワンショットに凝縮している[4][15]。アーバンは製作中にメリエスの映画スタジオを訪れて作品をチェックし[15]、自分のカメラを撮影に使用することを主張した[24]。アーバンの晩年の回想によると、イギリス映画のパイオニアとして知られるアーバンの同僚のジョージ・アルバート・スミスが、カメラを操作するためにメリエスのスタジオを訪れたという[28]。メリエスはこの作品を、ウォーリク・トレイディング社によるイギリス公開用と、バイオグラフ社によるアメリカ公開用の2つのテイクに分けて撮影し、おそらくイギリスの観客に戴冠式の最も正確な描写を提供するために2つのテイクのエンディングを入れ替えた[29]。その後、メリエスはアメリカにスター・フィルムの支社を設立した時に、2つのネガフィルムを同時に撮影する試みを始め、1つはフランス国内市場用に、もう1つはニューヨークでの著作権登録用に使用した[21]

公開と反応

本作の新聞広告(『New York Clipper』1902年8月23日付)

アーバンは、この作品を戴冠式が行われるその日に公開することを考えていた[18]。作品は6月21日に完成し[1]、26日に予定される戴冠式に間に合った[15]。しかし、24日にエドワードは虫垂炎と診断された[30]。当時この疾患は死亡率が高く、手術も一般的には行われていなかったが、この頃に開発された麻酔殺菌剤の技術を使用することで手術をすること自体は可能だった[31]。無菌手術の創始者であるジョゼフ・リスターの支援を受けた外科医のフレデリック・トリーブ英語版は、当時は型破りだった切開部から腫瘍を取り出すという手術方法で、病気の治療に成功し、エドワードの容態は翌日までに戻り始めた[32]。国王の命が無事救われたものの、戴冠式は8月9日に延期となり、本作の公開もそれに合わせて延期された[30][33]

8月9日の戴冠式当日の夜、本作はロンドンのアルハンブラ劇場英語版で初公開された[15]。その上映にあたり、アーバンは実際の戴冠式でカメラを設置し、式典の前にエドワードと招待客たちの馬車がウェストミンスター寺院に到着する光景と、式典終了後にエドワードが馬車でバッキンガム宮殿に戻る光景を撮影し、これらのショットをメリエスの映画の最初と最後に付け加えることで、作品の本物らしさを高めた[15][33]。これらの記録映像は失われた映画と考えられていたが、ロンドンのBFIナショナル・アーカイブ英語版には到着の光景を写した映像のいくつかの静止画が残されている[1]。エドワードの病気の回復に伴う疲労のため、映画に示されている式典の瞬間の一部は、実際の戴冠式で省略されている[15]

本作はウォーリク・トレイディング社のために作られた作品であるため、メリエスのほとんどの映画とは異なり、スター・フィルムのカタログには記載されていないが、ウォーリク・トレイディング社とバイオグラフ社から『Reproduction, Coronation Ceremonies, King Edward VII』や『Coronation of King Edward』などのタイトルで販売された[15][34]。いずれの場合も、この作品が本物の式典の映像であると宣伝されたわけではなく、式典を再構成した再現映像であると自由に認められた[15]。それは一般観客にも受け入れられたが[8]、フランスのイラスト付き日刊紙『プティ・ブルーフランス語版』のジャーナリストは、本作が偽りであることを厳しく批判した。

イギリス人のみなさん、あなたがたはだまされています。私たちはすばらしい儀式をご覧になって驚嘆させられているあなた方を興醒めに陥れるのを承知でこのことをお知らせするのです。何よりもまず真実が大切だからです!…確かにあるものが示されはしますが、このあるものは言うならば見せかけのもの、見かけ倒し、田舎芝居でありましょう。厳かに王座についているエドワード七世と傍にいる優美でしかも厳粛なアレクサンドラは、厚紙で作られた椅子が備え付けられ、書割でうわべだけを飾った広間で冠を戴いたモントルイユのエキストラたちなのです[35]

本作はすぐに人気を博し、アルハンブラ劇場で看板作品としての地位を獲得し、イングランドのモス・エンパイヤーズ英語版が経営するミュージック・ホールのチェーンで公開されたあと、世界中で上映された[24]。戴冠式の数日後に作品が公開されたアメリカでは、興行師のライマン・H・ハウ英語版が他のロンドンの街や戴冠式のパレードの映像とともに上映し、好評を受けた[36]。あるアメリカ人批評家は「カメラマンの芸術作品で、王の戴冠式のような重要なイベントをとても忠実に再現するという細かな仕事をするなど、本当に信じられない」と述べている[36]。メリエスはこの作品で得たたくさんの利益を使って、同年に『ガリヴァー旅行記英語版』と『ロビンソン・クルーソーの冒険英語版』の2本の大作映画を製作した[8]

本作はメリエスの再構成されたニュース映画の中で、複雑さと注目度において『ドレフュス事件』(1899年)に次ぐ作品である[21]。メリエス映画研究者のジョン・フレイザーは、本作の「荘厳さと慎ましさ」について高く評価し[15]、エリザベス・エズラは作品の「ファンタジーとリアリズムの相互作用」を強調し、「鑑賞者に2つの典型的なモードの違いについて問いかける」ことを求めた[21]。戴冠式の数日後、本作はウィンザー城でエドワード7世とその家族の前で上映された[15][37]。伝えられるところによると、エドワードは上映に喜び、メリエスに「映画というのは素晴らしいなあ。実際にはなかったシーン(王の疲労で省略された儀式のこと)まで見せてくれるんだもの」と述べたという[37]

脚注

注釈

  1. ^ 「再現されたニュース映画」[9]、「再構成されたアクチュアリティーズ」[10]ともいう。
  2. ^ メリエスは、アメリカで自分の作品の海賊版が横行していたことを知ってから、その対策として作品中にスター・フィルムの登録商標を入れていた[22]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i Malthête & Mannoni 2008, p. 142.
  2. ^ Malthête & Mannoni 2008, p. 345.
  3. ^ #製作を参照。
  4. ^ a b c d 小松 1991, p. 305.
  5. ^ Lee 1927, p. 7.
  6. ^ Lee 1927, p. 102.
  7. ^ Malthête & Mannoni 2008, p. 106.
  8. ^ a b c d e Rosen, Miriam (1987), “Méliès, Georges”, in Wakeman, John, World Film Directors: Volume I, 1890–1945, New York: The H. W. Wilson Company, p. 755 
  9. ^ サドゥール 1994, pp. 64, 151.
  10. ^ Solomon, Matthew (2010). Disappearing Tricks: Silent Film, Houdini, and the New Magic of the Twentieth Century. Urbana: University of Illinois Press. p. 57. ISBN 9780252035104 
  11. ^ 小松 1991, pp. 74, 296.
  12. ^ 小松 1991, pp. 74, 302.
  13. ^ サドゥール 1994, p. 192.
  14. ^ McKernan, Luke. “Charles Urban”. Who's Who of Victorian Cinema. 2022年2月17日閲覧。
  15. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Frazer, John (1979), Artificially Arranged Scenes: The Films of Georges Méliès, Boston: G. K. Hall & Co., pp. 100–102, ISBN 0816183686 
  16. ^ メリエス 1994, pp. 236–237.
  17. ^ a b c d サドゥール 1994, p. 297.
  18. ^ a b c 小松 1991, p. 304.
  19. ^ a b 小松 1991, pp. 304–305.
  20. ^ メリエス 1994, p. 282.
  21. ^ a b c d e f Ezra, Elizabeth (2000), Georges Méliès, Manchester: Manchester University Press, pp. 66–68, ISBN 0719053951, https://books.google.com/books?id=NW12OEyynkQC&pg=PA66 
  22. ^ サドゥール 1994, p. 295.
  23. ^ a b c d メリエス 1994, pp. 280–281.
  24. ^ a b c Abel, Richard (1998), The Ciné Goes to Town: French Cinema, 1896–1914, Berkeley: University of California Press, p. 93, https://books.google.com/books?id=VnPUIY1FapsC&pg=PA93 
  25. ^ Essai de reconstitution du catalogue français de la Star-Film; suivi d'une analyse catalographique des films de Georges Méliès recensés en France, Bois d'Arcy: Service des archives du film du Centre national de la cinématographie, (1981), p. 105, ISBN 2903053073, OCLC 10506429 
  26. ^ Bertrand, Aude (2010), Georges Méliès et les professionnels de son temps, Université de Lyon, p. 118, http://www.enssib.fr/bibliotheque-numerique/documents/48719-georges-melies-et-les-professionnels-de-son-temps.pdf 20 December 2014閲覧。 
  27. ^ 小松 1991, pp. 306–307.
  28. ^ Robinson, David (1993), Georges Méliès: Father of Film Fantasy, London: Museum of the Moving Image, p. 45 
  29. ^ Malthête, Jacques (1996), Méliès: images et illusions, Paris: Exporégie, p. 116 
  30. ^ a b Lee 1927, pp. 102–109.
  31. ^ Mirilas, P.; Skandalakis, J.E. (2003), “Not just an appendix: Sir Frederick Treves”, Archives of Disease in Childhood 88 (6): 549–552, doi:10.1136/adc.88.6.549, PMC 1763108, PMID 12765932, http://www.pubmedcentral.nih.gov/articlerender.fcgi?tool=pmcentrez&artid=1763108 
  32. ^ Windsor, HRH The Duke of (1951), A King's Story, London: Cassell and Co, p. 20 
  33. ^ a b 小松 1991, p. 307.
  34. ^ American Mutoscope and Biograph Co. (23 August 1902), “Coronation of King Edward”, The New York Clipper: p. 570, http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Coronation_of_King_Edward_ad.jpg 14 February 2015閲覧。 
  35. ^ サドゥール 1994, pp. 298–299.
  36. ^ a b Musser, Charles; Nelson, Carol (1991), High-Class Moving Pictures: Lyman H. Howe and the Forgotten Era of Traveling Exhibition, 1880–1920, Princeton: Princeton University Press, pp. 119–120, https://books.google.com/books?id=3Ld9BgAAQBAJ&pg=PA119 
  37. ^ a b メリエス 1994, p. 284.

参考文献

  • 小松弘『起源の映画』青土社、1991年7月。ISBN 978-4791751365 
  • ジョルジュ・サドゥール 著、村山匡一郎、出口丈人、小松弘 訳『世界映画全史3 映画の先駆者たち メリエスの時代1897-1902』国書刊行会、1994年2月。ISBN 978-4336034434 
  • マドレーヌ・マルテット=メリエス『魔術師メリエス 映画の世紀を開いたわが祖父の生涯』フィルムアート社、1994年4月。ISBN 978-4845994281 
  • Lee, Sidney (1927), King Edward VII: A Biography, II, London: Macmillan 
  • Malthête, Jacques; Mannoni, Laurent (2008), L'oeuvre de Georges Méliès, Paris: Éditions de La Martinière, ISBN 9782732437323 

外部リンク