「スウェーデン系フィンランド人」の版間の差分
CommonsDelinker (会話 | 投稿記録) 「Flag_of_Swedish-speaking_Finns.svg」 を 「Flag_of_the_Finland_Swedes.svg」 に差し替え(CommonsDelinkerによる。理由:File renamed: Criterion 2 (meaningless or ambiguous name) · This flag does not merely repr |
|||
(13人の利用者による、間の31版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
[[ファイル:Flag of the Finland Swedes.svg|サムネイル|スウェーデン系フィンランド人を象徴する旗。非公式<ref>{{cite journal|date=December 2006|title=Hur ser Svenskfinland ut om 100 år?|url=http://www.sfp.fi/files/Medborgarblad/MED%204_06.pdf|journal=Medborgarbladet|volume=61|issue=4|pages=20|publisher=Svenska folkpartiet RP|location=Helsinki|language=Swedish|accessdate=2008-06-06|archive-url=https://web.archive.org/web/20110721123258/http://www.sfp.fi/files/Medborgarblad/MED%204_06.pdf|archive-date=21 July 2011|url-status=dead}}</ref><ref name="fotw.net">{{cite web |url=https://www.fotw.info/flags/xn_fi-se.html |title=Swedish speaking population in Finland |accessdate=6 June 2008 |author=Engene, Jan Oskar |date=10 March 1996 |publisher=Flags of the World}}</ref>。]] |
|||
{{出典の明記|date=2015年3月}} |
|||
[[ |
[[File:Finland-swedish.jpg|thumb|200px|スウェーデン系フィンランド人の居住地域(黄色)]] |
||
'''スウェーデン系フィンランド人'''(スウェーデンけいフィンランドじん |
'''スウェーデン系フィンランド人'''(スウェーデンけいフィンランドじん、[[スウェーデン語]]:finlandssvenskar, [[フィンランド語]]:suomenruotsalaiset)は、[[フィンランド]]の少数派言語集団であり、文化的[[マイノリティ]]でもある。[[スウェーデン]]から移住した人々とその子孫を中心とした集団であるが、近年ではフィンランド語系との通婚が進んでおり、[[アイデンティティー]]を共有することによって集団を形成している{{efn|本記事の出典136箇所(2022年9月17時点)のうち、93箇所に使われている文献の表記は「スウェーデン語系フィンランド人」・「スウェーデン語系住民」・「スウェーデン語系」となっている(吉田 (2001)、吉田 (2007)、冨原 (2009)、カルヤライネン (2014)、石野 (2017)など。)。このため本文の表記は同様に「スウェーデン語系フィンランド人」・「スウェーデン語系住民」・「スウェーデン語系」を優先して表記している。}}。 |
||
== 呼称、人口 == |
|||
フィンランド語では、一般的にsuomenruotsalaiset(フィンランドのスウェーデン人)と呼び、法的にはruotsinkieliset(スウェーデン語系の人)や、ruotsinkielinen väestö(スウェーデン語系住民)と呼ぶ{{Sfn|吉田|2001|p=77}}。日本語表記では、'''スウェーデン語系フィンランド人'''もある{{Sfn|冨原|2009|p=21}}{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=13}}{{Sfn|石野|2017|p=81}}{{Sfn|萩原, 日本フィンランド協会|2019|p=106}}。また、スウェーデン語のfinlandssvenskarの直訳による'''フィンランド・スウェーデン人'''という表記も存在する{{Sfn|石野|2017|p=82}}。 |
|||
[[2001年]]時点で、フィンランドの総人口の5.7%にあたる約29万人がスウェーデン語を母語として住民登録している{{Sfn|吉田|2001|p=81}}。 |
|||
北欧の人々の多くが、「フィンランドのスウェーデン人」とはスウェーデン語を学んだ純粋なフィンランド人だと理解しがちだが、これに対してスウェーデン語系フィンランド人は反対する。スウェーデン語系にとってのルーツは中世の東スウェーデンに根ざした言語グループで、第1言語はスウェーデン語でありフィンランド語ではない{{Sfn|ハストロプ編|1996|p=44}}。 |
|||
スウェーデン語系に対するあだ名として、フッリ(hurri)という語がある。由来はエステルボッテン南部のフィンランド語方言であり、1780年代の海岸地帯のスウェーデン語系の人々を指した。1930年代に{{仮リンク|フィンランドにおける言語闘争|fi|Suomen kielipolitiikka|label=言語闘争}}が起きてからは、軽蔑的なニュアンスで使われるようになった。1970年代にエステルボッテンのスウェーデン語系の人々が民族主義運動を起こした際は、スウェーデン語の勝鬨「フラー(hurra、万歳)」と混同させてフィンランド語の罵倒「フッリ」を連想させる「フッラルナ(hurrarna)」という語を使った{{efn|若い世代のスウェーデン語系は、スウェーデンを「フッリの国」とふざけて呼んだりもする{{Sfn|ハストロプ編|1996|p=46}}。}}{{Sfn|ハストロプ編|1996|p=46}}。 |
|||
== 言語 == |
|||
[[File:Svenskspråkiga folk i Finland.png|thumb|200px|right|スウェーデン語話者の割合]] |
|||
スウェーデン語は[[インド・ヨーロッパ語族]][[ゲルマン語派]]に属し、[[ノルウェー語]]、[[デンマーク語]]、[[アイスランド語]]と系統が近い。フィンランド総人口の92%にあたるフィンランド語は[[ウラル語族]][[フィン・ウゴル語派]]に属する{{Sfn|吉田|2001|pp=81-82}}。フィンランドで話される{{仮リンク|フィンランド・スウェーデン語|sv|finlandssvenska|en}}はフィンランド語のイントネーションに近く、語頭にアクセントを置き抑揚が少なく、スウェーデンでのスウェーデン語とは異なる{{Sfn|石野|2017|p=84}}。 |
|||
=== 言語的境界線 === |
|||
スウェーデン語系とフィンランド語系の言語的境界線の初期の証拠として、15世紀はじめにフィンビュー(フィン人の村)とスヴェンスクビュー(スウェーデン人の村)という対になる地名がある。境界線において、言語的な少数派に対して使われたと解釈されている{{Sfn|ハストロプ編|1996|p=45}}。言語的境界線についての研究では、物質文化は言語と関係なく商品流通と同様に広まることが判明している{{Sfn|ハストロプ編|1996|p=42}}。 |
|||
=== 話者のイメージ === |
|||
スウェーデン語系の社会は内陸部にもあり、[[測量士]]、[[森林監督官]]、[[教師]]、[[警官]]、[[牧師]]、[[医師]]、写真屋、[[軍人]]、薬屋、製材工場主、[[地主]]などで構成されていた。そうした世帯では家庭でスウェーデン語を話し、フィンランド語を話す使用人を雇っていた。特に19世紀以降のフィンランドでは、スウェーデン語系の一般的なイメージは上流階級社会と結びついた{{Sfn|ハストロプ編|1996|pp=37-38}}。実際のスウェーデン語系の中心は海岸地域の漁師、農民、職人だったが、スウェーデン語は権力の言語として認識されることになった{{Sfn|ハストロプ編|1996|pp=38-39}}。 |
|||
=== 借用語 === |
|||
言語的境界線上の地名の多くはスウェーデン語がもとになっており、たとえばスウェーデン語のロングヴァットネット('''Långvattnet''', 長い水路)がフィンランド語に翻訳されてピトケヴェシ('''Pitkävesi''')になる。もとがフィンランド語の地名や習慣は、そのままかあるいはスウェーデン語風に変形されて借用された。フィンランド語からの借用語の多くは、商売、職人、使用人などの文化に関係する語が多い。pojke(少年)、piga(女中)、pajta(シャツ、リンネル)、mekko(カーディガン)、parm(干草を量る単位)、katsa(漁労用の網籠)、kont(白樺の樹皮などで作ったリュックやカバン)、loka(ヨット)などがある。2言語併用の歴史が長い地域では、フィンランド語からの借用が1000語以上ある。フィンランド語からの影響は特に若い世代に多く、公文書でも意味借用は行われている{{Sfn|ハストロプ編|1996|pp=42-43}}。 |
|||
=== 研究 === |
|||
[[フィンランド教育省]]下の研究機関である{{仮リンク|フィンランド国内諸言語研究所|fi|Kotimaisten kielten keskus}}では、スウェーデン語の研究と管理が行われている。言語管理の目的は、地域的な多様性を保ちつつ、スウェーデンにおけるスウェーデン語から過度に遊離することを避ける点にある。スウェーデン語計画課と言語委員会が運営し、標準文語の確立と維持、実態調査、新語の開発などを行っている。情報誌として『言語使用』が発行されている{{Sfn|庄司|2008|pp=125-127}}。 |
|||
== 歴史 == |
== 歴史 == |
||
スウェーデン語系住民のフィンランド移住は、400年代から800年代に[[オーランド諸島]]で始まったとされる。フィンランド本土への移住は1200年代以降だった{{Sfn|吉田|2001|p=81}}。土着の信仰をキリスト教に改宗するために[[北方十字軍]]が行われ、フィンランドにはスウェーデンとデンマークが遠征した。フィンランドへの十字軍は[[1155年]]、[[1249年]]、[[1293年]]の3回があったとされるが、遺物が少なく史料が後世に書かれたものであるため、遠征そのものがなかったという説もある{{Sfn|石野|2017|pp=15-18}}。 |
|||
[[ヴァイキング]]及びその後の[[北方十字軍]]以降にフィンランドへ移住した[[スウェーデン人]]或いは[[ノルマン人]]の子孫が、今日のスウェーデン系フィンランド人である。特に北方十字軍終了後、フィンランドへ統治者として渡った[[貴族]]や開拓民によって構成された。一方、[[先住民族]]である[[フィン人]]は、団結もなく抵抗も少なかったことから、なし崩し的にスウェーデンの統治下、すなわち[[植民地]]とされて行った。以降、[[1809年]]にフィンランドが[[ロシア帝国]]に割譲されるまで「[[スウェーデン=フィンランド]]」を形成した。 |
|||
=== |
=== スウェーデン統治時代 === |
||
[[File:Swedish Empire (1560-1815) en2.png|thumb|250px|1658年のスウェーデン王国。[[スウェーデン帝国]]や[[バルト帝国]]と呼ばれた]] |
|||
*[[1397年]]、[[デンマーク]]がフィンランドをも含んだ[[カルマル同盟]]を締結するが、[[デンマーク人]]の勢力はフィンランドには及ばず、スウェーデン=フィンランドは維持された。[[1523年]]にスウェーデンがカルマル同盟から離脱すると、スウェーデン系フィンランド人もスウェーデンと共に独立。[[宗教改革]]による[[ルーテル教会|ルター派]]への改宗とスウェーデン人たちが行った[[バルト帝国]]建設に荷担する。 |
|||
[[1276年]]に[[オーボ]]に司教座が設置され、[[1323年]]にスウェーデンと[[ノヴゴロド公国]]の間で{{仮リンク|パハキナサーリ条約|fi|Pähkinäsaaren rauha}}が結ばれ、本フィンランドや南西フィンランドの地域がスウェーデン領となった。スウェーデン東部の州として統治下に組み込まれ、[[スウェーデン=フィンランド]]を形成した。[[先住民族]]である[[フィン人]]はスウェーデンの統治下におかれた{{Sfn|石野|2017|pp=18-20}}。 |
|||
*[[1581年]]、スウェーデン系フィンランド人たちは独立を模索し、時のスウェーデンの支配者[[ヴァーサ王朝|ヴァーサ家]]に画策してフィンランド公国が成立するが、政体はスウェーデン=フィンランド時代と何ら変わることはなく、ヴァーサ家が断絶すると公国自体がなかったことにされた(実態は名ばかりであり、歴代王家が「[[フィンランド大公]]」を称していた)。 |
|||
*[[1700年]]に始まった[[大北方戦争]]による敗北で、スウェーデン系フィンランド人たちの本国に対する不満が高まり、先住民であるフィン人と共に「[[フィンランド人]]」としてのアイデンティティーが目覚め始める。そして[[ナポレオン戦争]]において、スウェーデンがロシア帝国に敗退し、[[ロシア人]]がフィンランドを占領すると、彼らを解放者として迎えた。 |
|||
[[スウェーデン統治下のフィンランド|スウェーデン統治時代]]は、スウェーデンから貴族や役人が支配者層として移住した。公用語はスウェーデン語であり、公的文書はフィンランド語に翻訳された。知識人の多くはスウェーデン語系だった{{efn|18世紀のストックホルムで「フィンランドにおける方言」という場合は、フィンランド人が話すスウェーデン語を指した{{Sfn|ハストロプ編|1996|p=44}}。}}{{Sfn|石野|2017|p=45}}。14世紀にペストが流行した際、フィンランドは被害が少なかったが、スウェーデンでは1350年頃以降に人口が激減し、フィンランドへの農民の移住が途絶えたとされる{{Sfn|石野|2017|p=25}}。 |
|||
*[[1917年]]、[[ロシア革命]]によりフィンランドが解放され、翌[[1918年]]にフィンランドが独立を達成すると、スウェーデン系フィンランド人もそれを支持し(スウェーデン系及び[[スウェーデン人民党 (フィンランド)|スウェーデン人民党]]の後押しにより一時的に[[フィンランド王国]]が成立した)、フィンランド国籍を持つフィンランド人となるが、一方で、スウェーデン人としてのアイデンティティーも残された。[[現代]]においても、少数派ながらフィンランド社会において、スウェーデン系フィンランド人の影響力は非常に高いクオリティを誇っている。世界中で活躍する「'''フィンランド人'''」の中にも、多種多彩のスウェーデン系フィンランド人が活躍している。 |
|||
[[1397年]]、[[デンマーク]]がフィンランドをも含んだ[[カルマル同盟]]を締結するが、[[デンマーク人]]の勢力はフィンランドには及ばず、スウェーデン=フィンランドは維持された。[[1523年]]にスウェーデンがカルマル同盟から離脱すると、スウェーデン語系もスウェーデンと共に独立した{{Sfn|石野|2017|pp=25-28}}。スウェーデンは[[エストニア]]北部へ進出して[[ロシア帝国]]と対立し、[[1570年]]〜[[1595年]]にスウェーデンとロシアの戦争が起き、主戦場はフィンランドとなった{{efn|エストニアやラトヴィアの島々に住んだ人々は{{仮リンク|島嶼スウェーデン人|en|Coastal Swedes}}やエイボー人と呼ばれ、スウェーデン語を話し約6000人がいたとされる。自治をして暮らしていたが、17世紀末には多くが奴隷や農奴にされた{{Sfn|ハストロプ編|1996|pp=177-180}}。}}{{Sfn|石野|2017|p=31}}。 |
|||
*[[21世紀]]の現在、先住民族であるフィン人とも混血が相当進んでおり、母語をスウェーデン語とする以外、両者を区別するのは難しい。北方人種系の特徴である[[金髪]]碧眼であっても、フィンランドにおいては、そのルーツは明らかに異なると言える。[[中世]]以降、フィンランドの形成に大きく関わり、キリスト教化、宗教、文化など、フィン人に強い影響を与えている。[[近世]]以降、両民族は一蓮托生となり、現代に至るまで命運を共にして行った。 |
|||
[[1700年]]に始まった[[大北方戦争]]ではスウェーデンが敗北した。[[1713年]]〜[[1714年]]にはフィンランドの大部分がロシアの占領地となって略奪や暴行が起き、支配層である貴族や商人らのスウェーデン語系を中心とする数千人がスウェーデンに逃亡した{{Sfn|石野|2017|pp=37-38}}。大北方戦争で[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]が戦死しスウェーデンが敗北した影響で議会政治が進み、公民権が拡大した時期は[[自由の時代]]と呼ばれる。この時期にはフィンランドからスウェーデン語系議員が輩出されてスウェーデンの国政に参加した{{Sfn|石野|2017|pp=38-39}}{{Sfn|柳沢|1988|p=132}}。 |
|||
[[ナポレオン戦争]]においてスウェーデンは[[フランス帝国]]と対立し、ロシア帝国に[[第二次ロシア・スウェーデン戦争]]で敗北した。1809年の[[フレデリクスハムンの和約]]でフィンランドはロシアに割譲され、スウェーデンのフィンランド統治が終了した{{Sfn|石野|2017|pp=49-51}}。 |
|||
=== ロシア統治時代 === |
|||
[[ロシア帝国]]はフィンランドを直轄地として、[[1809年]]に[[フィンランド大公国]]を建国した。ロシアは[[フィン人]]を大公国の統治者として扱い、これにはスウェーデンとの関係を弱体化する意図があった{{Sfn|庄司|2008|pp=129-130}}。ロシアは信教の自由、議会や議員、身分や特権の維持、法律の自由などを保障した{{Sfn|石野|2017|pp=56-57}}。他方で1829年以降に検閲制度が強化され、スウェーデン統治時代に存在した思想や言論・出版の自由は制限されていった{{Sfn|平井|2018|pp=184-187}}。ロシア文化がフィンランドに流入し、ロシア語の名称がそのまま入るか、あるいはスウェーデン語風やフィンランド語風に変形されて取り入れられた{{Sfn|ハストロプ編|1996|p=42}}。1860年代から工業化が進み、森林資源は「緑の黄金」とも呼ばれて製材や製紙が盛んになった。通信機器における世界な企業だった[[ノキア]]も1865年の創業当初は[[製紙業]]で、創始者の{{仮リンク|フレドリク・イデスタム|fi|Fredrik Idestam}}はスウェーデン語系にあたる{{Sfn|石野|2017|p=68}}。 |
|||
[[ファイル:Adolf Ivar Arwidsson akademi.jpg|145px|right|thumb|A・アルヴィドソン]] |
|||
19世紀中葉以降、北欧諸国の[[汎スカンディナヴィア主義]]の影響でフィンランドでも[[民族主義]]が高まると、スウェーデン語系住民もフィン人と共にフィンランドの独立をロシアに訴えた{{Sfn|石野|2017|pp=62-63, 69}}。スウェーデン語系で汎スカンディナヴィア主義者の{{仮リンク|アドルフ・アルヴィドソン|en|Adolf Ivar Arwidsson}}が発したとされる有名な言葉に、「もはやスウェーデン人ではない、ロシア人にもなれない、我々すべてはフィンランド人になるのだ」がある{{efn|アルヴィドソンは新聞に寄稿した記事の内容を当局に問題視され、スウェーデンに移住して王立図書館職員となった{{Sfn|平井|2018|p=182}}。}}{{Sfn|平井|2018|p=181}}。[[1863年]]の身分制議会で[[アレクサンドル2世]]は言語布告を発し、すでに公用語となっていたスウェーデン語と並んでフィンランド語も公用語になり、2公用語体制が始まった{{Sfn|吉田|2001|p=81}}。フィンランド人の権利を求める運動は続き、フィンランド語系は1860年代に[[青年フィン人党]]を結成して政治活動を行い、スウェーデン語系は1870年に[[スウェーデン人民党 (フィンランド)|スウェーデン人民党]]を結成した。フィンランド語系は{{仮リンク|フェンノマン|fi|Fennomania}}、スウェーデン語系は{{仮リンク|スヴェコマン|fi|Svekomania}}と呼ばれ、両者はしばしば衝突した{{efn|ロシア統治時代のフィンランドのナショナリズムは、ドイツのロマン主義の影響を受けた。特に[[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー]]の「一民族一言語」という思想の影響は大きく、フィンランド語とフィンランド民族が対になって考えられた{{Sfn|石野|2017|p=70}}。}}{{Sfn|石野|2017|pp=66-67}}。 |
|||
フィンランドの行政語をロシア語とする言語宣言(1900年)や、フィンランド軍を廃止してロシア帝国軍に徴兵する兵役法(1901年)が制定されるとロシアへの反発が強まり、青年フィン人党とスヴェコマンは協力して護憲派を構成して自治を求めた{{Sfn|石野|2017|pp=88-90}}。ロシアは国内外の動乱の影響でフィンランドの要求を受け、1906年に議会法を制定した。1907年には初の普通選挙が実施され、スヴェコマンによるスウェーデン人民党は全200議席中の24議席を獲得し、その後1920年代も10%ほどの一定の議席を維持した{{efn|24歳以上の市民権のある男女に参政権が認められた。フィンランドは世界3番目に[[女性参政権]]を認めたほか、世界初の女性の被選挙権を認めた。他方で市民権がない[[ユダヤ人]]、ロマ、[[タタール人]]には参政権はなかった{{Sfn|石野|2017|pp=93-94}}。}}{{Sfn|石野|2017|pp=93-95, 124}}。 |
|||
=== 独立後 === |
|||
[[1917年]]に[[ロシア革命]]が起きたのち[[1918年]]にフィンランドは独立し、スウェーデン語系も独立を支持した{{efn|スウェーデン語系およびスウェーデン人民党の後押しにより一時的に[[フィンランド王国]]が成立した{{Sfn|石野|2017|pp=115-116}}。}}。1918年から[[フィンランド内戦]]が起き、フィンランドでは{{仮リンク|白衛隊 (フィンランド)|label=白衛隊|fi|Suojeluskunta}}と{{仮リンク|赤衛隊 (フィンランド)|label=赤衛隊|fi|Punakaarti}}に分かれて戦った。スウェーデン語系の軍人[[カール・グスタフ・マンネルヘイム]]は白衛隊を指揮して勝利に導き、のちの[[1944年]]に大統領に就任した{{Sfn|石野|2017|pp=107-109}}。 |
|||
独立時点では総人口の約11%にあたる約35万人のスウェーデン語系住民が存在した。2公用語体制は独立後も引き継がれ、[[1922年]]の言語法によって詳細な規定が定められた{{Sfn|吉田|2001|pp=80-81}}。スウェーデン語系の多いオーランド諸島はスウェーデンへの帰属を求めてスウェーデン国王に請願書を出した。フィンランドはオーランド自治法によって懐柔しようとしたが、住民は拒否した。帰属をめぐってフィンランドとスウェーデンの緊張が高まったため、スウェーデンは[[国際連盟]]に解決を求める。国連はオーランド諸島をフィンランド領だと確認し、決着した{{efn|自治法では軍事と外交をのぞく自治権が保障され、非武装・中立化と公的機関でのスウェーデン語使用が認められた。なお解決にあたった国連の事務局次長は[[新渡戸稲造]]だった{{Sfn|石野|2017|p=121}}。}}{{Sfn|石野|2017|pp=120-121}}。 |
|||
こうした事件も影響し、ナショナリストによる運動が始まり、スウェーデン語系にとって脅威となった{{Sfn|冨原|2009|pp=140-141}}。ナショナリストはスウェーデン語風の名字をフィンランド語風に改姓することを求める運動や、大学の講義をフィンランド語のみとする要求などを行った{{Sfn|石野|2017|pp=133-134}}{{Sfn|冨原|2009|pp=95-96, 103-104}}。言語法以降、スウェーデン語系とフィンランド語系の地理的・経済的・社会的な境界は消滅に向かった。1960年代以降、スウェーデン語系とフィンランド語系のグループ間の結婚は一般的になり、2言語の併用者が別個のグループと見做されるようになった{{Sfn|ハストロプ編|1996|p=41}}。1960年代には安定した経済成長を続けていたスウェーデンへの移住が増え、スウェーデン語系の減少につながった{{Sfn|石野|2017|p=207}}。 |
|||
1994年にフィンランドが署名した[[欧州評議会]]の[[地方言語または少数言語のための欧州憲章]]で、スウェーデン語はフィンランドの公用語として65項目での保護条項を保障された{{Sfn|庄司|2008|p=125}}。1995年に[[欧州連合]](EU)に加盟した際の国民投票では、スウェーデン人民党の支持者は賛成85%と多かった{{efn|スウェーデン語系の政治家でEU加盟反対派だった{{仮リンク|ヤン・マグヌス・ヤンソン|fi|Jan-Magnus Jansson}}らはロシアとの関係を重視したため反対した{{Sfn|柴山|2011|p=73}}。}}{{Sfn|柴山|2011|p=74}}。同年の総選挙では[[フィンランド社会民主党|社会民主党]]を第1党として、[[国民連合党 (フィンランド)|国民連合党]]、[[左翼同盟 (フィンランド)|左翼同盟]]、[[緑の同盟|緑の党]]、スウェーデン人民党が参加してイデオロギーの異なる5党による連立内閣が成立した{{Sfn|石野|2017|pp=241-242}}。 |
|||
== 法的位置 == |
|||
[[file:Helsinki bus stop sign.jpg|thumb|250px|フィンランドの2言語表記の標識]] |
|||
2000年に施行されたフィンランド憲法の第17条「自らの言語と文化に対する権利」により、裁判所と他の公的機関でスウェーデン語の使用の権利が保障されている。スウェーデン語のメディアや政党があり、スウェーデン語のみの教育で大学まで学ぶ権利がある{{efn|フィンランドには約7000人の[[サーミ]]が使う[[サーミ諸語]]、約10000人の[[ロマ]]が使う[[ロマニ語]]、約5000人の話者がいる{{仮リンク|フィンランド手話|en|Finnish Sign Language}}があり、同じく憲法第17条で権利が保証されている{{Sfn|吉田|2001|p=81}}。}}{{Sfn|石野|2017|pp=81-82}}。 |
|||
スウェーデン語系に対する言語権保障はフィンランド全土で保障されるべき面を持つ。他方で公機関の言語は、地方自治体の言語に関する規定にもとづく{{Sfn|吉田|2001|p=75}}。同規定によると、スウェーデン語系あるいはフィンランド語系のいずれかの少数派が自治体総人口の8%に達するか、3000人を超えた場合に、2言語併用自治体とみなされる。少数派人口がそれ以下の場合は単一言語自治体とみなされる。2003年時点では、448自治体のうちスウェーデン語単一言語自治体は19、スウェーデン語が優位な2言語併用自治体は23、フィンランド語が優位な2言語併用自治体は21となっている{{Sfn|吉田|2007|p=60}}。 |
|||
オーランド諸島は住民の約94%がスウェーデン語系で、フィンランド独立時には帰属をめぐってフィンランドとスウェーデン間で争われた。1920年にオーランド自治法が成立し、1951年と1991年に改正がされた{{Sfn|吉田|2001|p=80}}。オーランド諸島の住民は兵役が免除されており、教育言語はスウェーデン語のみとなっている。2言語併用の教育機関で必要なフィンランド語能力についても、オーランドの教育機関で学んだ者に対しては軽減措置がある{{Sfn|吉田|2001|p=76}}。 |
|||
対外的にはフィンランド、スウェーデン、[[ノルウェー]]、[[アイスランド]]、[[デンマーク]]によって北欧言語協定が結ばれており、締結国の国民が相互の公機関または公的機関で自らの言語を使用できる状況を作るために努力することが約束されている{{Sfn|吉田|2001|p=80}}。 |
|||
== 政治 == |
|||
[[File:Carl Gustaf Emil Mannerheim.png|thumb|150px|[[カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム|カール・グスタフ・マンネルヘイム]]]] |
|||
スウェーデン語系フィンランド人は、フィンランド人とスウェーデン本国との板挟みになる場合があった。1590年代の[[カール9世 (スウェーデン王)|カール9世]]と[[ジグムント3世 (ポーランド王)|シーギスムンド王]]の争いを発端とした農民蜂起の{{仮リンク|棍棒戦争|fi|Klubbekriget}}では、フィンランド語系の農民は積極的だったのに対して、スウェーデン語系の農民は役人と関係が近いため態度を保留した。こうした違いは独立後の[[フィンランド内戦|内戦]]でも表れた{{Sfn|ハストロプ編|1996|p=46}}。スウェーデン統治時代は、スウェーデン語系フィンランド人もスウェーデンの国政に参加した。当時の政治家に{{仮リンク|アンダシュ・シデニウス|fi|Anders Chydenius}}や[[アルヴィド・ホルン]]らがいる{{Sfn|石野|2017|pp=44-46}}。 |
|||
独立後のスウェーデン語系にとって脅威となった民衆運動は、[[カレリア学徒会]](AKS)、[[ラプア運動]]、{{仮リンク|愛国人民連盟|fi|Isänmaallinen kansanliike}}(IKL)の純正フィンランド主義者がある。政治思想は異なるが、いずれも愛国心を共和政や法治国家より優先した{{Sfn|冨原|2009|pp=140-141}}。フィンランド語を共有する地域の統合を目指す[[大フィンランド|大フィンランド主義]]も、スウェーデン語系にとっては抑圧的だった{{efn|のちにフィンランドとソ連が[[継続戦争]]を起こした際、フィンランドはロシア・カレリアを占領して大フィンランドの実現を目指したが、敗北した{{Sfn|石野|2017|pp=164-165}}。}}{{Sfn|冨原|2009|pp=90-91}}。AKSはスウェーデンを仮想敵とし、スウェーデン語系の人々を攻撃した。また、会員の姓をフィンランド語に改姓することを義務とした{{efn|学生会館では演奏中に事件が起き、「ここはスオミ(フィンランド)だ、スオミの歌を唄え」と叫ぶ学生が警棒を持って乱入した{{Sfn|冨原|2009|pp=103-104}}。}}{{Sfn|冨原|2009|pp=93-94}}。[[1935年]]には、スウェーデン語風の名字をフィンランド語風に改姓するキャンペーンが行われた{{Sfn|石野|2017|pp=133-134}}。純正フィンランド主義者は、言語少数派に対する迫害ではなく、それまでスウェーデン語系が享受してきた特権の剥奪だと主張した{{Sfn|冨原|2009|pp=95-96, 103-104}}。言語をめぐる対立は{{仮リンク|フィンランドにおける言語闘争|fi|Suomen kielipolitiikka}}とも呼ばれる{{Sfn|石野|2017|p=71}}。排他的な運動は、フィンランドが協力していた[[ナチス・ドイツ]]の敗北や、[[ソビエト連邦]]との[[継続戦争]]でフィンランドが敗北したことにより縮小していった{{Sfn|冨原|2009|pp=373-374}}{{Sfn|石野|2015|p=175}}。 |
|||
独立から第二次大戦期にかけてのフィンランドは親ドイツ派が多く、スウェーデン人民党の指導部も継続戦争の開始時点ではドイツとの提携を望んでいた{{Sfn|百瀬|1976|p=220}}。[[1944年]]11月以降にドイツの不利が明らかになると、[[ナチズム]]や[[ファシズム]]の支持者は保身のために言動を変えた{{Sfn|冨原|2009|pp=305-307}}。敗戦後はナチズムやファシズムの支持者や、戦争に加担した人物の[[ブラックリスト]]が作られて糾弾が行われた。評論家・作家の{{仮リンク|ハーガル・オルッソン|fi|Hagar Olsson}}は、[[国民社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]の[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]と焼却場について触れ、戦時中の人々が何に賛成・反対していたかを社会に問いかけた{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=84}}。 |
|||
独立後のスウェーデン語系の著名な政治家としては、第6代大統領の[[カール・グスタフ・マンネルヘイム]]、第64代首相の[[アレクサンデル・ストゥブ]]らがいる{{Sfn|石野|2017|p=83}}。 |
|||
== 宗教 == |
|||
[[宗教改革]]以降にフィンランドでは[[プロテスタント]]への改宗が進み、スウェーデン語系の教区とフィンランド語系の教区を区別するようになった。[[1569年]]のオーボでは言語で教区を分けるべきとする提案が出た。17世紀〜18世紀の海岸地方では、スウェーデン語系とフィンランド語系の教区でそれぞれ教会が建設されるのが一般的となった。または、1つの教会で時間帯を変えてそれぞれの言語でミサを行った。こうした方法が20世紀以降も続けられた{{Sfn|ハストロプ編|1996|p=45}}。 |
|||
== 科学 == |
|||
1640年に{{仮リンク|オーボ王立アカデミー|sv|Åbo Kungliga Akademi}}が設立されると、スウェーデンの[[ウプサラ]]から教授が派遣され、多くのフィンランド知識人を輩出した。数学者の{{仮リンク|ヤコブ・ガドリン|fi|Jakob Gadolin}}は、のちにオーボ司教になった。博物学者・探検家の[[ペール・カルム]]は、大北方戦争時代にスウェーデンへ避難した家庭の出身で、オーボ王立アカデミーの教授になった{{Sfn|石野|2017|p=44}}{{Sfn|藤田|2021|p=13}}。カルムに学んだアンダシュ・シデニウスは牧師から政治家となり、[[出版の自由]]、[[信仰の自由]]、[[自由貿易]]を主張した{{Sfn|石野|2017|pp=44-45}}。スウェーデン統治時代の1749年に人口統計が始まり、フィンランドはスウェーデンと並んで世界最長の人口時系列調査を記録している{{Sfn|藤田|2021|p=8}}。 |
|||
ロシア統治時代の探検家で鉱山学者[[アドルフ・エリク・ノルデンショルド]]は、[[北極海航路]]を開拓して日本を通り太平洋へ到達した。歴史学者{{仮リンク|ユリヨ=コスキネン|fi|Yrjö Sakari Yrjö-Koskinen}}は[[フィンランドの歴史|フィンランド史]]研究の先駆者であり『フィンランド民族史の教科書』を発表した。法学者・政治家の{{仮リンク|レオ・メケリン|fi|Leo Mechelin}}はフィンランド自治の正当性を出版や国際会議で訴え、1903年にスウェーデンに亡命した。メケリンは[[ノキア]]の創業メンバーでもある{{Sfn|石野|2017|p=73}}。 |
|||
自然科学分野での初のノーベル賞受賞者は[[ラグナー・グラニト]]で、スウェーデンの[[カロリンスカ研究所]]で[[1967年]]の[[ノーベル生理学・医学賞]]を2人のアメリカ人研究者とともに受賞した。グラニトは冬戦争の最中にスウェーデン国籍を取得して安定した研究を続けつつ、フィンランドとの[[二重国籍]]を保った{{Sfn|石野|2017|pp=218-219}}。 |
|||
== 教育 == |
|||
1640年のオーボ王立アカデミー設立後の高等教育は教会から教育機関へと移った。スウェーデン統治時代の教育言語はスウェーデン語であり、大学では[[ラテン語]]とスウェーデン語が使われた。[[1630年]]に設立された[[ギムナジウム]]や、1760年代から設立された初等学校でもスウェーデン語が使われた{{Sfn|石野|2017|p=45}}。フィンランド語での授業はロシア統治時代以降に進んだ{{Sfn|石野|2017|pp=70-71}}{{Sfn|冨原|2009|p=88}}。1930年代には大学生はフィンランド語系がスウェーデン語系を上回るようになり、AKSは大学の講義でフィンランド語を優先するよう要求した{{Sfn|石野|2017|pp=133-134}}。フィンランド語が公用語として強化されるにつれ、スウェーデン語系の家庭では、子供をフィンランド語の学校に通わせることも増えた{{Sfn|ハストロプ編|1996|p=48}}。 |
|||
戦後のフィンランドでは言語教育が社会政策や文化政策の重要な一部とみなされ、1950年から2000年にかけて言語教育に投入された資金は国家予算1年分に匹敵するとされる{{efn|[[経済協力開発機構]](OECD)が実施した[[OECD生徒の学習到達度調査|生徒の学習到達度調査]]では、フィンランドの学生は特に読解力で高い学力を示し、その背景に言語教育の影響をみる説もある{{Sfn|吉田|2007|p=77}}。}}{{Sfn|吉田|2007|p=77}}。スウェーデン語系住民はスウェーデン語系学校に進学するのが原則で、スウェーデン語のみの教育で大学まで学ぶ権利がある{{Sfn|吉田|2007|p=76}}。1970年代から、スウェーデン語系は第2内国語としてフィンランド語の学習が義務づけられている{{efn|フィンランド語系にとっての第2内国語はスウェーデン語になる{{Sfn|吉田|2007|p=74}}。}}{{Sfn|吉田|2007|p=75}}。こうした言語教育は、欧州連合(EU)の言語教育の方針にも合致している。EUにおいては、欧州市民の異言語能力の獲得と、文化的多様性の尊重が重要な課題とされている{{Sfn|吉田|2007|p=76}}。フィンランド語やスウェーデン語を母語としない移民には、第2言語としてフィンランド語かスウェーデン語を学習する機会が与えられる。難民がどちらの言語を学ぶかについては、居住する自治体が単一言語自治体か2言語併用自治体かによって決まる{{efn|少数派である難民が、言語的少数派であるスウェーデン語を学ぶことで、「少数派の中の少数派」という立場に追いやられる問題を指摘する研究もある{{Sfn|吉田|2007|p=70}}。}}{{Sfn|吉田|2007|pp=71-70}}。 |
|||
スウェーデン語系の生徒の言語環境は多様化しており、フィンランド語系学校の2言語話者が3%であるのに対して、スウェーデン語系学校の2言語話者は25%から50%となっている。スウェーデン語系の2言語話者はフィンランド語能力の方が高い場合もあり、他方でフィンランド語が優位な2言語併用家庭の生徒がスウェーデン語系学校を選択することが増えている。教員は、個々人で言語能力が大きく異なる生徒集団への対応が必要となっている{{efn|スウェーデン語の教育については否定的な意見が増加しているとされ、スウェーデン語を選択科目にして国際的に有用な言語の学習に時間を割くべきという意見もある。他方でスウェーデン語はEUの公用語でもあるので将来的に重要性が増すという意見がスウェーデン語系には多い{{Sfn|吉田|2007|p=67}}。}}{{Sfn|吉田|2007|pp=72-73}}。 |
|||
== 文化 == |
|||
[[File:Elias Lönrot Cabinet Portrait-2 crop.jpg|thumb|150px|エリアス・リョンロート]] |
|||
スウェーデン統治時代は、支配層や[[知識人]]の中心はスウェーデン語系だった{{efn|当時のフィンランド語は農民を中心とする言語で、文字として書かれるようになったのは1543年以降からだった{{Sfn|庄司|2008|pp=129-130}}。}}{{Sfn|石野|2017|p=45}}。ロシア統治時代から公費で[[パリ]]や[[ウィーン]]に留学して芸術を学べるようになり、その影響で各方面の芸術が盛んになった{{Sfn|冨原|2009|p=48}}{{Sfn|石野|2017|pp=85-86}}。 |
|||
ロシア統治時代にはフィンランドの民族文化への関心も高まり、初期はスウェーデン語系が運動を主導した。フィンランド語の地位向上を主張した[[ユーハン・ヴィルヘルム・スネルマン]]や、『カレワラ』の編纂者[[エリアス・リョンロート]]もスウェーデン語系にあたる。こうした人々は言語にもとづく民族ではなく、近代国家としてのフィンランドの一致を求めて活動した{{Sfn|冨原|2009|p=88}}。スネルマンやリョンロートの運動は、フィンランドが欧州各国と並ぶためにフィンランド語を母語とする教養人の育成が不可欠とするものだった。スネルマンらは、当座は教養があるスウェーデン語系がフィンランド語を習得すべきと主張した。しかし20世紀以降はフィンランド語系の教養人が増加し、スネルマンらの構想とは異なる形で国民的統一が進んだ{{efn|スネルマンは知識階級向けのスウェーデン語新聞『{{仮リンク|サイマ (新聞)|fi|Saima (lehti)|label=サイマ}}』と、フィンランド語系向けのフィンランド語新聞『{{仮リンク|農民の友|fi|Maamiehen Ystävä}}』を発行したが、『サイマ』は検閲で発禁処分を受けた{{Sfn|石野|2017|p=66}}。}}{{Sfn|冨原|2009|pp=96-97}}。 |
|||
=== 伝承、民話 === |
|||
フィンランドでは、相手の言葉が分からない人についての話や冗談がスウェーデン語系とフィンランド語系の双方に存在する{{Sfn|ハストロプ編|1996|p=37}}。民俗学者が20世紀初頭の南西フィンランドで収集した滑稽話には「スウェーデン人の市場に出かける3人のフィンランドのおばさんたち」があり、以下のような物語になっている{{Sfn|ハストロプ編|1996|pp=35-36}}。 |
|||
{{Quotation|フィンランド語系の女性3人が、スウェーデン語圏の市場に行くことにした。3人ともスウェーデン語が分からないので、警官にお金を払ってスウェーデン語の表現を1つずつ教えてもらう。<br /> |
|||
1番目の女性は「わたしらおばさん3人」、2番目の女性は「沢山のお金のため」、3番目の女性は「そう、みんなそう言ってる」という表現を覚えた。<br /> |
|||
しかし3人は、市場に向かう途中で男性の死体を発見してしまう。そこにちょうど牧師がやって来た。<br /> |
|||
死体を見た牧師はスウェーデン語で「誰がその男を殺したのだ」と聞き、1番目の女性は「わたしらおばさん3人」と答える。<br /> |
|||
牧師は「どうしてそんなことをしたのか」と聞き、2番目の女性は「沢山のお金のため」と答える。<br /> |
|||
牧師は「人を殺したのなら悪魔にでも取りつかれなさい」と言い、3番目の女性は「そう、みんなそう言ってる」と答える。<br /> |
|||
こうして女性たちは捕まってしまった。}} |
|||
同様の話は南西部を中心として海岸一帯にも存在する。女性の出身や結末にはバリエーションがあり、女性たちが3つしか言い回しを知らない点が判明して無罪放免になるパターンもある{{Sfn|ハストロプ編|1996|pp=35-36}}。 |
|||
19世紀以降にロシアからの独立を求める過程で、フィンランド語系の間ではカレリア地方に由来する民族叙事詩『[[カレワラ]]』が流行した。『カレワラ』を編纂したリョンロートはスウェーデン語系にあたる{{Sfn|冨原|2009|p=88}}。他方、スウェーデン語系や汎スカンディナヴィア主義を掲げる者たちの間では、[[北欧神話]]の[[エッダ]]や[[サガ]]が好まれた{{efn|同時代の北欧諸国は民族主義的ロマン主義の視点からエッダやサガに注目し、フィンランドにも影響を与えた{{Sfn|冨原|2009|p=51}}。}}{{Sfn|冨原|2009|p=52}}。 |
|||
=== 文学 === |
|||
[[File:Johan Ludwig Runeberg bw.jpg|thumb|150px|ルーネベリ]] |
|||
フィンランドの文芸作品は当初スウェーデン語で書かれ、詩を中心に増えていった{{Sfn|石野|2017|p=79}}。1831年設立の{{仮リンク|フィンランド文学協会|fi|Suomalaisen Kirjallisuuden Seura}}(SKS)は、創立メンバーの多くがスウェーデン語系だった{{Sfn|平井|2018|p=188}}。スウェーデン統治時代の詩人[[ルーネベリ]]の詩に登場する農夫パーヴォはフィンランド人のモデルとされ、「我が祖国」([[1848年]])はフィンランド語に翻訳されて国家『[[我等の地]]』の歌詞になり、国民的な詩人と評価された{{Sfn|石野|2017|p=79}}。フィンランド語で執筆した最初の作家である[[アレクシス・キヴィ]]はスウェーデン語とフィンランド語のバイリンガルで、キヴィ作品の登場人物はフィン人らしさの体現として劇作家や演出家に踏襲された{{Sfn|冨原|2009|p=93}}。傾向として、スウェーデン語系の文芸作品では庶民性を示すためにフィンランド語が用いられ、フィンランド語系では時代や地方色を出すためにスウェーデン語が用いられる{{Sfn|ハストロプ編|1996|p=38}}。 |
|||
[[File:Edith Sodergran.jpg|thumb|150px|エーディット・スーデルグラン]] |
|||
歴史学者・ジャーナリストの[[ザクリス・トペリウス]]はフィンランドの歴史について『{{仮リンク|わが祖国の本|fi|Maamme kirja}}』([[1875年]])を発表し、フィンランド語に翻訳されて教科書にも採用された{{Sfn|石野|2017|p=80}}。しかし、トペリウスは政治的に攻撃され、彫刻家{{仮リンク|ヴィレ・ヴァルグレン|fi|Ville Vallgren}}が制作したトペリウス像は[[1909年]]に完成したものの[[1932年]]まで設置場所が決まらず、「追放された詩人」とも呼ばれた{{efn|フィンランド初の[[ノーベル文学賞|ノーベル賞]]受賞者は[[1939年]]のフィンランド語作家の[[フランス・エーミル・シッランパー]]だが、スウェーデン語系の人々と親交があったため国内で糾弾された影響で受賞が遅れた{{Sfn|冨原|2009|pp=154-156}}。}}{{Sfn|冨原|2009|pp=107-109}}。詩人[[エーディト・ショーデルグラン]]は自由律、強烈な想像力、語彙や主題の拡大などによって、北欧文学のモダニズムの先駆けともいわれている{{Sfn|ライティネン|1993|pp=91-93}}。 |
|||
戦後復興の進んだ1950年代はフィンランド文学の黄金時代とも呼ばれる。新世代の作家が多数登場し、政治的立場、世代、様式(モダニズム等)の立場に分かれて対立も活発になった{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=203}}。{{仮リンク|イェスタ・オーグレーン|fi|Gösta Ågren}}は[[1989年]]にフィンランド最高の文学賞{{仮リンク|フィンランディア賞|fi|Finlandia-palkinto}}を受賞した{{efn|オーグレンがフィンランディア賞を受賞した時点で、著作はフィンランド語に翻訳されていなかった{{Sfn|ハストロプ編|1996|p=38}}。}}{{Sfn|ハストロプ編|1996|p=38}}。 |
|||
=== 美術、デザイン === |
|||
[[アクセリ・ガッレン=カッレラ]]はスウェーデン語系の名前アクセル・ガレンから1907年に改名し、『カレワラ』を題材とした作品を多数描いた{{Sfn|冨原|2009|pp=93-94}}。[[ヒューゴ・シンベリ]]は『[[傷ついた天使]]』([[1903年]])を描き、フィンランドを代表する画家の1人となった。19世紀後半から20世紀前半にかけて作品を発表した人物としては、他に[[アルベルト・エデルフェルト]]や、近年モダニズム芸術の観点から評価が進む[[ヘレン・シャルフベック]]らがいる{{Sfn|ゴッケル|2017|pp=163-164}}{{Sfn|石野|2017|pp=84-86}}。 |
|||
1930年代の芸術の題材には民族アイデンティティが多く、やがて[[モダンアート]]の運動がフィンランドにも起きた。実業家の{{仮リンク|マイレ・グリッセン|fi|Maire Gullichsen}}は芸術界の近代化や女性の地位向上を進め、1935年には[[アルヴァル・アールト]]、[[アイノ・アールト]]夫妻や{{仮リンク|ニルス・グスタフ・ハール|fi|Nils-Gustav Hahl}}と[[アルテック (家具)|アルテック]]を設立して芸術・技術・科学を結びつける活動をした。1938年のアルテックのプロデュースとマイレの主催による「フランス芸術展」は、フィンランド初の女性主催の展覧会だった。アルテックは国外の芸術家やフィンランドのモダニストの紹介も積極的に行った{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=39-40}}。1939年にはスウェーデンの協会をモデルにして現代美術協会が設立された{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=40-41}}。『[[ムーミン]]』シリーズの作者として知られる画家・作家の[[トーベ・ヤンソン]]は1940年代には諷刺画家としても著名で、スウェーデン語系を攻撃する純正フィンランド主義者や、ナチス・ドイツ、ソビエト連邦を諷刺した。また[[パブリックアート]]として壁画を数多く制作した{{Sfn|冨原|2009|p=105}}。1950年代に抽象美術がフィンランドに紹介され、抽象と具象をめぐって美術界は2分された。当初の抽象美術は大半がスウェーデン語系で占められた{{efn|1952年に{{仮リンク|タイデハッリ美術館|fi|Taidehalli (Helsinki)}}で開催された「クラール・フォルム」展は[[ヴィクトル・ヴァザルリ]]などの作家を紹介し、大きな影響を与えた{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=204-205}}。}}{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=204-205}}。 |
|||
1950年代以降は国内外でフィンランドのデザインの評価が進んだ{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=203}}。[[カイ・フランク]]は陶器メーカーの[[アラビア (フィンランド)|アラビア]]で働いたことをきっかけにデザイナーとなった。戦後で物資が少ないフィンランドに合ったコンパクトな設計をおこない、食器シリーズの「キルタ」は1953年代から国際的に成功した{{Sfn|島塚|2015|pp=16-18}}。[[アンニカ・リマラ]]はカイ・フランクらからデザインを学び、[[マリメッコ]]のファッションデザイナーとなる。1968年には年齢・性別・階級・国籍などに関係ないデザインとして、平等なストライプを意味する「タサライタ」を発表してマリメッコの定番の一つになった{{Sfn|島塚|2015|pp=84}}。 |
|||
=== 音楽 === |
|||
作曲家の[[ジャン・シベリウス]]は『カレワラ』を題材にした『[[クレルヴォ交響曲|クッレルヴォ]]』([[1892年]])や、交響詩『[[フィンランディア]]』([[1899年]])を発表した。『フィンランディア』はロシアからの独立を目指すフィンランド人を表現したとして愛国的な人気を得たが、ロシア統治時代は演奏を禁止された{{efn|ジャンという名はフランス風の読みで、スウェーデン語のヤンやフィンランド語のユハのいずれでもない{{Sfn|冨原|2009|p=94}}。}}{{Sfn|石野|2017|p=97}}。[[オスカル・メリカント]]は『夏の夜のワルツ』などのピアノ曲を手がけ、当時はシベリウス以上に人気のある作曲家として活躍した{{Sfn|石野|2017|p=98}}。 |
|||
=== 演劇、映画 === |
|||
[[File:HKMS000005 svenska teatern.jpg|thumb|200px|スヴェンスカ劇場]] |
|||
フィンランド初の常設劇場は[[1860年]]にヘルシンキで建設された{{仮リンク|スヴェンスカ劇場|sv|Svenska Teatern}}で、スウェーデン語の戯曲を中心に上演された。[[1915年]]に国立化し、[[1936年]]に改修された{{Sfn|冨原|2009|pp=225-226}}。 |
|||
スウェーデン語系の上流階級イメージは、フィクションでも使われた。たとえば内戦の時代や第二次大戦前を舞台にした映画では、良家の人間がスウェーデン語を話したり、フィンランド語系の教養階級がスウェーデン語を混ぜて話したりする描写がしばしば見られる{{Sfn|ハストロプ編|1996|p=38}}。 |
|||
=== 出版、メディア === |
|||
スウェーデン統治時代の[[自由の時代]]と呼ばれる時期、アンデシュ・シデニウスの発案によって{{仮リンク|出版自由法|sv|Tryckfrihetsförordningen}}(1766年)が成立した。出版自由法は[[情報公開法]]の先駆けともいわれ、基本法(憲法)としての性格をもち、[[検閲]]の廃止や[[公文書公開]]の原則があった。出版自由法によって言論活動の自由だけでなく、政府情報を取得し利用する権利も認められた{{efn|(1) 神学上の出版物を除く検閲の廃止、(2) 公文書の自由な印刷・配布が認められた。しかし、1771年に[[グスタフ3世 (スウェーデン王)|グスタフ3世]]によって公文書公開が条文から削除され、検閲が復活した{{Sfn|柳沢|1988|p=131}}。}}{{Sfn|柳沢|1988|p=45}}{{Sfn|平井|2018|pp=175-176}}。これにより、フィンランドでも1771年にはスウェーデン語の新聞が創刊された{{Sfn|石野|2017|p=45}}。 |
|||
スウェーデン語系の新聞として、1864年創刊の老舗の日刊紙『{{仮リンク|ヒューヴドスタドブラデッド|fi|Hufvudstadsbladet}}(首都新聞)』{{Sfn|冨原|2009|p=226}}や、1882年に創刊されたリベラルな朝刊紙『{{仮リンク|ニヤ・プレッセン|fi|Nya Pressen}}(新報道)』がある。『ニヤ・プレッセン』は『ダーゲンス・プレス』の改名をへて、自由主義的な夕刊紙『スヴェンスカ・プレッセン』となった{{Sfn|冨原|2009|p=395}}。政党別の機関紙には、社会民主党の『{{仮リンク|アルベタルブラデッド|fi|Arbetarbladet}}(労働者新聞)』{{Sfn|冨原|2009|p=71}}、人民民主同盟系で左派読者の多い『{{仮リンク|ニィ・ティド|fi|Ny Tid}}(新時代)』{{Sfn|冨原|2009|p=71}}などがある。 |
|||
雑誌では一般誌の『{{仮リンク|アッラス・クレニカ|sv|Allas Krönika}}(みんなの記録)』{{Sfn|冨原|2009|p=419}}、女性向け情報誌の『アストラ(星)』{{Sfn|冨原|2009|p=419}}、隔週金曜日発行の政治情報誌『ヴォル・ティド(我らが時代)』{{Sfn|冨原|2009|p=308}}、汎スカンディナヴィア主義のオピニオン雑誌『ヴィキンゲン(ヴァイキング)』{{Sfn|冨原|2009|p=52}}、出版業会誌『ルシフェル』{{Sfn|冨原|2009|p=420}}などがある。[[カリカチュア]]や風刺雑誌には『クーレ(相棒)』、『{{仮リンク|フィーレン|fi|Fyren}}(灯台)』、『[[ガルム (雑誌)|ガルム]]』がある{{Sfn|冨原|2009|pp=24, 391}}。 |
|||
1940年代にフィンランド政府とナチス・ドイツの協力が始まると、ドイツに批判的なメディアは国内で非難された。スウェーデン語系メディアはフィンランド語系よりもドイツ批判に積極的で、反ドイツの論陣だった『スヴェンスカ・プレッセン』は廃刊させられた{{efn|『スヴェンスカ・プレッセン』は廃刊後、『ヌゥ・プレッセン』と名を変えて発行を続けた{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=70}}。}}{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=68-70}}。戦後のスウェーデン語系の読者は、フィンランド語系の読者よりも芸術や思想の動向を手に入れるのが早かった。スウェーデン語系メディアは新しい芸術に寛容な傾向があり、抽象美術などをフィンランド語メディアよりも早く紹介した{{Sfn|カルヤライネン|2014|pp=204-205}}。[[実存主義]]がヨーロッパで広まった際には、[[サルトル]]や[[シモーヌ・ド・ボーヴォワール|ボーヴォワール]]、[[アルベール・カミュ|カミュ]]らの著書がスウェーデン経由で紹介された{{Sfn|カルヤライネン|2014|p=150}}。 |
|||
2017年時点のフィンランドの出版総数10369点のうち、スウェーデン語は461点、フィンランド語8469点、その他の言語1439点となっている{{Sfn|吉田, 坂田ヘントネン|2020|pp=113-114}}。フィンランドには、図書館から著作が貸し出されることによる著作者の損失を補償する制度が2つあり、貸与補償制度と図書館助成金制度がある{{Sfn|吉田, 坂田ヘントネン|2020|p=110}}。貸与補償制度は図書館での貸出数にもとづいて補償金額を決めるもので、EUの文化政策として導入された{{efn|著作権補償制度は1946年にデンマークで始まって各国に広まり、貸与補償制度はEU加盟の条件になっている{{Sfn|吉田, 坂田ヘントネン|2020|pp=110-111}}。}}。図書館助成金制度は1960年代に始まり、公共図書館の資料費の10%をフィンランド文化の向上に貢献した文学やノンフィクションの著作者に支払う。図書館助成金委員会は教育文化省が任命し、フィンランド語とスウェーデン語を代表する著作者や翻訳者の組織と協議をして選考する{{Sfn|吉田, 坂田ヘントネン|2020|pp=112-113}}。 |
|||
=== 祝祭日 === |
|||
11月6日は「{{仮リンク|スウェーデンの日|sv|Svenska dagen}}」としてスウェーデン語系が祝う。この日はスウェーデン国王[[グスタフ2世アドルフ (スウェーデン王)|グスタフ2世アドルフ]]の命日にあたり、スウェーデン語系が出自を再確認する日として1908年以降に祝うようになった。正装で参加し、娯楽や情報交換をする日でもある。11月6日に着飾って酔っている人間はスウェーデン語系とみなされるため、IKLなどの純正フィンランド主義者にとって標的を見つけやすい日でもあった。1930年代の「スウェーデンの日」では、フィンランド語系がスウェーデン語系を殴るのが常だったという回想の記録もある{{efn|スウェーデン語系の批評家・美術史家{{仮リンク|ヨラン・シルツ|fi|Göran Schildt}}』の回想による{{Sfn|冨原|2009|p=149}}。}}{{Sfn|冨原|2009|p=149}}。 |
|||
[[聖ルチア]]の祝日である12月13日には[[聖ルチア祭]]があり、1930年代にスウェーデンからフィンランドに伝わった。この日は冬への別れと春の訪れを告げるために祝われ、女性が白衣を着てロウソクを立てた花冠をかぶり、菓子やジンジャーブレッドを捧げ持って家族を起こしてまわる{{Sfn|冨原|2009|pp=366-368}}。 |
|||
== 著名なスウェーデン系フィンランド人 == |
== 著名なスウェーデン系フィンランド人 == |
||
''詳しくは、[[スウェーデン系フィンランド人の一覧]]を参照。'' |
''詳しくは、[[スウェーデン系フィンランド人の一覧]]を参照。'' |
||
{{Colbegin}} |
|||
*[[キリル・ラクスマン]]([[博物学者]]) |
|||
*[[ |
* [[アルヴァ・アールト]](建築家、デザイナー) |
||
*[[ |
* [[ミカエル・ウィデニウス]]([[MySQL AB]]創設者) |
||
*[[ |
* [[ハンス・ウィンド]]([[軍人]]、[[エース・パイロット]]) |
||
* [[ラグナー・グラニト]](科学者。ノーベル生理学・医学賞受賞) |
|||
*[[リーナス・トーバルズ]]([[プログラマ]]) |
|||
*[[ |
* [[マーカス・グロンホルム]]([[ラリー]]ドライバー) |
||
*[[ |
* [[ジャン・シベリウス]]([[作曲家]]) |
||
*[[ |
* [[リーナス・トーバルズ]]([[プログラマ]]) |
||
*[[ |
* [[アドルフ・エリク・ノルデンショルド]]([[探検家]]) |
||
* [[カール・グスタフ・マンネルヘイム]](軍人、フィンランド大統領) |
|||
* [[トーベ・ヤンソン]]([[画家]]、[[作家]]) |
|||
* [[キリル・ラクスマン]]([[博物学者]]) |
|||
* [[ケケ・ロズベルグ]](元[[フォーミュラ1|F1]]ドライバー) |
|||
{{Colend}} |
|||
== 脚注 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
=== 注釈 === |
|||
{{Reflist|group="†"|}} |
|||
{{Notelist|2|}} |
|||
=== 出典 === |
|||
{{Reflist|20em|}} |
|||
== 参考文献(著者・編者五十音順) == |
|||
* {{Citation| 和書 |
|||
| author = 石野裕子 |
|||
| authorlink = |
|||
| title = 物語 フィンランドの歴史 - 北欧先進国「バルト海の乙女」の800年 |
|||
| publisher = 中央公論新社 |
|||
| series = 中公新書 |
|||
| year = 2017 |
|||
| isbn = |
|||
| ref = {{sfnref|石野|2017}} |
|||
}} |
|||
* {{Citation| 和書 |
|||
| author = {{仮リンク|トゥーラ・カルヤライネン|fi|Tuula Karjalainen}} |
|||
| authorlink = |
|||
| title = ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン |
|||
| publisher = 河出書房新社 |
|||
| series = |
|||
| year = 2014 |
|||
| isbn = |
|||
| translator = セルボ貴子, 五十嵐淳 |
|||
| ref = {{sfnref|カルヤライネン|2014}} |
|||
}}(原書 {{Cite| 洋書 |
|||
| last = Karjalainen |
|||
| first = Tuula |
|||
| authorlink = |
|||
| year = 2013 |
|||
| title = Tove Jansson : tee työtä ja rakasta |
|||
| publisher = |
|||
| isbn = |
|||
}}) |
|||
* {{Cite journal|和書|author=ベッティーナ・ゴッケル |translator=柿沼万里江 |title=グローバルな女性芸術家 : そのイメージ形成と現実 : ヘレン・シャルフベック、伝統とモダンの間で |url=http://id.nii.ac.jp/1144/00000761/ |journal=Aspects of problems in Western art history |publisher=東京藝術大学 |year=2017 |month= |volume=15 |issue= |pages=163-173 |naid= |issn=13485644 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|ゴッケル|2017}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=柴山由理子 |title=フィンランドのEU加盟に関する一考察 -冷戦終結後の論理と決断- |url=https://hdl.handle.net/2065/33692 |journal=ソシオサイエンス |publisher=早稲田大学大学院社会科学研究科 |year=2011 |month=mar |volume= |issue=17 |pages=65-80 |naid= |issn=13458116 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|柴山|2011}}}} |
|||
* {{Citation| 和書 |
|||
| author = 島塚絵里 |
|||
| authorlink = |
|||
| title = 北欧フィンランド 巨匠たちのデザイン |
|||
| publisher = パイインターナショナル |
|||
| series = |
|||
| year = 2015 |
|||
| isbn = |
|||
| ref = {{sfnref|島塚|2015}} |
|||
}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=庄司博史 |date=2008-04 |title=世界の言語研究所(23)フィンランド国内諸言語研究所(フィンランド) |url=http://id.nii.ac.jp/1328/00002199/ |journal=日本語科学 |publisher=国書刊行会 |volume=23 |pages=125-131 |id={{CRID|1520009409130680064}} |accessdate=2023-04-05 |ref={{sfnref|庄司|2008}}}} |
|||
* {{Citation| 和書| author = [[冨原眞弓]]| authorlink =| title = トーヴェ・ヤンソンとガルムの世界―ムーミントロールの誕生| publisher = 青土社| series =| year = 2009| isbn = | ref = {{sfnref|冨原|2009}}}} |
|||
* {{Citation| 和書| author1 = 萩原健太郎| author2 = 日本フィンランド協会| title = フィンランドを知るためのキーワード A to Z| publisher = ネコ・パブリッシング| series = | year = 2019| isbn = | ref = {{sfnref|萩原, 日本フィンランド協会|2019}}}} |
|||
* {{Citation| 和書| author = | authorlink =| title = 北欧のアイデンティティ| editor = {{仮リンク|キアステン・ハストロプ|en|Kirsten Hastrup}}| translator = [[菅原邦城]], [[熊野聰]], [[田邉欧|田辺欧]], 清水育男| publisher = 明石書店| series = 北欧社会の基層と構造3| year = 1996| isbn = | ref = {{sfnref|ハストロプ編|1996}}}}(原書 {{Cite| 洋書| last = Hastrup| first = Kirsten| authorlink = | year = 1992| title = Den Nordiske Verden| publisher = | isbn = }}) |
|||
* {{Cite journal|和書|author=平井孝典 |title=19世紀フィンランドにおけるアーカイブス実務と検閲制度 |url=http://id.nii.ac.jp/1387/00001658/ |journal=藤女子大学文学部紀要 |publisher=藤女子大学 |year=2018 |month=mar |volume= |issue=55 |pages=175-199 |naid= |issn=21874670 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|平井|2018}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=藤田菜々子 |title=スウェーデンにおける経済学の生誕 : アンデシュ・ベルチとカール・フォン・リンネ |url=http://id.nii.ac.jp/1124/00002857/ |journal=オイコノミカ |publisher=名古屋市立大学大学院経済学研究科 |year=2021 |month=dec |volume=56 |issue=1 |pages=1-19 |naid= |issn=03891364 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|藤田|2021}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=[[百瀬宏]] |title=第二次大戦中のソ連のフィンランド政策 : 戦後への展望によせて (II) |url=https://hdl.handle.net/2115/5066 |journal=スラヴ研究 |publisher=北海道大学スラブ研究センター |year=1976 |month= |volume=21 |issue= |pages=217-232 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|百瀬|1976}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=柳沢伸司 |title=スウェーデン「一七六六年出版自由法」成立過程 |url=https://doi.org/10.24460/shinbungaku.37.0_131 |journal=新聞学評論 |publisher=日本マス・コミュニケーション学会 |year=1988 |month=apr |volume=37 |issue= |pages=131-141, 316 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|柳沢|1988}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=吉田欣吾 |title=フィンランドにおける言語的少数派と言語権保障 |url=https://opac.time.u-tokai.ac.jp/webopac/TC20002079 |journal=東海大学紀要. 文学部 |publisher=東海大学出版会 |year=2001 |month=oct |volume= |issue=75 |pages=67-86 |naid= |issn=05636760 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|吉田|2001}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=吉田欣吾 |title=フィンランドにおける言語教育 |url=https://opac.time.u-tokai.ac.jp/webopac/TC20002186 |journal=東海大学紀要. 文学部 |publisher=東海大学出版会 |year=2007 |month=sep |volume= |issue=87 |pages=59-78 |naid= |issn=05636760 |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|吉田|2007}}}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=吉田右子, 坂田ヘントネン亜希 |title=フィンランドにおける文芸振興政策と公共図書館: 作家と図書館のための公的支援システムに焦点を当てて |url=https://doi.org/10.20628/toshokankai.72.3_108 |journal=図書館界 |publisher= |year=2020 |month=sep |volume=72 |issue=3 |pages=108-124 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|吉田, 坂田ヘントネン|2020}}}} |
|||
* {{Citation| 和書 |
|||
| author = カイ・ライティネン |
|||
| title = 図説フィンランドの文学 |
|||
| translator = 小泉保 |
|||
| year = 1993 |
|||
| publisher = 大修館書店 |
|||
| series = |
|||
| isbn = |
|||
| ref = {{sfnref|ライティネン|1993}} |
|||
}}(原書 {{Cite| 洋書 |
|||
| author = Kai Laitinen |
|||
| year = 1985 |
|||
| title = Literature of Finland |
|||
| publisher = |
|||
| isbn = |
|||
}}) |
|||
== 関連文献 == |
|||
* {{Cite journal|和書|author=石野裕子 |title=「大フィンランドは祖国と同様である」 - エルモ・カイラとカレリア学徒会の地域構想 |url=https://hdl.handle.net/2433/266769 |journal=地域研究 |publisher=京都大学地域研究統合情報センター |year=2015 |month=nov |volume=16 |issue=1 |pages=173-195 |naid= |issn= |accessdate=2022-07-03 |ref={{sfnref|石野|2015}}}} |
|||
* {{Citation| 和書 |
|||
| author = デイヴィッド・カービー |
|||
| authorlink = |
|||
| title = フィンランドの歴史 |
|||
| publisher = 明石書店 |
|||
| series = 世界歴史叢書 |
|||
| year = 2008 |
|||
| isbn = |
|||
| translator = 百瀬宏, 石野裕子監訳, 東眞理子, 小林洋子, 西川美樹 |
|||
| ref = {{sfnref|カービー|2008}} |
|||
}}(原書 {{Cite| 洋書 |
|||
| last = Kirby |
|||
| first = David |
|||
| authorlink = |
|||
| year = |
|||
| title = A Concise History of Finland |
|||
| publisher = |
|||
| isbn = |
|||
}}) |
|||
* {{Citation| 和書 |
|||
| author = |
|||
| authorlink = |
|||
| title = フィンランドを知るための44章 |
|||
| editor = [[百瀬宏]], 石野裕子 |
|||
| publisher = 明石書店 |
|||
| series = エリア・スタディーズ |
|||
| year = 2008 |
|||
| isbn = |
|||
| ref = {{sfnref|百瀬, 石野編|2008}} |
|||
}} |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
||
{{Colbegin}} |
|||
*[[フィンランドの歴史]] |
|||
* {{仮リンク|オーランド諸島紛争|en|Åland Islands dispute}} |
|||
*[[フィンランド人]] |
|||
* [[スウェーデン語の歴史]] |
|||
*[[フィンランド大公国]] |
|||
* |
* {{仮リンク|フィンランドの言語|en|Languages of Finland}} |
||
*[[フィンランド]] |
* [[フィンランドの歴史]] |
||
* [[:en:List of municipalities of Finland in which Finnish is not the sole official language|List of municipalities of Finland in which Finnish is not the sole official language]] |
|||
*[[スウェーデン=フィンランド]] |
|||
{{Colend}} |
|||
*[[スウェーデン系アメリカ人]] |
|||
*[[スウェーデン人民党 (フィンランド)]] |
|||
*[[オーランド諸島]] |
|||
{{Normdaten}} |
{{Normdaten}} |
||
{{Good article}} |
|||
{{デフォルトソート:すうえてんけいふいんらんとしん}} |
{{デフォルトソート:すうえてんけいふいんらんとしん}} |
||
[[Category:スウェーデン系フィンランド人|*]] |
[[Category:スウェーデン系フィンランド人|*]] |
||
[[Category:フィンランドの民族]] |
|||
[[Category:スウェーデンの歴史]] |
[[Category:スウェーデンの歴史]] |
||
[[Category:スウェーデン=フィンランド]] |
[[Category:スウェーデン=フィンランド]] |
||
[[Category:スウェーデン・フィンランド関係]] |
[[Category:スウェーデン・フィンランド関係]] |
||
[[Category:フィンランドの民族]] |
|||
[[Category:フィンランドの歴史]] |
2024年9月1日 (日) 15:31時点における最新版
スウェーデン系フィンランド人(スウェーデンけいフィンランドじん、スウェーデン語:finlandssvenskar, フィンランド語:suomenruotsalaiset)は、フィンランドの少数派言語集団であり、文化的マイノリティでもある。スウェーデンから移住した人々とその子孫を中心とした集団であるが、近年ではフィンランド語系との通婚が進んでおり、アイデンティティーを共有することによって集団を形成している[注釈 1]。
呼称、人口
[編集]フィンランド語では、一般的にsuomenruotsalaiset(フィンランドのスウェーデン人)と呼び、法的にはruotsinkieliset(スウェーデン語系の人)や、ruotsinkielinen väestö(スウェーデン語系住民)と呼ぶ[3]。日本語表記では、スウェーデン語系フィンランド人もある[4][5][6][7]。また、スウェーデン語のfinlandssvenskarの直訳によるフィンランド・スウェーデン人という表記も存在する[8]。
2001年時点で、フィンランドの総人口の5.7%にあたる約29万人がスウェーデン語を母語として住民登録している[9]。
北欧の人々の多くが、「フィンランドのスウェーデン人」とはスウェーデン語を学んだ純粋なフィンランド人だと理解しがちだが、これに対してスウェーデン語系フィンランド人は反対する。スウェーデン語系にとってのルーツは中世の東スウェーデンに根ざした言語グループで、第1言語はスウェーデン語でありフィンランド語ではない[10]。
スウェーデン語系に対するあだ名として、フッリ(hurri)という語がある。由来はエステルボッテン南部のフィンランド語方言であり、1780年代の海岸地帯のスウェーデン語系の人々を指した。1930年代に言語闘争が起きてからは、軽蔑的なニュアンスで使われるようになった。1970年代にエステルボッテンのスウェーデン語系の人々が民族主義運動を起こした際は、スウェーデン語の勝鬨「フラー(hurra、万歳)」と混同させてフィンランド語の罵倒「フッリ」を連想させる「フッラルナ(hurrarna)」という語を使った[注釈 2][11]。
言語
[編集]スウェーデン語はインド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派に属し、ノルウェー語、デンマーク語、アイスランド語と系統が近い。フィンランド総人口の92%にあたるフィンランド語はウラル語族フィン・ウゴル語派に属する[12]。フィンランドで話されるフィンランド・スウェーデン語はフィンランド語のイントネーションに近く、語頭にアクセントを置き抑揚が少なく、スウェーデンでのスウェーデン語とは異なる[13]。
言語的境界線
[編集]スウェーデン語系とフィンランド語系の言語的境界線の初期の証拠として、15世紀はじめにフィンビュー(フィン人の村)とスヴェンスクビュー(スウェーデン人の村)という対になる地名がある。境界線において、言語的な少数派に対して使われたと解釈されている[14]。言語的境界線についての研究では、物質文化は言語と関係なく商品流通と同様に広まることが判明している[15]。
話者のイメージ
[編集]スウェーデン語系の社会は内陸部にもあり、測量士、森林監督官、教師、警官、牧師、医師、写真屋、軍人、薬屋、製材工場主、地主などで構成されていた。そうした世帯では家庭でスウェーデン語を話し、フィンランド語を話す使用人を雇っていた。特に19世紀以降のフィンランドでは、スウェーデン語系の一般的なイメージは上流階級社会と結びついた[16]。実際のスウェーデン語系の中心は海岸地域の漁師、農民、職人だったが、スウェーデン語は権力の言語として認識されることになった[17]。
借用語
[編集]言語的境界線上の地名の多くはスウェーデン語がもとになっており、たとえばスウェーデン語のロングヴァットネット(Långvattnet, 長い水路)がフィンランド語に翻訳されてピトケヴェシ(Pitkävesi)になる。もとがフィンランド語の地名や習慣は、そのままかあるいはスウェーデン語風に変形されて借用された。フィンランド語からの借用語の多くは、商売、職人、使用人などの文化に関係する語が多い。pojke(少年)、piga(女中)、pajta(シャツ、リンネル)、mekko(カーディガン)、parm(干草を量る単位)、katsa(漁労用の網籠)、kont(白樺の樹皮などで作ったリュックやカバン)、loka(ヨット)などがある。2言語併用の歴史が長い地域では、フィンランド語からの借用が1000語以上ある。フィンランド語からの影響は特に若い世代に多く、公文書でも意味借用は行われている[18]。
研究
[編集]フィンランド教育省下の研究機関であるフィンランド国内諸言語研究所では、スウェーデン語の研究と管理が行われている。言語管理の目的は、地域的な多様性を保ちつつ、スウェーデンにおけるスウェーデン語から過度に遊離することを避ける点にある。スウェーデン語計画課と言語委員会が運営し、標準文語の確立と維持、実態調査、新語の開発などを行っている。情報誌として『言語使用』が発行されている[19]。
歴史
[編集]スウェーデン語系住民のフィンランド移住は、400年代から800年代にオーランド諸島で始まったとされる。フィンランド本土への移住は1200年代以降だった[9]。土着の信仰をキリスト教に改宗するために北方十字軍が行われ、フィンランドにはスウェーデンとデンマークが遠征した。フィンランドへの十字軍は1155年、1249年、1293年の3回があったとされるが、遺物が少なく史料が後世に書かれたものであるため、遠征そのものがなかったという説もある[20]。
スウェーデン統治時代
[編集]1276年にオーボに司教座が設置され、1323年にスウェーデンとノヴゴロド公国の間でパハキナサーリ条約が結ばれ、本フィンランドや南西フィンランドの地域がスウェーデン領となった。スウェーデン東部の州として統治下に組み込まれ、スウェーデン=フィンランドを形成した。先住民族であるフィン人はスウェーデンの統治下におかれた[21]。
スウェーデン統治時代は、スウェーデンから貴族や役人が支配者層として移住した。公用語はスウェーデン語であり、公的文書はフィンランド語に翻訳された。知識人の多くはスウェーデン語系だった[注釈 3][22]。14世紀にペストが流行した際、フィンランドは被害が少なかったが、スウェーデンでは1350年頃以降に人口が激減し、フィンランドへの農民の移住が途絶えたとされる[23]。
1397年、デンマークがフィンランドをも含んだカルマル同盟を締結するが、デンマーク人の勢力はフィンランドには及ばず、スウェーデン=フィンランドは維持された。1523年にスウェーデンがカルマル同盟から離脱すると、スウェーデン語系もスウェーデンと共に独立した[24]。スウェーデンはエストニア北部へ進出してロシア帝国と対立し、1570年〜1595年にスウェーデンとロシアの戦争が起き、主戦場はフィンランドとなった[注釈 4][26]。
1700年に始まった大北方戦争ではスウェーデンが敗北した。1713年〜1714年にはフィンランドの大部分がロシアの占領地となって略奪や暴行が起き、支配層である貴族や商人らのスウェーデン語系を中心とする数千人がスウェーデンに逃亡した[27]。大北方戦争でカール12世が戦死しスウェーデンが敗北した影響で議会政治が進み、公民権が拡大した時期は自由の時代と呼ばれる。この時期にはフィンランドからスウェーデン語系議員が輩出されてスウェーデンの国政に参加した[28][29]。
ナポレオン戦争においてスウェーデンはフランス帝国と対立し、ロシア帝国に第二次ロシア・スウェーデン戦争で敗北した。1809年のフレデリクスハムンの和約でフィンランドはロシアに割譲され、スウェーデンのフィンランド統治が終了した[30]。
ロシア統治時代
[編集]ロシア帝国はフィンランドを直轄地として、1809年にフィンランド大公国を建国した。ロシアはフィン人を大公国の統治者として扱い、これにはスウェーデンとの関係を弱体化する意図があった[31]。ロシアは信教の自由、議会や議員、身分や特権の維持、法律の自由などを保障した[32]。他方で1829年以降に検閲制度が強化され、スウェーデン統治時代に存在した思想や言論・出版の自由は制限されていった[33]。ロシア文化がフィンランドに流入し、ロシア語の名称がそのまま入るか、あるいはスウェーデン語風やフィンランド語風に変形されて取り入れられた[15]。1860年代から工業化が進み、森林資源は「緑の黄金」とも呼ばれて製材や製紙が盛んになった。通信機器における世界な企業だったノキアも1865年の創業当初は製紙業で、創始者のフレドリク・イデスタムはスウェーデン語系にあたる[34]。
19世紀中葉以降、北欧諸国の汎スカンディナヴィア主義の影響でフィンランドでも民族主義が高まると、スウェーデン語系住民もフィン人と共にフィンランドの独立をロシアに訴えた[35]。スウェーデン語系で汎スカンディナヴィア主義者のアドルフ・アルヴィドソンが発したとされる有名な言葉に、「もはやスウェーデン人ではない、ロシア人にもなれない、我々すべてはフィンランド人になるのだ」がある[注釈 5][37]。1863年の身分制議会でアレクサンドル2世は言語布告を発し、すでに公用語となっていたスウェーデン語と並んでフィンランド語も公用語になり、2公用語体制が始まった[9]。フィンランド人の権利を求める運動は続き、フィンランド語系は1860年代に青年フィン人党を結成して政治活動を行い、スウェーデン語系は1870年にスウェーデン人民党を結成した。フィンランド語系はフェンノマン、スウェーデン語系はスヴェコマンと呼ばれ、両者はしばしば衝突した[注釈 6][39]。
フィンランドの行政語をロシア語とする言語宣言(1900年)や、フィンランド軍を廃止してロシア帝国軍に徴兵する兵役法(1901年)が制定されるとロシアへの反発が強まり、青年フィン人党とスヴェコマンは協力して護憲派を構成して自治を求めた[40]。ロシアは国内外の動乱の影響でフィンランドの要求を受け、1906年に議会法を制定した。1907年には初の普通選挙が実施され、スヴェコマンによるスウェーデン人民党は全200議席中の24議席を獲得し、その後1920年代も10%ほどの一定の議席を維持した[注釈 7][42]。
独立後
[編集]1917年にロシア革命が起きたのち1918年にフィンランドは独立し、スウェーデン語系も独立を支持した[注釈 8]。1918年からフィンランド内戦が起き、フィンランドでは白衛隊と赤衛隊に分かれて戦った。スウェーデン語系の軍人カール・グスタフ・マンネルヘイムは白衛隊を指揮して勝利に導き、のちの1944年に大統領に就任した[44]。
独立時点では総人口の約11%にあたる約35万人のスウェーデン語系住民が存在した。2公用語体制は独立後も引き継がれ、1922年の言語法によって詳細な規定が定められた[45]。スウェーデン語系の多いオーランド諸島はスウェーデンへの帰属を求めてスウェーデン国王に請願書を出した。フィンランドはオーランド自治法によって懐柔しようとしたが、住民は拒否した。帰属をめぐってフィンランドとスウェーデンの緊張が高まったため、スウェーデンは国際連盟に解決を求める。国連はオーランド諸島をフィンランド領だと確認し、決着した[注釈 9][47]。
こうした事件も影響し、ナショナリストによる運動が始まり、スウェーデン語系にとって脅威となった[48]。ナショナリストはスウェーデン語風の名字をフィンランド語風に改姓することを求める運動や、大学の講義をフィンランド語のみとする要求などを行った[49][50]。言語法以降、スウェーデン語系とフィンランド語系の地理的・経済的・社会的な境界は消滅に向かった。1960年代以降、スウェーデン語系とフィンランド語系のグループ間の結婚は一般的になり、2言語の併用者が別個のグループと見做されるようになった[51]。1960年代には安定した経済成長を続けていたスウェーデンへの移住が増え、スウェーデン語系の減少につながった[52]。
1994年にフィンランドが署名した欧州評議会の地方言語または少数言語のための欧州憲章で、スウェーデン語はフィンランドの公用語として65項目での保護条項を保障された[53]。1995年に欧州連合(EU)に加盟した際の国民投票では、スウェーデン人民党の支持者は賛成85%と多かった[注釈 10][55]。同年の総選挙では社会民主党を第1党として、国民連合党、左翼同盟、緑の党、スウェーデン人民党が参加してイデオロギーの異なる5党による連立内閣が成立した[56]。
法的位置
[編集]2000年に施行されたフィンランド憲法の第17条「自らの言語と文化に対する権利」により、裁判所と他の公的機関でスウェーデン語の使用の権利が保障されている。スウェーデン語のメディアや政党があり、スウェーデン語のみの教育で大学まで学ぶ権利がある[注釈 11][57]。
スウェーデン語系に対する言語権保障はフィンランド全土で保障されるべき面を持つ。他方で公機関の言語は、地方自治体の言語に関する規定にもとづく[58]。同規定によると、スウェーデン語系あるいはフィンランド語系のいずれかの少数派が自治体総人口の8%に達するか、3000人を超えた場合に、2言語併用自治体とみなされる。少数派人口がそれ以下の場合は単一言語自治体とみなされる。2003年時点では、448自治体のうちスウェーデン語単一言語自治体は19、スウェーデン語が優位な2言語併用自治体は23、フィンランド語が優位な2言語併用自治体は21となっている[59]。
オーランド諸島は住民の約94%がスウェーデン語系で、フィンランド独立時には帰属をめぐってフィンランドとスウェーデン間で争われた。1920年にオーランド自治法が成立し、1951年と1991年に改正がされた[60]。オーランド諸島の住民は兵役が免除されており、教育言語はスウェーデン語のみとなっている。2言語併用の教育機関で必要なフィンランド語能力についても、オーランドの教育機関で学んだ者に対しては軽減措置がある[61]。
対外的にはフィンランド、スウェーデン、ノルウェー、アイスランド、デンマークによって北欧言語協定が結ばれており、締結国の国民が相互の公機関または公的機関で自らの言語を使用できる状況を作るために努力することが約束されている[60]。
政治
[編集]スウェーデン語系フィンランド人は、フィンランド人とスウェーデン本国との板挟みになる場合があった。1590年代のカール9世とシーギスムンド王の争いを発端とした農民蜂起の棍棒戦争では、フィンランド語系の農民は積極的だったのに対して、スウェーデン語系の農民は役人と関係が近いため態度を保留した。こうした違いは独立後の内戦でも表れた[11]。スウェーデン統治時代は、スウェーデン語系フィンランド人もスウェーデンの国政に参加した。当時の政治家にアンダシュ・シデニウスやアルヴィド・ホルンらがいる[62]。
独立後のスウェーデン語系にとって脅威となった民衆運動は、カレリア学徒会(AKS)、ラプア運動、愛国人民連盟(IKL)の純正フィンランド主義者がある。政治思想は異なるが、いずれも愛国心を共和政や法治国家より優先した[48]。フィンランド語を共有する地域の統合を目指す大フィンランド主義も、スウェーデン語系にとっては抑圧的だった[注釈 12][64]。AKSはスウェーデンを仮想敵とし、スウェーデン語系の人々を攻撃した。また、会員の姓をフィンランド語に改姓することを義務とした[注釈 13][66]。1935年には、スウェーデン語風の名字をフィンランド語風に改姓するキャンペーンが行われた[49]。純正フィンランド主義者は、言語少数派に対する迫害ではなく、それまでスウェーデン語系が享受してきた特権の剥奪だと主張した[50]。言語をめぐる対立はフィンランドにおける言語闘争とも呼ばれる[67]。排他的な運動は、フィンランドが協力していたナチス・ドイツの敗北や、ソビエト連邦との継続戦争でフィンランドが敗北したことにより縮小していった[68][69]。
独立から第二次大戦期にかけてのフィンランドは親ドイツ派が多く、スウェーデン人民党の指導部も継続戦争の開始時点ではドイツとの提携を望んでいた[70]。1944年11月以降にドイツの不利が明らかになると、ナチズムやファシズムの支持者は保身のために言動を変えた[71]。敗戦後はナチズムやファシズムの支持者や、戦争に加担した人物のブラックリストが作られて糾弾が行われた。評論家・作家のハーガル・オルッソンは、ナチスの強制収容所と焼却場について触れ、戦時中の人々が何に賛成・反対していたかを社会に問いかけた[72]。
独立後のスウェーデン語系の著名な政治家としては、第6代大統領のカール・グスタフ・マンネルヘイム、第64代首相のアレクサンデル・ストゥブらがいる[73]。
宗教
[編集]宗教改革以降にフィンランドではプロテスタントへの改宗が進み、スウェーデン語系の教区とフィンランド語系の教区を区別するようになった。1569年のオーボでは言語で教区を分けるべきとする提案が出た。17世紀〜18世紀の海岸地方では、スウェーデン語系とフィンランド語系の教区でそれぞれ教会が建設されるのが一般的となった。または、1つの教会で時間帯を変えてそれぞれの言語でミサを行った。こうした方法が20世紀以降も続けられた[14]。
科学
[編集]1640年にオーボ王立アカデミーが設立されると、スウェーデンのウプサラから教授が派遣され、多くのフィンランド知識人を輩出した。数学者のヤコブ・ガドリンは、のちにオーボ司教になった。博物学者・探検家のペール・カルムは、大北方戦争時代にスウェーデンへ避難した家庭の出身で、オーボ王立アカデミーの教授になった[74][75]。カルムに学んだアンダシュ・シデニウスは牧師から政治家となり、出版の自由、信仰の自由、自由貿易を主張した[76]。スウェーデン統治時代の1749年に人口統計が始まり、フィンランドはスウェーデンと並んで世界最長の人口時系列調査を記録している[77]。
ロシア統治時代の探検家で鉱山学者アドルフ・エリク・ノルデンショルドは、北極海航路を開拓して日本を通り太平洋へ到達した。歴史学者ユリヨ=コスキネンはフィンランド史研究の先駆者であり『フィンランド民族史の教科書』を発表した。法学者・政治家のレオ・メケリンはフィンランド自治の正当性を出版や国際会議で訴え、1903年にスウェーデンに亡命した。メケリンはノキアの創業メンバーでもある[78]。
自然科学分野での初のノーベル賞受賞者はラグナー・グラニトで、スウェーデンのカロリンスカ研究所で1967年のノーベル生理学・医学賞を2人のアメリカ人研究者とともに受賞した。グラニトは冬戦争の最中にスウェーデン国籍を取得して安定した研究を続けつつ、フィンランドとの二重国籍を保った[79]。
教育
[編集]1640年のオーボ王立アカデミー設立後の高等教育は教会から教育機関へと移った。スウェーデン統治時代の教育言語はスウェーデン語であり、大学ではラテン語とスウェーデン語が使われた。1630年に設立されたギムナジウムや、1760年代から設立された初等学校でもスウェーデン語が使われた[22]。フィンランド語での授業はロシア統治時代以降に進んだ[80][81]。1930年代には大学生はフィンランド語系がスウェーデン語系を上回るようになり、AKSは大学の講義でフィンランド語を優先するよう要求した[49]。フィンランド語が公用語として強化されるにつれ、スウェーデン語系の家庭では、子供をフィンランド語の学校に通わせることも増えた[82]。
戦後のフィンランドでは言語教育が社会政策や文化政策の重要な一部とみなされ、1950年から2000年にかけて言語教育に投入された資金は国家予算1年分に匹敵するとされる[注釈 14][83]。スウェーデン語系住民はスウェーデン語系学校に進学するのが原則で、スウェーデン語のみの教育で大学まで学ぶ権利がある[84]。1970年代から、スウェーデン語系は第2内国語としてフィンランド語の学習が義務づけられている[注釈 15][86]。こうした言語教育は、欧州連合(EU)の言語教育の方針にも合致している。EUにおいては、欧州市民の異言語能力の獲得と、文化的多様性の尊重が重要な課題とされている[84]。フィンランド語やスウェーデン語を母語としない移民には、第2言語としてフィンランド語かスウェーデン語を学習する機会が与えられる。難民がどちらの言語を学ぶかについては、居住する自治体が単一言語自治体か2言語併用自治体かによって決まる[注釈 16][88]。
スウェーデン語系の生徒の言語環境は多様化しており、フィンランド語系学校の2言語話者が3%であるのに対して、スウェーデン語系学校の2言語話者は25%から50%となっている。スウェーデン語系の2言語話者はフィンランド語能力の方が高い場合もあり、他方でフィンランド語が優位な2言語併用家庭の生徒がスウェーデン語系学校を選択することが増えている。教員は、個々人で言語能力が大きく異なる生徒集団への対応が必要となっている[注釈 17][90]。
文化
[編集]スウェーデン統治時代は、支配層や知識人の中心はスウェーデン語系だった[注釈 18][22]。ロシア統治時代から公費でパリやウィーンに留学して芸術を学べるようになり、その影響で各方面の芸術が盛んになった[91][92]。
ロシア統治時代にはフィンランドの民族文化への関心も高まり、初期はスウェーデン語系が運動を主導した。フィンランド語の地位向上を主張したユーハン・ヴィルヘルム・スネルマンや、『カレワラ』の編纂者エリアス・リョンロートもスウェーデン語系にあたる。こうした人々は言語にもとづく民族ではなく、近代国家としてのフィンランドの一致を求めて活動した[81]。スネルマンやリョンロートの運動は、フィンランドが欧州各国と並ぶためにフィンランド語を母語とする教養人の育成が不可欠とするものだった。スネルマンらは、当座は教養があるスウェーデン語系がフィンランド語を習得すべきと主張した。しかし20世紀以降はフィンランド語系の教養人が増加し、スネルマンらの構想とは異なる形で国民的統一が進んだ[注釈 19][94]。
伝承、民話
[編集]フィンランドでは、相手の言葉が分からない人についての話や冗談がスウェーデン語系とフィンランド語系の双方に存在する[95]。民俗学者が20世紀初頭の南西フィンランドで収集した滑稽話には「スウェーデン人の市場に出かける3人のフィンランドのおばさんたち」があり、以下のような物語になっている[96]。
フィンランド語系の女性3人が、スウェーデン語圏の市場に行くことにした。3人ともスウェーデン語が分からないので、警官にお金を払ってスウェーデン語の表現を1つずつ教えてもらう。
1番目の女性は「わたしらおばさん3人」、2番目の女性は「沢山のお金のため」、3番目の女性は「そう、みんなそう言ってる」という表現を覚えた。
こうして女性たちは捕まってしまった。
しかし3人は、市場に向かう途中で男性の死体を発見してしまう。そこにちょうど牧師がやって来た。
死体を見た牧師はスウェーデン語で「誰がその男を殺したのだ」と聞き、1番目の女性は「わたしらおばさん3人」と答える。
牧師は「どうしてそんなことをしたのか」と聞き、2番目の女性は「沢山のお金のため」と答える。
牧師は「人を殺したのなら悪魔にでも取りつかれなさい」と言い、3番目の女性は「そう、みんなそう言ってる」と答える。
同様の話は南西部を中心として海岸一帯にも存在する。女性の出身や結末にはバリエーションがあり、女性たちが3つしか言い回しを知らない点が判明して無罪放免になるパターンもある[96]。
19世紀以降にロシアからの独立を求める過程で、フィンランド語系の間ではカレリア地方に由来する民族叙事詩『カレワラ』が流行した。『カレワラ』を編纂したリョンロートはスウェーデン語系にあたる[81]。他方、スウェーデン語系や汎スカンディナヴィア主義を掲げる者たちの間では、北欧神話のエッダやサガが好まれた[注釈 20][98]。
文学
[編集]フィンランドの文芸作品は当初スウェーデン語で書かれ、詩を中心に増えていった[99]。1831年設立のフィンランド文学協会(SKS)は、創立メンバーの多くがスウェーデン語系だった[100]。スウェーデン統治時代の詩人ルーネベリの詩に登場する農夫パーヴォはフィンランド人のモデルとされ、「我が祖国」(1848年)はフィンランド語に翻訳されて国家『我等の地』の歌詞になり、国民的な詩人と評価された[99]。フィンランド語で執筆した最初の作家であるアレクシス・キヴィはスウェーデン語とフィンランド語のバイリンガルで、キヴィ作品の登場人物はフィン人らしさの体現として劇作家や演出家に踏襲された[101]。傾向として、スウェーデン語系の文芸作品では庶民性を示すためにフィンランド語が用いられ、フィンランド語系では時代や地方色を出すためにスウェーデン語が用いられる[102]。
歴史学者・ジャーナリストのザクリス・トペリウスはフィンランドの歴史について『わが祖国の本』(1875年)を発表し、フィンランド語に翻訳されて教科書にも採用された[103]。しかし、トペリウスは政治的に攻撃され、彫刻家ヴィレ・ヴァルグレンが制作したトペリウス像は1909年に完成したものの1932年まで設置場所が決まらず、「追放された詩人」とも呼ばれた[注釈 21][105]。詩人エーディト・ショーデルグランは自由律、強烈な想像力、語彙や主題の拡大などによって、北欧文学のモダニズムの先駆けともいわれている[106]。
戦後復興の進んだ1950年代はフィンランド文学の黄金時代とも呼ばれる。新世代の作家が多数登場し、政治的立場、世代、様式(モダニズム等)の立場に分かれて対立も活発になった[107]。イェスタ・オーグレーンは1989年にフィンランド最高の文学賞フィンランディア賞を受賞した[注釈 22][102]。
美術、デザイン
[編集]アクセリ・ガッレン=カッレラはスウェーデン語系の名前アクセル・ガレンから1907年に改名し、『カレワラ』を題材とした作品を多数描いた[66]。ヒューゴ・シンベリは『傷ついた天使』(1903年)を描き、フィンランドを代表する画家の1人となった。19世紀後半から20世紀前半にかけて作品を発表した人物としては、他にアルベルト・エデルフェルトや、近年モダニズム芸術の観点から評価が進むヘレン・シャルフベックらがいる[108][109]。
1930年代の芸術の題材には民族アイデンティティが多く、やがてモダンアートの運動がフィンランドにも起きた。実業家のマイレ・グリッセンは芸術界の近代化や女性の地位向上を進め、1935年にはアルヴァル・アールト、アイノ・アールト夫妻やニルス・グスタフ・ハールとアルテックを設立して芸術・技術・科学を結びつける活動をした。1938年のアルテックのプロデュースとマイレの主催による「フランス芸術展」は、フィンランド初の女性主催の展覧会だった。アルテックは国外の芸術家やフィンランドのモダニストの紹介も積極的に行った[110]。1939年にはスウェーデンの協会をモデルにして現代美術協会が設立された[111]。『ムーミン』シリーズの作者として知られる画家・作家のトーベ・ヤンソンは1940年代には諷刺画家としても著名で、スウェーデン語系を攻撃する純正フィンランド主義者や、ナチス・ドイツ、ソビエト連邦を諷刺した。またパブリックアートとして壁画を数多く制作した[112]。1950年代に抽象美術がフィンランドに紹介され、抽象と具象をめぐって美術界は2分された。当初の抽象美術は大半がスウェーデン語系で占められた[注釈 23][113]。
1950年代以降は国内外でフィンランドのデザインの評価が進んだ[107]。カイ・フランクは陶器メーカーのアラビアで働いたことをきっかけにデザイナーとなった。戦後で物資が少ないフィンランドに合ったコンパクトな設計をおこない、食器シリーズの「キルタ」は1953年代から国際的に成功した[114]。アンニカ・リマラはカイ・フランクらからデザインを学び、マリメッコのファッションデザイナーとなる。1968年には年齢・性別・階級・国籍などに関係ないデザインとして、平等なストライプを意味する「タサライタ」を発表してマリメッコの定番の一つになった[115]。
音楽
[編集]作曲家のジャン・シベリウスは『カレワラ』を題材にした『クッレルヴォ』(1892年)や、交響詩『フィンランディア』(1899年)を発表した。『フィンランディア』はロシアからの独立を目指すフィンランド人を表現したとして愛国的な人気を得たが、ロシア統治時代は演奏を禁止された[注釈 24][117]。オスカル・メリカントは『夏の夜のワルツ』などのピアノ曲を手がけ、当時はシベリウス以上に人気のある作曲家として活躍した[118]。
演劇、映画
[編集]フィンランド初の常設劇場は1860年にヘルシンキで建設されたスヴェンスカ劇場で、スウェーデン語の戯曲を中心に上演された。1915年に国立化し、1936年に改修された[119]。
スウェーデン語系の上流階級イメージは、フィクションでも使われた。たとえば内戦の時代や第二次大戦前を舞台にした映画では、良家の人間がスウェーデン語を話したり、フィンランド語系の教養階級がスウェーデン語を混ぜて話したりする描写がしばしば見られる[102]。
出版、メディア
[編集]スウェーデン統治時代の自由の時代と呼ばれる時期、アンデシュ・シデニウスの発案によって出版自由法(1766年)が成立した。出版自由法は情報公開法の先駆けともいわれ、基本法(憲法)としての性格をもち、検閲の廃止や公文書公開の原則があった。出版自由法によって言論活動の自由だけでなく、政府情報を取得し利用する権利も認められた[注釈 25][121][122]。これにより、フィンランドでも1771年にはスウェーデン語の新聞が創刊された[22]。
スウェーデン語系の新聞として、1864年創刊の老舗の日刊紙『ヒューヴドスタドブラデッド(首都新聞)』[123]や、1882年に創刊されたリベラルな朝刊紙『ニヤ・プレッセン(新報道)』がある。『ニヤ・プレッセン』は『ダーゲンス・プレス』の改名をへて、自由主義的な夕刊紙『スヴェンスカ・プレッセン』となった[124]。政党別の機関紙には、社会民主党の『アルベタルブラデッド(労働者新聞)』[125]、人民民主同盟系で左派読者の多い『ニィ・ティド(新時代)』[125]などがある。
雑誌では一般誌の『アッラス・クレニカ(みんなの記録)』[126]、女性向け情報誌の『アストラ(星)』[126]、隔週金曜日発行の政治情報誌『ヴォル・ティド(我らが時代)』[127]、汎スカンディナヴィア主義のオピニオン雑誌『ヴィキンゲン(ヴァイキング)』[98]、出版業会誌『ルシフェル』[128]などがある。カリカチュアや風刺雑誌には『クーレ(相棒)』、『フィーレン(灯台)』、『ガルム』がある[129]。
1940年代にフィンランド政府とナチス・ドイツの協力が始まると、ドイツに批判的なメディアは国内で非難された。スウェーデン語系メディアはフィンランド語系よりもドイツ批判に積極的で、反ドイツの論陣だった『スヴェンスカ・プレッセン』は廃刊させられた[注釈 26][131]。戦後のスウェーデン語系の読者は、フィンランド語系の読者よりも芸術や思想の動向を手に入れるのが早かった。スウェーデン語系メディアは新しい芸術に寛容な傾向があり、抽象美術などをフィンランド語メディアよりも早く紹介した[113]。実存主義がヨーロッパで広まった際には、サルトルやボーヴォワール、カミュらの著書がスウェーデン経由で紹介された[132]。
2017年時点のフィンランドの出版総数10369点のうち、スウェーデン語は461点、フィンランド語8469点、その他の言語1439点となっている[133]。フィンランドには、図書館から著作が貸し出されることによる著作者の損失を補償する制度が2つあり、貸与補償制度と図書館助成金制度がある[134]。貸与補償制度は図書館での貸出数にもとづいて補償金額を決めるもので、EUの文化政策として導入された[注釈 27]。図書館助成金制度は1960年代に始まり、公共図書館の資料費の10%をフィンランド文化の向上に貢献した文学やノンフィクションの著作者に支払う。図書館助成金委員会は教育文化省が任命し、フィンランド語とスウェーデン語を代表する著作者や翻訳者の組織と協議をして選考する[136]。
祝祭日
[編集]11月6日は「スウェーデンの日」としてスウェーデン語系が祝う。この日はスウェーデン国王グスタフ2世アドルフの命日にあたり、スウェーデン語系が出自を再確認する日として1908年以降に祝うようになった。正装で参加し、娯楽や情報交換をする日でもある。11月6日に着飾って酔っている人間はスウェーデン語系とみなされるため、IKLなどの純正フィンランド主義者にとって標的を見つけやすい日でもあった。1930年代の「スウェーデンの日」では、フィンランド語系がスウェーデン語系を殴るのが常だったという回想の記録もある[注釈 28][137]。
聖ルチアの祝日である12月13日には聖ルチア祭があり、1930年代にスウェーデンからフィンランドに伝わった。この日は冬への別れと春の訪れを告げるために祝われ、女性が白衣を着てロウソクを立てた花冠をかぶり、菓子やジンジャーブレッドを捧げ持って家族を起こしてまわる[138]。
著名なスウェーデン系フィンランド人
[編集]詳しくは、スウェーデン系フィンランド人の一覧を参照。
- アルヴァ・アールト(建築家、デザイナー)
- ミカエル・ウィデニウス(MySQL AB創設者)
- ハンス・ウィンド(軍人、エース・パイロット)
- ラグナー・グラニト(科学者。ノーベル生理学・医学賞受賞)
- マーカス・グロンホルム(ラリードライバー)
- ジャン・シベリウス(作曲家)
- リーナス・トーバルズ(プログラマ)
- アドルフ・エリク・ノルデンショルド(探検家)
- カール・グスタフ・マンネルヘイム(軍人、フィンランド大統領)
- トーベ・ヤンソン(画家、作家)
- キリル・ラクスマン(博物学者)
- ケケ・ロズベルグ(元F1ドライバー)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 本記事の出典136箇所(2022年9月17時点)のうち、93箇所に使われている文献の表記は「スウェーデン語系フィンランド人」・「スウェーデン語系住民」・「スウェーデン語系」となっている(吉田 (2001)、吉田 (2007)、冨原 (2009)、カルヤライネン (2014)、石野 (2017)など。)。このため本文の表記は同様に「スウェーデン語系フィンランド人」・「スウェーデン語系住民」・「スウェーデン語系」を優先して表記している。
- ^ 若い世代のスウェーデン語系は、スウェーデンを「フッリの国」とふざけて呼んだりもする[11]。
- ^ 18世紀のストックホルムで「フィンランドにおける方言」という場合は、フィンランド人が話すスウェーデン語を指した[10]。
- ^ エストニアやラトヴィアの島々に住んだ人々は島嶼スウェーデン人やエイボー人と呼ばれ、スウェーデン語を話し約6000人がいたとされる。自治をして暮らしていたが、17世紀末には多くが奴隷や農奴にされた[25]。
- ^ アルヴィドソンは新聞に寄稿した記事の内容を当局に問題視され、スウェーデンに移住して王立図書館職員となった[36]。
- ^ ロシア統治時代のフィンランドのナショナリズムは、ドイツのロマン主義の影響を受けた。特にヨハン・ゴットフリート・ヘルダーの「一民族一言語」という思想の影響は大きく、フィンランド語とフィンランド民族が対になって考えられた[38]。
- ^ 24歳以上の市民権のある男女に参政権が認められた。フィンランドは世界3番目に女性参政権を認めたほか、世界初の女性の被選挙権を認めた。他方で市民権がないユダヤ人、ロマ、タタール人には参政権はなかった[41]。
- ^ スウェーデン語系およびスウェーデン人民党の後押しにより一時的にフィンランド王国が成立した[43]。
- ^ 自治法では軍事と外交をのぞく自治権が保障され、非武装・中立化と公的機関でのスウェーデン語使用が認められた。なお解決にあたった国連の事務局次長は新渡戸稲造だった[46]。
- ^ スウェーデン語系の政治家でEU加盟反対派だったヤン・マグヌス・ヤンソンらはロシアとの関係を重視したため反対した[54]。
- ^ フィンランドには約7000人のサーミが使うサーミ諸語、約10000人のロマが使うロマニ語、約5000人の話者がいるフィンランド手話があり、同じく憲法第17条で権利が保証されている[9]。
- ^ のちにフィンランドとソ連が継続戦争を起こした際、フィンランドはロシア・カレリアを占領して大フィンランドの実現を目指したが、敗北した[63]。
- ^ 学生会館では演奏中に事件が起き、「ここはスオミ(フィンランド)だ、スオミの歌を唄え」と叫ぶ学生が警棒を持って乱入した[65]。
- ^ 経済協力開発機構(OECD)が実施した生徒の学習到達度調査では、フィンランドの学生は特に読解力で高い学力を示し、その背景に言語教育の影響をみる説もある[83]。
- ^ フィンランド語系にとっての第2内国語はスウェーデン語になる[85]。
- ^ 少数派である難民が、言語的少数派であるスウェーデン語を学ぶことで、「少数派の中の少数派」という立場に追いやられる問題を指摘する研究もある[87]。
- ^ スウェーデン語の教育については否定的な意見が増加しているとされ、スウェーデン語を選択科目にして国際的に有用な言語の学習に時間を割くべきという意見もある。他方でスウェーデン語はEUの公用語でもあるので将来的に重要性が増すという意見がスウェーデン語系には多い[89]。
- ^ 当時のフィンランド語は農民を中心とする言語で、文字として書かれるようになったのは1543年以降からだった[31]。
- ^ スネルマンは知識階級向けのスウェーデン語新聞『サイマ』と、フィンランド語系向けのフィンランド語新聞『農民の友』を発行したが、『サイマ』は検閲で発禁処分を受けた[93]。
- ^ 同時代の北欧諸国は民族主義的ロマン主義の視点からエッダやサガに注目し、フィンランドにも影響を与えた[97]。
- ^ フィンランド初のノーベル賞受賞者は1939年のフィンランド語作家のフランス・エーミル・シッランパーだが、スウェーデン語系の人々と親交があったため国内で糾弾された影響で受賞が遅れた[104]。
- ^ オーグレンがフィンランディア賞を受賞した時点で、著作はフィンランド語に翻訳されていなかった[102]。
- ^ 1952年にタイデハッリ美術館で開催された「クラール・フォルム」展はヴィクトル・ヴァザルリなどの作家を紹介し、大きな影響を与えた[113]。
- ^ ジャンという名はフランス風の読みで、スウェーデン語のヤンやフィンランド語のユハのいずれでもない[116]。
- ^ (1) 神学上の出版物を除く検閲の廃止、(2) 公文書の自由な印刷・配布が認められた。しかし、1771年にグスタフ3世によって公文書公開が条文から削除され、検閲が復活した[120]。
- ^ 『スヴェンスカ・プレッセン』は廃刊後、『ヌゥ・プレッセン』と名を変えて発行を続けた[130]。
- ^ 著作権補償制度は1946年にデンマークで始まって各国に広まり、貸与補償制度はEU加盟の条件になっている[135]。
- ^ スウェーデン語系の批評家・美術史家ヨラン・シルツ』の回想による[137]。
出典
[編集]- ^ “Hur ser Svenskfinland ut om 100 år?” (Swedish). Medborgarbladet (Helsinki: Svenska folkpartiet RP) 61 (4): 20. (December 2006). オリジナルの21 July 2011時点におけるアーカイブ。 2008年6月6日閲覧。.
- ^ Engene, Jan Oskar (10 March 1996). “Swedish speaking population in Finland”. Flags of the World. 6 June 2008閲覧。
- ^ 吉田 2001, p. 77.
- ^ 冨原 2009, p. 21.
- ^ カルヤライネン 2014, p. 13.
- ^ 石野 2017, p. 81.
- ^ 萩原, 日本フィンランド協会 2019, p. 106.
- ^ 石野 2017, p. 82.
- ^ a b c d 吉田 2001, p. 81.
- ^ a b ハストロプ編 1996, p. 44.
- ^ a b c ハストロプ編 1996, p. 46.
- ^ 吉田 2001, pp. 81–82.
- ^ 石野 2017, p. 84.
- ^ a b ハストロプ編 1996, p. 45.
- ^ a b ハストロプ編 1996, p. 42.
- ^ ハストロプ編 1996, pp. 37–38.
- ^ ハストロプ編 1996, pp. 38–39.
- ^ ハストロプ編 1996, pp. 42–43.
- ^ 庄司 2008, pp. 125–127.
- ^ 石野 2017, pp. 15–18.
- ^ 石野 2017, pp. 18–20.
- ^ a b c d 石野 2017, p. 45.
- ^ 石野 2017, p. 25.
- ^ 石野 2017, pp. 25–28.
- ^ ハストロプ編 1996, pp. 177–180.
- ^ 石野 2017, p. 31.
- ^ 石野 2017, pp. 37–38.
- ^ 石野 2017, pp. 38–39.
- ^ 柳沢 1988, p. 132.
- ^ 石野 2017, pp. 49–51.
- ^ a b 庄司 2008, pp. 129–130.
- ^ 石野 2017, pp. 56–57.
- ^ 平井 2018, pp. 184–187.
- ^ 石野 2017, p. 68.
- ^ 石野 2017, pp. 62–63, 69.
- ^ 平井 2018, p. 182.
- ^ 平井 2018, p. 181.
- ^ 石野 2017, p. 70.
- ^ 石野 2017, pp. 66–67.
- ^ 石野 2017, pp. 88–90.
- ^ 石野 2017, pp. 93–94.
- ^ 石野 2017, pp. 93–95, 124.
- ^ 石野 2017, pp. 115–116.
- ^ 石野 2017, pp. 107–109.
- ^ 吉田 2001, pp. 80–81.
- ^ 石野 2017, p. 121.
- ^ 石野 2017, pp. 120–121.
- ^ a b 冨原 2009, pp. 140–141.
- ^ a b c 石野 2017, pp. 133–134.
- ^ a b 冨原 2009, pp. 95–96, 103–104.
- ^ ハストロプ編 1996, p. 41.
- ^ 石野 2017, p. 207.
- ^ 庄司 2008, p. 125.
- ^ 柴山 2011, p. 73.
- ^ 柴山 2011, p. 74.
- ^ 石野 2017, pp. 241–242.
- ^ 石野 2017, pp. 81–82.
- ^ 吉田 2001, p. 75.
- ^ 吉田 2007, p. 60.
- ^ a b 吉田 2001, p. 80.
- ^ 吉田 2001, p. 76.
- ^ 石野 2017, pp. 44–46.
- ^ 石野 2017, pp. 164–165.
- ^ 冨原 2009, pp. 90–91.
- ^ 冨原 2009, pp. 103–104.
- ^ a b 冨原 2009, pp. 93–94.
- ^ 石野 2017, p. 71.
- ^ 冨原 2009, pp. 373–374.
- ^ 石野 2015, p. 175.
- ^ 百瀬 1976, p. 220.
- ^ 冨原 2009, pp. 305–307.
- ^ カルヤライネン 2014, p. 84.
- ^ 石野 2017, p. 83.
- ^ 石野 2017, p. 44.
- ^ 藤田 2021, p. 13.
- ^ 石野 2017, pp. 44–45.
- ^ 藤田 2021, p. 8.
- ^ 石野 2017, p. 73.
- ^ 石野 2017, pp. 218–219.
- ^ 石野 2017, pp. 70–71.
- ^ a b c 冨原 2009, p. 88.
- ^ ハストロプ編 1996, p. 48.
- ^ a b 吉田 2007, p. 77.
- ^ a b 吉田 2007, p. 76.
- ^ 吉田 2007, p. 74.
- ^ 吉田 2007, p. 75.
- ^ 吉田 2007, p. 70.
- ^ 吉田 2007, pp. 71–70.
- ^ 吉田 2007, p. 67.
- ^ 吉田 2007, pp. 72–73.
- ^ 冨原 2009, p. 48.
- ^ 石野 2017, pp. 85–86.
- ^ 石野 2017, p. 66.
- ^ 冨原 2009, pp. 96–97.
- ^ ハストロプ編 1996, p. 37.
- ^ a b ハストロプ編 1996, pp. 35–36.
- ^ 冨原 2009, p. 51.
- ^ a b 冨原 2009, p. 52.
- ^ a b 石野 2017, p. 79.
- ^ 平井 2018, p. 188.
- ^ 冨原 2009, p. 93.
- ^ a b c d ハストロプ編 1996, p. 38.
- ^ 石野 2017, p. 80.
- ^ 冨原 2009, pp. 154–156.
- ^ 冨原 2009, pp. 107–109.
- ^ ライティネン 1993, pp. 91–93.
- ^ a b カルヤライネン 2014, p. 203.
- ^ ゴッケル 2017, pp. 163–164.
- ^ 石野 2017, pp. 84–86.
- ^ カルヤライネン 2014, pp. 39–40.
- ^ カルヤライネン 2014, pp. 40–41.
- ^ 冨原 2009, p. 105.
- ^ a b c カルヤライネン 2014, pp. 204–205.
- ^ 島塚 2015, pp. 16–18.
- ^ 島塚 2015, pp. 84.
- ^ 冨原 2009, p. 94.
- ^ 石野 2017, p. 97.
- ^ 石野 2017, p. 98.
- ^ 冨原 2009, pp. 225–226.
- ^ 柳沢 1988, p. 131.
- ^ 柳沢 1988, p. 45.
- ^ 平井 2018, pp. 175–176.
- ^ 冨原 2009, p. 226.
- ^ 冨原 2009, p. 395.
- ^ a b 冨原 2009, p. 71.
- ^ a b 冨原 2009, p. 419.
- ^ 冨原 2009, p. 308.
- ^ 冨原 2009, p. 420.
- ^ 冨原 2009, pp. 24, 391.
- ^ カルヤライネン 2014, p. 70.
- ^ カルヤライネン 2014, pp. 68–70.
- ^ カルヤライネン 2014, p. 150.
- ^ 吉田, 坂田ヘントネン 2020, pp. 113–114.
- ^ 吉田, 坂田ヘントネン 2020, p. 110.
- ^ 吉田, 坂田ヘントネン 2020, pp. 110–111.
- ^ 吉田, 坂田ヘントネン 2020, pp. 112–113.
- ^ a b 冨原 2009, p. 149.
- ^ 冨原 2009, pp. 366–368.
参考文献(著者・編者五十音順)
[編集]- 石野裕子『物語 フィンランドの歴史 - 北欧先進国「バルト海の乙女」の800年』中央公論新社〈中公新書〉、2017年。
- トゥーラ・カルヤライネン 著、セルボ貴子, 五十嵐淳 訳『ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』河出書房新社、2014年。(原書 Karjalainen, Tuula (2013), Tove Jansson : tee työtä ja rakasta)
- ベッティーナ・ゴッケル「グローバルな女性芸術家 : そのイメージ形成と現実 : ヘレン・シャルフベック、伝統とモダンの間で」『Aspects of problems in Western art history』第15巻、東京藝術大学、2017年、163-173頁、ISSN 13485644、2022年7月3日閲覧。
- 柴山由理子「フィンランドのEU加盟に関する一考察 -冷戦終結後の論理と決断-」『ソシオサイエンス』第17号、早稲田大学大学院社会科学研究科、2011年3月、65-80頁、ISSN 13458116、2022年7月3日閲覧。
- 島塚絵里『北欧フィンランド 巨匠たちのデザイン』パイインターナショナル、2015年。
- 庄司博史「世界の言語研究所(23)フィンランド国内諸言語研究所(フィンランド)」『日本語科学』第23巻、国書刊行会、2008年4月、125-131頁、CRID 1520009409130680064、2023年4月5日閲覧。
- 冨原眞弓『トーヴェ・ヤンソンとガルムの世界―ムーミントロールの誕生』青土社、2009年。
- 萩原健太郎; 日本フィンランド協会『フィンランドを知るためのキーワード A to Z』ネコ・パブリッシング、2019年。
- キアステン・ハストロプ 編、菅原邦城, 熊野聰, 田辺欧, 清水育男 訳『北欧のアイデンティティ』明石書店〈北欧社会の基層と構造3〉、1996年。(原書 Hastrup, Kirsten (1992), Den Nordiske Verden)
- 平井孝典「19世紀フィンランドにおけるアーカイブス実務と検閲制度」『藤女子大学文学部紀要』第55号、藤女子大学、2018年3月、175-199頁、ISSN 21874670、2022年7月3日閲覧。
- 藤田菜々子「スウェーデンにおける経済学の生誕 : アンデシュ・ベルチとカール・フォン・リンネ」『オイコノミカ』第56巻第1号、名古屋市立大学大学院経済学研究科、2021年12月、1-19頁、ISSN 03891364、2022年7月3日閲覧。
- 百瀬宏「第二次大戦中のソ連のフィンランド政策 : 戦後への展望によせて (II)」『スラヴ研究』第21巻、北海道大学スラブ研究センター、1976年、217-232頁、2022年7月3日閲覧。
- 柳沢伸司「スウェーデン「一七六六年出版自由法」成立過程」『新聞学評論』第37巻、日本マス・コミュニケーション学会、1988年4月、131-141, 316、2022年7月3日閲覧。
- 吉田欣吾「フィンランドにおける言語的少数派と言語権保障」『東海大学紀要. 文学部』第75号、東海大学出版会、2001年10月、67-86頁、ISSN 05636760、2022年7月3日閲覧。
- 吉田欣吾「フィンランドにおける言語教育」『東海大学紀要. 文学部』第87号、東海大学出版会、2007年9月、59-78頁、ISSN 05636760、2022年7月3日閲覧。
- 吉田右子, 坂田ヘントネン亜希「フィンランドにおける文芸振興政策と公共図書館: 作家と図書館のための公的支援システムに焦点を当てて」『図書館界』第72巻第3号、2020年9月、108-124頁、2022年7月3日閲覧。
- カイ・ライティネン 著、小泉保 訳『図説フィンランドの文学』大修館書店、1993年。(原書 Kai Laitinen (1985), Literature of Finland)
関連文献
[編集]- 石野裕子「「大フィンランドは祖国と同様である」 - エルモ・カイラとカレリア学徒会の地域構想」『地域研究』第16巻第1号、京都大学地域研究統合情報センター、2015年11月、173-195頁、2022年7月3日閲覧。
- デイヴィッド・カービー 著、百瀬宏, 石野裕子監訳, 東眞理子, 小林洋子, 西川美樹 訳『フィンランドの歴史』明石書店〈世界歴史叢書〉、2008年。(原書 Kirby, David, A Concise History of Finland)
- 百瀬宏, 石野裕子 編『フィンランドを知るための44章』明石書店〈エリア・スタディーズ〉、2008年。
関連項目
[編集]