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2022年3月1日 (火) 19:43時点における版

斉藤[1] 正身(齊藤、さいとう まさみ、1897年明治30年[注 1])12月15日[2] - 1972年昭和47年)6月6日[1])は、大正から昭和期の実業家政治家衆議院議員藤と表記されることが多い[注 2]

経歴

宮崎県[1]宮崎郡住吉村[3](現宮崎市[4]で、斉藤東作の四男として生まれる[3][5]。1922年(大正11年)東亜同文書院[1][4][5]商務科[3]を卒業(第20期生)した。

東京中央金庫を経て[3]天津隆和公司に入社[1][3]。1927年(昭和2年)天津正栄洋行を設立した[1][3]。その後、満州国の創立に尽力し[4]、同国国務院総理秘書、満州日日新聞社顧問、大連日日新聞社顧問などを務めた[1][4]。また1940年(昭和15年)財団法人宮崎県斉藤奨学会を設立し会長に就任した[1][5][注 3]

1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙翼賛政治体制協議会の推薦を受け宮崎県全県区から出馬して当選し[1]、衆議院議員を1期務めた[1]。この間、鈴木貫太郎内閣厚生参与官、翼政会政調内閣委員などを務めた[1][4]。戦後、無所属倶楽部に所属し[1]、その後、公職追放となった[6]

親族

  • 長兄 斉藤虎一(住吉村長、宮崎県会議員)[7]

脚注

注釈

  1. ^ 『翼賛議員銘鑑』186頁では明治32年。
  2. ^ 参考文献の中では『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』282頁以外は齋藤(斎藤)表記。
  3. ^ 『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』支那55頁では斎藤報恩会理事長。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』282頁。
  2. ^ 衆議院『第八十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1942年、31頁。
  3. ^ a b c d e f 『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』支那55頁。
  4. ^ a b c d e 『翼賛議員銘鑑』186頁。
  5. ^ a b c 『人事興信録 第14版 上』サ83頁。
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、515頁。公職追放の該当事項は「推薦議員」。
  7. ^ 『人事興信録 第14版 上』サ80、83頁。

参考文献

  • 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
  • 『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』帝国秘密探偵社、1943年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。