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2022年3月1日 (火) 19:40時点における版
李 玉琴 Li Yuqin | |
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福貴人 | |
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出生 |
1928年7月15日 中華民国 吉林省長春 |
死去 |
2001年4月24日(72歳没) 中華人民共和国 吉林省長春 |
配偶者 | 愛新覚羅溥儀(1943年 - 1957年) |
黄毓庚(1958年 - 2001年) | |
子女 | 黄毓庚との間に2人 |
李 玉琴 (り ぎょくきん、1928年7月15日 - 2001年4月24日)は清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀の4番目の妻(3番目の側室)。彼女は自分自身を、世間から隔絶された宮殿に閉じ込められてきた中国の3千年に及ぶ帝国制の最後の犠牲者と呼んだ。
生涯
先祖が山東省出身の漢民族。父方の祖父母は咸豊帝の娘の乳母であった。
1943年、新京南嶺女子優級学校1年の時、満洲国皇帝溥儀の「福貴人」に封ぜられる。15歳であった。
1945年、日本の敗戦後、溥儀に従い吉林省通化市まで逃亡。李玉琴と皇后婉容はアヘンを持っていた。
東北抗日聯軍に逮捕され、調査後、聯軍の要請により、溥儀との離婚声明を書いた上で、李玉琴の家族が玉琴を連れて長春に帰った。
しかし、重度のアヘン中毒だった婉容は中毒を取り除くすべも無く、引き取る者も無く、聯軍に捕まったままアヘン中毒で死亡した。
1956年6月、長春市図書館で仕事を始め、マルクスやレーニンの研究に勤しんだ。
1957年5月、正式に溥儀と離婚が成立。
1958年、吉林省のラジオ局エンジニア黄毓庚と結婚。後に男児二人を産む。
文化大革命の間、溥儀の貴人だったため迫害を受ける。そのため、病床の溥儀は李玉琴のために「李とその家族にはいかなる特権も与えなかった」と証明書を書いた。
2001年4月24日、肝硬変を6年患った後、長春で死去、72歳であった。
2005年8月10日午前9時、長春息園名人苑にて李玉琴の記念墓彫刻開幕式が行われた。
溥儀との関係
- 溥儀は自伝「わが半生(邦題)」の中で、李玉琴についてはごく僅かな記述しかなく、いくつかの歴史家は意図的に回避したものであると考えられている。
- 一度、関係を結んだが二度と性行為をすることはなかったという。
- 愛新覚羅溥儀の実弟、愛新覚羅溥傑の著作「溥儀離開紫禁城以後」の中で、『彼が最初に私を見たとき、彼は私により良い「心が満たされる毎日が送られる」と言った。私が日本人によって送られたスパイだと思われるまでは…。』と李玉琴の言葉が記述されている。
- 1957年5月に撫順を訪問した時に、溥儀と正式に離婚した。一度離婚しないように説得した刑務所の指導者は、離婚は溥儀の変容に影響を与えたと考えている。後に李玉琴の息子は思い出した、「私の母親には自分の幸せを見つける権利があります。」と。