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2022年3月1日 (火) 18:13時点における版

富双英
『最新支那要人伝』(1941年)
プロフィール
出生: 1893年光緒15年)[1]
死去: 1951年5月
中華人民共和国の旗 中国北京市
出身地: 清の旗 盛京将軍管轄区奉天府遼陽州
職業: 軍人
各種表記
繁体字 富雙英
簡体字 富双英
拼音 Fù Shuāngyīng
ラテン字 Fu Shuang-ying
和名表記: ふ そうえい
発音転記: フー シュアンイン
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富 双英(ふ そうえい)は中華民国の軍人。満州族。はじめは北京政府奉天派に属し、後に南京国民政府に参加した。号は躍天[2]

事績

張作霖配下として、東北陸軍第5師第12旅第64団団長、第21師師長、予備軍軍長を歴任した。1927年民国16年)6月、陸軍中将銜を授与されている。1928年(民国17年)12月の易幟を経て、富双英は東北辺防軍司令長官公署軍事参議官に就任した。後に、井陘鉱務局局長兼瀋陽関監督に任ぜられている[3][4][5]

汪兆銘南京国民政府を樹立すると、富双英もこれに参加した。1940年(民国29年)3月、軍事委員会委員に任ぜられる。1942年(民国31年)10月、陸軍編練総監公署中将参謀長となった。翌年3月、蘇北行営中将参謀長に転じる。同年9月、軍事参議院副院長に任命された。1945年(民国34年)2月、参軍処参軍長となっている[3][4]

中華人民共和国成立後の1951年5月、北京市人民政府から反革命罪などで死刑判決を言い渡され、直ちに執行された。享年59[6][7]

  1. ^ 人民日報』1951年5月23日、第6版が「五十九歳」(数え年と考えられる)と記載していることによる。東亜問題研究会編(1941)、185頁及び王ほか主編(1996)、1663頁は「1889年」生まれとしている。
  2. ^ 徐主編(2007)、2094頁及び劉主編(1995)、1406頁による。王ほか主編(1996)、1663頁は、耀天とする。
  3. ^ a b 王ほか主編(1996)、1663頁。
  4. ^ a b 徐主編(2007)、2094頁。
  5. ^ 東亜問題研究会編(1941)、185頁
  6. ^ 『人民日報』1951年5月23日、第6版。
  7. ^ 王ほか主編(1996)、1663頁は、1952年に死刑執行としているが、誤りと思われる。

参考文献

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 王鴻賓ほか主編『東北人物大辞典 第2巻』遼寧古籍出版社、1995年。ISBN 7805074135 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
唐蟒
参軍長
1945年2月 - 4月
次代
盧英