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「セントジョン・ブロドリック (初代ミドルトン伯爵)」の版間の差分

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2022年2月14日 (月) 00:34時点における版

初代ミドルトン伯爵
セントジョン・ブロドリック
St John Brodrick
1st Earl of Midleton
生年月日 1856年12月14日
没年月日 (1942-02-13) 1942年2月13日(85歳没)
出身校 オックスフォード大学ベリオール・カレッジ
所属政党 保守党(-1891)→アイルランド統一主義者同盟英語版(1891-1919)→統一主義者反分離連盟英語版(1919-1922)
称号 初代ミドルトン伯爵、第9代ミドルトン子爵、初代ダウンズフォード子爵、ミドルトンの第9代ブロドリック男爵、ペパー・ハローの第6代ブロドリック男爵、聖パトリック勲章ナイト(KP)

内閣 第三次ソールズベリー侯爵内閣
バルフォア内閣
在任期間 1900年11月12日 - 1903年10月12日

内閣 バルフォア内閣
在任期間 1903年10月9日 - 1905年12月4日

イギリスの旗 庶民院議員
選挙区 西サリー選挙区英語版
ギルドフォード選挙区英語版[1]
在任期間 1880年3月31日 - 1885年11月24日
1885年11月24日 - 1906年1月12日

イギリスの旗 貴族院議員
在任期間 1907年4月18日 - 1942年2月13日[1]
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初代ミドルトン伯爵ウィリアム・セントジョン・フレマントル・ブロドリック英語: William St John Fremantle Brodrick, 1st Earl of Midleton, KP, PC, DL1856年12月14日 - 1942年2月13日)は、イギリスの政治家、貴族。

19世紀末から20世紀初期にかけての保守党政権下で閣僚職を歴任した。

1907年アイルランド貴族第9代ミドルトン子爵位を継承し、1920年には連合王国貴族ミドルトン伯爵位を与えられた。

経歴

1901年7月18日の『バニティ・フェア』に描かれた似顔絵

1856年12月14日アイルランド貴族の第8代ミドルトン子爵ウィリアム・ブロドリック英語版とその妻オーガスタ (初代コッテスロー男爵英語版トマス・フレマントル英語版の娘)の間の長男として生まれる[2][3]

イートン校を経てオックスフォード大学ベリオール・カレッジへ進学[2]

1880年から1885年まで西サリー選挙区英語版から選出されて庶民院議員を務めた。ついで1895年から1906年まではギルドフォード選挙区英語版から選出された[1]

1886年から1892年にかけての第3代ソールズベリー侯爵ロバート・ガスコイン=セシル第2次内閣陸軍省財務長官英語版を務めた。ついで第3次ソールズベリー侯爵内閣英語版では1895年から1898年にかけて陸軍省政務次官英語版、1898年から1900年にかけて外務省政務次官英語版を務めた[2][3]

1900年11月に陸軍大臣に就任し、アーサー・バルフォア内閣期の1903年10月まで務めた[2][3]。1903年10月からインド大臣に転任し、バルフォア内閣が下野する1905年12月まで務めた[2][3]

1907年4月に父が死去し、ミドルトン子爵位以下父の保有爵位3つを継承。うち1つがグレートブリテン貴族爵位であるため、襲爵と同時に貴族院議員に列した[1]

1920年2月には連合王国貴族爵位ミドルトン伯爵位を新規に叙された[2][3]。1930年から1942年にかけてはキングストン=オン=テムズの大侍従(High Steward of Kingston-on-Thames)を務めた[2]

1942年2月13日に死去した[2][3]

栄典

爵位

1907年4月18日に父ウィリアム・ブロドリク英語版の死去により以下の爵位を継承した[2][4]

1920年2月2日に以下の爵位を新規に叙された[2][3]

  • 初代ミドルトン伯爵 (1st Earl of Midleton)
    (勅許状による連合王国貴族爵位)
  • サリー州におけるダウンズフォードの初代ダウンズフォード子爵 (1st Viscount Dunsford, of Dunsford in the County of Surrey)
    (勅許状による連合王国貴族爵位)

勲章

家族

1880年に第10代ウィームズ伯爵フランシス・チャータリス英語版の娘ヒルダと最初の結婚をし、彼女との間に以下の1男4女を儲けた[2][3]

1903年にジョン・スタンリー大佐の娘マデリーンと結婚。彼女との間に以下の2子を儲けた[2][3]

  • 第6子(次男)フランシス・アラン・ブロドリック (1910-1943) ステュワート=マッケンジーに改姓。第二次世界大戦で戦死
  • 第7子(三男)マイケル・ヴィクター・ブロドリック (1920-1943) 第二次世界大戦で戦死

脚注

出典

  1. ^ a b c d UK Parliament. “Mr William Brodrick” (英語). HANSARD 1803-2005. 2016年8月13日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m Lundy, Darryl. “William St. John Freemantle Brodrick, 1st Earl of Midleton” (英語). thepeerage.com. 2016年8月13日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h i j Heraldic Media Limited. “Midleton, Earl of (UK, 1920 - 1979)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年8月13日閲覧。
  4. ^ Heraldic Media Limited. “Midleton, Viscount (I, 1717)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2016年8月13日閲覧。

外部リンク

グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国議会
先代
リー・スティア英語版
ジョージ・キュービット英語版
西サリー選挙区英語版選出庶民院議員
1880年英語版1885年英語版
ジョージ・キュービット英語版
選挙区廃止
先代
デンゼル・ロバーツ・オンズロー英語版
ギルドフォード選挙区英語版選出庶民院議員
1885年英語版1906年
次代
ウィリアム・ヘンリー・コーワン英語版
公職
先代
第2代モンクスウェル男爵英語版
陸軍省政務次官英語版
1895年–1898年
次代
ジョージ・ウィンダム
先代
ジョージ・カーゾン
外務省政務次官英語版
1898年–1900年
次代
クランボーン子爵
先代
第5代ランズダウン侯爵
陸軍大臣
1900年–1903年
次代
ヒュー・アーノルド=フォスター英語版
先代
ジョージ・ハミルトン卿
インド大臣
1903年–1905年
次代
ジョン・モーレイ英語版
アイルランドの爵位
先代
ウィリアム・ブロドリック英語版
第9代ミドルトン子爵
1907年–1942年
次代
ジョージ・ブロドリック英語版
イギリスの爵位
爵位創設 初代ミドルトン伯爵
1920年–1942年
次代
ジョージ・ブロドリック英語版