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2022年1月29日 (土) 00:03時点における版
日本ロッキード・モノレール株式会社(にほんロッキードモノレール)はかつて存在した日本の企業。
アメリカ・ロッキード社が考案したロッキード式モノレールを実用化した。 ロッキード式モノレールは、1966年に開業した小田急向ヶ丘遊園モノレール線と姫路市交通局モノレール線に採用されている。
事業期間は1961年 - 1970年の10年間であったが、ロッキード式モノレールに使用された技術の一部は1967年 - 1968年に開発された日本跨座式モノレールに受け継がれている。
また日本ロッキード・モノレールを通じてモノレール業界に参入した川崎重工業(川崎車両)は、現在もモノレール車両メーカーの大手である。
企業情報
設立
解散
1970年。
本社所在地
- 東京都千代田区大手町1丁目4(大手町ビル、丸紅飯田本社内)(1961年)[1][2]
- 東京都港区赤坂田町7丁目1番地(信和ビル)→赤坂2丁目-10-8(信和ビル)に町名変更(1963年 - 1967年頃)[3][4][5][6][7]
- 東京都港区芝公園25号地(協立ビル)(1968年)[8][9]。当時の川崎航空機工業東京本社と同じ所在地。
- 東京都港区新橋1-1-1(1969年)[10]
資本金
主要株主
- 丸紅飯田 13.89%:ロッキード社の輸入代理店。
- 川崎航空機工業 13.89%:ロッキード製航空機T-33やP2Vのライセンス生産の実績あり。1969年に川崎重工業に合併。
- 川崎車両 13.89%:川崎航空機工業と同じ川崎重工業系列の企業。鉄道車両の専門メーカー。1969年に川崎重工業に合併。
- 原功一(北海道炭礦汽船) 13.89%:子会社の北海道不動産が、栃木県日光市の霧降高原に観光用モノレールを含むリゾート開発を計画しており[11][12]、ロッキード式モノレールを採用する予定だった[13]。
- 日本電気 13.89%
- 西松建設 11.11%
- 佐藤工業 11.11%
- ロッキード 8.33%:ロッキード式モノレールの基本構造の知的所有権を所持。
代表者
- 会長:萩原吉太郎(北海道炭礦汽船、北海道不動産)(1961年 - 1970年)[2][10]
- 社長:森長英(丸紅飯田)(1961年 - 1963年)[2][3]→空席(1964年 - 1970年)[4][6][10]
- 代表取締役:四本潔(川崎航空機工業→川崎重工業)(1964年 - 1970年)[4][10]:1961年 - 1963年までは専務[2][3]。
その他経営陣
- 原功一(北海道炭礦汽船)(1961年 - 1970年)[2][10]
- 前沢利成(川崎車両→川崎重工業)(1961年 - 1970年)[2][10]
- 西松三好(西松建設)(1961年 - 1970年)[2][10]
- 福田太郎(ジャパンPR)(1961年 - 1970年)[2][10]
- 佐藤欣治(佐藤工業)(1961年 - 1970年)[2][10]
- 小林正次(日本電気)(1961年 - 1963年)[2][3]
- 中嶋章(日本電気)(1964年 - 1967年)[4][6][7]
- 牧野又三郎(日本電気)(1968年 - 1970年)[9][10]
- 豊田恭三(丸紅飯田)(1964年 - 1968年)[4][9]
- 大久保利春(丸紅飯田)(1969年 - 1970年)[10]
- 松本豊彦(元国鉄、元運輸省)(1962年頃 - 1970年)[3][10]
- ジョン・ケネス・ハル(John Kenneth Hull)(ロッキード)(1961年 - 1967年)[2][6][7]
- ジョン・ウィリアム・クラッター(John William Clutter)(ロッキード)(1968年 - 1970年)[9][10]
- フランク・ペン・ホルター(1961年)[2]
- 大西喜一(1961年)[2]
- ノーマン・アダムス・ケラー(1961年)[2]
- 堀田基(1963年 - 1967年)[3][6]
- 佐藤貞之(1963年)[3]
- 小栗正一(1964年 - 1970年)[4][10]
従業員数
ロッキード式モノレール
軌道と車輪
軌道に跨って走行する、いわゆる跨座式モノレールの一種である。 跨座式モノレールはゴムタイヤを使用する方式が多いが、ロッキード式は鉄製車輪を使用する。
軌道は軌道桁に鋼鉄製のレールを配置している。 軌道桁は縦1500mm、横900mmの矩形で[14]、主にプレストレスト・コンクリート製や鉄筋コンクリート製、鋼鉄製である。 軌道桁の上面中央に主レールを配置し、軌道桁の両側面下方にサイドレールを横倒しに配置する。 レールは鉄道用の既成規格品を用いる。主レールの規格は50Tレールで、サイドレールの規格は22kgレールである。
車輪は駆動輪と左右の上部安定輪、および左右の下部安定輪がある。 すべての車輪は、レールに接する面は鋼鉄製で、内部にゴムを挟み込んだ弾性車輪である。 また、鉄道用の車輪と異なり、テーパーのない車輪である。 下部安定輪の下側にのみ、車体が持ち上がって脱線することを防止するためのフランジが設けられている。 駆動輪は主レールの上面を走行し、車体から軌道に駆動力を伝える。 上部安定輪は主レールの頭部両側面を所定の圧力で挟み込む。 下部安定輪はサイドレールの上面を所定の圧力で挟み込む。
分岐器
軌道の分岐器は、扇形の転轍台に直線と曲線が一組となった軌道を取付けたものである。 扇形の要部を中心として転轍台を旋回させることで、転轍(軌道を入れ替える)作業が行われる[14]。
ゴムタイヤを軌道桁に接触させる方式の跨座式モノレールでは、軌道桁を直線から曲線へと変形させる分岐器が一般的である。 しかしロッキード式モノレールは、変形させることが難しい鋼鉄製のレールを使用しているため、このような軌道を入れ替える構造の分岐器が必要なのである。
集電方式
軌道桁の片側面中央部に、給電用のレールを上向きに配置する。 給電レールは直流600Vの電気を流すため、碍子等で絶縁支持される。 鉄道用の既成規格品を用い、規格は30kgレールである。
なお「第三軌条方式」とは、通常の2本レールの鉄道において、給電用に3本目のレールを設置していることからついた名称である。 ロッキード式モノレールでは主レールが1本、サイドレールが2本の、計3本のレールがすでにあるので、給電レールが3本目とは言い難いのであるが、通常の鉄道に合わせて「第三軌条方式」と呼んでいる。
車両側の集電装置は、集電靴を用い、台車に絶縁支持される。
ロッキード式モノレールは160km/hまで高速運転が可能とされている。 一方で、日本では、第三軌条方式は高速運転に適さないとされ、国内での営業運転は95km/hまでしか行われていない。 しかし欧米では第三軌条方式で160km/h運転を行なっている事例があり、日本ロッキード・モノレールは第三軌条方式が高速運転の妨げになるとは見なしていなかった。
車体構造
車体はロッキード社と川崎航空機工業の航空機設計・生産技術を活用したアルミニウム合金主体の軽量構造である。 外壁は板材にハニカム構造をサンドイッチして製作している。 そして内枠を用いず、外壁を構造体として使用するセミモノコック構造である。
台車と車体の構成
台車は川崎車両が開発した2軸ボギー台車である。 ボギー台車は、駆動輪、上部安定輪、下部安定輪のほか、集電装置、電動機、ギヤボックス、ブレーキ等を搭載している。 台車は完全にフラットな床下に収納され、1車両に前後2台配置される[14]。
ボギー台車を1車両に前後2台配置する、このような車体の構成は、通常の鉄道車両ではよく見られるもので、跨座式モノレールにおいても現在では一般的なものである。 しかし、1960年代前半当時、アルヴェーグ式モノレールは一軸台車を使用、東芝式モノレールは一軸台車と連接ボギー台車の組み合わせ使用していた。 ボギー台車のみを用いたロッキード式の車体構成は、跨座式モノレールとしては先駆的なものであった。
試験軌道
日本ロッキード・モノレールは専用の工場敷地を保有していなかったが、岐阜県蘇原町(現在の各務原市)の川崎航空機工業岐阜工場内に、ロッキード式モノレールの試験軌道を設置していた[14][15]。
試験軌道は長さ約0.86km[16]で、検修場兼車庫、検修線、分岐器、引き上げ線、本線から構成され、本線はさらに最大勾配60パーミル勾配区間、最大14.5度のカントを持つ最小半径34mの曲線区間、580mの直線区間から構成されていた[17]。 直線区間は、名鉄各務原線の三柿野駅 - 二十軒駅間の南側を東西にほぼ並行して走っていた。
製造車両
標準I形
1961年5月の日本ロッキード・モノレール設立時、すでに北海道不動産が日光霧降高原の観光モノレール計画にロッキード式を採用することを決めていた[13]ので、日本ロッキード・モノレールは、まず観光用モノレール車両の開発を急いだ。 しかし、1962年5月、北海道不動産は観光モノレールの免許申請を取り下げてしまった[11][18]。 このため、日本ロッキード・モノレールは、改めて「高速度都市交通機関」を目標としてモノレール車両を開発することになった[14]。 この車両は当時のロッキード社の開発番号体系に則り「CL-462-2形」と呼ばれた[17]。
川崎航空機工業岐阜工場で先頭車2両、1編成が製造され、1962年9月に完成、10月より工場内の試験軌道で各種の試験を行った[19]。 試験は運輸省運輸技術研究所鉄道施設部の支援を受けて行われた。 試験結果について、技術部長の松本豊彦は「直線路が580mしかないため83km/hの速度しか出しえなかったが、将来線路が延長されれば更に高速域の性能試験を行いたい」と語っている[17]。 同年11月までに一通りの試験を終えたが、営業運転を行なう納入先がない状態だったため、同年12月に試験軌道で完工式を行った[20]。
その後は試験軌道での試乗会に使用されていた。1963年11 - 12月頃には、鷹司平通・鷹司和子夫妻が招待されて試乗している[21]。 基本、2両を連結しての運転が行われたが、1両での運転も可能であり、運転台のない後部にも前照灯が取り付けられていた。 1964年頃、後述の「標準II形」の設計が具体化すると、「CL-462-2形」は「標準I形」と呼ばれるようになった。
1964年に小田急電鉄が標準I形を買い取る条件でロッキード式モノレールを採用することに合意し、1965年に小田急電鉄に譲渡された。 この時には「観光路線を対象」とした試験機である[22]とされた。 1966年に改装されて小田急500形電車となり、小田急向ヶ丘遊園モノレール線で2000年の路線休止まで運用された。
標準II形
1963年7月6日、姫路市は市営モノレールにロッキード式を採用することを決定した[23]。 日本ロッキード・モノレールは、姫路市向けに標準I形とは別に、より大型で都市交通に適した車両を設計した。 これが「標準II形」である。
1964年7月頃までに先頭車と両頭車の設計が完了し、川崎航空機工業岐阜工場で製造され、1966年に先頭車、両頭車が2両ずつ姫路市交通局に納入された。 姫路市交通局では先頭車を100形、両頭車を200形と呼んでおり、1974年の路線休止まで運用された。
姫路市のモノレール延伸計画のために中間車も設計されたが、延伸計画断念により、製造されることはなかった。
200形2両が姫路市の手柄山交流ステーションに静態保存・展示されている。
その他の路線計画
小田急向ヶ丘遊園モノレール線と姫路市交通局モノレール線以外にも、ロッキード式モノレールを採用した路線計画が幾つか存在した。
北海道不動産の路線計画
北海道不動産は、1958年に北海道炭礦汽船社長の萩原吉太郎が設立したリゾート開発会社である。 栃木県日光市の霧降高原にリゾート開発計画を立て、その一環として1960年4月に日光霧降(東武日光駅付近) - 霧降滝間、約4kmのモノレール路線の免許申請を行った[11][12]。 また第二期として霧降滝 - 東照宮間も計画していた。 当初は日立製作所とともに運輸省に説明を行っており、アルヴェーグ式モノレールの導入を検討していたようである[11]。
しかし北海道不動産はその後、モノレールの方式をアルヴェーグ式からロッキード式に変更する。萩原は「日光の霧降高原の観光開発で、モノレールを建設しようということになったさい、丸紅を通じてロッキードのモノレールを知った」と語っている[24]。
1961年2月22日、丸紅飯田は、萩原吉太郎を会長としてロッキード式モノレールの日本法人を設立すると発表した。 その声明のなかでは「国内需要としてはさしあたり北炭系列下の北海道不動産が計画している栃木県日光 - 霧降滝間4kmのモノレール建設を予定する」とされている。 同日、萩原は報道陣に対し「モノレール建設は許可があり次第、着手する。これとともにスキー、スケート場、ホテル、ロッジ、ケーブルカー、ロープウェーを建設する。資金は第一期15億円、第二期34億円で、北拓、三井信託、足利銀行を幹事銀行とするシンジケート団から融資を受ける」と述べた[25]。
同年3月、北海道不動産のモノレール路線計画は運輸審議会に諮問された[26]。
同年5月、萩原吉太郎は日本ロッキード・モノレールの設立に参加し、正式に会長に就任した。
しかしその後、霧降高原のリゾート計画は大幅な見直しが行われ、1962年5月、北海道不動産はモノレール路線の申請を取り下げた[11][18]。 同年10月、霧降の滝を見下ろす立地に北海道不動産によって回転展望レストラン「日光霧降スカイリング」が開業しているが、1960年の計画では、レストランの位置に観光ホテルとスケート場、モノレールの駅を建設することになっていた。
成田観光開発の路線計画
成田観光開発が、1963年頃から、千葉県成田市の新成田 - 新勝寺間、約2.4kmの跨座式鉄道をロッキード式モノレールで建設する計画を立て、免許申請を行った。 成田山モノレール観光(発起人代表小屋重信)というよく似た名称の企業も、成田 - 成田山門前間、約1.0kmの跨座式鉄道をアルヴェーグ式モノレールで免許申請しており、競願となった。 1965年1月26日、成田観光開発が免許を取得した[27][28]。 同時に成田山モノレール観光の申請は却下されている[29]。
しかし折角免許を得たものの、成田観光開発はなかなか着工することができなかった。 1967年1月に工事施行認可申請期限の伸長が行われた[30]。 1968年2月にも工事施行認可申請期限の伸長が行われている[31]。 その期限も切れた1969年2月、成田観光開発は解散した。 代表清算人は、日本ロッキード・モノレール取締役の松本豊彦が務めている。 解散時の所在地も「東京都港区芝公園25号地」で、当時の日本ロッキード・モノレール及び川崎航空機工業東京本社の所在地と同じであった。
跨座式モノレールの規格統一とロッキード社の撤退
1967年、運輸省は日本モノレール協会に「都市交通に適したモノレールの開発研究」を委託した。 この委託研究の中で運輸省は、アルヴェーグ式(日立製作所が導入)、東芝式、ロッキード式の3方式が乱立していた跨座式モノレールの方式を整理するように求めていた。
同年7月、日本モノレール協会が主催する「都市交通用モノレール研究特別委員会」が発足し、日本ロッキード・モノレールも、日立、東芝と共にこれに参加した[32]。 跨座式モノレールの規格統一に関しては協議が難航した。 ゴムタイヤを使用するアルヴェーグ式・東芝式と、鉄輪を使用するロッキード式は、技術的に両立不可能だったからである。 日本ロッキード・モノレールは1964年以降社長が空席で、川崎航空機工業出身の四本潔が代表取締役を務めていたが、四本はゴムタイヤ方式を容認することを都市交通用モノレール研究特別委員会に伝えた。
当時日立製作所のモノレール技術部長だった網本克己は、鉄道技術者の間ではロッキード式の評価が高かったとした上で、日本ロッキード・モノレールが鉄輪方式にこだわらずにゴムタイヤ方式に参加したことは英断だった、と述べている[32][33]。
日本跨座式モノレール
川崎航空機工業は日立、東芝と共同で、都市交通用モノレール研究特別委員会の車両部会で、保有技術を持ち寄って跨座式モノレールの統一規格案を作成した。 いわゆる日本跨座式モノレールである。
日本跨座式は、アルヴェーグ式と同様、軌道桁にゴムタイヤを接触させる方式のため、アルヴェーグ式をベースにしているとされる。 実際、試験機はアルヴェーグ陣営の日立製作所が主導で製作し、試験も日立製作所笠戸事業所内のアルヴェーグ式用の試験軌道で行われている。
一方で日本跨座式は、2軸ボギー台車を1車両に前後2台、フラットな床下に配置する車体構成を採用している。 このため、車体構成や全長は、一軸台車を使用した従来のアルヴェーグ式とは大きく異なったものになっている。 車体構成だけで見れば、日本跨座式は、むしろロッキード式に近いものであった。
1968年3月、日本跨座式モノレールの規格案は日本モノレール協会によって「都市交通に適したモノレールの開発研究報告書」にまとめられて運輸省に提出された[34]。 同年、運輸省は日本跨座式を跨座式モノレールの統一規格として認可した。 以後、日本国内で新規に建設・開業された跨座式モノレールは、すべて日本跨座式である。
ロッキード社の撤退
日本跨座式が跨座式モノレールの統一規格として認可されたことで、ロッキード式では新規に建設・開業することができなくなった。 姫路市交通局モノレール線には延伸構想があったが、経営不振から立ち消えとなった。 また、アルヴェーグ式は日本跨座式の技術を応用することができた(アルヴェーグ式の東京モノレールは1969年以降、日本跨座式のボギー台車を採用)が、ロッキード式には日本跨座式の技術を応用するメリットがなかった。 ロッキード式の事業展開が極めて限られた状況となり、米ロッキード社はモノレール事業からの撤退を決定した。
ロッキード社が撤退を決定したことで、日本ロッキード・モノレールは、社長空席のまま1970年に解散した。 一方、川崎航空機工業と川崎車両は、ともに1969年に川崎重工業に合併した。 川崎重工業は日立製作所とともに、日本跨座式の車両を製造していくことになる。
脚注
- ^ a b 「日本ロッキード・モノレール(株)の設立について(供覧)」運輸省鉄道局、1961年7月8日
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「産経会社年鑑 第3版」産業経済新聞社年鑑局、1962年、628頁
- ^ a b c d e f g h i 「産経会社年鑑 第5版」産業経済新聞社年鑑局、1964年、692頁
- ^ a b c d e f g h i 「帝国銀行会社要録 第46版」帝国興信所、1965年、698頁(東京)
- ^ 「あす開通式 姫路市のモノレール」神戸新聞1966年5月16日、10頁
- ^ a b c d e f 「国勢総覧 第37版」国勢協会、1968年、421頁
- ^ a b c d 「帝国銀行会社要録 第49版」帝国興信所、1968年、816頁(東京)
- ^ 「国勢総覧 第38版」国勢協会、1969年、424頁
- ^ a b c d e 「帝国銀行会社要録 第50版」帝国興信所、1969年、871頁(東京)
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「帝国銀行会社要録 第51版」帝国興信所、1970年、885頁(東京)
- ^ a b c d e 草町義和「公文書でたどる鉄道裏史(3):未成モノレールの『薄い本』」『鉄道ジャーナル』2020年5月号、鉄道ジャーナル社、106 - 109頁
- ^ a b 「北海道不動産(株)日光霧降、霧降滝間地方鉄道(架空)免許申請について」運輸省鉄道局、1960年6月20日
- ^ a b 「モノレールについて」(原題「モノレールに関する最近の動向」)科学技術庁長官官房総務課、1961年3月9日(国立公文書館デジタルアーカイブスで画像閲覧可)
- ^ a b c d e 松本豊彦「ロッキード式モノレールの構造概要」『JREA』1964年8月号、日本鉄道技術協会、21 - 24頁
- ^ 「川崎重工岐阜工場50年の歩み」川崎重工業(株)航空機事業本部、1987年11月、96頁
- ^ 「リオデジャネイロ市モノレール建設 調査報告書」海外技術協力事業団、1969年9月、11 - 12頁
- ^ a b c 松本豊彦「日本ロッキードモノレール」『車両技術』1964年7月号、日本鉄道車輌工業会、28 - 35頁
- ^ a b 「北海道不動産(株)日光霧降、霧降滝間地方鉄道(跨座式)免許申請書取下げ願について」運輸省鉄道局、1962年6月18日
- ^ 松本豊彥「航空機の生産技術を生かす/日本ロッキードモノレール」『Pioneer』1964年4月号、国民工業振興会、93 - 96頁
- ^ 「日本ロッキードモノレール社の1号車 12月6日に完工式 活躍する明電舎の電装品」『明電ニュース』1963年1月号、明電舎、1頁
- ^ 「鷹司氏ご夫妻 モノレールに試乗 各務原市を訪れる」中日新聞1963年11月6日(朝刊)、9頁
- ^ 佐藤信之「モノレールと新交通システム」グランプリ出版、2004年、38 - 39頁
- ^ 「モノレール計画の概要について」『公報ひめじ』339号、姫路市、1964年2月15日、1 - 2頁
- ^ 「疑惑を受けたが無関係 今後、活動やめる 萩原氏ロッキード事件を語る」読売新聞、1976年5月14日朝刊、22頁
- ^ 「ロッキード・モノレール会社設立 丸紅・北炭など参加」読売新聞、1961年2月22日朝刊、4頁
- ^ 「モノレールで現在申請を受けているのは、新橋——羽田間、これは日本高架電鉄株式会社からの申請でございます。それから広島——比治山公園一周、広島モノレール観光株式会社からの申請、それから北海道不動産株式会社から申請しておりまする日光の霧降高原のモノレール、それから名古屋鉄道株式会社が申請しておりまする犬山公園のものと、それから大阪南地興業が申請しておりまする大阪市大黒橋から日本橋の間にモノレールを敷こうということでございます。呉市の申請はまだ当局としては受け付けておらないのでございます。ただいま申し上げましたうちで、犬山公園と、それから北海道不動産が出しておりまする日光の霧降高原、この二つのものにつきましては、今適当であるかどうかということを運輸審議会に運輸大臣から諮問中でございます。」運輸大臣木暮武太夫の発言、第38回国会 参議院決算委員会第10号、1961年3月13日
- ^ 「成田観光開発(株)申請の新成田、新勝寺間地方鉄道業免許について」運輸省鉄道局、1965年1月28日
- ^ 「昭和40年1月26日、成田観光開発に、成田市内2.4kmのモノレール免許。」『運輸と経済』1965年4月号、交通経済研究所、87頁
- ^ 「成田山モノレール観光(株)発起人代表小屋重信申請の成田、成田山門前間地方鉄道業却下について」運輸省鉄道局、1965年1月28日
- ^ 「成田観光開発(株)新成田、新勝寺間地方鉄道(跨座式)工事施行認可申請期限伸長」運輸省鉄道局、1967年1月11日
- ^ 「成田観光開発(株)新成田、新勝寺間地方鉄道(跨座式)工事施行認可申請期限伸長」運輸省鉄道局、1968年2月29日
- ^ a b 網本克己「モノレールと取り組んで15年」『モノレール』31号、日本モノレール協会、1977年3月、52 - 64頁
- ^ 網本克己「思い出『モノレール法』ができるまで」『モノレール』82号、日本モノレール協会、1994年8月、11 - 23頁
- ^ 庄山佳彦「跨座型モノレールの技術開発と改良」『モノレール』30号、日本モノレール協会、1976年12月、29 - 44頁