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ヴィス島には[[新石器時代]]から人が定住していた。紀元前4世紀、[[シラクサ]]の[[僭主]]老ディオニシウスが島に植民地イッサ(Issa)を建設した。のち、イッサは独立した都市国家となり、独自の通貨と他所への植民地を持つまでになった。紀元前1世紀、島は[[イリュリア人]]の一つリブルニア人([[:en:Liburnians]])に占有された。 |
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[[東ローマ帝国]]時代には[[ダルマチア]]の一部となり、925年にクロアチアの君主[[トミスラヴ (クロアチア王)|トミスラヴ]]が、当時イエス(Ies)と呼ばれた島の支配権を引き継いだ。[[クレシミル1世 (クロアチア王)|クレシミル1世]](Krešimir I)が死んだ後、継承戦争が勃発し、[[セルビア公]]チャスラヴ・クロニミロヴィッチ([[:en:Časlav Klonimirović|Časlav Klonimirović]])配下のパガニア人(南[[ダルマチア地方]]に定住していた[[スラヴ人]]の一つ)が948年に島を手に入れた。しかし、パガニア人が支配できた期間は短期に終わり、東ローマ人らが支配権を回復した。[[セルビア]]の支配者[[ステファン・ネマニャ]]と弟のストラチミルは、1184年と1185年の2回にわたってヴィス島に攻め込んだ。 |
[[東ローマ帝国]]時代には[[ダルマチア]]の一部となり、925年にクロアチアの君主[[トミスラヴ (クロアチア王)|トミスラヴ]]が、当時イエス(Ies)と呼ばれた島の支配権を引き継いだ。[[クレシミル1世 (クロアチア王)|クレシミル1世]](Krešimir I)が死んだ後、継承戦争が勃発し、[[セルビア公]]チャスラヴ・クロニミロヴィッチ([[:en:Časlav Klonimirović|Časlav Klonimirović]])配下のパガニア人(南[[ダルマチア地方]]に定住していた[[スラヴ人]]の一つ)が948年に島を手に入れた。しかし、パガニア人が支配できた期間は短期に終わり、東ローマ人らが支配権を回復した。[[セルビア]]の支配者[[ステファン・ネマニャ (セルビアの大ジュパン)|ステファン・ネマニャ]]と弟のストラチミルは、1184年と1185年の2回にわたってヴィス島に攻め込んだ。 |
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[[中世]]に入ると支配者がたびたび入れ替わり、ヴェロ・セロ(Velo Selo)という主要な定住地をつくった[[ヴェネツィア共和国]]の支配下に、長く置かれた。ヴェネツィア時代、そして[[オーストリア帝国]]に支配された間、島の名前はリッサ(Lissa)であった。 |
[[中世]]に入ると支配者がたびたび入れ替わり、ヴェロ・セロ(Velo Selo)という主要な定住地をつくった[[ヴェネツィア共和国]]の支配下に、長く置かれた。ヴェネツィア時代、そして[[オーストリア帝国]]に支配された間、島の名前はリッサ(Lissa)であった。 |
2022年1月25日 (火) 21:58時点における版
座標: 北緯43度02分 東経16度09分 / 北緯43.033度 東経16.150度
ヴィス島 (ヴィスとう、クロアチア語:Vis, ギリシャ語:Issa、イタリア語及びドイツ語:Lissa)は、アドリア海に浮かぶクロアチア領の島。スプリト=ダルマチア郡に属する。クロアチア本土から最も遠く離れた島である。面積は90.26平方キロメートル[1]、人口3,617人(2001年調査[2])。島内で最も標高が高いのはフム(Hum)で、587メートルである[1]。
島には2つの町と、小さな自治体がある。中心の町ヴィス(Vis、人口1,960人[3])、コミジャ(Komiža、1,677人[4])は、どちらも海岸部にある。内部の小さな居住地はポドセリェ(Podselje)、マリニェ・ゼムリェ(Marinje zemlje)、ポドシピリェ(Podšpilje)、そしてポドストラジェ(Podstražje)である[5]。
歴史
ヴィス島には新石器時代から人が定住していた。紀元前4世紀、シラクサの僭主老ディオニシウスが島に植民地イッサ(Issa)を建設した。のち、イッサは独立した都市国家となり、独自の通貨と他所への植民地を持つまでになった。紀元前1世紀、島はイリュリア人の一つリブルニア人(en:Liburnians)に占有された。
東ローマ帝国時代にはダルマチアの一部となり、925年にクロアチアの君主トミスラヴが、当時イエス(Ies)と呼ばれた島の支配権を引き継いだ。クレシミル1世(Krešimir I)が死んだ後、継承戦争が勃発し、セルビア公チャスラヴ・クロニミロヴィッチ(Časlav Klonimirović)配下のパガニア人(南ダルマチア地方に定住していたスラヴ人の一つ)が948年に島を手に入れた。しかし、パガニア人が支配できた期間は短期に終わり、東ローマ人らが支配権を回復した。セルビアの支配者ステファン・ネマニャと弟のストラチミルは、1184年と1185年の2回にわたってヴィス島に攻め込んだ。
中世に入ると支配者がたびたび入れ替わり、ヴェロ・セロ(Velo Selo)という主要な定住地をつくったヴェネツィア共和国の支配下に、長く置かれた。ヴェネツィア時代、そしてオーストリア帝国に支配された間、島の名前はリッサ(Lissa)であった。
後になって、海岸部の定住地が人口を増していった(現在の町ヴィス)。行政上ヴィス島は数世紀の間、フヴァル島とひとくくりの自治体となっていた。
ヴィス島北部の海に面した地は、2度の戦闘の舞台となった。
- 1811年3月13日 - ウィリアム・ホスト指揮のイギリス海軍小艦隊が、より大型のフランス=ヴェネツィア連合艦隊を破った(リッサ海戦 (1811年))。
- 1866年7月20日 - テゲトフ提督指揮のオーストリア帝国艦隊が、ペルサノ提督指揮のイタリア艦隊を攻撃し、戦艦レディタリア(Re d'Italia)を撃沈した(リッサ海戦)。
第二次世界大戦中、ヴィス島はユーゴスラビア抵抗運動の指導者ヨシップ・ブロズ・ティトーの潜伏する場所の一つであった(ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議#第2回会合を参照)。戦後、ユーゴスラビア人民軍は島を主要海軍基地の一つにした。クロアチア独立後、海軍施設のほとんどを再利用せず、多くの打ち捨てられた建物は公共の目的で利用されている。
経済
島の主要産業は農業(ブドウ栽培が主)、漁業、水産品加工業、観光である[1]。
島の耕地のおよそ2割はブドウ畑が占める。土地原産のワイン用ブドウ種が島内で栽培される[6]。
ヴィス島周囲の海は魚の種類が豊富で、特に青魚(イワシ、サバ、アンチョビ)が水揚げされる。17世紀のコミツァ漁民は、Falkušaという地元伝来の漁船を発達させ、20世紀半ばまで用いていた[6]。
参照
- ^ a b c First Croatian online peljar
- ^ Statistical yearbook for 2006 of Central bureau of statistics of Republic of Croatia
- ^ Article at site dedicated to Vis and Komiža
- ^ Article at official Komiža site Archived 2008年9月15日, at the Wayback Machine.
- ^ General information on Vis Archived 2008年9月29日, at the Wayback Machine.
- ^ a b Economy of Vis Archived 2007年6月7日, at the Wayback Machine.
外部リンク
- Adriatic Islands Project: Contact, commerce and colonisation 6000 BC - AD 600
- Vis Tourist Association
- Vis - Croatian National Tourist Board
- Komiza - Island Vis Tourist Association
- Vis Island Guide
- Old Salts: Story about Dalmatian fishermen and their falkuse.