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「ウィリアム・カニンガム・グリーン」の版間の差分

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{{政治家
サー・'''ウィリアム・カニンガム・グリーン'''(William Conyngham Greene、[[バス勲章|KCB]], [[聖マイケル・聖ジョージ勲章|GCMG]], [[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]]、[[1854年]][[10月29日]] - [[1934年]][[6月30日]])<ref>[http://thepeerage.com/index.htm Peerage]: [http://thepeerage.com/p3722.htm#i37214 Sir William Conynghham Greene, ID#i37214]</ref>は[[英国]]の[[外交官]]。[[1912年]]から[[1919年]]まで、東京で[[駐日英国大使]]を務めた。ミドルネームをとってカニンガム・グリーンと呼ばれることも多い
| 人名 = ウィリアム・カニンガム・グリーン
| 前職 =
| 国旗2 = GBR
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| 国旗 = GBR
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| 出身校 = [[ハーロー校]],[[オックスフォード大学]]
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| 各国語表記 = William Conyngham Green
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サー・'''ウィリアム・カニンガム・グリーン'''({{Lang-en-short|William Conyngham Greene}},{{Post-nominals|country=GBR|GCMG|GCB|PC}}、[[1854年]][[10月29日]] - [[1934年]][[6月30日]])は[[英国]]の[[外交官]]。[[1912年]]から[[1919年]]まで、東京で[[駐日英国大使]]を務めた。ミドルネームをとってカニンガム・グリーンと呼ばれることもある
==経歴==
[[1854年]][[10月29日]] 生まれ。[[ハロー校]]から[[オックスフォード大学]]に進み、[[1877年]]に文学士、[[1880年]]に文学[[修士]]を取得した。


==生涯==
在学中の1877年に外務省外交部門に入省し、1880年から[[アテネ]]、[[シュトゥットガルト]]、[[ダルムシュタット]]、[[ハーグ]]、[[ブリュッセル]]、[[テヘラン]]に勤務した。[[1896年]]、代理公使として[[プレトリア]]に赴任した。そこでは、英国と[[トランスヴァール共和国]]の間の問題を外交的に解決しようとしたが、これには成功せず、[[ボーア戦争]]が勃発した。
リチャード・グリーンとその妻{{仮リンク|ルイーザ・リリアス・プランケット・グリーン|en|Louisa_Lilias_Plunket_Greene|label=ルイーザ・プランケット}}({{仮リンク|ジョン・プランケット (第3代プランケット男爵)|en|John Plunket, 3rd Baron Plunket|label=第3代プランケット男爵}}の娘)との息子として生まれた{{Sfnp|ロウ|2007|p=195}}。[[ハロー校]]から[[オックスフォード大学]]に進み、[[1877年]]に文学士、[[1880年]]に文学[[修士]]を取得した。在学中の1877年に[[外務・英連邦・開発省|外務省]]に入省した<ref>{{London Gazette|issue=24518|page=5997|date=2 November 1877}}</ref>。1880年から[[アテネ]]、[[シュトゥットガルト]]、[[ダルムシュタット]]、[[ハーグ]]、[[ブリュッセル]]、[[テヘラン]]に勤務した{{Sfnp|ロウ|2007|p=195-196}}。


[[1896年]]に[[プレトリア]]駐在管理官として現地に赴任した{{Sfnp|ロウ|2007|p=196}}<ref>{{London Gazette|issue=26774|page=4987|date=4 September 1896}}</ref>。この時期、南アフリカへの拡張政策を進める本国政府と現地の[[トランスヴァール共和国]]との間には深刻な不和が生じており、一色触発の気配であった。グリーンは開戦阻止に奔走したものの、この行動は好戦的な[[アルフレッド・ミルナー]][[高等弁務官 (コモンウェルス)|英国高等弁務官]]、対英強硬姿勢を崩さない[[ポール・クリューガー]]政権の双方から不興を買った{{Sfnp|ロウ|2007|p=196-198}}。結局グリーンは両者の仲裁に失敗、[[ボーア戦争|第二次ボーア戦争]]が開戦するに至り、彼は直後にプレトリアを離れた。その後は[[スイス]]<ref>{{London Gazette|issue=27314|page=3379|date=17 May 1901}}</ref>、[[ブカレスト]]<ref>{{London Gazette|issue=27874|page=285|date=12 January 1906}}</ref>、[[コペンハーゲン]]<ref>{{London Gazette|city=e|issue=12325|page=103|date=31 January 1911}}</ref>と転勤してヨーロッパ各国を渡り歩いた。
[[1900年]]、駐スイス公使に任命され、その後[[ブカレスト]]、[[コペンハーゲン]]と転勤した後、[[1912年]]([[大正]]元年)[[12月1日]]、駐日英国大使に就任した。


=== 日本への赴任 ===
当時日英間には[[日英同盟]]があったが、中国での権益をめぐって両国間の利害が衝突を始めていた。外務大臣[[エドワード・グレイ]]はその歴史的な背景から[[満州]]における日本の特殊権益はある程度認めるつもりであったが、中国本土における日本の野望は頓挫させなければならないと考えていた。[[1913年]]、中国で[[第二革命]]が勃発し、日本は反[[袁世凱]]グループを支援したが、袁世凱は反乱の鎮圧に成功した。この事件対し、北京で代理公使を務めていたビールビー・オーストンが、この援助に関する日本の動機に嫌疑があるとして、本国に日本批判文を提出した。グリーンはこれに対して反論しているが、実際にはグリーンは、日本は満州経営に専念し揚子江領域の英国権益には手を出すべきではないとの考えであった。
[[1912年]]([[大正]]元年)[[12月1日]]、駐日英国大使に就任した<ref name=":0">{{Who's Who|surname=Green|othernames=Greene, Rt Hon. Sir Conyngham|id=U210382|type=was|volume=2022|edition=2019, December 01|accessed=2021年5月3日}}</ref><ref name=":1">{{Cite web |title=Sir Conyngham Greene |url=https://www.loc.gov/item/2014692463/ |website=Library of Congress, Washington, D.C. 20540 USA |accessdate=2022-03-04}}</ref>。


当時日英間には[[日英同盟]]があったが、中国での権益をめぐって両国間の利害が衝突を始めていた{{#tag:ref|外務大臣[[エドワード・グレイ]]はその歴史的背景から[[満州]]における日本の特殊権益をある程度認めるつもりであったが、中国本土における日本の野望は頓挫させる必要があると考えていた{{Sfnp|ロウ|2007|p=199}}。同時にこの時期の英政府は自治領諸国の軍備増強を考えており、しきりに『日本脅威論』を強調・利用してその海軍力増強を嗾けた<ref name=":2">{{Cite book|和書|title=イギリス海軍の太平洋防衛政策と日本の脅威|year=2018|publisher=[[東京大学|東京大学大学院]]|page=28|last=矢吹|first=啓|url=https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/49461#.YkL0H-fP1PY|series=Clio : a journal of European studies|volume=19|location=[[東京都]][[文京区]]|NCID=AN10177047}}</ref>。これによってある程度軍拡は成功したが、[[第一次世界大戦]]後にイギリスは一層自治領諸国から日英同盟解消の突き上げを食らう結果となったとする説もある<ref name=":2" />。|group="注釈"}}。[[1913年]]に中国で[[第二革命]]が勃発した際、袁世凱がこれを鎮圧したが、一方で日本は反[[袁世凱]]グループへの支援を行った。この反袁支援に際して、駐北京代理公使{{仮リンク|ベイルビー・オールストン|en|Beilby_Alston}}は外務省に激しい日本批判文を提出したが、グリーンはこれに対して「反袁支援において個人レベルでの日本人の関与はあったのかも知れないが、[[日本国政府]]までもが積極的にこれに与したとも思えない」と擁護した{{Sfnp|ロウ|2007|p=200}}。
[[1914年]]8月、[[第一次世界大戦]]が勃発した。英国はその貿易ルートを[[東洋艦隊 (ドイツ)|ドイツ東洋艦隊]]から守るため、[[大日本帝国海軍]]の協力を必要としていた。このため、グリーンは[[8月6日]]日本に戦争支援を要請した。この時、日本の宣戦布告は[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]、[[米国]]の疑念を招くことを心配したグリーンは、日本に対し正式参戦を控え、限定された軍事行動をとることを希望した。しかし、これは日本に英国に対する不信感を抱かせる結果となってしまい、グリーンはその後関係の修復に苦労することとなった。


=== 戦区制限問題と対華21カ条要求 ===
その後の[[対華21ヶ条要求]]はグリーンに日本への失望感を与えるものであった。[[1919年]]4月、グリーンは東京を去ったが、日英同盟を「日本人の感情を害することなく、かなりの礼節を持って葬り去らねばならない」と考えていた。[[1920年]]、グリーンは日英同盟の将来を検討する小委員会の委員となった。[[1921年]]1月、小委員会は「日英同盟は廃棄し、そのかわり日英米参加国による三国協約を結ぶ」との結論を出しが、首相の[[ロイド・ジョージ]]はこの意見を採用せず、日英同盟の維持を求めた。しかし、アメリカ大統領[[ウォレン・ハーディング]]が率先して開催された[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]により、日英同盟の廃棄が決定された。
[[ファイル:Kato_Takaaki_circa_1915.jpg|サムネイル|209x209px|[[加藤高明]]外務大臣。1915年。]]
[[1914年]]8月、[[第一次世界大戦]]が勃発した。英国はその貿易ルートを[[東洋艦隊 (ドイツ)|ドイツ東洋艦隊]]から守るため、[[大日本帝国海軍]]の協力を必要としていた{{Sfnp|田村|1982|p=50}}{{Sfnp|ロウ|2007|p=202}}。このため8月6日、[[エドワード・グレイ|グレイ]]外務大臣は日本に戦争支援を要請し、[[加藤高明]]外務大臣もこれを契機に参戦を指向した{{Sfnp|田中|1982|p=53-54}}{{Sfnp|ロウ|2007|p=203-204}}。この時、日本の宣戦布告によって[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]、[[米国]]の疑念を招くことを心配したグレイは日本に対し正式参戦を控え、限定された軍事行動をとることを求めた{{Sfnp|田村|1982|p=58,61}}{{Sfnp|ロウ|2007|p=203}}。これに対し、加藤はグリーンに「[[第2次大隈内閣|大隈内閣]]は宣戦布告を決定したが、何ら領土的野心を有さない」と伝えている。その後もグレイはたびたび日本軍の作戦行動範囲を限定するべく、グリーンに「[[宣戦布告]]は承認するが、参戦区域は制限させよ」と訓令したり、「日本の行動は[[東シナ海]]以外に拡大しない」といった声明を行った{{Sfnp|田村|1982|p=58-60}}。こうした要求に加藤は反発して一切応じず、グリーンも両者の関係が決裂しないように奔走することとなった{{Sfnp|田村|1982|p=58-60}}{{Sfnp|ロウ|2007|p=203-204}}。

その後の[[対華21ヶ条要求]]では日本の露骨な野心と不誠実さ{{#tag:ref|要求に際して、グリーンは加藤から一応の事前釈明はあったものの、中国への[[内政干渉]]を企図した第5号に関しては意図的に省いて説明を受けた。第5号の存在が露見して、グリーンが抗議すると、加藤は『日本は自国の権益を増進することにかけては、まさに[[中国の歴史#アヘン戦争と中国半植民地化の危機|英国が過去に行った]]ように独自の行動をとるつもりである』と反論するといった不誠実さを見せた。|group="注釈"}}に接し、グリーンは日本への幻滅・失望感を覚えた{{Sfnp|ロウ|2007|p=205-207}}。これ以降グリーンの対日観は悪化の一途をたどり、「戦争という幸運が[[加藤高明|加藤男爵]]の足元にボールを置き、彼はそれを蹴った」と辛辣に批判した{{Sfnp|ロウ|2007|p=207-208}}。この頃のグリーンは日英同盟について「日本人の感情を害することなく、かなりの礼節を持って同盟を葬り去らねばならない」と考えていたという{{Sfnp|ロウ|2007|p=210}}。[[1919年]]4月に大使としての経歴に終止符を打ち、東京を去った<ref name=":0" /><ref name=":1" />。

帰国後の[[1920年]]、グリーンは日英同盟の将来を検討する小委員会の委員となった{{Sfnp|ロウ|2007|p=211}}。[[1921年]]1月、小委員会は「日英同盟は廃棄し、そのかわり日英米参加国による三国協約を結ぶ」との結論を出しが、首相の[[ロイド・ジョージ]]はこの意見を採用せず、日英同盟の維持を求めた{{Sfnp|ロウ|2007|p=211}}。しかし、アメリカ大統領[[ウォレン・ハーディング]]が率先して開催された[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン会議]]により、日英同盟の廃棄が決定された。

1934年に79歳で死去した<ref name=":0" />。

== 栄典 ==

=== 賞罰 ===

* [[ファイル:UK_Order_St-Michael_St-George_ribbon.svg|40x40ピクセル]] - [[聖マイケル・聖ジョージ勲章]](GCMG)<ref>{{London Gazette|issue=28842|supp=y|page=4878|date=22 June 1914}}</ref>
* [[ファイル:Order_of_the_Bath_UK_ribbon.svg|40x40ピクセル]] - [[バス勲章]](KCB)<ref>{{London Gazette|issue=27200|page=3630|date=8 June 1900}}</ref>

=== その他 ===

* [[枢密院 (イギリス)|枢密顧問官]](PC)(1912年<ref>{{London Gazette|issue=28672|page=9561|date=17 December 1912}}</ref>)

== 家族 ==
1884年にリリー・フランセス・ストップフォード(Lily Frances Stopford、1862年 - 1950年、[[コータウン伯爵|第5代コータウン伯爵]]の娘)と結婚し<ref name=":02">{{Cite web |title=Courtown, Earl of (I, 1762) |url=http://www.cracroftspeerage.co.uk/courtown1762.htm |website=www.cracroftspeerage.co.uk |accessdate=2020-09-07 |publisher= |last=Heraldic Media Limited |archivedate=2022年3月4日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20220304104218/http://www.cracroftspeerage.co.uk/courtown1762.htm |work=[http://www.cracroftspeerage.co.uk/introduction.htm Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage] |language=英語}}</ref>、二男一女をもうけた{{Sfnp|ロウ|2007|p=196}}。


==著作==
==著作==
グリーンが書き残したもののうちいくつかは、死後に出版されている<ref>[http://www.oclc.org/research/activities/identities/default.htm WorldCat Identities]: [http://www.worldcat.org/identities/np-greene,%20william%20conyngham$sir$1854%201934 Greene, William Conyngham Sir 1854-1934]</ref>。
グリーンが書き残したもののうち下記の著書が死後に出版されている<ref>[http://www.oclc.org/research/activities/identities/default.htm WorldCat Identities]: [http://www.worldcat.org/identities/np-greene,%20william%20conyngham$sir$1854%201934 Greene, William Conyngham Sir 1854-1934]</ref>。


* ''『Foreign Office files for Japan and the Far East』''<ref>{{Cite book|洋書|title=Foreign Office files for Japan and the Far East : a listing and guide to parts 1 & 2.|url=https://www.worldcat.org/oclc/28891171|publisher=A. Matthew Publications|date=1991-<1993>|location=Marlborough, Wiltshire, England|isbn=1-85711-010-2|oclc=28891171|last=Great Britain. Foreign Office}}</ref> (1991年)
* ''Foreign Office files for Japan and the Far East '' (1991)


==脚注==
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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==参考文献==
==参考文献==
*{{Cite book|和書|title=第一次世界大戦と日本の参戦-{{fontsize|small|日英同盟との関係}}|year=1982|publisher=[[国士舘大学|国士舘大学日本政教研究所]]|last=田村|first=幸策|author-link=田村幸策|series=『日本政教研究所紀要』|volume=6巻|url=https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=8670&item_no=1&page_id=13&block_id=21|ref=harv}}
*サー・ [[ヒュー・コータッツィ]]編著『歴代の駐日英国大使』、文眞堂(2007年)、P195-218(ピーター・ロウ著)。ISBN 978-4830945878
*{{Cite book|和書|author=|editor=[[ヒュー・コータッツィ]]編著|translator=[[日英文化交流研究会]],[[長岡祥三]]|title=歴代の駐日英国大使 1859-1972|publisher=文眞堂|date=|isbn=978-4830945878|year=2007|ref=harv|last=ロウ|first=ピーター|author-link=ピーター・ロウ|edition=第1版|location=[[東京都]][[新宿区]]|editor-first=}}


==関連項目==
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==外部リンク==
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*駐日英国大使館[http://ukinjapan.fco.gov.uk/ja/about-us/our-embassy/our-ambassador/previous-ambassadors 歴代駐日英国大使]
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2022年3月29日 (火) 12:25時点における版

ウィリアム・カニンガム・グリーン
William Conyngham Green
生年月日 1854年10月29日
没年月日 (1934-06-30) 1934年6月30日(79歳没)
出身校 ハーロー校,オックスフォード大学
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サー・ウィリアム・カニンガム・グリーン: William Conyngham Greene,GCMG GCB PC1854年10月29日 - 1934年6月30日)は、英国外交官1912年から1919年まで、東京で駐日英国大使を務めた。ミドルネームをとって『カニンガム・グリーン』と呼ばれることもある。

生涯

リチャード・グリーンとその妻ルイーザ・プランケット英語版第3代プランケット男爵英語版の娘)との息子として生まれた[1]ハロー校からオックスフォード大学に進み、1877年に文学士、1880年に文学修士を取得した。在学中の1877年に外務省に入省した[2]。1880年からアテネシュトゥットガルトダルムシュタットハーグブリュッセルテヘランに勤務した[3]

1896年プレトリア駐在管理官として現地に赴任した[4][5]。この時期、南アフリカへの拡張政策を進める本国政府と現地のトランスヴァール共和国との間には深刻な不和が生じており、一色触発の気配であった。グリーンは開戦阻止に奔走したものの、この行動は好戦的なアルフレッド・ミルナー英国高等弁務官、対英強硬姿勢を崩さないポール・クリューガー政権の双方から不興を買った[6]。結局グリーンは両者の仲裁に失敗、第二次ボーア戦争が開戦するに至り、彼は直後にプレトリアを離れた。その後はスイス[7]ブカレスト[8]コペンハーゲン[9]と転勤してヨーロッパ各国を渡り歩いた。

日本への赴任

1912年大正元年)12月1日、駐日英国大使に就任した[10][11]

当時日英間には日英同盟があったが、中国での権益をめぐって両国間の利害が衝突を始めていた[注釈 1]1913年に中国で第二革命が勃発した際、袁世凱がこれを鎮圧したが、一方で日本は反袁世凱グループへの支援を行った。この反袁支援に際して、駐北京代理公使ベイルビー・オールストン英語版は外務省に激しい日本批判文を提出したが、グリーンはこれに対して「反袁支援において個人レベルでの日本人の関与はあったのかも知れないが、日本国政府までもが積極的にこれに与したとも思えない」と擁護した[14]

戦区制限問題と対華21カ条要求

加藤高明外務大臣。1915年。

1914年8月、第一次世界大戦が勃発した。英国はその貿易ルートをドイツ東洋艦隊から守るため、大日本帝国海軍の協力を必要としていた[15][16]。このため8月6日、グレイ外務大臣は日本に戦争支援を要請し、加藤高明外務大臣もこれを契機に参戦を指向した[17][18]。この時、日本の宣戦布告によってオーストラリアニュージーランド米国の疑念を招くことを心配したグレイは日本に対し正式参戦を控え、限定された軍事行動をとることを求めた[19][20]。これに対し、加藤はグリーンに「大隈内閣は宣戦布告を決定したが、何ら領土的野心を有さない」と伝えている。その後もグレイはたびたび日本軍の作戦行動範囲を限定するべく、グリーンに「宣戦布告は承認するが、参戦区域は制限させよ」と訓令したり、「日本の行動は東シナ海以外に拡大しない」といった声明を行った[21]。こうした要求に加藤は反発して一切応じず、グリーンも両者の関係が決裂しないように奔走することとなった[21][18]

その後の対華21ヶ条要求では日本の露骨な野心と不誠実さ[注釈 2]に接し、グリーンは日本への幻滅・失望感を覚えた[22]。これ以降グリーンの対日観は悪化の一途をたどり、「戦争という幸運が加藤男爵の足元にボールを置き、彼はそれを蹴った」と辛辣に批判した[23]。この頃のグリーンは日英同盟について「日本人の感情を害することなく、かなりの礼節を持って同盟を葬り去らねばならない」と考えていたという[24]1919年4月に大使としての経歴に終止符を打ち、東京を去った[10][11]

帰国後の1920年、グリーンは日英同盟の将来を検討する小委員会の委員となった[25]1921年1月、小委員会は「日英同盟は廃棄し、そのかわり日英米参加国による三国協約を結ぶ」との結論を出したが、首相のロイド・ジョージはこの意見を採用せず、日英同盟の維持を求めた[25]。しかし、アメリカ大統領ウォレン・ハーディングが率先して開催されたワシントン会議により、日英同盟の廃棄が決定された。

1934年に79歳で死去した[10]

栄典

賞罰

その他

家族

1884年にリリー・フランセス・ストップフォード(Lily Frances Stopford、1862年 - 1950年、第5代コータウン伯爵の娘)と結婚し[29]、二男一女をもうけた[4]

著作

グリーンが書き残したもののうち下記の著書が死後に出版されている[30]

  • 『Foreign Office files for Japan and the Far East』[31] (1991年)

脚注

注釈

  1. ^ 外務大臣エドワード・グレイはその歴史的背景から満州における日本の特殊権益をある程度認めるつもりであったが、中国本土における日本の野望は頓挫させる必要があると考えていた[12]。同時にこの時期の英政府は自治領諸国の軍備増強を考えており、しきりに『日本脅威論』を強調・利用してその海軍力増強を嗾けた[13]。これによってある程度軍拡は成功したが、第一次世界大戦後にイギリスは一層自治領諸国から日英同盟解消の突き上げを食らう結果となったとする説もある[13]
  2. ^ 要求に際して、グリーンは加藤から一応の事前釈明はあったものの、中国への内政干渉を企図した第5号に関しては意図的に省いて説明を受けた。第5号の存在が露見して、グリーンが抗議すると、加藤は『日本は自国の権益を増進することにかけては、まさに英国が過去に行ったように独自の行動をとるつもりである』と反論するといった不誠実さを見せた。

出典

  1. ^ ロウ (2007), p. 195.
  2. ^ "No. 24518". The London Gazette (英語). 2 November 1877. p. 5997.
  3. ^ ロウ (2007), p. 195-196.
  4. ^ a b ロウ (2007), p. 196.
  5. ^ "No. 26774". The London Gazette (英語). 4 September 1896. p. 4987.
  6. ^ ロウ (2007), p. 196-198.
  7. ^ "No. 27314". The London Gazette (英語). 17 May 1901. p. 3379.
  8. ^ "No. 27874". The London Gazette (英語). 12 January 1906. p. 285.
  9. ^ "No. 12325". The Edinburgh Gazette (英語). 31 January 1911. p. 103.
  10. ^ a b c Green. "Green, Greene, Rt Hon. Sir Conyngham". Who's Who & Who Was Who (英語). Vol. 2022 (2019, December 01 ed.). A & C Black. {{cite encyclopedia}}: 不明な引数|accessed=は無視されます。 (説明); 不明な引数|othernames=は無視されます。 (説明) (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入)
  11. ^ a b Sir Conyngham Greene”. Library of Congress, Washington, D.C. 20540 USA. 2022年3月4日閲覧。
  12. ^ ロウ (2007), p. 199.
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参考文献

関連項目

外部リンク

外交職
先代
F.R.シンジョン英語版
駐スイス公使英語版
1901–1905
次代
サー・ジョージ・ボナム英語版
先代
ジョン・ケネディ英語版
駐ルーマニア公使英語版
1906–1910
次代
W.B.タウンリー英語版
先代
アラン・ジョンストン英語版
駐デンマーク公使英語版
1911–1912
次代
サー・ヘンリー・ラウザー英語版
先代
サー・クロード・マクドナルド
駐日大使
1912–1919
次代
チャールズ・エリオット