コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「さらばハイセイコー」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Jnjw (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
18行目: 18行目:
1974年11月、年末の[[有馬記念]]を以てのハイセイコー引退が決定し、この頃に企画が立案された<ref name="haiseiko2">増沢(1992)p.126</ref>。競馬実況アナウンサーの小坂巌が、『[[週刊競馬報知]]』に執筆していた連載で、増沢の歌唱力の高さを幾度か取り上げていた(企画立案のきっかけでもあった)ことから、小坂を介して増沢に話が持ち込まれた<ref name="haiseiko3">『優駿』2000年7月号 p.54</ref>。当初増沢は渋っていたが、レコード会社の担当者からも説得されて歌手を引き受けた<ref name="haiseiko2" />。小坂は作詞を担当し、作詞家の山田孝雄が補作を行った。歌手と主作詞者が素人であり、曲も猪俣が「サッと作った」ものであったため、小坂はヒットの自信はなかったとしている<ref name="haiseiko4">『優駿』2000年7月号 p.55</ref>。
1974年11月、年末の[[有馬記念]]を以てのハイセイコー引退が決定し、この頃に企画が立案された<ref name="haiseiko2">増沢(1992)p.126</ref>。競馬実況アナウンサーの小坂巌が、『[[週刊競馬報知]]』に執筆していた連載で、増沢の歌唱力の高さを幾度か取り上げていた(企画立案のきっかけでもあった)ことから、小坂を介して増沢に話が持ち込まれた<ref name="haiseiko3">『優駿』2000年7月号 p.54</ref>。当初増沢は渋っていたが、レコード会社の担当者からも説得されて歌手を引き受けた<ref name="haiseiko2" />。小坂は作詞を担当し、作詞家の山田孝雄が補作を行った。歌手と主作詞者が素人であり、曲も猪俣が「サッと作った」ものであったため、小坂はヒットの自信はなかったとしている<ref name="haiseiko4">『優駿』2000年7月号 p.55</ref>。


曲が一般に向けて初公開されたのはレコードが発売される前、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]が行っていた有馬記念の中継で、ハイセイコーが入線した直後に、その[[バックグラウンドミュージック|BGM]]として流された時だった<ref name="haiseiko4-2">『優駿』2000年7月号 pp.54-55</ref>。この競走でハイセイコーは2着であったにも関わらず、カメラは5馬身差で圧勝した[[タニノチカラ]]を無視してハイセイコーを映していた<ref name="haiseiko3" />。小坂はこの演出によって曲の人気に火が点いたのではないかと語り、フジテレビの担当[[ディレクター]]への感謝の念を口にしている<ref name="haiseiko4-2" />。タニノチカラに騎乗していた[[田島日出雄]]によれば現地の観客スタンドにも流されていたといい、「なんだ、あれは!勝ったのはオレのタニノチカラなんだぞ。ふざけるな、バカ野郎、チェッといって舌打ちしたことをおぼえているね!<ref>『競馬感涙読本』p.104</ref>」と振り返っている。
曲が一般に向けて初公開されたのはレコードが発売される前、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]が行っていた有馬記念の中継で、ハイセイコーが入線した直後に、その[[背景音楽|BGM]]として流された時だった<ref name="haiseiko4-2">『優駿』2000年7月号 pp.54-55</ref>。この競走でハイセイコーは2着であったにも関わらず、カメラは5馬身差で圧勝した[[タニノチカラ]]を無視してハイセイコーを映していた<ref name="haiseiko3" />。小坂はこの演出によって曲の人気に火が点いたのではないかと語り、フジテレビの担当[[ディレクター]]への感謝の念を口にしている<ref name="haiseiko4-2" />。タニノチカラに騎乗していた[[田島日出雄]]によれば現地の観客スタンドにも流されていたといい、「なんだ、あれは!勝ったのはオレのタニノチカラなんだぞ。ふざけるな、バカ野郎、チェッといって舌打ちしたことをおぼえているね!<ref>『競馬感涙読本』p.104</ref>」と振り返っている。


レコードは年明けの発売後から売上げを伸ばし始め、増沢は騎手業のかたわら数々の歌番組に出演した。
レコードは年明けの発売後から売上げを伸ばし始め、増沢は騎手業のかたわら数々の歌番組に出演した。

2021年11月23日 (火) 09:51時点における版

「さらばハイセイコー」
増沢末夫シングル
B面 弥生賞・皐月賞・菊花賞(レース実況)
リリース
ジャンル 演歌
レーベル ポリドール
作詞・作曲 作詞:小坂巖山田孝雄
作曲:猪俣公章
チャート最高順位
  • 4位(オリコン
  • 1975年度年間37位(オリコン)
テンプレートを表示

さらばハイセイコー』は、騎手増沢末夫の楽曲。1975年1月1日にポリドールからシングルレコードとして発売された。作詞・小坂巖、補作詞・山田孝雄、作曲・猪俣公章、編曲・竹田由彦。

概要

1973年に地方競馬から中央競馬に移籍し、競馬ブームを巻き起こした競走馬ハイセイコーの引退記念盤として発売された。歌手の増沢はハイセイコーの中央全16戦で手綱を取った騎手である。冒頭に荘重なファンファーレを置いた、猪俣公章による軍歌調の曲[1]で、B面にはハイセイコーが優勝した弥生賞皐月賞、2着となった菊花賞のレース実況と関係者によるコメントが収められている。ハイセイコー人気に乗り、オリコンチャートで最高4位を記録した。1975年度の年間売上げ枚数では37位を記録している。

曲の製作・公開までの経緯

1974年11月、年末の有馬記念を以てのハイセイコー引退が決定し、この頃に企画が立案された[2]。競馬実況アナウンサーの小坂巌が、『週刊競馬報知』に執筆していた連載で、増沢の歌唱力の高さを幾度か取り上げていた(企画立案のきっかけでもあった)ことから、小坂を介して増沢に話が持ち込まれた[3]。当初増沢は渋っていたが、レコード会社の担当者からも説得されて歌手を引き受けた[2]。小坂は作詞を担当し、作詞家の山田孝雄が補作を行った。歌手と主作詞者が素人であり、曲も猪俣が「サッと作った」ものであったため、小坂はヒットの自信はなかったとしている[4]

曲が一般に向けて初公開されたのはレコードが発売される前、フジテレビが行っていた有馬記念の中継で、ハイセイコーが入線した直後に、そのBGMとして流された時だった[5]。この競走でハイセイコーは2着であったにも関わらず、カメラは5馬身差で圧勝したタニノチカラを無視してハイセイコーを映していた[3]。小坂はこの演出によって曲の人気に火が点いたのではないかと語り、フジテレビの担当ディレクターへの感謝の念を口にしている[5]。タニノチカラに騎乗していた田島日出雄によれば現地の観客スタンドにも流されていたといい、「なんだ、あれは!勝ったのはオレのタニノチカラなんだぞ。ふざけるな、バカ野郎、チェッといって舌打ちしたことをおぼえているね![6]」と振り返っている。

レコードは年明けの発売後から売上げを伸ばし始め、増沢は騎手業のかたわら数々の歌番組に出演した。

収録

A面
  1. さらばハイセイコー
    作詞:小坂巌山田孝雄 / 作曲:猪俣公章 / 編曲:竹田由彦
B面
  1. 弥生賞(レース実況 / コメント:増沢末夫)
  2. 皐月賞(レース実況 / コメント:管理調教師鈴木勝太郎
  3. 菊花賞(レース実況 / コメント:担当厩務員・大場博、馬主・玉島忠雄、増沢末夫)

関連作品

その後、1975年には『ハイセイコーよ元気かい』が同じく増沢の歌で発売された。さらに1979年にハイセイコーの仔・カツラノハイセイコが父の成し得なかった日本ダービー制覇を果たすと、再び増沢の歌による『いななけカツラノハイセイコ』が発売された(このダービーで増沢はヨシノスキーに騎乗し11着)。しかし、売り上げでは『ハイセイコーよ元気かい』が14万枚[7]、『いななけカツラノハイセイコ』が7万枚[7]と、いずれも『さらばハイセイコー』に及ばなかった。

関連項目

脚注

  1. ^ 増沢(1992)p.127
  2. ^ a b 増沢(1992)p.126
  3. ^ a b 『優駿』2000年7月号 p.54
  4. ^ 『優駿』2000年7月号 p.55
  5. ^ a b 『優駿』2000年7月号 pp.54-55
  6. ^ 『競馬感涙読本』p.104
  7. ^ a b 『さらばハイセイコー』p.7

参考文献

  • 増沢末夫『鉄人ジョッキーと呼ばれて わが愛しの馬上人生』(学研マーケティング、1992年)ISBN 4051064212
  • 『競馬〈感涙〉読本―思い出すたび胸が痛む……泣300選』(宝島社、1998年)ISBN 4796694021
    • ターザン山本「田島日出雄調教助手インタビュー ジミ~なオッチャン騎手を檜舞台に押し上げたタニノチカラ」
  • 優駿』2000年7月号(日本中央競馬会)
    • 結城恵助「小坂巌氏に聞く - 21世紀に語り継ぎたい名馬100選(5)」
  • 『さらばハイセイコー』(産業経済新聞社、2000年)