「琵琶湖運河」の版間の差分
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「琵琶湖運河」への改名提案、少加筆 タグ: 2017年版ソースエディター |
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{{改名提案|琵琶湖運河|t=ノート:日本横断運河#改名提案(2021年末)|date=2021年12月}} |
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'''日本横断運河'''(にほんおうだんうんが)は、[[昭和]][[戦後]]期の[[1960年代]]に日本で計画された[[運河]]である。'''中部横断運河'''とも呼ばれた。 |
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'''日本横断運河'''(にほんおうだんうんが)は、[[琵琶湖]]を経由(一部例外あり)して、[[敦賀湾]]([[日本海]])と[[大阪湾]]([[瀬戸内海]])や[[伊勢湾]]([[太平洋]])をつなぐ構想上の[[運河]]である。本項で説明する運河構想(の一部)は、'''琵琶湖運河構想'''や'''本州横断運河構想'''などとも呼ばれる。日本横断運河と呼ばれる構想としては、とくに[[高度経済成長期]]のもの['''中部(横断)運河'''などとも]が挙げられるが、[[近世#日本|近世]]以降[[21世紀]]初頭現在に至るまで、敦賀 – 琵琶湖間の開削を中心に繰り返し計画が立てられてきた。敦賀から琵琶湖を経由して[[京都]]や[[大阪]]に物資を運ぶ経路は[[古代日本|古代]]から利用されており、古くは[[平安時代]]に敦賀 – 琵琶湖間の運河掘削が試みられたとも伝えられる。[[水運]]のほか琵琶湖の水位低下による[[治水]]や[[新田開発]]が目的とされたこともあった。[[江戸時代]]に短期間用いられた敦賀 – 疋田間の船川といった部分的なものを除き、運河計画はいずれも実現していない。 |
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== 背景と計画史の概要 == |
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[[揖斐川]]と[[琵琶湖]]を利用して[[伊勢湾]]と[[敦賀湾]]とを運河で結び、1万トン級以上の大きさの船舶を通そうという計画であった。中京地域を中心に議論が進められ、'''中部運河'''の仮称で呼ばれていた<ref>『観光滋賀の歩み』 p.31 [[滋賀県]]観光連盟 1989年</ref>。1990年代には変更案として[[淀川]]と[[琵琶湖]]を利用して[[大阪湾]]と敦賀湾とを運河で結ぶ案が検討された<ref>{{Cite conference|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/141/1350/14112021350002a.html|title=第141回国会|conference=[[参議院]]建設委員会|date=1997年12月2日}}</ref>。現在はその翻案となる本州横断運河が構想されている<ref>{{Cite news|url=http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/kenmin-news/CK2016090402000182.html|title=敦賀から横断運河構想 昭和30年代の計画再び|newspaper=[[日刊県民福井]]|date=2016-09-04|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160917061549/http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/kenmin-news/CK2016090402000182.html|archivedate=2016-09-27}}</ref>。 |
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{{main2|琵琶湖水運の詳細|琵琶湖#交通}} |
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[[琵琶湖]]唯一の流出[[川|河川]]である瀬田川は、宇治川・[[淀川 (近畿)|淀川]]と名前を変えて[[大阪湾]]に通じている{{sfn|杉江|2007a|p=75}}。琵琶湖と大阪湾や[[伊勢湾]]との距離は約50[[キロメートル]]、[[日本海]]との最短距離は約20キロメートル、[[海水面]]と[[琵琶湖#地理|琵琶湖水面]]の高低差は約85メートルである{{Sfn|辻川|2008c}}{{Sfn|辻川|2012|p=23}}。 |
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[[北陸地方|北陸]]の物資は[[古代日本|古代]]から、[[敦賀湾|敦賀]]や[[小浜湾|小浜]]で荷揚げされた後、[[塩津村 (滋賀県)|塩津]]・[[海津大崎|海津]]・[[今津町 (滋賀県)|今津]]から琵琶湖の[[水路]]を経た後、大津で陸揚げされて[[京都]]や[[大阪]]に運ばれてきた{{sfn|杉江|2007a|p=75}}{{sfn|辻川|2008a}}{{sfn|武井|2012|p=187}}{{r|濱 2014}}。しかしこの経路には、[[水路]]・陸路間の積替えのコストがかかるという欠点があり、[[江戸時代]]前期に[[西廻海運|西廻り航路]]が成立した後は、琵琶湖水運の地位低下が[[運河]]計画の理由に挙げられるようになった{{sfn|杉江|2007a|pp=75f}}{{sfn|辻川|2008a}}。また滋賀では[[琵琶湖#水害と治水|琵琶湖の水位上昇による水害]]に悩まされてきた歴史があり{{r|水野 2011|竹林&今井 1995}}、以降[[現代 (時代区分)|現代]]に至るまで治水も運河掘削の目的として挙げられてきた{{sfn|辻川|2008a}}{{sfn|辻川|2008d}}{{Efn2|{{harvtxt|用田|2011|p=164}} は、経済・軍事的要請が主であり、{{ilq|治水の目的などは付け足しでしかなかった}}とする。}}。 |
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==ルート== |
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運河のルート案の一つは、次のようなものだった<ref name="tanaka">田中玄次郎(編)『交通戦争の断面』(愛知県引揚者相談所・愛知県引揚者更生団体連合会、1965年3月)</ref>。伊勢湾岸から約25キロメートルの区間は揖斐川を利用し、その地点(岐阜県内)から滋賀県[[長浜市]](当時の長浜市域)北方の琵琶湖岸までの約44キロメートルの運河を開削。そこから塩津(当時[[西浅井村]]、現在長浜市)まで約20キロメートルは琵琶湖上を利用し、塩津から敦賀湾岸までは約19キロメートルの運河を開削するもの。全長約108キロメートルとされた。 |
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その後江戸時代中期には、[[享保の改革]]における新田開発奨励や[[田沼意次]]政権の殖産興業策を受け、「運河計画」の主目的は[[水運]]から[[新田 (農地)|新田開発]]へと移り、計画の内容も敦賀 – 琵琶湖間を直接運河でつなぐものから街道整備を含む交通整備へと変化している{{sfn|杉江|2007b|pp=73 & 82}}。このような計画は流通関係者や漁業関係者からの反発を受けることもあり、[[文化 (元号)|文化]]期や[[安政]]期には敦賀 – 疋田間に船川が通されたものの、陸路に対する優位性が低かったことも要因とし、いずれも長くは用いられなかった{{sfn|杉江|2007b|pp=75, 79 & 82f}}{{sfn|武井|2012|pp=188f}}{{Sfn|辻川|2012|pp=23f}}。[[黒船来航|異国船が渡来]]するようになった江戸末期には、西廻り航路に代わる琵琶湖経由の輸送という目的から運河計画が検討された{{sfn|杉江|2007b|pp=74 & 81f}}。 |
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その他に、揖斐川に岐阜港を設け、トンネル方式で琵琶湖を通らず敦賀湾につなげるルートが[[運輸省]]で検討された<ref>{{Cite web|url=http://yamamoto.vz-dev.net/article4/|title=本州横断運河構想|publisher=[[山本拓 (政治家)|山本拓]]|accessdate=2016-09-26}}</ref>。 |
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[[日本海]] – 琵琶湖間には山が聳えており、[[近世#日本|近世]]の土木技術によってこの間に水路を開通させることはきわめて困難であったと考えられる{{Sfn|辻川|2008b}}。その後[[昭和]]初期になると、[[パナマ運河]]のような[[閘門]]方式を採用した計画が立案されるようになり、大陸進出の国策のもと[[満州国|満州]]や[[朝鮮半島]]との交通も視野に入れられるようになる{{Sfn|辻川|2008c}}{{Sfn|辻川|2008d}}。[[高度経済成長#日本の例|高度経済成長期]]にも、[[戦後|第二次世界大戦後]]の国力回復などを目的として計画が立てられたが、その後[[モータリゼーション]]が進んだことにより水運の地位は低下した{{Sfn|辻川|2008d}}<!--{{sfn|辻川|2012}}-->。 |
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==期待された経済効果== |
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計画が実現すると、伊勢湾と敦賀湾との間を航行するのにかかる時間は、[[関門海峡]]を経由する航路の36時間に対して、北行きで14時間、南行きで20時間と半分程度に短縮されるはずであった<ref name="tanaka" />。また、時間短縮効果以外にも、[[内陸県]]の岐阜県と滋賀県が海に直結する、太平洋側に比べて発展の遅れた日本海側の発展を促進する、琵琶湖の増水被害を減少させる効果があるとされた<ref name="chunichi">「第3章 中日新聞にみる中部の社会資本整備」総合研究開発機構(編)『主要地方新聞にみる社会資本整備の変遷(高度経済成長期)』(日本経済評論社、1991年、250-251頁)</ref>。 |
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== 中世 – 近世初期 == |
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==計画の経緯== |
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{{quote box|平清盛相国、[[平重盛|小松内府]]に命じ、近江国琵琶湖を北海へ切落し、新田を開かんとし、敦賀へ越る道中塩津の山中深坂といふ所に、其切開きかゝりし{{ruby|迹|あと}}、今に残れり。近来{{ruby|河村|かわむら}}、{{ruby|松浦|まつら}}が輩、又此事をいひて、北海へ湖水を落さん事を謀れども、其事ならず。|橘南谿|『北窓瑣談』|{{sfn|杉江|2007b|p=66}}|width=29em|align=left}} |
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[[1959年]]の[[セントローレンス海路]]開通により日本でも運河の認知が高まり、[[北栄造]][[福井県]]知事が積極的な姿勢を示したことから本格化した。当初は敦賀湾から琵琶湖を経て[[大阪湾]]とつなぐ構想だったが、[[平田佐矩]][[四日市市|四日市]]市長などの推進により計画が進むこととなった<ref>{{Cite book|和書|editor=福井県(編) |title=福井県史 |year=1996 |publisher=福井県 |isbn=9784938772062 |volume=通史編6 (近現代二)|chapter=産業基盤整備の進展 |chapterurl=http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T6/T6-4a5-02-01-02-04.htm}}</ref>。 |
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[[ファイル:Fukasaka Pass Jizoudou 20040321 (cropped).jpg|サムネイル|平重盛は日本海側から12[[キロメートル]]ほどの地点で岩に阻まれ断念し、その箇所に地蔵尊([[堀止め地蔵]]、別名深坂地蔵・塩かけ地蔵とも)を祀ったとされる{{Sfn|用田|2011|p=164}}{{sfn|びわこビジターズビューロー|2021}}。]] |
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{{nowrap<!--float対策-->|[[敦賀湾|敦賀]] – [[塩津村 (滋賀県)|塩津]]間の}}[[運河]]構想の歴史は、不確かなものまで含めると[[平安時代]]まで遡ることができる{{sfn|杉江|2007a|p=75}}{{sfn|用田|2011|p=164}}。これは[[江戸時代]]中期に記された[[橘南谿]]『北窓瑣談』に基づき、[[平清盛]]が嫡男[[平重盛]]に塩津から[[深坂越|深坂]]を経て[[敦賀湾|敦賀]]を結ぶ運河の掘削を命じたとされるものであるが、事実とは見做しがたく{{efn2|{{harvtxt|杉江|2007b|p=66}} は<q>従来はこの{{interp|和文=1|『北窓瑣談』の}}記述から『運河』計画と理解していたことになるが、<q>新田を開かんとし</q>たことが目的とされているのはあきらかである</q>とする。}}伝説の域にとどまる{{sfn|高橋|1994}}{{sfn|杉江|2007a|p=75}}{{sfn|杉江|2007b|p=66}}{{sfn|辻川|2008a}}。 |
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伝承の域に留まるものとしては、[[天正 (日本)|天正]]13年(1585年){{efn2|以下和暦・西暦の換算には、出典として示した資料のほか、適宜「[https://keisan.casio.jp/exec/system/1239884730 和暦から西暦変換(年月日)]」(『keisan』、[[カシオ計算機]])を利用した。}}ごろには[[敦賀城]]主の[[蜂屋頼隆]]が、天正末期から[[慶長]]初期にかけては[[豊臣秀吉]]の命のもと同城主の[[大谷吉継]]が{{efn2|吉継が大岩に阻まれ掘削を断念した跡は、太閤のけつわり堀の名で現代に伝えられている{{Sfn|竹林|1999|p=60}}{{Sfn|用田|2011|p=164}}。}}運河の掘削を試みたとされるものもある{{sfn|杉江|2007b|pp=66f}}{{sfn|用田|2011|p=164}}。。 |
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計画の経緯は、次のようなものだった<ref name="chunichi" />。1961年(昭和36年)5月、当時[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]副総裁であり岐阜県出身者でもある[[大野伴睦]]が三重県四日市市を訪れた折、平田佐矩市長から大運河構想を聞き、それについての協力を要請された。9月13日、北伊勢工業地帯開発協議会において、運河建設の可能性を検討するための調査をコンサルタント会社([[パシフィックコンサルタンツ]])に依頼すること、調査費は愛知、三重、岐阜、滋賀、福井の5県で分担することなどが話し合われた。 |
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{{-|left}} |
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調査の結果は、1962年(昭和37年)1月に発表された。1962年(昭和37年)8月、5県の知事と四日市・名古屋・敦賀の3市長により「中部運河計画協議会」が結成された。また、5県選出の国会議員により「中部運河建設促進議員同盟」が結成され、大野伴睦が会長に就いた。大野は「私の政治生命をかけて運河完成に努力する」と言明した。日本国政府の昭和38年度予算には、1,000万円の調査費が計上され、これは昭和39年度予算では倍増された。 |
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== 江戸時代 == |
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|caption = 敦賀 – 琵琶湖間の地図 |
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| label8 = 七里半越・山中 |
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| mark-title14 = 山門 |
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=== 寛文 – 元禄 === |
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ところが、1964年(昭和39年)の大野の急死、昭和40年代の海運不況、さらには経済効果に対する疑問のため、運河計画は実現に至らなかった。 |
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[[史料]]が残っているものとしては、[[京都]]の[[豪商]]らによる[[寛文]]・[[元禄]]年間の計画が挙げられる{{sfn|杉江|2007b|pp=66ff}}{{sfn|辻川|2008b}}。まず寛文9年7月(1669年)には田中四郎左衛門が、[[塩津村 (滋賀県)|塩津]] – [[新道野越|新道野]] – 道口 – [[敦賀湾|敦賀]]の経路に[[和船|舟]]を往来させるための「川道」を付ける計画を出願し、翌年3月にも塩津 – [[深坂越]]間は川を[[浚渫]]し、1里の陸路を経由した後、敦賀までは[[笙の川|疋田川]]を利用する経路での計画を出願したものの、[[江戸幕府|幕府]]はこれらを取り上げなかった{{sfn|杉江|2007b|p=66}}{{sfn|辻川|2008b}}。 |
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その後元禄8年(1695年)、同じく京都の商人である岡嶋弥右衛門・田中屋四郎左衛門{{Efn2|田中四郎左衛門とは親子ないし同一人物と推測されている<!--{{sfn|杉江|2007b|p=69}}-->。また、『敦賀郡誌』等においては岡'''島屋源'''右衛門・田中屋四郎'''右'''衛門ら5人とされる{{sfn|杉江|2007b|p=69}}。}}が、塩津 – 深坂間は川道に「船入」を掘り、深坂 – 敦賀間は疋田川を利用して川船を往来させる「水道」の計画を出願している{{sfn|杉江|2007b|p=69}}。この元禄期の計画は、[[#背景と計画史の概要|上述]]の[[西廻海運|西廻り航路]]開設による敦賀・[[大津市|大津]]の荷物減少を理由として挙げるとともに、塩津川口に琵琶湖と水路の水位を調整するための[[水門#樋門との区別|門樋]]を立て、[[日本海]]に水を流出させることで[[琵琶湖#水害と治水|近江や淀川流域の治水]]にもつなげることができるとしている{{sfn|杉江|2007b|p=69}}{{sfn|辻川|2008b}}。寛文期の計画と異なり、この「水道」計画は幕府の関心を引き、元禄9年11月(1969年)に[[京都所司代]]の命による塩津谷の検分が行われたが、翌年6月の大津[[代官]]による現地検分は敦賀の[[敦賀郡]]19か村の[[庄屋]]らによる猛反対を受け中止となり、また[[七里半越|七里半街道]]の起点である海津でも[[本百姓]]・[[問屋場|問屋]]・[[馬借]]・[[河岸#河岸の構成|船持]]らが反対しており、実現には至らなかった{{sfn|杉江|2007b|p=69}}{{sfn|辻川|2008b}}{{efn2|{{harvtxt|杉江|2007b|pp=69f.}} は、元禄期にはほかにも2つの計画があった可能性を(京都の商人らの計画との関連性や混同の可能性もあるとしつつ)指摘しており、そのうち1つは[[淀川 (近畿)|淀川]]の改善にも尽力した[[河村瑞賢]]に関わる伝承である。}}。 |
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==後日の構想== |
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日本横断運河の計画がなくなった後も、一部を修正した運河の計画が構想されている。 |
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=== 享保 – 天明 === |
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===敦賀湾〜大阪湾運河=== |
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[[享保]]期にも運河計画は立てられており、ここでは水運から琵琶湖の水位低下を利用した[[新田 (農地)|新田開発]]へと主な目的が転じている{{sfn|杉江|2007b|pp=70ff}}。まず享保4年(1719年)には江戸町人中川六左衛門により出願が出されている。この計画は、深坂山の30[[町 (単位)|町]]は陸路を利用するにもかかわらず集福寺 – 駄口間を掘り抜き深坂越に幅3[[間 (尺貫法)|間]]水足3[[尺]]の水路を作るともされていること、また幕府[[勘定奉行]]からの問い合わせを受け[[京都町奉行]]が近江の[[幕領]]代官に調査を命じた触書の冒頭にも<q>[[近江国|江州]]湖水廻り新田取立度旨</q>云々とあるいことから、船を通わし荷物賃料を下げることよりも琵琶湖の水位低下による新田開発が目的であったと考えられる{{sfn|杉江|2007b|p=71}}。 |
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敦賀から大阪湾に運河を整備する構想を1993年に運輸省の元職員が初めて発表した。1250トン級の船舶を想定し、総延長は157キロ、総事業費はおよそ2千億円と試算された。敦賀〜[[西浅井町|大浦]]〜琵琶湖〜[[天ヶ瀬ダム]]〜[[枚方市|枚方]]〜淀川〜大阪湾に運河を整備し、8段の[[閘門]]と2箇所の[[インクライン]]と1箇所の[[トンネル]]が考えられていた。 |
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翌享保5年12月(1720年)にも幕府の塗師蒔絵師触頭[[幸阿弥長救|幸阿弥伊予]]{{efn2|幸阿弥長救(こうあみ ちょうきゅう、1661年 – 1723年)。[[幸阿弥派|幸阿弥家]]代12代当主。与兵衛は通称{{r|講談社 2015b}}。}}ら5名により、同様の計画が勘定所に出願されている{{sfn|杉江|2007b|p=71}}。これは、集福寺 – 塩津間に「堀水」を引き、沓掛 – 新道野間を掘削、[[笙の川|刀根川]] – 疋田 – 敦賀へと水を流すというものであったが、敦賀 – 刀根川および集福寺 – 塩津間は水路、沓掛 – 新道野間は陸路を利用するともされており、全経路を運河とするものではなかった{{sfn|杉江|2007b|pp=71f}}。また、[[淀川|瀬田川]]の[[浚渫]]も併せて計画され、浚渫土を用いた埋め立てによる[[木津川 (京都府)|木津川]]・淀川・大阪河口の新田開発をも含むものであった<!--{{sfn|杉江|2007b|p=72}}-->。勘定所は大津代官へ関係各村の調査を命じたが、翌年6月に一旦却下されている{{sfn|杉江|2007b|p=72}}。しかし享保7年閏7月(1722年)に京都・近江で大洪水が起こったことを受け、翌8月に再度の出願がなされた{{sfn|杉江|2007b|p=72}}{{sfn|武井|2012|p=188}}。幸阿弥家の代理人らは現地村民の同意を取り付けることも試みたが、琵琶湖水位の低下による漁業への悪影響と出願者らが支配を及ぼすことによる新たな問題の発生への懸念を理由とした反対に遭った{{sfn|武井|2012|p=188}}。幕府の派遣した新田巡検使が塩津に到着した時点でも説得は難航しており、また幸阿弥家代理人の経費見積もりがあまりにも安く、杜撰な計画であると判断されたため、検分は中止となった。幸阿弥伊予がまもなく没したこともあり、この計画も結局立ち消えとなっている{{sfn|杉江|2007b|p=72}}{{sfn|武井|2012|pp=188f}}。 |
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===本州横断運河=== |
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敦賀湾から琵琶湖と琵琶湖から大阪湾に運河を整備する構想。[[クルーズ船]]の想定や整備費用が[[国土交通省]]で検討されている<ref>{{Cite news|url=http://www.fukuishimbun.co.jp/localnews/society/103768.html|title=敦賀湾と琵琶湖つなぐ運河を検討 自民党福井県連が会を設立へ|newspaper=[[福井新聞]]|date=2016-09-04|archiveurl=http://archive.is/yFmD0|archivedate=2016-10-13}}</ref>。 |
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このほか[[天明 (日本)|天明]]5年(1785年)にも運河計画が立てられたとされてきたが、{{Harvtxt|杉江|2007b|pp=72f.}} はこれを、新田計画の一部として琵琶湖の水位を低下させるための水路計画であったと見做している。 |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}}<references /> |
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=== 文化 – 天保 === |
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[[文化 (元号)|文化]]8年(1811年)には、大浦と山中の問屋により[[大浦川 (滋賀県)|大浦川]]を経由する経路での計画が立てられたが、塩津や海津の反対を受け見送りとなった{{sfn|杉江|2007b|p=74}}。 |
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その後文化13年3月27日(1816年4月24日)より、前年の幕府役人による複数回の検分の後、大坂の豪商錺屋六兵衛を出資者、[[小浜藩]][[家老]]三浦勘解由左衛門を[[普請奉行]]として、疋田 – 敦賀間に幅9尺の船川を掘る工事が開始された{{sfn|杉江|2007b|pp=74f}}。これに伴って敦賀には船川会所が、疋田の[[蔵屋敷]]には船を回転させるための[[船だまり|船溜まり]]が作られ、翌文化14年8月11日([[1817年]]9月21日)より船の運行が開始された<!--{{sfn|杉江|2007b|p=75}}-->。同月25日よりさらに上流への掘削が開始され、一旦追分の上まで完成したものの、[[閏月|閏]]8月4日の暴風雨により船川の6割が破壊され、同月6日の掘削再開後どこまで掘り進められたのかは不明である{{sfn|杉江|2007b|p=75}}。この疋田 – 敦賀間の船川は、北国の米の運搬に用いられるなどそれなりの活況をもたらしたとされるが、その後敦賀馬借座の訴願を受け、[[天保]]5年12月(1834年)には廃止された{{sfn|杉江|2007b|p=75}}{{sfn|辻川|2008b}}。 |
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=== 安政 – 文久 === |
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運河の計画としては[[安政]]4年(1857年)のものも知られている{{sfn|杉江|2007b|p=75}}{{Efn2|この計画については、小浜藩と彦根藩の対立という構図から、のちの[[安政の大獄]]の前史と位置づける研究がある{{sfn|杉江|2007b|p=76}}{{sfn|鈴木|2013|pp=2ff}}。}}。これは遅くとも『京都御備之御趣意』が京都町奉行に出願された[[嘉永]]7年2月17日(1854年3月15日)には検討が開始されていたものとされ、この時点ですでに海津・大浦・塩津の3か村から、北国からの荷物の通線路がいずれになっても不服がない旨の同意が取り付けられていた<!--{{sfn|杉江|2007b|p=76}}{{sfn|鈴木|2013|p=1}}-->。この『御趣意』の出願者(敦賀町人数名)・同意者(問屋仲間ら)・出資者(京都の町人で小浜藩[[御用達#江戸時代|御用達]]の小林金三郎・京都の[[糸割符]]村瀬孫祐{{Efn2|孫助・孫介などとも{{sfn|杉江|2007b|p=76}}。}})らは、小浜藩と関係が深かったものの、藩は表舞台には出ていない{{sfn|杉江|2007b|p=76}}{{sfn|鈴木|2013|p=1}}。これに対して[[彦根藩]]は、[[彦根城]]の[[要害]]への支障{{Efn2|{{harvtxt|杉江|2007b|p=76}} は、琵琶湖の水位低下による堀の機能不全の意と推測する。}}・米の価格低下・[[宿場]]の衰退といった損害を自藩が被り、[[柳ケ瀬関]](彦根藩所管)・[[剣熊関]]([[郡山藩]]所管)の趣意にも関わるとし、反対を唱えた{{sfn|杉江|2007b|p=76}}。京都町奉行や小浜藩関係者の現地検分を経て、安政3年12月13日(1857年1月8日)には京都所司代が京都町奉行に対して「掘割一條」の許可を出したが、これは敦賀 – 琵琶湖間の運河計画ではなく、敦賀 – 疋田間の船川整備(船川と船溜まりは文化期のものを再利用)と深坂越の道整備の計画であった{{sfn|杉江|2007b|pp=76f}}。彦根藩は計画の中止・延期を求めて様々な運動を進めたが、越前側では小浜藩が安政4年2月(1857年)以降順次船川普請(敦賀・鵜原・下道口)・道普請(追分 – 深坂峠)を実施し、近江側でも3月から深坂峠の道普請が、5月からは大浦の船川普請が行われ、敦賀 – 疋田間および山門 – 大浦間は水路、疋田 – 山門間ないし疋田 – 塩津間は陸路を用いる経路が整備された{{sfn|杉江|2007b|pp=67 & 77f}}。この内新たに開削されたのは、山門村字茶屋 – 大浦村出郷字稲田の区間である{{sfn|杉江|2007b|pp=67 & 78}}。七里街道に通じる海津ではなく大浦が選ばれたのは、川船の通行に適していると判断されたためと考えられる<!--{{sfn|杉江|2007b|p=79}}-->。敦賀 – 疋田間の船川は[[船引き|曳舟]]の人夫を多く必要とするため陸路に対する優位性が低く、[[文久]]年間の深坂越開削計画に関する報告{{efn2|[[伊香郡|中之郷村]]の田中治右衛門と[[西浅井郡|川並村]]の桐畑善四郎の連名。彦根藩が船川と深坂峠の普請について[[隠密]]に内見命じ、その結果として作成された{{sfn|杉江|2007b|p=79}}。}}の時点で、すでに通船は中止となっていた{{sfn|杉江|2007b|p=79}}。 |
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=== 慶応 === |
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[[File:敦賀・琵琶湖間運河計画図(1867年) (cropped).png|thumb|小沢一仙「敦賀・琵琶湖間運河計画図」慶応3年(高樹文庫「[[石黒信由]]関係資料」、[[射水市新湊博物館]]所蔵より)。|299x299ピクセル]][[慶応 (元号)|慶応]]年間には、[[加賀藩]]による計画と[[小沢一仙]]による計画の2つが並行して進められた{{sfn|杉江|2007b|p=80}}。 |
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加賀藩は、慶応2年12月16日(1867年1月21日)に幕府から単独事業の許可を得、翌慶応3年2月から4月にかけて[[石黒信基]]{{Efn2|いしぐろ のぶもと、1836年 – 1869年。[[石黒信由]]の[[曾孫]]の[[和算家]]{{r|講談社 2015a}}。}}らを派遣し敦賀 – 琵琶湖間6経路につき詳細な測量を行った{{sfn|杉江|2007b|p=80}}。この際、安政期の計画にも関わった深坂問屋の小林金三郎が案内・図面提供を行っている{{sfn|杉江|2007b|p=81}}。 |
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小沢一仙は、慶応2年8月(1866年)幕府に対し、敦賀 – 琵琶湖間に運河を掘り瀬田川を通じ京都・大坂まで船を通すことにより[[#背景と計画史の概要|前述]]の西廻り航路の不安を解消できるという『江湖切割』の建白書を提出、幕府の指示により加賀藩に計画を示し敦賀周辺を検分の後、慶応3年5月(1867年)加賀藩に計画書と絵図を提出している{{sfn|杉江|2007b|p=81}}{{sfn|射水市新湊博物館|n.d.}}。この絵図には、深坂峠の[[トンネル#水路トンネル|隧道]]も示されている{{sfn|射水市新湊博物館|n.d.}}。 |
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このほか幕末のものとしては、大阪湾が[[黒船|異国船]]に占領された場合の対策として琵琶湖 – 伊勢湾間を結ぶとする計画が彦根藩に残されている{{Sfn|竹林|1999|p=68}}。 |
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== 近代 == |
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|caption = 敦賀湾 – 大阪湾間の地図 |
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| mark-title4 = 逢坂山 |
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| label5 = 大浦 |
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| mark-title6 = 天ヶ瀬ダム |
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}} |
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[[明治5年]]には吉田源之助が、[[敦賀湾|敦賀]] – [[琵琶湖]]間に[[運河]]を掘削し[[淀川 (近畿)|淀川]]を経由して敦賀 – [[大阪]]間を[[蒸気船|汽船]]で結ぶという「阪敦運河」計画を立案、熱心に請願活動をおこなった結果1905年(明治38年)に[[貴族院 (日本)|貴族院]]で採択されたものの、[[日露戦争]]中であったことなどから実現には至らなかった{{Sfn|辻川|2008c}}。その後1935年([[大正]]13年)には源之助の子で[[日本軍の階級#明治30年12月1日 -|陸軍大尉]]の吉田幸三郎が、「阪敦大運河計画」を発表した。この計画には、敦賀 – [[塩津村 (滋賀県)|塩津]]間の[[水路]]掘削だけでなく、[[大津市|大津]] – [[京都]]間の[[逢坂山]]の[[トンネル]]掘削と淀川右岸の水路掘削も含まれており、3000[[トン (代表的なトピック)|トン]]級の汽船や4000トン級の[[軍艦]]の通船を可能とするとともに、琵琶湖の水位を半分ほどにまで下げて干拓地を開墾するいう構想であった{{Sfn|辻川|2008c}}{{sfn|用田|2011|pp=164f}}。 |
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1933年([[昭和]]8年)には、[[琵琶湖疏水]]{{Efn2|明治23年(1890年)に完成した琵琶湖疏水は、京都への物資輸送にも用いられた{{sfn|辻川|2012|p=24}}}}の築造にも携わった土木技師の[[田辺朔郎|田邊朔郎]]が、敦賀 – 塩津間に幅85[[メートル]]・水深10メートル規模の運河を掘削し、1万トン級の船舶を[[日本海]] – [[大阪湾]]間に通すという「大琵琶湖運河計画」を発表{{Sfn|辻川|2008c}}{{sfn|用田|2011|pp=164f}}<!--{{sfn|辻川|2012}}-->。敦賀 – 琵琶湖間の水位調整には[[閘門]]方式を採用するとし、その動力源として運河沿いに4箇所の[[水力発電|水力発電所]]を建設することも計画された{{Sfn|辻川|2008c}}。敦賀 – 琵琶湖間の工費は2億1800万円、淀川の改修工事を含めた総工費は5億7665億円{{Efn2|1933年の戦前基準企業[[物価指数]]は0.951(2020年は675.7){{r|日本銀行 c. 2021}}。}}、工事期間は約10年と試算されていた{{Sfn|辻川|2008c}}。田邊はこの計画について、[[羅津港|羅津]] – 大阪間を[[門司港 (地区名)|門司]]経由に比して5 – 10時間ほど短縮できるなど[[満州国|満州]]や[[朝鮮半島]]と京阪の工業地帯との物流ネットワークの整備拡張に繋がり{{Efn2|田邊は、満州 – 日本間の「[[鉄道連絡船|船鉄道]]」就航も提案している{{sfn|辻川|2008c}}<!--{{sfn|辻川|2012}}-->。}}、淀川周辺に工業地帯を作ることで京阪地域の経済生産力にも寄与すると述べている{{Sfn|辻川|2008c}}<!--{{sfn|辻川|2012}}-->。1935年(昭和10年)には、田邊案と同様の効果を謳い同案よりも建設費用がかからないとする艀鉄道(鉄道に[[艀]]を乗せて運ぶ方式)も谷口嘉六と宮部義男により提案されたが、戦局の悪化により実現しなかった{{Sfn|辻川|2008d}}。 |
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== 高度経済成長期 == |
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|caption = 敦賀湾 – 伊勢湾間の地図 |
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| label1 = 敦賀 |
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| mark-title1 = 敦賀 |
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| label2 = 揖斐川河口 |
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| mark-title2 = 揖斐川河口 |
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| label3 = 揖斐川約25km地点 |
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| mark-title3 = 揖斐川約25km地点 |
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| label4 = 姉川河口 |
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| mark-title4 = 姉川河口 |
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| label5 = 塩津 |
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| mark-title5 = 塩津 |
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}} |
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[[第二次世界大戦後]]の[[高度経済成長期]]にも[[日本海]]と[[太平洋]]をつなぐ構想が持ち上がっている{{sfn|滋賀県観光連盟|1989|p=31}}。これは[[揖斐川]]と[[琵琶湖]]を利用して[[伊勢湾]]と[[敦賀湾]]とを運河で結び、3万[[トン]]級の大きさの船舶を通そうという計画であった{{sfn|滋賀県観光連盟|1989|p=31}}{{sfn|岡島|2005|pp=34 & 38}}{{Sfn|辻川|2008d}}。[[中京圏|中京地域]]を中心に議論が進められ、中部運河の仮称で呼ばれていたほか、中部横断運河とも呼ばれる{{sfn|滋賀県観光連盟|1989|p=31}}{{sfn|岡島|2005|pp=34 & 38}}。 |
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===ルート=== |
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この構想における運河のルート案の一つは、次のようなものだった。伊勢湾岸から約25[[キロメートル]]の区間は揖斐川を利用し、その地点([[岐阜県]]内)から滋賀県[[長浜市]](当時の長浜市域)北方の琵琶湖岸までの約44キロメートルの運河を開削。そこから[[塩津村 (滋賀県)|塩津]](当時[[西浅井村]])まで約20キロメートルは琵琶湖上を利用し、塩津から敦賀湾岸までは約19キロメートルの運河を開削するもの。全長約108キロメートルとされた{{sfn|田中|1965}}。伊勢湾 – 揖斐川 – [[姉川 (滋賀県)|姉川]] – 琵琶湖 – 塩津 – 敦賀ルートの総工費は、 2500億円から3500億円{{Efn2|1960年の[[物価#企業物価指数|国内企業物価指数]]は48.1(2020年は100.3){{r|日本銀行 c. 2021}}。}}とされた{{sfn|佐藤|1996}}。 |
|||
その他に、揖斐川に岐阜港を設け、[[トンネル#水路トンネル|トンネル]]方式で琵琶湖を通らず敦賀湾につなげるルートが[[運輸省]]で検討された{{sfn|山本|c. 2016}}。 |
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===計画の経緯=== |
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1959年の[[セントローレンス海路]]開通により日本でも運河の認知が高まり、[[北栄造]][[福井県]]知事が積極的な姿勢を示したことから本格化した。当初は敦賀湾から琵琶湖を経て[[大阪湾]]とつなぐ阪敦運河構想だったが、[[平田佐矩]]四日市市長などの推進により、揖斐川と[[姉川]]を経由するルートで計画が進むこととなった{{sfn|佐藤|1996}}。 |
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計画の経緯は、次のようなものだった{{sfn|総合研究開発機構|1991|pp=250f}}。1961年(昭和36年)5月、当時[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]副総裁であり岐阜県出身者でもある[[大野伴睦]]が三重県[[四日市市]]を訪れた折、平田佐矩市長から大運河構想を聞き、それについての協力を要請された。9月13日、北伊勢工業地帯開発協議会において、運河建設の可能性を検討するための調査を[[パシフィックコンサルタンツ]]に依頼すること、調査費は[[愛知県|愛知]]・[[三重県|三重]]・岐阜・[[滋賀県|滋賀]]・[[福井県|福井]]の5県で分担することなどが話し合われた。 |
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調査の結果は、1962年(昭和37年)1月に発表された。1962年(昭和37年)8月、5県の知事と四日市・[[名古屋市|名古屋]]・[[敦賀市|敦賀]]の3市長により「中部運河計画協議会」が結成された。また、5県選出の国会議員により「中部運河建設促進議員同盟」が結成され、大野伴睦が会長に就いた。大野は「私の政治生命をかけて運河完成に努力する」と言明した。日本国政府の昭和38年度予算には、1000万円の調査費が計上され、これは昭和39年度予算では倍増された。 |
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ところが、1964年(昭和39年)の大野の急死、昭和40年代の海運不況、さらには経済効果に対する疑問のため<!-- 総合研究開発機構(1991)? -->、構想の気運は減じていくこととなる。1970年には中部圏開発整備本部が調査の打ち切りが発表され{{sfn|佐藤|1996}}、運河計画は実現に至らなかった。 |
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===期待された効果=== |
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計画が実現すると、伊勢湾と敦賀湾との間を航行するのにかかる時間は、[[関門海峡]]を経由する航路の36時間に対して、北行きで14時間、南行きで20時間と半分程度に短縮されるはずであった{{sfn|田中|1965}}。また、時間短縮効果以外にも、[[内陸県]]の岐阜県と滋賀県が海に直結する、太平洋側に比べて[[裏日本|発展の遅れた日本海側]]の発展を促進する、[[琵琶湖#水害と治水|琵琶湖の増水被害]]を減少させる効果があるとされた{{sfn|総合研究開発機構|1991|pp=250f}}。 |
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==1990年代以降== |
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1993年([[平成]]5年)には、[[敦賀湾|敦賀]]から[[大阪湾]]に運河を整備する構想の検討がなされた<!--{{sfn|中日新聞社|2016}}{{sfn|山本|c. 2016}}-->。1250トン級の船舶を想定し、総延長は157キロメートル、総事業費はおよそ2千億円と試算された<!--{{sfn|中日新聞社|2016}}{{sfn|山本|c. 2016}}-->。敦賀 – 大浦 – [[琵琶湖]] – [[天ヶ瀬ダム]] - [[枚方市|枚方]] – [[淀川 (近畿)|淀川]] – 大阪湾に運河を整備し、8段の[[閘門]]と2箇所の[[インクライン]]、1箇所の[[トンネル]]が考えられていた{{sfn|中日新聞社|2016}}{{sfn|山本|c. 2016}}。 |
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2016年(平成28年)9月には、[[自民党]]福井県連が「[[一億総活躍社会]]」関連施策の同県における目玉として、「本州横断運河構想」の検討会を立ち上げている。これは、敦賀湾 – 琵琶湖間と琵琶湖 – 大阪湾間に運河を整備する構想であり、増加が予想される海外からの[[クルーズ船]]による[[インバウンド消費|観光需要]]などを想定しているという{{sfn|中日新聞社|2016}}{{sfn|福井新聞社|2016}}。 |
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{{-}} |
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== 注釈 == |
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{{notelist2|35em}} |
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== 出典 == |
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{{Reflist|20em|refs= |
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<ref name="講談社 2015a">「[https://kotobank.jp/word/%E7%9F%B3%E9%BB%92%E4%BF%A1%E5%9F%BA-1053306 石黒信基]」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』、[[講談社]](『[[コトバンク]]』、[[VOYAGE MARKETING]]、2015年9月)。2021年12月2日閲覧。</ref> |
|||
<ref name="講談社 2015b">「[https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B8%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%95%B7%E6%95%91-1073755 幸阿弥長救]」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』、[[講談社]](『[[コトバンク]]』、[[VOYAGE MARKETING]]、2015年9月)。2021年12月4日閲覧。</ref> |
|||
<ref name="竹林&今井 1995">{{Cite journal|和書|last=竹林|first=征三|author-link=竹林征三|last2=今井|first2=範雄|date=1995-06-09|title=琵琶湖の歴史洪水と瀬田川浚渫についての土木史的研究|journal=土木史研究|volume=15|page=409|publisher=[[土木学会]]|DOI=10.2208/journalhs1990.15.409}}</ref> |
|||
<ref name="日本銀行 c. 2021">{{Cite web|date=c. 2021|title=昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか?|website=日本銀行|publisher=[[日本銀行]]|url=https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/history/j12.htm/ |accessdate=2021-12-03}}</ref> |
|||
<ref name="濱 2014">{{cite journal|和書|date=2014-03|last=濱|first=修|title=『皇后宮』木簡と起請文祭祀|journal=紀要|publisher=滋賀県文化財保護協会|issue=27|url=http://shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/27_hama.pdf|naid=40022111144|pages=67-68}}</ref> |
|||
<ref name="水野 2011">{{cite book|和書|date=2011-05|last=水野|first=章二|chapter=序章 琵琶湖の歴史的環境と人間|title=琵琶湖と水の人間史|publisher=岩田書院|isbn=978-4-87294-691-8|page=13}}</ref> |
|||
}} |
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== 参考文献 == |
|||
* '''書籍・冊子''' |
|||
** {{cite book|和書|date=1965-03|title=交通戦争の断面|editor-last=田中|editor-first玄次郎|editor=田中玄次郎|publisher=愛知県引揚者相談所・愛知県引揚者更生団体連合会|ref=harv}} |
|||
** {{cite book|和書|date=1989-03|title=観光滋賀の歩み|editor=滋賀県観光連盟|publisher=滋賀県観光連盟|id={{国立国会図書館書誌ID|000002095732}}|ref=harv}} |
|||
** {{cite book|和書|date=1991-02|title=主要地方新聞にみる社会資本整備の変遷 — 高度経済成長期|chapter=第3章 中日新聞にみる中部の社会資本整備|editor=[[総合研究開発機構]]|pubisher=[[日本経済評論社]]|isbn=4-8188-0450-9|ref=harv}} |
|||
** {{cite book|和書|date=1994-03|last=高橋|first=昌明|authorlink=高橋昌明|chapter=治承のクーデターと越前|title=福井県史|volume=通史編2(中世)|publisher=福井県|editor=[[福井県]]|isbn=4-938772-03-5|chapterurl=https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-0a1-02-01-04-02.htm|url=https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-00.htm|ref=harv}}<!-- 福井県のウェブサイトのもののみ確認しているので、書籍と同内容かは要確認 --> |
|||
** {{cite book|和書|date=1996-03|last=佐藤|first=満|title=福井県史|chapter=日本横断運河構想|volume=通史編6(近現代2)|publisher=福井県|editor=[[福井県]]|ref=harv|isbn=4-938772-06-X|chapterurl=https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T6/T6-4a5-02-01-02-04.htm|url=https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T6/T6-00.htm}}<!--同上--> |
|||
** {{cite book|和書|date=1999-05-25|last=竹林|first=征三|authorlink=竹林征三|title=湖国「水の道」 — 近江—水の散歩道|publisher=[[サンライズ出版]]|isbn=4-88325-060-1|ref=harv}} |
|||
** {{Cite book|和書|date=2011-04-05|last=用田|first=政晴|chapter=琵琶湖運河構想の歴史と本質|pages=164-165|title=生命の湖 琵琶湖をさぐる|editor=[[滋賀県立琵琶湖博物館]]|publisher=[[文一総合出版]]|isbn=978-4829911914|ref=harv}} |
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2021年12月26日 (日) 11:07時点における版
日本横断運河(にほんおうだんうんが)は、琵琶湖を経由(一部例外あり)して、敦賀湾(日本海)と大阪湾(瀬戸内海)や伊勢湾(太平洋)をつなぐ構想上の運河である。本項で説明する運河構想(の一部)は、琵琶湖運河構想や本州横断運河構想などとも呼ばれる。日本横断運河と呼ばれる構想としては、とくに高度経済成長期のもの[中部(横断)運河などとも]が挙げられるが、近世以降21世紀初頭現在に至るまで、敦賀 – 琵琶湖間の開削を中心に繰り返し計画が立てられてきた。敦賀から琵琶湖を経由して京都や大阪に物資を運ぶ経路は古代から利用されており、古くは平安時代に敦賀 – 琵琶湖間の運河掘削が試みられたとも伝えられる。水運のほか琵琶湖の水位低下による治水や新田開発が目的とされたこともあった。江戸時代に短期間用いられた敦賀 – 疋田間の船川といった部分的なものを除き、運河計画はいずれも実現していない。
背景と計画史の概要
琵琶湖唯一の流出河川である瀬田川は、宇治川・淀川と名前を変えて大阪湾に通じている[1]。琵琶湖と大阪湾や伊勢湾との距離は約50キロメートル、日本海との最短距離は約20キロメートル、海水面と琵琶湖水面の高低差は約85メートルである[2][3]。
北陸の物資は古代から、敦賀や小浜で荷揚げされた後、塩津・海津・今津から琵琶湖の水路を経た後、大津で陸揚げされて京都や大阪に運ばれてきた[1][4][5][6]。しかしこの経路には、水路・陸路間の積替えのコストがかかるという欠点があり、江戸時代前期に西廻り航路が成立した後は、琵琶湖水運の地位低下が運河計画の理由に挙げられるようになった[7][4]。また滋賀では琵琶湖の水位上昇による水害に悩まされてきた歴史があり[8][9]、以降現代に至るまで治水も運河掘削の目的として挙げられてきた[4][10][注 1]。
その後江戸時代中期には、享保の改革における新田開発奨励や田沼意次政権の殖産興業策を受け、「運河計画」の主目的は水運から新田開発へと移り、計画の内容も敦賀 – 琵琶湖間を直接運河でつなぐものから街道整備を含む交通整備へと変化している[11]。このような計画は流通関係者や漁業関係者からの反発を受けることもあり、文化期や安政期には敦賀 – 疋田間に船川が通されたものの、陸路に対する優位性が低かったことも要因とし、いずれも長くは用いられなかった[12][13][14]。異国船が渡来するようになった江戸末期には、西廻り航路に代わる琵琶湖経由の輸送という目的から運河計画が検討された[15]。
日本海 – 琵琶湖間には山が聳えており、近世の土木技術によってこの間に水路を開通させることはきわめて困難であったと考えられる[16]。その後昭和初期になると、パナマ運河のような閘門方式を採用した計画が立案されるようになり、大陸進出の国策のもと満州や朝鮮半島との交通も視野に入れられるようになる[2][10]。高度経済成長期にも、第二次世界大戦後の国力回復などを目的として計画が立てられたが、その後モータリゼーションが進んだことにより水運の地位は低下した[10]。
中世 – 近世初期
敦賀 – 塩津間の運河構想の歴史は、不確かなものまで含めると平安時代まで遡ることができる[1][17]。これは江戸時代中期に記された橘南谿『北窓瑣談』に基づき、平清盛が嫡男平重盛に塩津から深坂を経て敦賀を結ぶ運河の掘削を命じたとされるものであるが、事実とは見做しがたく[注 2]伝説の域にとどまる[19][1][20][4]。
伝承の域に留まるものとしては、天正13年(1585年)[注 3]ごろには敦賀城主の蜂屋頼隆が、天正末期から慶長初期にかけては豊臣秀吉の命のもと同城主の大谷吉継が[注 4]運河の掘削を試みたとされるものもある[22][17]。。
江戸時代
寛文 – 元禄
史料が残っているものとしては、京都の豪商らによる寛文・元禄年間の計画が挙げられる[23][16]。まず寛文9年7月(1669年)には田中四郎左衛門が、塩津 – 新道野 – 道口 – 敦賀の経路に舟を往来させるための「川道」を付ける計画を出願し、翌年3月にも塩津 – 深坂越間は川を浚渫し、1里の陸路を経由した後、敦賀までは疋田川を利用する経路での計画を出願したものの、幕府はこれらを取り上げなかった[20][16]。
その後元禄8年(1695年)、同じく京都の商人である岡嶋弥右衛門・田中屋四郎左衛門[注 5]が、塩津 – 深坂間は川道に「船入」を掘り、深坂 – 敦賀間は疋田川を利用して川船を往来させる「水道」の計画を出願している[24]。この元禄期の計画は、上述の西廻り航路開設による敦賀・大津の荷物減少を理由として挙げるとともに、塩津川口に琵琶湖と水路の水位を調整するための門樋を立て、日本海に水を流出させることで近江や淀川流域の治水にもつなげることができるとしている[24][16]。寛文期の計画と異なり、この「水道」計画は幕府の関心を引き、元禄9年11月(1969年)に京都所司代の命による塩津谷の検分が行われたが、翌年6月の大津代官による現地検分は敦賀の敦賀郡19か村の庄屋らによる猛反対を受け中止となり、また七里半街道の起点である海津でも本百姓・問屋・馬借・船持らが反対しており、実現には至らなかった[24][16][注 6]。
享保 – 天明
享保期にも運河計画は立てられており、ここでは水運から琵琶湖の水位低下を利用した新田開発へと主な目的が転じている[25]。まず享保4年(1719年)には江戸町人中川六左衛門により出願が出されている。この計画は、深坂山の30町は陸路を利用するにもかかわらず集福寺 – 駄口間を掘り抜き深坂越に幅3間水足3尺の水路を作るともされていること、また幕府勘定奉行からの問い合わせを受け京都町奉行が近江の幕領代官に調査を命じた触書の冒頭にも江州湖水廻り新田取立度旨
云々とあるいことから、船を通わし荷物賃料を下げることよりも琵琶湖の水位低下による新田開発が目的であったと考えられる[26]。
翌享保5年12月(1720年)にも幕府の塗師蒔絵師触頭幸阿弥伊予[注 7]ら5名により、同様の計画が勘定所に出願されている[26]。これは、集福寺 – 塩津間に「堀水」を引き、沓掛 – 新道野間を掘削、刀根川 – 疋田 – 敦賀へと水を流すというものであったが、敦賀 – 刀根川および集福寺 – 塩津間は水路、沓掛 – 新道野間は陸路を利用するともされており、全経路を運河とするものではなかった[28]。また、瀬田川の浚渫も併せて計画され、浚渫土を用いた埋め立てによる木津川・淀川・大阪河口の新田開発をも含むものであった。勘定所は大津代官へ関係各村の調査を命じたが、翌年6月に一旦却下されている[29]。しかし享保7年閏7月(1722年)に京都・近江で大洪水が起こったことを受け、翌8月に再度の出願がなされた[29][30]。幸阿弥家の代理人らは現地村民の同意を取り付けることも試みたが、琵琶湖水位の低下による漁業への悪影響と出願者らが支配を及ぼすことによる新たな問題の発生への懸念を理由とした反対に遭った[30]。幕府の派遣した新田巡検使が塩津に到着した時点でも説得は難航しており、また幸阿弥家代理人の経費見積もりがあまりにも安く、杜撰な計画であると判断されたため、検分は中止となった。幸阿弥伊予がまもなく没したこともあり、この計画も結局立ち消えとなっている[29][13]。
このほか天明5年(1785年)にも運河計画が立てられたとされてきたが、杉江 (2007b, pp. 72f.) はこれを、新田計画の一部として琵琶湖の水位を低下させるための水路計画であったと見做している。
文化 – 天保
文化8年(1811年)には、大浦と山中の問屋により大浦川を経由する経路での計画が立てられたが、塩津や海津の反対を受け見送りとなった[31]。
その後文化13年3月27日(1816年4月24日)より、前年の幕府役人による複数回の検分の後、大坂の豪商錺屋六兵衛を出資者、小浜藩家老三浦勘解由左衛門を普請奉行として、疋田 – 敦賀間に幅9尺の船川を掘る工事が開始された[32]。これに伴って敦賀には船川会所が、疋田の蔵屋敷には船を回転させるための船溜まりが作られ、翌文化14年8月11日(1817年9月21日)より船の運行が開始された。同月25日よりさらに上流への掘削が開始され、一旦追分の上まで完成したものの、閏8月4日の暴風雨により船川の6割が破壊され、同月6日の掘削再開後どこまで掘り進められたのかは不明である[33]。この疋田 – 敦賀間の船川は、北国の米の運搬に用いられるなどそれなりの活況をもたらしたとされるが、その後敦賀馬借座の訴願を受け、天保5年12月(1834年)には廃止された[33][16]。
安政 – 文久
運河の計画としては安政4年(1857年)のものも知られている[33][注 8]。これは遅くとも『京都御備之御趣意』が京都町奉行に出願された嘉永7年2月17日(1854年3月15日)には検討が開始されていたものとされ、この時点ですでに海津・大浦・塩津の3か村から、北国からの荷物の通線路がいずれになっても不服がない旨の同意が取り付けられていた。この『御趣意』の出願者(敦賀町人数名)・同意者(問屋仲間ら)・出資者(京都の町人で小浜藩御用達の小林金三郎・京都の糸割符村瀬孫祐[注 9])らは、小浜藩と関係が深かったものの、藩は表舞台には出ていない[34][36]。これに対して彦根藩は、彦根城の要害への支障[注 10]・米の価格低下・宿場の衰退といった損害を自藩が被り、柳ケ瀬関(彦根藩所管)・剣熊関(郡山藩所管)の趣意にも関わるとし、反対を唱えた[34]。京都町奉行や小浜藩関係者の現地検分を経て、安政3年12月13日(1857年1月8日)には京都所司代が京都町奉行に対して「掘割一條」の許可を出したが、これは敦賀 – 琵琶湖間の運河計画ではなく、敦賀 – 疋田間の船川整備(船川と船溜まりは文化期のものを再利用)と深坂越の道整備の計画であった[37]。彦根藩は計画の中止・延期を求めて様々な運動を進めたが、越前側では小浜藩が安政4年2月(1857年)以降順次船川普請(敦賀・鵜原・下道口)・道普請(追分 – 深坂峠)を実施し、近江側でも3月から深坂峠の道普請が、5月からは大浦の船川普請が行われ、敦賀 – 疋田間および山門 – 大浦間は水路、疋田 – 山門間ないし疋田 – 塩津間は陸路を用いる経路が整備された[38]。この内新たに開削されたのは、山門村字茶屋 – 大浦村出郷字稲田の区間である[39]。七里街道に通じる海津ではなく大浦が選ばれたのは、川船の通行に適していると判断されたためと考えられる。敦賀 – 疋田間の船川は曳舟の人夫を多く必要とするため陸路に対する優位性が低く、文久年間の深坂越開削計画に関する報告[注 11]の時点で、すでに通船は中止となっていた[40]。
慶応
慶応年間には、加賀藩による計画と小沢一仙による計画の2つが並行して進められた[41]。
加賀藩は、慶応2年12月16日(1867年1月21日)に幕府から単独事業の許可を得、翌慶応3年2月から4月にかけて石黒信基[注 12]らを派遣し敦賀 – 琵琶湖間6経路につき詳細な測量を行った[41]。この際、安政期の計画にも関わった深坂問屋の小林金三郎が案内・図面提供を行っている[43]。
小沢一仙は、慶応2年8月(1866年)幕府に対し、敦賀 – 琵琶湖間に運河を掘り瀬田川を通じ京都・大坂まで船を通すことにより前述の西廻り航路の不安を解消できるという『江湖切割』の建白書を提出、幕府の指示により加賀藩に計画を示し敦賀周辺を検分の後、慶応3年5月(1867年)加賀藩に計画書と絵図を提出している[43][44]。この絵図には、深坂峠の隧道も示されている[44]。
このほか幕末のものとしては、大阪湾が異国船に占領された場合の対策として琵琶湖 – 伊勢湾間を結ぶとする計画が彦根藩に残されている[45]。
近代
明治5年には吉田源之助が、敦賀 – 琵琶湖間に運河を掘削し淀川を経由して敦賀 – 大阪間を汽船で結ぶという「阪敦運河」計画を立案、熱心に請願活動をおこなった結果1905年(明治38年)に貴族院で採択されたものの、日露戦争中であったことなどから実現には至らなかった[2]。その後1935年(大正13年)には源之助の子で陸軍大尉の吉田幸三郎が、「阪敦大運河計画」を発表した。この計画には、敦賀 – 塩津間の水路掘削だけでなく、大津 – 京都間の逢坂山のトンネル掘削と淀川右岸の水路掘削も含まれており、3000トン級の汽船や4000トン級の軍艦の通船を可能とするとともに、琵琶湖の水位を半分ほどにまで下げて干拓地を開墾するいう構想であった[2][46]。
1933年(昭和8年)には、琵琶湖疏水[注 13]の築造にも携わった土木技師の田邊朔郎が、敦賀 – 塩津間に幅85メートル・水深10メートル規模の運河を掘削し、1万トン級の船舶を日本海 – 大阪湾間に通すという「大琵琶湖運河計画」を発表[2][46]。敦賀 – 琵琶湖間の水位調整には閘門方式を採用するとし、その動力源として運河沿いに4箇所の水力発電所を建設することも計画された[2]。敦賀 – 琵琶湖間の工費は2億1800万円、淀川の改修工事を含めた総工費は5億7665億円[注 14]、工事期間は約10年と試算されていた[2]。田邊はこの計画について、羅津 – 大阪間を門司経由に比して5 – 10時間ほど短縮できるなど満州や朝鮮半島と京阪の工業地帯との物流ネットワークの整備拡張に繋がり[注 15]、淀川周辺に工業地帯を作ることで京阪地域の経済生産力にも寄与すると述べている[2]。1935年(昭和10年)には、田邊案と同様の効果を謳い同案よりも建設費用がかからないとする艀鉄道(鉄道に艀を乗せて運ぶ方式)も谷口嘉六と宮部義男により提案されたが、戦局の悪化により実現しなかった[10]。
高度経済成長期
第二次世界大戦後の高度経済成長期にも日本海と太平洋をつなぐ構想が持ち上がっている[49]。これは揖斐川と琵琶湖を利用して伊勢湾と敦賀湾とを運河で結び、3万トン級の大きさの船舶を通そうという計画であった[49][50][10]。中京地域を中心に議論が進められ、中部運河の仮称で呼ばれていたほか、中部横断運河とも呼ばれる[49][50]。
ルート
この構想における運河のルート案の一つは、次のようなものだった。伊勢湾岸から約25キロメートルの区間は揖斐川を利用し、その地点(岐阜県内)から滋賀県長浜市(当時の長浜市域)北方の琵琶湖岸までの約44キロメートルの運河を開削。そこから塩津(当時西浅井村)まで約20キロメートルは琵琶湖上を利用し、塩津から敦賀湾岸までは約19キロメートルの運河を開削するもの。全長約108キロメートルとされた[51]。伊勢湾 – 揖斐川 – 姉川 – 琵琶湖 – 塩津 – 敦賀ルートの総工費は、 2500億円から3500億円[注 16]とされた[52]。
その他に、揖斐川に岐阜港を設け、トンネル方式で琵琶湖を通らず敦賀湾につなげるルートが運輸省で検討された[53]。
計画の経緯
1959年のセントローレンス海路開通により日本でも運河の認知が高まり、北栄造福井県知事が積極的な姿勢を示したことから本格化した。当初は敦賀湾から琵琶湖を経て大阪湾とつなぐ阪敦運河構想だったが、平田佐矩四日市市長などの推進により、揖斐川と姉川を経由するルートで計画が進むこととなった[52]。
計画の経緯は、次のようなものだった[54]。1961年(昭和36年)5月、当時自由民主党副総裁であり岐阜県出身者でもある大野伴睦が三重県四日市市を訪れた折、平田佐矩市長から大運河構想を聞き、それについての協力を要請された。9月13日、北伊勢工業地帯開発協議会において、運河建設の可能性を検討するための調査をパシフィックコンサルタンツに依頼すること、調査費は愛知・三重・岐阜・滋賀・福井の5県で分担することなどが話し合われた。
調査の結果は、1962年(昭和37年)1月に発表された。1962年(昭和37年)8月、5県の知事と四日市・名古屋・敦賀の3市長により「中部運河計画協議会」が結成された。また、5県選出の国会議員により「中部運河建設促進議員同盟」が結成され、大野伴睦が会長に就いた。大野は「私の政治生命をかけて運河完成に努力する」と言明した。日本国政府の昭和38年度予算には、1000万円の調査費が計上され、これは昭和39年度予算では倍増された。
ところが、1964年(昭和39年)の大野の急死、昭和40年代の海運不況、さらには経済効果に対する疑問のため、構想の気運は減じていくこととなる。1970年には中部圏開発整備本部が調査の打ち切りが発表され[52]、運河計画は実現に至らなかった。
期待された効果
計画が実現すると、伊勢湾と敦賀湾との間を航行するのにかかる時間は、関門海峡を経由する航路の36時間に対して、北行きで14時間、南行きで20時間と半分程度に短縮されるはずであった[51]。また、時間短縮効果以外にも、内陸県の岐阜県と滋賀県が海に直結する、太平洋側に比べて発展の遅れた日本海側の発展を促進する、琵琶湖の増水被害を減少させる効果があるとされた[54]。
1990年代以降
1993年(平成5年)には、敦賀から大阪湾に運河を整備する構想の検討がなされた。1250トン級の船舶を想定し、総延長は157キロメートル、総事業費はおよそ2千億円と試算された。敦賀 – 大浦 – 琵琶湖 – 天ヶ瀬ダム - 枚方 – 淀川 – 大阪湾に運河を整備し、8段の閘門と2箇所のインクライン、1箇所のトンネルが考えられていた[55][53]。
2016年(平成28年)9月には、自民党福井県連が「一億総活躍社会」関連施策の同県における目玉として、「本州横断運河構想」の検討会を立ち上げている。これは、敦賀湾 – 琵琶湖間と琵琶湖 – 大阪湾間に運河を整備する構想であり、増加が予想される海外からのクルーズ船による観光需要などを想定しているという[55][56]。
注釈
- ^ 用田 (2011, p. 164) は、経済・軍事的要請が主であり、
治水の目的などは付け足しでしかなかった
とする。 - ^ 杉江 (2007b, p. 66) は
従来はこの〔『北窓瑣談』の〕記述から『運河』計画と理解していたことになるが、
とする。新田を開かんとし
たことが目的とされているのはあきらかである - ^ 以下和暦・西暦の換算には、出典として示した資料のほか、適宜「和暦から西暦変換(年月日)」(『keisan』、カシオ計算機)を利用した。
- ^ 吉継が大岩に阻まれ掘削を断念した跡は、太閤のけつわり堀の名で現代に伝えられている[21][17]。
- ^ 田中四郎左衛門とは親子ないし同一人物と推測されている。また、『敦賀郡誌』等においては岡島屋源右衛門・田中屋四郎右衛門ら5人とされる[24]。
- ^ 杉江 (2007b, pp. 69f.) は、元禄期にはほかにも2つの計画があった可能性を(京都の商人らの計画との関連性や混同の可能性もあるとしつつ)指摘しており、そのうち1つは淀川の改善にも尽力した河村瑞賢に関わる伝承である。
- ^ 幸阿弥長救(こうあみ ちょうきゅう、1661年 – 1723年)。幸阿弥家代12代当主。与兵衛は通称[27]。
- ^ この計画については、小浜藩と彦根藩の対立という構図から、のちの安政の大獄の前史と位置づける研究がある[34][35]。
- ^ 孫助・孫介などとも[34]。
- ^ 杉江 (2007b, p. 76) は、琵琶湖の水位低下による堀の機能不全の意と推測する。
- ^ 中之郷村の田中治右衛門と川並村の桐畑善四郎の連名。彦根藩が船川と深坂峠の普請について隠密に内見命じ、その結果として作成された[40]。
- ^ いしぐろ のぶもと、1836年 – 1869年。石黒信由の曾孫の和算家[42]。
- ^ 明治23年(1890年)に完成した琵琶湖疏水は、京都への物資輸送にも用いられた[47]
- ^ 1933年の戦前基準企業物価指数は0.951(2020年は675.7)[48]。
- ^ 田邊は、満州 – 日本間の「船鉄道」就航も提案している[2]。
- ^ 1960年の国内企業物価指数は48.1(2020年は100.3)[48]。
出典
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- 辻川, 哲朗「運河計画④ — 現実的?な艀鉄道も頓挫」『産経新聞』産業経済新聞社、2008年11月23日、滋賀、20面。
- 「敦賀から横断運河構想 昭和30年代の計画再び」『日刊県民福井』中日新聞社、2016年9月4日。オリジナルの2016年9月27日時点におけるアーカイブ。
- 「敦賀湾と琵琶湖つなぐ運河を検討 自民党福井県連が会を設立へ」『福井新聞』福井新聞社、2016年9月4日。オリジナルの2016年10月13日時点におけるアーカイブ。
- その他