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2021年11月4日 (木) 22:49時点における版
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---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
ラテン文字 | Éric Assadourian | |||||
アルメニア文字 | Էրիկ Ասադուրյան | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
アルメニア フランス | |||||
生年月日 | 1966年9月24日(58歳) | |||||
出身地 | サン=モーリス | |||||
身長 | 175cm | |||||
体重 | 70kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1984-1986 | INFヴィシー | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1986-1990 | トゥールーズ | 61 | (9) | |||
1987-1988 | → ギャンガン (loan) | 12 | (1) | |||
1990-1995 | リール | 178 | (27) | |||
1995-1996 | オリンピック・リヨン | 30 | (2) | |||
1996-1997 | ギャンガン | 9 | (0) | |||
1997-1998 | ルーアン-キュイゾー | 35 | (8) | |||
1998-1999 | ボーヴェ・オワーズ | 35 | (13) | |||
1999-2001 | ヴァランス | 58 | (11) | |||
1986-2001 | 合計 | 418 | (71) | |||
代表歴 | ||||||
1996-1998 | アルメニア | 12 | (3) | |||
監督歴 | ||||||
2004-2005 | スタッド・ブレストU-18 | |||||
2008-2011 | ランスU-18 | |||||
2011-2012 | ランスB | |||||
2012-2014 | レフウィヤU-18 / B | |||||
2014- | スタッド・ブレストU-19 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
エリック・アサドゥリアン(ラテン語: Éric Assadourian, アルメニア語: Էրիկ Ասադուրյան, 1966年6月24日 - )は、フランス・サン=モーリス出身の元サッカー選手、元アルメニア代表。現サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード。
経歴
クラブ
ユース時代をフランス国立サッカー施設の1つINFヴィシーにて研鑽を積み、1986年8月にディヴィジオン・アン (1部)のトゥールーズFCからプロキャリアを開始[1]し、ASモナコ戦で初出場を飾る[2]。トゥールーズでは当初控えだったが、ディヴィジオン・ドゥのEAギャンガンへの期限付き移籍から復帰後は、定位置を確保し、ジャック・サンティニ監督の下でオマール・ダ・フォンセカ、アルベルト・マウリシオ、ドミニク・ロシュトーらと共に攻撃を担った[2]。
1990年7月、かつて師事したサンティニ監督率いるリールと契約する[2]。リールに在籍した5シーズンにおいて、6人の監督の指導、また、攻撃陣を様々な選手が入れ替わり立ち代りで起用されていたが、自身は一貫してレギュラーでプレーし、178試合27得点を記録する[2]等、全盛期を迎えており、その活躍がオリンピック・リヨンのジャン=ミシェル・オラス会長の目に留まり、1995年6月に3年契約で引きぬかれた[3]。しかし、UEFAカップ1995-96のSSラツィオ戦で1得点1アシスト[4]、クープ・ドゥ・ラ・リーグで決勝進出に貢献したものの、全体的なパフォーマンスを理由に僅か1シーズンで退団することになる。1996-97シーズンは、過去に在籍したギャンガンでのスタートとなり[5]、UEFAインタートトカップ 1996を制しているが、負傷の影響もあってリーグ戦では9試合と振るわず、しばしばリザーブチームで起用されており、クープ・ドゥ・フランス決勝は未出場に終わった。
1997-98シーズンもギャンガンに所属していたが、出場機会を得ることが出来なかった。その為、シーズン途中でディヴィジオン・ドゥ (2部)のCSルーアン-キュイゾーへ移籍することになると、従来のサイドハーフと違いフォワードとして8得点と一定の数字を残すも、チームの降格を防ぐことは出来ず、翌1998-99シーズンに移籍したASボーヴェ・オワーズでもフォワードとして13得点を挙げたにもかかわらず、再度チームの降格を経験した。
1999-2000シーズン、自身と同じくアルメニアに起源を持つASOAヴァランスと契約する。ヴァランスでは、フォワード及びミッドフィルダーとして奮闘するも3度目となるフランス全国選手権 (3部)を経験する。翌2000-01シーズンも残留すると、3部のチームながらクープ・ドゥ・ラ・リーグとクープ・ドゥ・フランスの両方でベスト16進出に貢献し、リーグ戦では6得点を挙げた。
代表
世代別のフランス代表としてエリック・カントナ、ジョスリン・アングロマらと共にプレーした後、アルメニアのエレバン出身の父に持つアサドゥリアンは、1998 FIFAワールドカップを目指し、1996年にアルメニアA代表としてプレーすることを決意し[1]、1996年10月5日に1998 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選の北アイルランド戦 (1-1)において初出場を飾り、1997年8月20日の同予選ポルトガル戦 (1-3)において初得点を記録した[1]。
ワールドカップ出場を逃した後も招集され、UEFA EURO 2000予選にも参加していたが、1999年3月31日のフランス戦を目前にして監督から戦力外を言い渡された[1]。
指導者
2001年7月に現役引退をした[2]後は、まず、2004-05シーズンにスタッド・ブレスト29のU-18チームを率いて[6]2005年まで在籍する[7]。2008年からはRCランスのU-18チームを指導し、フランスU-18選手権優勝に導くと、2011年にはフランスアマチュア選手権のBチームを担当[8]し、7位でシーズンを終了した。2012年から2014年までレフウィヤSC (カタール1部)のBチームやユースチームを指揮した後、2014年6月にU-19チームの監督としてブレストに9年ぶりに復帰した[7][9]。
個人成績
クラブでの成績
所属クラブ | シーズン | リーグ | 国内カップ | 国際大会 | 合計 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
所属リーグ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
トゥールーズ | 1986-87 | ディヴィジオン・アン | 16 | 0 | 3 | 1 | 2 | 0 | 21 | 1 |
1987-88 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | ||
1988-89 | 22 | 6 | 3 | 0 | 0 | 0 | 25 | 6 | ||
1989-90 | 21 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 21 | 3 | ||
合計 | 61 | 9 | 6 | 1 | 3 | 0 | 70 | 10 | ||
ギャンガン (loan) | 1987-88 | ディヴィジオン・ドゥ | 12 | 1 | 0 | 0 | - | 12 | 1 | |
合計 | 12 | 1 | 0 | 0 | - | 12 | 1 | |||
リール | 1990-91 | ディヴィジオン・アン | 35 | 4 | 2 | 0 | 0 | 0 | 37 | 4 |
1991-92 | 33 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 34 | 6 | ||
1992-93 | 38 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 29 | 6 | ||
1993-94 | 35 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 36 | 6 | ||
1994-95 | 37 | 5 | 3 | 1 | 0 | 0 | 40 | 6 | ||
合計 | 178 | 27 | 8 | 1 | 0 | 0 | 186 | 28 | ||
オリンピック・リヨン | 1995-96 | ディヴィジオン・アン | 30 | 2 | 6 | 0 | 5 | 1 | 41 | 3 |
合計 | 30 | 2 | 6 | 0 | 5 | 1 | 41 | 3 | ||
ギャンガン | 1996-97 | ディヴィジオン・アン | 9 | 0 | 2 | 0 | 7 | 1 | 18 | 1 |
1997-98 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||
合計 | 9 | 0 | 2 | 0 | 7 | 1 | 18 | 1 | ||
ルーアン-キュイゾー | 1997-98 | ディヴィジオン・ドゥ | 35 | 8 | 2 | 0 | - | 37 | 8 | |
合計 | 35 | 8 | 2 | 0 | - | 37 | 8 | |||
ボーヴェ・オワーズ | 1998-99 | ディヴィジオン・ドゥ | 35 | 13 | 2 | 1 | - | 37 | 14 | |
合計 | 35 | 13 | 2 | 1 | - | 37 | 14 | |||
ヴァランス | 1999-2000 | ディヴィジオン・ドゥ | 30 | 6 | 1 | 0 | - | 31 | 6 | |
2000-01 | フランス全国選手権 | 28 | 5 | 4 | 0 | - | 6 | 0 | ||
合計 | 58 | 11 | 5 | 0 | - | 63 | 11 | |||
キャリア通算成績 | 418 | 71 | 31 | 3 | 15 | 2 | 464 | 76 |
代表での成績
出典:[12]
アルメニア代表 | ||
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
1996 | 3 | 1 |
1997 | 7 | 2 |
1998 | 2 | 0 |
Total | 12 | 3 |
代表での得点
出典:[13]
# | 開催日 | 開催地 | 対戦国 | スコア | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1996年10月5日 | ベルファスト | 北アイルランド | 0-1 | 1-1 | 1998 FIFAワールドカップ予選 |
2. | 1997年8月20日 | セトゥーバル | ポルトガル | 2-1 | 3-1 | |
3. | 1997年9月6日 | エレバン | アルバニア | 3-0 | 3-0 |
獲得タイトル
- クラブ
脚注
- ^ a b c d "Assadourian : «L'Arménie ? En dehors du gardien de but et du meneur de jeu…»"
- ^ a b c d e "Éric Assadourian, un passage remarqué à Lille avant de signer à Lyon"
- ^ "TENNIS" humanite.fr
- ^ "Lyon-Lille, l'axe du mâle"
- ^ "45 millions de F de budget prévisionnel"
- ^ "La saison 2004-2005" sb29.com
- ^ a b "Éric Assadourian : « Tendre vers l'élitisme »"
- ^ "RC Lens : Éric Assadourian est le nouveau chef de passerelle avec les « pros »"
- ^ "Éric Assadourian, nouveau directeur du centre de formation" sb29.com
- ^ “ERIC ASSADOURIAN”. lequipe. 13 May 2015閲覧。
- ^ “Eric Assadourian”. footballdatabase. 13 May 2015閲覧。
- ^ “Éric Assadourian”. national-football-teams. 13 May 2015閲覧。
- ^ “Eric Assadouryan”. eu-football. 13 May 2015閲覧。
外部リンク
- footballzz
- transfermarkt (player)
- transfermarkt (manager)