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*'''出生から中等女学校在学時とシューベルトの野ばら'''
*'''出生から中等女学校在学時とシューベルトの野ばら'''
1916年3月19日に[[東京市]][[小石川区]](現在の[[東京都]][[文京区]])で、[[野村胡堂|新聞記者で作家の父 野村長一]]と[[日本女子大学附属中学校・高等学校|日本女子大学校附属高等女学校]]の[[教諭]]であった母ハナ(旧姓橋本)のもと、4人姉兄妹の2女として生を受ける。[[文化人]]の[[両親]]の下にて、[[文化的]]に恵まれた家庭に育つ<ref name="a">『〈少女小説〉ワンダーランド - 明治から平成まで』165頁。</ref>。けい子は小学校時代から[[読書]]を好み、また[[野村胡堂|父親長一]]が[[コレクション]]している[[クラシック音楽]]の[[SPレコード]]も、[[蓄音機]]を自分で扱える様になると、複数ある[[蓄音機]]の一つを自室に置かせてくれていた。そして好みのレコードを自由に貸して貰える様になった。その[[レコード]]は自由に掛けさせてくれていた為に、[[外国語]]にも強くなって行く事に繋がった。[[オランダ]]の[[コントラルト]][[歌手]][[ユリア・クルプ]]の歌う、[[シューベルト]][[作曲]]の『[[野ばら(シューベルト)|野ばら]]』と、[[ドイツ]]の[[ソプラノ]][[歌手]][[ロッテ・レーマン|シャルロッテ・レーマン]]の歌う[[シューマン]][[作曲]]の『[[女の愛と生涯(シューマン)|女の愛と生涯]]』を特に好んでいた。特に[[|父親]|の[[書斎]]に置いてある[[蓄音機]]は[[ビクタートーキングマシン|アメリカヴィクター]]の最[[高級]]機で8-30[[クレデンザ]]と云う[[アコースティック|機械式]]の[[蓄音機]]で、[[最高]]に良い[[音]]で再生出来る、と云われて来た[[蓄音機]]の中の1つであった。複数の部屋の[[キャビネット]]に[[レコード]]は置かれているが、聴きたい[[レコード]]が置いてある部屋の[[蓄音機]]で聴いていた。聴きたい[[レコード]]が置いてある[[野村胡堂|父親]]の[[書斎]]に、余りにも[[頻繁]]に[[レコード]]を聴きに行く為に、父親から「大事にするなら、好きな[[レコード]]は貸して於くから、自分の部屋に持って行って自分の部屋で聴きなさい」と言われたので、「それなら[[ユリア・クルプ|クルプ]]の歌う[[シューベルト]]の『[[野ばら(シューベルト)|野ばら]]』が欲しい」と言うと、[[野村胡堂|父親]]はその[[レコード]]を渡してくれた。[[レコード]]を自分用のレコードケースに仕舞って、自室へ持って来て置き、暫くは毎日掛けて聴いていた。暫くすると[[野村胡堂|父親]]が様子を見に来た時に「余り聴いてばかり居ると、レコードが擦り切れて仕舞うよ」と注意された。でも「1日に1度だから平気よ」と答えて安心して貰うつもりで言うと、[[野村胡堂|父親]]は「1日に1回だと,10日で10回,1月で30~31回,1年で365回,10年で3650回,50年で18250回だから、けい子がお婆さんに成る頃には、レコードが擦り切れて無くなって仕舞うよ」と言われて仕舞った。「マァ」と応えるしか無かった。けい子は後の[[疾病]][[療養]]中にも、[[野村胡堂|父親]]に聴かせて欲しいとせがんだと云う。その為高等女学校時代には[[外国語]]の[[物語り]]を[[原語]]での[[読破]]が[[可能]]である等、[[学力]]、[[文筆]]力の高い[[能力]]を持った事が、[[作品]]を[[執筆]]する事が出来る基となった筈である。[[中等]][[女学校]][[在学中]]の15歳の時に『お人形の歌』と云う[[短編]][[童話]]の[[執筆]]を開始した。
1916年3月19日に[[東京市]][[小石川区]](現在の[[東京都]][[文京区]])で、[[野村胡堂|新聞記者で作家の父 野村長一]]と[[日本女子大学附属中学校・高等学校|日本女子大学校附属高等女学校]]の[[教諭]]であった母ハナ(旧姓橋本)のもと、4人姉兄妹の2女として生を受ける。[[文化人]]の[[両親]]の下にて、[[文化的]]に恵まれた家庭に育つ<ref name="a">『〈少女小説〉ワンダーランド - 明治から平成まで』165頁。</ref>。けい子は小学校時代から[[読書]]を好み、また[[野村胡堂|父親長一]]が[[コレクション]]している[[クラシック音楽]]の[[SPレコード]]も、[[蓄音機]]を自分で扱える様になると、複数ある[[蓄音機]]の一つを自室に置かせてくれていた。そして好みのレコードを自由に貸して貰える様になった。その[[レコード]]は自由に掛けさせてくれていた為に、[[外国語]]にも強くなって行く事に繋がった。[[オランダ]]の[[コントラルト]][[歌手]][[ユリア・クルプ]]の歌う、[[シューベルト]][[作曲]]の『[[野ばら(シューベルト)|野ばら]]』と、[[ドイツ]]の[[ソプラノ]][[歌手]][[ロッテ・レーマン|シャルロッテ・レーマン]]の歌う[[シューマン]][[作曲]]の『[[女の愛と生涯(シューマン)|女の愛と生涯]]』を特に好んでいた。特に[[父親]]|の[[書斎]]に置いてある[[蓄音機]]は[[ビクタートーキングマシン|アメリカヴィクター]]の最[[高級]]機で8-30[[クレデンザ]]と云う[[アコースティック|機械式]]の[[蓄音機]]で、[[最高]]に良い[[音]]で再生出来る、と云われて来た[[蓄音機]]の中の1つであった。複数の部屋の[[キャビネット]]に[[レコード]]は置かれているが、聴きたい[[レコード]]が置いてある部屋の[[蓄音機]]で聴いていた。聴きたい[[レコード]]が置いてある[[野村胡堂|父親]]の[[書斎]]に、余りにも[[頻繁]]に[[レコード]]を聴きに行く為に、父親から「大事にするなら、好きな[[レコード]]は貸して於くから、自分の部屋に持って行って自分の部屋で聴きなさい」と言われたので、「それなら[[ユリア・クルプ|クルプ]]の歌う[[シューベルト]]の『[[野ばら(シューベルト)|野ばら]]』が欲しい」と言うと、[[野村胡堂|父親]]はその[[レコード]]を渡してくれた。[[レコード]]を自分用のレコードケースに仕舞って、自室へ持って来て置き、暫くは毎日掛けて聴いていた。暫くすると[[野村胡堂|父親]]が様子を見に来た時に「余り聴いてばかり居ると、レコードが擦り切れて仕舞うよ」と注意された。でも「1日に1度だから平気よ」と答えて安心して貰うつもりで言うと、[[野村胡堂|父親]]は「1日に1回だと,10日で10回,1月で30~31回,1年で365回,10年で3650回,50年で18250回だから、けい子がお婆さんに成る頃には、レコードが擦り切れて無くなって仕舞うよ」と言われて仕舞った。「マァ」と応えるしか無かった。けい子は後の[[疾病]][[療養]]中にも、[[野村胡堂|父親]]に聴かせて欲しいとせがんだと云う。その為高等女学校時代には[[外国語]]の[[物語り]]を[[原語]]での[[読破]]が[[可能]]である等、[[学力]]、[[文筆]]力の高い[[能力]]を持った事が、[[作品]]を[[執筆]]する事が出来る基となった筈である。[[中等]][[女学校]][[在学中]]の15歳の時に『お人形の歌』と云う[[短編]][[童話]]の[[執筆]]を開始した。


*'''高等女学校在学時'''
*'''高等女学校在学時'''
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幼少時より[[野村胡堂|父親]]が好んで聴いていた[[クラシック音楽]]の[[SPレコード]]を、学校に入って[[蓄音機]]を扱える様になると、自由に好きな[[レコード]]を貸してくれて、自分で聴きたい曲を掛けて聴いていた。[[シューベルト]]や[[シューマン]]作曲の[[歌曲]]、[[ヘンデル]]作曲の『[[救世主]]』等の、[[宗教歌]]曲を好んで聴いていた為に、この方からも小さい時から[[外国語]]を聴いて来ていた。之も外国語に長けていた後年の[[基礎]][[知識]]になった。
幼少時より[[野村胡堂|父親]]が好んで聴いていた[[クラシック音楽]]の[[SPレコード]]を、学校に入って[[蓄音機]]を扱える様になると、自由に好きな[[レコード]]を貸してくれて、自分で聴きたい曲を掛けて聴いていた。[[シューベルト]]や[[シューマン]]作曲の[[歌曲]]、[[ヘンデル]]作曲の『[[救世主]]』等の、[[宗教歌]]曲を好んで聴いていた為に、この方からも小さい時から[[外国語]]を聴いて来ていた。之も外国語に長けていた後年の[[基礎]][[知識]]になった。


このような[[欧米]]の[[少女小説]]を思わせる作風は、[[ヨハンナ・スピリ]]作の『[[アルプスの少女ハイジ]]』や『[[若草物語]]』を[[愛読]]し、[[幼少時期]からの[[外国語]]での歌曲を[[多数]]聴いて来た事と、更に大学の[[外語学科]]で[[語学]]を[[修め]]て『[[若草物語]]』や『[[小公子]]』を[[原語]]で読める[[語学力]]を身につけた体験が大きく影響している<ref name="a"/>。[[上笙一郎]]は彼女の一連の作品に高い[[評価]]を与える一方で、[[登場人物]]を[[年齢相応]]に描写できていないと、残念ながら[[早逝]]して仕舞ったので、[[円熟期]]を迎える事が出来なかった[[人生経験]]の[[乏しさ]]故の[[欠点]]を[[指摘]]している。<ref>『[[少年小説体系]]第25巻 [[少女小説名作集]](二)』 553頁。</ref>。
このような[[欧米]]の[[少女小説]]を思わせる作風は、[[ヨハンナ・スピリ]]作の『[[アルプスの少女ハイジ]]』や『[[若草物語]]』を[[愛読]]し、[[幼少時期]]からの[[外国語]]での歌曲を[[多数]]聴いて来た事と、更に大学の[[外語学科]]で[[語学]]を[[修め]]て『[[若草物語]]』や『[[小公子]]』を[[原語]]で読める[[語学力]]を身につけた体験が大きく影響している<ref name="a"/>。[[上笙一郎]]は彼女の一連の作品に高い[[評価]]を与える一方で、[[登場人物]]を[[年齢相応]]に描写できていないと、残念ながら[[早逝]]して仕舞ったので、[[円熟期]]を迎える事が出来なかった[[人生経験]]の[[乏しさ]]故の[[欠点]]を[[指摘]]している。<ref>『[[少年小説体系]]第25巻 [[少女小説名作集]](二)』 553頁。</ref>。


== 受容 ==
== 受容 ==
[[元々]][[趣味]]で[[執筆]]しており[[家族]]や[[友人]][[親類]]に読んでもらうのみであった松田の作品を世に送り出したのは、妹や従姉妹が喜んで読んで居るのを見て、自分でも読んで見た[[作家]]でもある[[野村胡堂|父の長一]]と[[児童文学者]]の[[村岡花子]]の[[尽力]]が大きい<ref>[[文芸家協会]]の会合の際に[[長谷川時雨]]から村岡を紹介されて娘の[[文才]]を明かしたのだという([[太田愛人]]「人間関係の贅沢」『[[村岡花子と赤毛のアンの世界]]』[[河出書房新社]])。</ref>。当時の村岡は『[[少女の友]]』の編集に携わっていたが、「若い心の願望や野心や欲求がその最も健やかな崇高な清らかな方向に発展した姿」<ref>『少女の友創刊100周年記念号』 241頁。</ref>が描かれた松田の作品に触れ、唯一生前に発行したが[[自費出版]]に近い形で『七つの蕾』を刊行することになった。松田の没後に『紫苑の園』を刊行してから、同年10月には『小さき碧』、翌[[1942年]](昭和17年)5月には『サフランの歌』の単行本が『紫苑の園』同様に[[甲林出版]]から刊行され、[[戦後]]まで[[重版]]されることとなった。
[[元々]][[趣味]]で[[執筆]]しており[[家族]]や[[友人]][[親類]]に読んでもらうのみであった松田の作品を世に送り出したのは、妹や従姉妹が喜んで読んで居るのを見て、自分でも読んで見た[[作家]]でもある[[野村胡堂|父の長一]]と[[児童文学者]]の[[村岡花子]]の[[尽力]]が大きい<ref>[[文芸家協会]]の会合の際に[[長谷川時雨]]から村岡を紹介されて娘の[[文才]]を明かしたのだという([[太田愛人]]「人間関係の贅沢」『[[村岡花子と赤毛のアンの世界]]』[[河出書房新社]])。</ref>。当時の村岡は『[[少女の友]]』の編集に携わっていたが、「若い心の願望や野心や欲求がその最も健やかな崇高な清らかな方向に発展した姿」<ref>『少女の友創刊100周年記念号』 241頁。</ref>が描かれた松田の作品に触れ、唯一生前に発行したが[[自費出版]]に近い形で『七つの蕾』を刊行することになった。松田の没後に『紫苑の園』を刊行してから、同年10月には『小さき碧』、翌[[1942年]](昭和17年)5月には『サフランの歌』の単行本が『紫苑の園』同様に[[甲林出版]]から刊行され、[[戦後]]まで[[重版]]されることとなった。


[[戦後]]の[[1947年]](昭和22年)には、[[中原淳一]]が設立した[[ヒマワリ社]]から[[少女雑誌]]『[[ひまわり (少女雑誌)|ひまわり]]』が[[創刊]]されたが、[[創刊号]]には『人形の歌』が[[掲載]]され、[[1年間]][[連載]]されることとなった。また、ヒマワリ社は『ひまわり』の創刊と同時に[[ひまわりらいぶらりー文庫]]を[[発刊]]し、そのうちの1冊として『紫苑の園』が[[刊行]された。[[好評]]であったことから[[続編]]である『[[香澄]]』に加え、『七つの蕾』『サフランの歌』も[[ひまわりらいぶらりー文庫]]から[[刊行]]された。さらに[[1953年]](昭和28年)には、[[中央公論社]]から『紫苑の園』『七つの蕾』の[[単行本]]が刊行されるなど、多くの[[読者]]を[[獲得]]した。
[[戦後]]の[[1947年]](昭和22年)には、[[中原淳一]]が設立した[[ヒマワリ社]]から[[少女雑誌]]『[[ひまわり (少女雑誌)|ひまわり]]』が[[創刊]]されたが、[[創刊号]]には『人形の歌』が[[掲載]]され、[[1年間]][[連載]]されることとなった。また、ヒマワリ社は『ひまわり』の創刊と同時に[[ひまわりらいぶらりー文庫]]を[[発刊]]し、そのうちの1冊として『紫苑の園』が[[刊行]]された。[[好評]]であったことから[[続編]]である『[[香澄]]』に加え、『七つの蕾』『サフランの歌』も[[ひまわりらいぶらりー文庫]]から[[刊行]]された。さらに[[1953年]](昭和28年)には、[[中央公論社]]から『紫苑の園』『七つの蕾』の[[単行本]]が刊行されるなど、多くの[[読者]]を[[獲得]]した。


[[1980年]]代[[以降]]にも[[国書刊行会]]の[[淳一文庫]]として、[[ひまわりらいぶらりー文庫]]の[[単行本]]を[[底本]]とした[[単行本]]が刊行されている。『七つの蕾』『紫苑の園』が[[1985年]](昭和60年)に、『香澄』『サフランの歌』^が1988年(昭和63年)にそれぞれ刊行されている。[[ひまわりらいぶらりー文庫]]をもとにしているものの、12センチx12センチの[[判型]]から135パーセント拡大し、[[作品中]]に[[中原]]の[[飾罫]]や[[挿画]]を[[追加]]した。さらに、[[1997年]]([[平成]]9年)には[[大空社]]から[[松田瓊子全集]](全6巻)が[[発売]]された。
[[1980年]]代[[以降]]にも[[国書刊行会]]の[[淳一文庫]]として、[[ひまわりらいぶらりー文庫]]の[[単行本]]を[[底本]]とした[[単行本]]が刊行されている。『七つの蕾』『紫苑の園』が[[1985年]](昭和60年)に、『香澄』『サフランの歌』^が1988年(昭和63年)にそれぞれ刊行されている。[[ひまわりらいぶらりー文庫]]をもとにしているものの、12センチx12センチの[[判型]]から135パーセント拡大し、[[作品中]]に[[中原]]の[[飾罫]]や[[挿画]]を[[追加]]した。さらに、[[1997年]]([[平成]]9年)には[[大空社]]から[[松田瓊子全集]](全6巻)が[[発売]]された。

2021年10月29日 (金) 00:02時点における版

松田 瓊子(まつだ けいこ、1916年3月19日 - 1940年1月13日→以下“けい子”と記す)は、日本小説家報知社新聞記者で、SPレコード(主にクラシック音楽)初期から収集するコレクター蓄音機も高級機から普及機迄の所持も知られ、音楽評論家野村あらえびすとして書籍の執筆と小説家野村胡堂である野村長一。夫は東京大学名誉教授政治学者松田智雄

経歴

  • 出生から中等女学校在学時とシューベルトの野ばら

1916年3月19日に東京市小石川区(現在の東京都文京区)で、新聞記者で作家の父 野村長一日本女子大学校附属高等女学校教諭であった母ハナ(旧姓橋本)のもと、4人姉兄妹の2女として生を受ける。文化人両親の下にて、文化的に恵まれた家庭に育つ[1]。けい子は小学校時代から読書を好み、また父親長一コレクションしているクラシック音楽SPレコードも、蓄音機を自分で扱える様になると、複数ある蓄音機の一つを自室に置かせてくれていた。そして好みのレコードを自由に貸して貰える様になった。そのレコードは自由に掛けさせてくれていた為に、外国語にも強くなって行く事に繋がった。オランダコントラルト歌手ユリア・クルプの歌う、シューベルト作曲の『野ばら』と、ドイツソプラノ歌手シャルロッテ・レーマンの歌うシューマン作曲の『女の愛と生涯』を特に好んでいた。特に父親|の書斎に置いてある蓄音機アメリカヴィクターの最高級機で8-30クレデンザと云う機械式蓄音機で、最高に良いで再生出来る、と云われて来た蓄音機の中の1つであった。複数の部屋のキャビネットレコードは置かれているが、聴きたいレコードが置いてある部屋の蓄音機で聴いていた。聴きたいレコードが置いてある父親書斎に、余りにも頻繁レコードを聴きに行く為に、父親から「大事にするなら、好きなレコードは貸して於くから、自分の部屋に持って行って自分の部屋で聴きなさい」と言われたので、「それならクルプの歌うシューベルトの『野ばら』が欲しい」と言うと、父親はそのレコードを渡してくれた。レコードを自分用のレコードケースに仕舞って、自室へ持って来て置き、暫くは毎日掛けて聴いていた。暫くすると父親が様子を見に来た時に「余り聴いてばかり居ると、レコードが擦り切れて仕舞うよ」と注意された。でも「1日に1度だから平気よ」と答えて安心して貰うつもりで言うと、父親は「1日に1回だと,10日で10回,1月で30~31回,1年で365回,10年で3650回,50年で18250回だから、けい子がお婆さんに成る頃には、レコードが擦り切れて無くなって仕舞うよ」と言われて仕舞った。「マァ」と応えるしか無かった。けい子は後の疾病療養中にも、父親に聴かせて欲しいとせがんだと云う。その為高等女学校時代には外国語物語り原語での読破可能である等、学力文筆力の高い能力を持った事が、作品執筆する事が出来る基となった筈である。中等女学校在学中の15歳の時に『お人形の歌』と云う短編童話執筆を開始した。

  • 高等女学校在学時

かつてのハナが岩手県から上京し学んだ、母の母校でもあり、卒業後に教諭として教えている日本女子大学校附属高等女学校(現在の日本女子大学附属中学校・高等学校)に入学した頃から少女小説を書き始め、高等女学校卒業の頃に、以前執筆した短編童話『お人形の歌』を源話とした、初めての長編である『人形の歌』を完成する。この頃趣味執筆した『つぼみ・つぼみ』を、従姉妹や妹の稔子が楽しそうに喜んで読んで居るのを、父親長一が気付き、その作品拝読をすると、文章の進め方等の筆力の高さに驚愕をして、この侭遊びで終わらせるのは惜しいと、父親知人村岡はなに相談し、この作品を出版させる事となった。19歳から20歳に懸けて『つぼみ・つぼみ』を原話とする長編を『七つの蕾』として完成させる。1937年(昭和12年)1月に『少女小説物語七つの蕾』として教育社から単行本として出版刊行された。生前婚姻前の出版発行である為、唯一"野村けい子"の著者名での発行である。の野村→松田稔子装丁を手掛け、序文には、父親が相談をした村岡花子推薦の言葉が記載される。

  • 日本女子大学校在学中と婚約,退学時

日本女子大学校附属高等女学校卒業後は日本女子大学校(現在の日本女子大学英文科に入学する。2年次在学中に松田智雄と知故を得て交際を求められ快諾した後、婚約も強く求められ快諾をした。しかしその頃にが止まらなくなり、病院医師診療を受けるが、その診断の結果気管支カタルで、原因は、此の当時に不治の病と云われる肺結核罹患していた。その為に、やむを得ず日本女子大学校退学をする事になり療養に励む事にした。疾病療養退学をした為に日本女子大学校卒業生名簿には氏名記載は無い。頭脳明晰であったのだが卒業する事は残念ながら出来なかった。[2]

  • 退学,婚姻後と没後

1937年(昭和12年)の秋に婚約中であった政治学者松田智雄の下へ嫁いだ嫁入り後は長編『紫苑の園』、短編野の小路』を書き終えて完成した。父親へは組物のレコードもせがんでいた。しかし大好きな筈のユリア・クルプの歌うシューベルト作曲野ばらビクターレコードが、実家のかつての自室にケースへ入れた状態で置いて行っていた。医師診療を受けながら療養をし、体調の良い時には作品を執筆していた。長編『蔓ばらの咲く家』を執筆中肺結核によって体力が弱っていた為に、慢性腹膜炎(結核性腹膜炎)を発症し、1940年(昭和15年)1月16日に23歳で死去をした。父の長一はいずれレコードを届けてあげようと考え乍ら遂に叶わずだったと悲しんだと云う。智雄は亡きけい子が優れた文学作品遺稿として遺している事を知った為、義父にあたる長一に相談をした。その結果、遺された残作品の全てを出版する事となり、翌年の1941年(昭和16年)に『紫苑の園』の単行本甲林書房から出版刊行された。『紫苑の園』には『七つの蕾』と同様に、稔子装丁と、村岡花子序文(前書き)に加え、文筆家父長一と、大学教授夫智雄後書き)がある。神谷美恵子友人である義兄の手伝いをしていたので、はけい子の稔子と交際をする事となり、父親婚約快諾をされ、亡き(けい子本人)の夫君で、妹の義兄であった智雄の下へ、後添えとして嫁いだ。けい子は4人姉兄妹であったが、自身(淳子;あつこ)(一彦)が全員結核病死しており、(稔子;としこ)のみが健康長命であった。姉と自分が肺結核で、兄は肺外結核の腎臓結核に罹患した。

作風

当時の少女小説は感傷に流されがちな作品が多かったが、松田の作品からはそれらとは異なる作風がうかがえる[3]。両親がいなかったり病気であったりする主人公の少年少女が「周囲の人々のさまざまな配慮によって幸せをつかむ」[3]作品が多い。また、年長者が幼い子供から受ける無意識の癒しの力を、作品の中で強調している[3]

幼少時より父親が好んで聴いていたクラシック音楽SPレコードを、学校に入って蓄音機を扱える様になると、自由に好きなレコードを貸してくれて、自分で聴きたい曲を掛けて聴いていた。シューベルトシューマン作曲の歌曲ヘンデル作曲の『救世主』等の、宗教歌曲を好んで聴いていた為に、この方からも小さい時から外国語を聴いて来ていた。之も外国語に長けていた後年の基礎知識になった。

このような欧米少女小説を思わせる作風は、ヨハンナ・スピリ作の『アルプスの少女ハイジ』や『若草物語』を愛読し、幼少時期からの外国語での歌曲を多数聴いて来た事と、更に大学の外語学科語学修めて『若草物語』や『小公子』を原語で読める語学力を身につけた体験が大きく影響している[1]上笙一郎は彼女の一連の作品に高い評価を与える一方で、登場人物年齢相応に描写できていないと、残念ながら早逝して仕舞ったので、円熟期を迎える事が出来なかった人生経験乏しさ故の欠点指摘している。[4]

受容

元々趣味執筆しており家族友人親類に読んでもらうのみであった松田の作品を世に送り出したのは、妹や従姉妹が喜んで読んで居るのを見て、自分でも読んで見た作家でもある父の長一児童文学者村岡花子尽力が大きい[5]。当時の村岡は『少女の友』の編集に携わっていたが、「若い心の願望や野心や欲求がその最も健やかな崇高な清らかな方向に発展した姿」[6]が描かれた松田の作品に触れ、唯一生前に発行したが自費出版に近い形で『七つの蕾』を刊行することになった。松田の没後に『紫苑の園』を刊行してから、同年10月には『小さき碧』、翌1942年(昭和17年)5月には『サフランの歌』の単行本が『紫苑の園』同様に甲林出版から刊行され、戦後まで重版されることとなった。

戦後1947年(昭和22年)には、中原淳一が設立したヒマワリ社から少女雑誌ひまわり』が創刊されたが、創刊号には『人形の歌』が掲載され、1年間連載されることとなった。また、ヒマワリ社は『ひまわり』の創刊と同時にひまわりらいぶらりー文庫発刊し、そのうちの1冊として『紫苑の園』が刊行された。好評であったことから続編である『香澄』に加え、『七つの蕾』『サフランの歌』もひまわりらいぶらりー文庫から刊行された。さらに1953年(昭和28年)には、中央公論社から『紫苑の園』『七つの蕾』の単行本が刊行されるなど、多くの読者獲得した。

1980年以降にも国書刊行会淳一文庫として、ひまわりらいぶらりー文庫単行本底本とした単行本が刊行されている。『七つの蕾』『紫苑の園』が1985年(昭和60年)に、『香澄』『サフランの歌』^が1988年(昭和63年)にそれぞれ刊行されている。ひまわりらいぶらりー文庫をもとにしているものの、12センチx12センチの判型から135パーセント拡大し、作品中中原飾罫挿画追加した。さらに、1997年平成9年)には大空社から松田瓊子全集(全6巻)が発売された。

父親故郷である岩手県野村あらえびす記念館に、長一である“松田けい子”の遺影写真著作物資料収蔵されている。その資料閲覧する事が可能である。けい子が借りて聴いていた、父親長一収集したクラシック音楽SPレコード収蔵もあるが、試聴可能である他に、音源デジタル信号にして整理してあり、整理した物からホームページの中から検索すると、自宅パーソナルコンピュータで、試聴可能となっている。約IOO年前のI92O年代にけい子が聴いていたSPレコードの、クラシック音楽と同じ演奏歌唱が、約IOO年後になる2O2O年代の現在聴く事が出来る。

著書

第1巻 七つの蕾 ほか
第2巻 野辺の子等 小さき碧 サフランの歌
第3巻 紫苑の園 香澄(続・紫苑の園)
第4巻 (未発表作品)
第5巻 (詩歌・日記(上))
第6巻 (日記(下))
別巻 (資料編)

脚注

  1. ^ a b 『〈少女小説〉ワンダーランド - 明治から平成まで』165頁。
  2. ^ 『少年小説体系第25巻 少女小説名作集(二)』 557頁。
  3. ^ a b c 日本児童文学大事典 第2巻』 154頁。
  4. ^ 少年小説体系第25巻 少女小説名作集(二)』 553頁。
  5. ^ 文芸家協会の会合の際に長谷川時雨から村岡を紹介されて娘の文才を明かしたのだという(太田愛人「人間関係の贅沢」『村岡花子と赤毛のアンの世界河出書房新社)。
  6. ^ 『少女の友創刊100周年記念号』 241頁。

参考文献