コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「姚錫光」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
 
17行目: 17行目:
}}
}}


'''姚 錫光'''(よう しゃくこう、{{zh2 | t=姚錫光| s=姚锡光| hp=Yáo Xīguāng| w=Yao Hsi-kuang| first=t}})は、[[中華民国]]の政治家。
'''姚 錫光'''(よう しゃくこう、{{Lang-zh | t=姚錫光| s=姚锡光| hp=Yáo Xīguāng| w=Yao Hsi-kuang| first=t}})は、[[中華民国]]の政治家。


== 事績 ==
== 事績 ==

2021年9月28日 (火) 09:32時点における最新版

姚錫光
 
プロフィール
出生: 1856年咸豊6年)
死去: 不詳
出身地: 清の旗 江蘇省鎮江府丹徒県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 姚錫光
簡体字 姚锡光
拼音 Yáo Xīguāng
ラテン字 Yao Hsi-kuang
和名表記: よう しゃくこう
発音転記: ヤオ シーグアン
テンプレートを表示

姚 錫光(よう しゃくこう、繁体字: 姚錫光; 簡体字: 姚锡光; 繁体字: 姚錫光; 拼音: Yáo Xīguāng; ウェード式: Yao Hsi-kuang)は、中華民国の政治家。

事績

[編集]

1883年光緒9年)、戊子科挙人となる。その後、李鴻章張之洞・李秉衡の下で幕僚を務めている。1903年(光緒29年)、華北で女子学校を創立し、後に安徽省で知県・知州を歴任した。1907年(光緒33年)7月、陸軍部左丞に任命され、1909年(宣統元年)春には殖辺学堂監督となっている。翌1910年(宣統2年)に陸軍部右侍郎となり、1911年(宣統3年)夏には帝国憲政実進会の結成に参与した[1]

中華民国成立後の1912年民国元年)7月、姚錫光は蒙蔵事務局副総裁に任命され、更に総裁を署理した。同年9月、グンサンノルブが総裁に就任すると同時に、姚は副総裁を辞任[2]。以後、口北宣撫使、査撫津保被災商民専使を歴任している。1914年(民国3年)5月、参政院参政に任ぜられた。1923年(民国12年)1月、錫威将軍の位を授与されている。これ以降、姚の行方は不詳となっている[1]

[編集]
  1. ^ a b 徐主編(2007)、1084頁。
  2. ^ 郭主編(1990)、53頁による。徐主編(2007)、1084頁は「1913年9月」に辞任としているが誤りと思われる。

参考文献

[編集]
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4