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'''張 文鑄'''(ちょう ぶんちゅう、{{Lang-zh | t=張文鑄| s=张文铸| hp=Zhāng Wénzhù| w=Chang Wen-chuh| first=t}})は、[[中華民国]]・[[満州国]]の軍人。[[字]]は'''鼎元'''。布特哈総管管轄区(現在の[[黒竜江省]][[訥河市]])の人。 |
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== 事績 == |
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2021年9月28日 (火) 09:31時点における版
張文鑄 | |
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『大満洲帝国名鑑』(1934年) | |
プロフィール | |
出生: | 1899年(清光緒25年) |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清黒竜江省将軍管轄区布特哈総管管轄区(現在の訥河市) |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 張文鑄 |
簡体字: | 张文铸 |
拼音: | Zhāng Wénzhù |
ラテン字: | Chang Wen-chuh |
和名表記: | ちょう ぶんちゅう |
発音転記: | ジャン ウェンジュー |
張 文鑄(ちょう ぶんちゅう、繁体字: 張文鑄; 簡体字: 张文铸; 繁体字: 張文鑄; 拼音: Zhāng Wénzhù; ウェード式: Chang Wen-chuh)は、中華民国・満州国の軍人。字は鼎元。布特哈総管管轄区(現在の黒竜江省訥河市)の人。
事績
保定陸軍軍官学校第8期を卒業生[1]。1923年(民国12年)3月、陸軍軍官養成所騎兵区隊長となり、同年中に騎兵第12団少校団附、騎兵第4旅参謀長を兼任する。翌1924年(民国13年)7月に黒竜江省第2旅参軍官[2]となった。1925年(民国14年)2月に騎兵第5旅参謀長、9月に騎兵第4旅上校参謀長、12月に第8軍上校参謀と歴任している。1927年(民国16年)3月に第8軍軍部参謀処長となり、翌年4月には騎兵第17団団長、12月には歩兵第6団団長へと昇進・歴任した。1930年(民国19年)2月、騎兵第2団団長に転じている[3]。
1931年(民国20年)9月の満州事変勃発後は関東軍に呼応し、馬占山討伐などに参画した[1]。同年11月、騎兵第1旅参謀長に任ぜられ、満州国建国後の1932年(大同元年)4月1日に、黒竜江省警備司令部少将参謀長となっている。同年5月に第1支隊司令、7月に騎兵第1旅少将旅長と歴任し、9月1日に黒竜江省警備司令部少将司令官に就任した。翌1933年(大同2年)4月1日に中将司令官に昇進している[4]。1934年(康徳元年)7月21日に第3軍管区司令(管轄:チチハル)、1939年(康徳6年)に第7軍管区司令(管轄:ジャムス)、1942年(康徳9年)1月15日に第4軍管区司令(管轄:ハルピン)と歴任した[5]。同年9月に陸軍上将へ昇進[1]、1944年(康徳11年)4月24日に吉興の後任として侍従武官長に任ぜられた[6]。
満州国滅亡後、張文鑄は漢奸の罪に問われたとされるが、具体的な処分状況や没年等は不詳である[1]。
注
参考文献
- 『大満洲帝国名鑑』挙国社、1934年。
- 王鴻賓ほか主編『東北人物大辞典 第2巻』遼寧古籍出版社、1996年。ISBN 7805074135。
- 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4。