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'''朱 兆莘'''(しゅ ちょうしん、{{Lang-zh | t=朱兆莘| s=朱兆莘| hp=Zhū Zhàoxīn| w=Chu Chao-hsin| first=t}})は[[清]]末・[[中華民国]]の政治家・外交官。[[字]]は'''鼎清'''。 |
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2021年9月28日 (火) 09:31時点における最新版
朱兆莘 | |
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Who's Who in China 3rd ed. (1925) | |
プロフィール | |
出生: | 1879年(清光緒5年)[1] |
死去: |
1932年(民国11年) 中華民国 |
出身地: | 清広東省広州府花県 |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 朱兆莘 |
簡体字: | 朱兆莘 |
拼音: | Zhū Zhàoxīn |
ラテン字: | Chu Chao-hsin |
和名表記: | しゅ ちょうしん |
発音転記: | ジュー ジャオシン |
朱 兆莘(しゅ ちょうしん、中国語: 朱兆莘; 拼音: Zhū Zhàoxīn; ウェード式: Chu Chao-hsin)は清末・中華民国の政治家・外交官。字は鼎清。
事績
[編集]1896年(光緒22年)、17歳で秀才、その翌年には廩生(国から学資を給付される生員)となった。後に広雅書院で学んだが、24歳の時に京師大学堂優級師範館に入り、卒業後に挙人となる。1907年(光緒33年)、華僑学務兼任としてアメリカに留学し、ニューヨーク大学で商業・財務を学んだ。次いでコロンビア大学に進学して政治・法律を学び、修士学位を取得している。[2][3]
中華民国が建国された1912年(民国元年)、朱兆莘は在米華僑選挙代表として帰国、政界に入る。翌1913年(民国2年)、国民党に加入して参議院議員に当選、更に参議院外交委員会主席に選出されている[4][3]。第二革命(二次革命)前後に国民党を離党して集益社という小政党の幹部となり、更に大中党という新党を組織した[5]。この他、憲法起草委員会委員や総統府諮議などにも任ぜられ、北京大学商科主任も務めている。袁世凱が国会停止の挙に出ると、1914年(民国3年)に朱は厦門に移って鼓浪嶼会審公堂(地方級の裁判所に相当)堂長を務めたが、まもなく北京に戻り弁護士協会副会長に選出された[4][3]。
1916年(民国5年)6月に袁世凱が死去し国会が復活すると、朱兆莘も議員として復職した。翌1917年(民国6年)2月に江蘇省特派交渉員に任命され、同年夏には大総統馮国璋の秘書に転じている。1918年(民国7年)3月、駐サンフランシスコ総領事に任命され、まもなく駐英公使館一等秘書に移った。1921年2月、駐英公使館公使代行となり、国際連盟などの重要な各種国際会議に出席している。1925年10月、駐イタリア全権公使に任命された[4]。
中国国民党による北伐が進展している情報に接した朱兆莘は、1927年7月に北京政府からの離脱を宣言した。まもなく帰国し、国民政府から外交部次長に任命され、1929年(民国18年)4月には駐広東外交部交渉員に転じている[4][3]。1931年(民国20年)9月、満州事変が勃発すると、特種外交委員会委員に任命され、翌1932年(民国21年)1月には国難会議会員として招聘された。しかし同年12月11日に朱は急逝、死因は蛇骨の誤食による中毒とされる[4]。享年54。
注
[編集]参考文献
[編集]- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- Who's Who in China 4th ed. (中國名人錄 第四版). The China Weekly Review (Shanghai) (上海密勒氏評論報). (1931)
- 謝彬『民国政党史』1924年(中華書局版、2007年、ISBN 978-7-101-05531-3)