コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「リー・トーマス (野球)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
25行目: 25行目:
* {{仮リンク|ボーモント高等学校 (ミズーリ州セントルイス)|en|Beaumont High School (St. Louis)|label=ボーモント高等学校}}
* {{仮リンク|ボーモント高等学校 (ミズーリ州セントルイス)|en|Beaumont High School (St. Louis)|label=ボーモント高等学校}}
* [[ニューヨーク・ヤンキース]] (1961)
* [[ニューヨーク・ヤンキース]] (1961)
* [[ロサンゼルス・エンゼルス (MLB)|ロサンゼルス・エンゼルス]] (1961 – 1964)
* [[ロサンゼルス・エンゼルス]] (1961 – 1964)
* [[ボストン・レッドソックス]] (1964 – 1965)
* [[ボストン・レッドソックス]] (1964 – 1965)
* [[アトランタ・ブレーブス]] (1966)
* [[アトランタ・ブレーブス]] (1966)
47行目: 47行目:
[[ニューヨーク・ヤンキース]]の[[スカウト]]である{{仮リンク|ルー・マグオーロ|en|Lou Maguolo}}の勧誘を受けて、{{by|1954年}}からヤンキース傘下の[[マイナーリーグ]]でプレー<ref>{{Cite web|url=https://www.baseball-reference.com/bullpen/Lou_Maguolo |title=Lou Maguolo|website=Baseball-Reference.com|language=英語|accessdate=2021年2月27日}}</ref>。マイナーリーグでは好成績を挙げるが、ヤンキースの強力な野手陣になかなか割り込むことができなかった。
[[ニューヨーク・ヤンキース]]の[[スカウト]]である{{仮リンク|ルー・マグオーロ|en|Lou Maguolo}}の勧誘を受けて、{{by|1954年}}からヤンキース傘下の[[マイナーリーグ]]でプレー<ref>{{Cite web|url=https://www.baseball-reference.com/bullpen/Lou_Maguolo |title=Lou Maguolo|website=Baseball-Reference.com|language=英語|accessdate=2021年2月27日}}</ref>。マイナーリーグでは好成績を挙げるが、ヤンキースの強力な野手陣になかなか割り込むことができなかった。


{{by|1961年}}に初めて[[メジャーリーグベースボール|メジャー]]に昇格するが、わずか2試合出場したところで、同年5月8日に[[ロサンゼルス・エンゼルス (MLB)|ロサンゼルス・エンゼルス]]へ[[トレード#メジャーリーグ|トレード]]される。エンゼルスでは一躍[[外野手]]のレギュラーの座を掴み、[[打率]].285、24[[本塁打]]の好成績を挙げた。9月5日の[[オークランド・アスレチックス|カンザスシティ・アスレチックス]]との[[ダブルヘッダー]]では、11[[打席]]9[[安打]]の固め打ちで、特に第二試合では3本塁打8[[打点]]の猛打を披露<ref>[https://www.retrosheet.org/boxesetc/1961/Ithoml1030021961.htm retrosheet]</ref>、ダブルヘッダーで9安打を挙げた8選手の一人となった<ref name="tree">[https://pilotonline.com/sports/baseball/article_6b5fcbb8-53b9-11e8-a3f1-db081a9b79b6.html Hall, David (2 June 2018), "Orioles' Advisor Lee Thomas May Be the Most Interesting Man in Baseball You Don't Know," The Norfolk ''Virginian-Pilot.'' Retrieved 23 April 2019]</ref>。翌{{by|1962年}}には、[[1962年のMLBオールスターゲーム|オールスター]]に初選出された。7月10日の第一試合では[[代打]]で登場するが凡フライに倒れ、7月30日の第二試合では終盤2イニングに[[左翼手]]として守備に就いたが、打席には立たなかった。同年、打率.290、26本塁打、104打点のキャリアハイを記録した。
{{by|1961年}}に初めて[[メジャーリーグベースボール|メジャー]]に昇格するが、わずか2試合出場したところで、同年5月8日に[[ロサンゼルス・エンゼルス]]へ[[トレード#メジャーリーグ|トレード]]される。エンゼルスでは一躍[[外野手]]のレギュラーの座を掴み、[[打率]].285、24[[本塁打]]の好成績を挙げた。9月5日の[[オークランド・アスレチックス|カンザスシティ・アスレチックス]]との[[ダブルヘッダー]]では、11[[打席]]9[[安打]]の固め打ちで、特に第二試合では3本塁打8[[打点]]の猛打を披露<ref>[https://www.retrosheet.org/boxesetc/1961/Ithoml1030021961.htm retrosheet]</ref>、ダブルヘッダーで9安打を挙げた8選手の一人となった<ref name="tree">[https://pilotonline.com/sports/baseball/article_6b5fcbb8-53b9-11e8-a3f1-db081a9b79b6.html Hall, David (2 June 2018), "Orioles' Advisor Lee Thomas May Be the Most Interesting Man in Baseball You Don't Know," The Norfolk ''Virginian-Pilot.'' Retrieved 23 April 2019]</ref>。翌{{by|1962年}}には、[[1962年のMLBオールスターゲーム|オールスター]]に初選出された。7月10日の第一試合では[[代打]]で登場するが凡フライに倒れ、7月30日の第二試合では終盤2イニングに[[左翼手]]として守備に就いたが、打席には立たなかった。同年、打率.290、26本塁打、104打点のキャリアハイを記録した。


{{by|1963年}}になると打率.220、9本塁打と不振に陥り、{{by|1964年}}のシーズン途中で[[ボストン・レッドソックス]]へトレードされる。レッドソックスでは1964年は主に[[右翼手]]、{{by|1965年}}は[[一塁手]]を務め、1965年は打率.271、22本塁打、75打点と調子を取り戻している。{{by|1966年}}以降は[[アトランタ・ブレーブス]]、[[シカゴ・カブス]]、[[ヒューストン・アストロズ]]と[[ナショナルリーグ]]でプレーするが、年々成績を落とした。
{{by|1963年}}になると打率.220、9本塁打と不振に陥り、{{by|1964年}}のシーズン途中で[[ボストン・レッドソックス]]へトレードされる。レッドソックスでは1964年は主に[[右翼手]]、{{by|1965年}}は[[一塁手]]を務め、1965年は打率.271、22本塁打、75打点と調子を取り戻している。{{by|1966年}}以降は[[アトランタ・ブレーブス]]、[[シカゴ・カブス]]、[[ヒューストン・アストロズ]]と[[ナショナルリーグ]]でプレーするが、年々成績を落とした。

2021年9月11日 (土) 23:49時点における版

リー・トーマス
Lee Thomas
ボストン・レッドソックスでの現役時代
(1965年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 イリノイ州ピオリア郡ピオリア
生年月日 (1936-02-05) 1936年2月5日(88歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
198 lb =約89.8 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手一塁手
プロ入り 1954年
初出場 MLB / 1961年4月22日
NPB / 1969年4月12日
最終出場 MLB / 1968年9月27日
NPB / 1969年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

リー・トーマスJames Leroy "Lee" Thomas, 1936年2月5日 - )は、アメリカ合衆国イリノイ州ピオリア出身の元プロ野球選手外野手)、野球指導者、GM。右投左打。

経歴

プロ入り前

アメリカ合衆国イリノイ州ピオリアで生まれ、セントルイスボーモント高等学校英語版を卒業する。

MLB時代

ニューヨーク・ヤンキーススカウトであるルー・マグオーロ英語版の勧誘を受けて、1954年からヤンキース傘下のマイナーリーグでプレー[1]。マイナーリーグでは好成績を挙げるが、ヤンキースの強力な野手陣になかなか割り込むことができなかった。

1961年に初めてメジャーに昇格するが、わずか2試合出場したところで、同年5月8日にロサンゼルス・エンゼルストレードされる。エンゼルスでは一躍外野手のレギュラーの座を掴み、打率.285、24本塁打の好成績を挙げた。9月5日のカンザスシティ・アスレチックスとのダブルヘッダーでは、11打席9安打の固め打ちで、特に第二試合では3本塁打8打点の猛打を披露[2]、ダブルヘッダーで9安打を挙げた8選手の一人となった[3]。翌1962年には、オールスターに初選出された。7月10日の第一試合では代打で登場するが凡フライに倒れ、7月30日の第二試合では終盤2イニングに左翼手として守備に就いたが、打席には立たなかった。同年、打率.290、26本塁打、104打点のキャリアハイを記録した。

1963年になると打率.220、9本塁打と不振に陥り、1964年のシーズン途中でボストン・レッドソックスへトレードされる。レッドソックスでは1964年は主に右翼手1965年一塁手を務め、1965年は打率.271、22本塁打、75打点と調子を取り戻している。1966年以降はアトランタ・ブレーブスシカゴ・カブスヒューストン・アストロズナショナルリーグでプレーするが、年々成績を落とした。

南海時代

1969年南海ホークスに入団。開幕戦に「3番・一塁手」として出場し早速1号本塁打を放つと、4試合で16打数10安打、打率.625の固め打ちを見せる。しかし、好調は長続きせず、終盤は若手の高橋博に定位置を譲り、シーズンでは打率.263、12本塁打の平凡な成績に終わる。チームの若返り策もあり、1年で退団・帰国した[4]

アメリカ球界復帰

1970年セントルイス・カージナルス傘下のAAA級タルサ・オイラーズでプレーし、135試合に出場して打率.268、8本塁打、66打点、2盗塁を記録した。この年が現役最後のシーズンとなった。

引退後

引退後はカージナルスでコーチ、傘下のマイナーで監督を務めた。だがトーマス本人は、現役時代からゆくゆくは球団フロントの仕事に就きたいと考えており、その希望は1976年にカージナルスの販売推進部へ配属されて叶うこととなった。その後、遠征管理部を経て1981年には編成部長に就任し、1988年まで務めた。在任中、カージナルスは8年間で3度ワールドシリーズに進出しているが、トーマスはオジー・スミスをトレードにより獲得するなど戦力補強の面で貢献した。

1988年6月よりフィラデルフィア・フィリーズGMに就任し、チームがワールドシリーズに進出した1993年には最優秀エグゼクティブ賞英語版を受賞している[5]

1997年12月にフィリーズを退団してからは、レッドソックスのGM補佐、アストロズとミルウォーキー・ブルワーズのプロスカウト、ボルチモア・オリオールズの球団特別補佐兼副社長を歴任した[6]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1961 NYY 2 2 2 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .500 .500 .500 1.000
LAA 130 505 452 77 129 11 5 24 222 70 0 5 2 3 47 2 2 74 12 .285 .353 .491 .844
'61計 132 507 450 77 128 11 5 24 221 70 0 5 2 3 47 2 2 74 12 .284 .353 .491 .844
1962 LAA 160 652 583 88 169 21 2 26 272 104 6 1 4 4 55 3 6 74 16 .290 .355 .467 .821
1963 LAA 149 594 528 52 116 12 6 9 167 55 6 0 2 2 53 6 9 82 13 .220 .301 .316 .617
1964 LAA 47 194 172 14 47 8 1 2 63 24 1 0 3 1 18 1 0 22 2 .273 .340 .366 .707
BOS 107 442 401 44 103 19 2 13 165 42 2 1 0 3 34 4 4 29 14 .257 .319 .411 .730
'64計 154 636 573 58 150 27 3 15 228 66 3 1 3 4 52 5 4 51 16 .262 .325 .398 .723
1965 BOS 151 603 521 74 141 27 4 22 242 75 6 2 5 2 72 8 3 42 16 .271 .361 .464 .826
1966 ATL 39 139 126 11 25 1 1 6 46 15 1 1 1 1 10 1 1 15 0 .198 .261 .365 .626
CHC 75 167 149 15 36 4 0 1 43 9 0 0 1 0 14 1 3 15 3 .242 .319 .289 .608
'66計 114 306 275 26 61 5 1 7 89 24 1 1 2 1 24 2 4 30 3 .222 .293 .324 .616
1967 CHC 77 212 191 16 42 4 1 2 54 23 1 0 1 2 15 5 3 22 3 .220 .284 .283 .567
1968 HOU 90 221 201 14 39 4 0 1 46 11 2 1 4 1 14 4 1 22 6 .194 .249 .229 .478
1969 南海 109 426 395 34 104 8 0 12 148 50 2 2 0 7 23 0 1 31 9 .263 .305 .375 .680
MLB:8年 1027 3730 3324 405 847 111 22 106 1320 428 25 11 23 19 332 35 32 397 85 .255 .327 .397 .724
NPB:1年 109 426 395 34 104 8 0 12 148 50 2 2 0 7 23 0 1 31 9 .263 .305 .375 .680

記録

背番号

  • 17(1961年 - 同年途中)
  • 32(1961年途中 - 1964年途中)
  • 6(1964年途中 - 1965年)
  • 9(1966年 - 同年途中)
  • 8(1966年途中 - 1967年)
  • 28(1968年)
  • 4(1969年)
  • 50(1972年)

脚注

  1. ^ Lou Maguolo” (英語). Baseball-Reference.com. 2021年2月27日閲覧。
  2. ^ retrosheet
  3. ^ Hall, David (2 June 2018), "Orioles' Advisor Lee Thomas May Be the Most Interesting Man in Baseball You Don't Know," The Norfolk Virginian-Pilot. Retrieved 23 April 2019
  4. ^ 『決定版日本プロ野球外国人選手大鑑 (BBmook―スポーツシリーズ 224)』ベースボール・マガジン社、2002年 111頁
  5. ^ 「あの懐かしの助っ人たちは今?」『月刊メジャー・リーグ』 1997年11月号 ベースボール・マガジン社 54-55頁
  6. ^ Roch Kubatko (2011年12月4日). “Thomas and Ferreira added to Orioles’ front office” (英語). MASN. 2021年5月27日閲覧。

関連項目

外部リンク