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どちらにしろ彼共同統治の折りには、内政国策からの治世は女王に任せれば良しとし、自らは外部国外事情などしっかり把握し、軍事を良くし、英気と実力を養うことで大いに自らを培い、邁進充足し、何ら禍根となりうる相互のわだかまりもそこにはなかったと解釈されている。が、しかし王国財政面での双方の折り合い、協力には何らかの言い分、主張の不一致があったかも知れない。
どちらにしろ彼共同統治の折りには、内政国策からの治世は女王に任せれば良しとし、自らは外部国外事情などしっかり把握し、軍事を良くし、英気と実力を養うことで大いに自らを培い、邁進充足し、何ら禍根となりうる相互のわだかまりもそこにはなかったと解釈されている。が、しかし王国財政面での双方の折り合い、協力には何らかの言い分、主張の不一致があったかも知れない。

== 関連項目 ==
* [[エジプト第18王朝の家系図]]
==脚注==

==参考文献==
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[[Category:ファラオ]]
[[Category:ハトシェプスト]]
[[Category:エジプト第18王朝]]
[[Category:エジプトの幼君]]

2021年8月22日 (日) 07:11時点における版

エジプトファラオ
過去の君主
The Pschent combined the Red Crown of Lower Egypt and the White Crown of Upper Egypt
A typical depiction of a pharaoh usually depicted the king wearing the nemes headdress, a false beard, and an ornate shendyt (kilt)
(after Djoser of the Third Dynasty)
初代 King Narmer or King Menes (by tradition)


(first use of the term pharaoh for a king, rather than the royal palace, was c.1210 B.C. with Merneptah during the nineteenth dynasty)

最終代
[2]
称号 Five-name titulary
宮殿 Varies by era
任命権者 Divine right
始まり c. 3150 BC
終わり
  • 343 BC
    (last native pharaoh)[1]
  • 30 BC
    (last Greek pharaohs)
  • 314 AD
    (last Roman Emperor to be called pharaoh)[2]
  1. ^ a b Clayton 1995, p. 217. "Although paying lip-service to the old ideas and religion, in varying degrees, pharaonic Egypt had in effect died with the last native pharaoh, Nectanebo II in 343 BC"
  2. ^ a b von Beckerath, Jürgen (1999). Handbuch der ägyptischen Königsnamen. Verlag Philipp von Zabern. pp. 266–267. ISBN 978-3422008328 
Sethemhat
古代エジプト ファラオ
共同統治者 なし
前王 X
次王 なし
子息 X
X
X
出生 X
死去 X
テンプレートを表示
トトメス3世
Thutmose III
トトメス3世像(ルクソール博物館蔵)
トトメス3世像(ルクソール博物館蔵)
古代エジプト ファラオ
統治期間 紀元前1479年頃 - 紀元前1425年頃,第18王朝
共同統治者 ハトシェプスト
前王 トトメス2世
次王 アメンホテプ2世
配偶者 サトイアフ
メリトラー・ハトシェプスト
ネブトゥ
子息 アメンホテプ2世
トトメス2世
イシス英語版
出生 1481 B.C.
死去 1425 B.C.(56歳)
埋葬地 KV34
記念物 テオドシウスのオベリスク英語版
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トトメス3世像(エジプト考古学博物館蔵)。

トトメス3世(Thutmose III)は、古代エジプト第18王朝6代目のファラオ(在位:紀元前1479年4月28日 - 紀元前1425年3月11日)。彼はエジプトをおよそ54年統治したが、その最初の22年間は彼の継母であり叔母であるハトシェプストとの共同統治であった。残存している石碑にはトトメス3世の即位名の方が先に書いてあるものの、王としてふるまったハトシェプストも同様の即位名が記され、両者は対等に扱われていた。また、トトメス3世はハトシェプストの軍隊の長を務めていた。治世の最後の2年間では、彼は息子のアメンホテプ2世を共同統治者に任命した。 ハトシェプストの死後は王国の唯一のファラオになり、彼はエジプト史上最大の帝国を築いた。東と南への大出兵は17回以上にも及び、南はナイルの第四急流、東はメソポタミアの強国ミタンニ王国の領土拡張を阻み、ユーフラテス川の東に封じ込めた[1]。 トトメス3世は、エジプトのこの時代の他の王たちと同様に、彼は王家の谷に埋葬された。

起源と家族

父はトトメス2世、母はイシス英語版


トトメス3世は彼の長男で王位継承者であるアメンエムハトに先立たれている。


父王トトメス2世によって後継者に指名されていたが、幼くして父王が亡くなったため、継母ハトシェプストが即位、全権を掌握することになる。治世の前半は、ハトシェプストの補佐という形でしか政治を行えず、大半の時間を軍隊で過ごしたと伝わる。この時期の経験から高い軍事的能力を身につけ、ハトシェプストの退位後となる治世の後半はハトシェプスト時代の外交を改めて周辺諸国に遠征し、国威を回復、エジプト史上最大の帝国を築いた。ことにメギドの戦いでの大勝で名高い。その積極的な外征と軍事的偉業から、「エジプトナポレオン」と呼ばれることも多い。

実権を掌握してからはハトシェプストの存在を抹殺しており、ハトシェプストの名前や肖像を軒並み削り取った。これには「恨みによるもの」とした説と「女王の前例を残さないよう、即位した事実を抹消する為」とした説がある。

これにはまた、ほかの見方として提言された説もある。つまり、トトメス3世は、いかなる悪意をもってしても、ハトシェプストの過去的存在と、その地位を抹消したのではないというものである。カルナック神殿の大々的な増改築のため、前女王の築いたものも解体し、拡大再建築する為にといった前提名分があり、その下でなされた現場作業上の再利用処置であったとしている。したがって、トトメス3世は、何らかの下心をもって抹消すべき指示を下したものではないと見る。

しかし、他の説によると、トトメス3世はハトシェプトを心から慕っており、尊敬していたという。しかし、古代エジプトは完全的な男性社会であるため、ハトシェプトは神官や貴族などの有力者たちはハトシェプトは正当なファラオとしては認められず、政治的な理由から歴史から抹消されたとも言われる。

どちらにしろ彼共同統治の折りには、内政国策からの治世は女王に任せれば良しとし、自らは外部国外事情などしっかり把握し、軍事を良くし、英気と実力を養うことで大いに自らを培い、邁進充足し、何ら禍根となりうる相互のわだかまりもそこにはなかったと解釈されている。が、しかし王国財政面での双方の折り合い、協力には何らかの言い分、主張の不一致があったかも知れない。

  1. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)