「福原京」の版間の差分
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清盛は、[[高倉天皇|高倉上皇]]と[[伊勢平氏|平家]]一門の反対を押し切って[[遷都]]を強行したが、それは[[宋 (王朝)|宋]]との貿易拡大によって海洋国家の樹立を目指したためともいわれ、都市整備が進めば[[平氏政権]]による「福原幕府」のようなものになったとも言われる。のちに福原京の建造物群は[[源義仲]]によって全て焼き払われた。 |
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2021年8月20日 (金) 11:12時点における版
福原京(ふくはらきょう)は、平安時代末期の治承4年(1180年)、計画のみに終った和田京に続いて、平清盛の主導で造営が進められた日本の首都の通称。
概要
場所は現在の兵庫県神戸市中央区から兵庫区北部にあたり(現在の平野あたり)、平氏の拠点のひとつである貿易港の大輪田泊(現在の兵庫港・神戸港西部)に人工島の経が島(経ヶ島)を築き整備拡張した港を見下ろす山麓に都を置くことが計画された。1169年には雪見御所を構え、平清盛はこの地を気に入り10年間を平野に暮らす。平野は南以外の3方向を山に囲まれた盆地であり、六甲山系を背にして大倉山や会下山などの丘陵が「コの字」に並ぶ地形は、北風を遮り温暖で過ごしやすいことと、敵からの攻撃に備えやすいとという理由であったといわれる。さらに、石井川と天王谷川が新湊川に注ぐ合流地点であったこともその理由の一つとされている。清盛は福原遷都後、再興させた北区山田町の明要寺を「西の比叡山」になぞらえ、月参りをしたと伝えられる。参拝には石井川東岸から北に延びる烏原古道を利用した[1]。
清盛は、高倉上皇と平家一門の反対を押し切って遷都を強行したが、それは宋との貿易拡大によって海洋国家の樹立を目指したためともいわれ、都市整備が進めば平氏政権による「福原幕府」のようなものになったとも言われる。のちに福原京の建造物群は源義仲によって全て焼き払われた。
福原行幸
治承4年6月2日(1180年6月26日)、京都から摂津国の福原へ安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれ、ここに行宮が置かれた。そして平氏政権は福原に隣接する和田(輪田)の地に「和田京」の造営を計画した。和田は現在の兵庫区南部から長田区にまたがる地域にあたる。
当初平安京と同様の条坊制による都市を建設しようとしたが、和田は平地が少なく手狭だったため、すぐにこの計画は行き詰まってしまった。そこで同じ摂津国の昆陽野(兵庫県伊丹市)、更には播磨国印南野(兵庫県加古川市)に新しい京を造営する話が持ち上がったが、どちらの話も立ち消えとなり、7月には福原をしばらく皇居とし、道路を開通させて親平氏派の一部の人々に限り宅地が与えられることになった。しかし当時幼い安徳天皇に代わり院政を行なっていた高倉上皇は平安京(京都)を放棄せず、福原には離宮を建て、内裏や八省院は必要ないとした。これに対して清盛は、内裏は移建せず、11月の新嘗祭までに私的に皇居を造営し、2年後には八省院などの役所もつくるという方針で構えた。
そして11月には皇居に似せて造られた清盛の私邸が天皇に提供され、17日(12月5日)から20日(8日)に新嘗祭の五節のみが行なわれると(新嘗祭自体は京都で行なわれた)、23日(11日)には京都への還幸となった。京都への還幸は源氏の挙兵に対応するため清盛が決断したといわれている。
主な史跡
- 平相国廟(能福寺境内)
- 清盛塚
- 萱の御所跡の碑(薬仙寺境内)
- 雪見御所趾の碑(平清盛の山荘趾)
- 安徳天皇行在所趾の碑(平頼盛山荘趾、荒田八幡神社境内)
- 陣場の井(平教経陣地跡、氷室神社境内)
- 湊川上温泉
- 夢野八幡神社
- 祇園神社
脚注
- ^ “清盛お気に入りの地 神戸・平野は「天然のとりで」”. 神戸新聞 (2020年4月5日). 2020年11月17日閲覧。
参考文献
- 山田邦和 「福原京に関する都城史的考察」『長岡京古文化論叢』2、三星出版、1992年。
- 歴史資料ネットワーク編 『平家と福原京の時代』 岩田書院〈岩田書院ブックレット〉、2005年。
- 高橋昌明 『平清盛 福原の夢』 講談社〈講談社選書メチエ〉、2007年。
関連項目
外部リンク
先代 平安京 |
日本の首都 1180年 |
次代 平安京 |