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[[大都]]が陥落し北元時代に入ると、クビライ家の断絶やオイラトとの抗争によって「モンゴル・ウルス」は分裂・衰退した。このために「ウルス」という枠組みが緩む一方、かつての「トゥメン」が独立・強大化しトゥメンそのものがウルス(=国家、部族)としての側面も持つようになった<ref>森川1972,49-50頁</ref>。 |
[[大都]]が陥落し北元時代に入ると、クビライ家の断絶やオイラトとの抗争によって「モンゴル・ウルス」は分裂・衰退した。このために「ウルス」という枠組みが緩む一方、かつての「トゥメン」が独立・強大化しトゥメンそのものがウルス(=国家、部族)としての側面も持つようになった<ref>森川1972,49-50頁</ref>。 |
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モンゴリアを再統一した[[ダヤン・ハーン]]の時代、ハーン麾下の有力部族は大きく六つに分けられていたが、これをモンゴル語年代記では「ダヤン・ハーンの六トゥメン(万戸)」と表現している。「ダヤン・ハーンの六トゥメン」は左翼の[[チャハル]]・[[ウリヤンハン]]・[[ハルハ]]と右翼の[[オルドス]]・[[トゥメト]]・[[ヨンシエブ]]から成り、その一部(チャハルや[[オルドス]])は近現代においてもその名を行政区画の名称として残している。 |
モンゴリアを再統一した[[ダヤン・ハーン]]の時代、ハーン麾下の有力部族は大きく六つに分けられていたが、これをモンゴル語年代記では「ダヤン・ハーンの六トゥメン(万戸)」と表現している。「ダヤン・ハーンの六トゥメン」は左翼の[[チャハル]]・[[ウリヤンハン]]・[[ハルハ]]と右翼の[[オルドス部]]・[[トゥメト]]・[[ヨンシエブ]]から成り、その一部(チャハルや[[オルドス部]])は近現代においてもその名を行政区画の名称として残している。 |
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2021年8月15日 (日) 03:04時点における版
トゥメン(モンゴル語:ᠲᠦᠮᠡᠨ,Түмэн,転写:Tümen,中国語: 圖們)とは、モンゴル系・テュルク系民族の間で用いられる軍事・行政集団の単位。元来はテュルク・モンゴル系言語で「1万」を指す言葉で、転じて「1万人の軍隊を出すことのできる集団」をも意味する。中国を始めとする漢字文化圏では万戸、万人隊とも訳される[注 1]。
概要
モンゴリアにおける遊牧国家では古くから十進法に基づいて10人、100人、1000人、10000人を軍隊編成上の基本単位としてきた。また国民皆兵を基本とする遊牧国家では軍政と行政が密接に結びついていたため、この軍事編制単位がそのまま行政上の単位としても用いられた。
このような十進法に基づく軍事・行政組織の歴史は古く、紀元前の匈奴時代に遡る。匈奴では軍事・行政の最大単位を「一万」とし、一万の軍隊を動員できる長官を「万騎」と称していた。
チンギス・カンが創始したモンゴル帝国においても十進法に基づく行政・軍事組織が用いられ、モンゴル軍は1000人を基本的な軍政・行政単位として扱う「千戸制」を定制としていた。モンゴル軍は1206年時点で129の千人隊、即ち12万9千人の騎兵から成っていたと記されているが、チンギス・カンの功臣として知られるムカリ・ボオルチュは更にこの千人隊を束ねる者として、前者が「左手(左翼)の万戸」を、後者が「右手(右翼)の万戸」を統べるようチンギス・カンに命ぜられている[2]。
大都が陥落し北元時代に入ると、クビライ家の断絶やオイラトとの抗争によって「モンゴル・ウルス」は分裂・衰退した。このために「ウルス」という枠組みが緩む一方、かつての「トゥメン」が独立・強大化しトゥメンそのものがウルス(=国家、部族)としての側面も持つようになった[3]。
モンゴリアを再統一したダヤン・ハーンの時代、ハーン麾下の有力部族は大きく六つに分けられていたが、これをモンゴル語年代記では「ダヤン・ハーンの六トゥメン(万戸)」と表現している。「ダヤン・ハーンの六トゥメン」は左翼のチャハル・ウリヤンハン・ハルハと右翼のオルドス部・トゥメト・ヨンシエブから成り、その一部(チャハルやオルドス部)は近現代においてもその名を行政区画の名称として残している。
脚注
注釈
出典
参考文献
- 大葉昇一「モンゴル帝国=元朝の軍隊組織 : とくに指揮系統と編成方式について」『史学雑誌』 第95編、1986年
- 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
- 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
- 森川哲雄「中期モンゴルのトゥメンについて--特にウルスとの関係を通じて」『史学雑誌』 第81編、1972年