「緒方武」の版間の差分
m テキストの修正 |
編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
[[ファイル:Tskeshi ogata.jpg|サムネイル|緒方武]] |
[[ファイル:Tskeshi ogata.jpg|サムネイル|緒方武]] |
||
'''緒方 |
'''緒方 武'''(おがた たけし<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=菊池郡市剣道連盟記念誌|publisher=菊池郡市剣道連盟}}</ref>、明治6年([[1873年]])[[1月12日]] - 昭和15年([[1940年]])[[6月4日]]<ref name=":0" />)は、[[熊本県]]出身の[[日本]]の[[剣道家]]([[教士]])、[[大日本帝国陸軍]]の[[軍人]]。最終階級は、陸軍歩兵中尉([[正八位]])、元[[熊本県議会|熊本県議会議員]]。 |
||
== 経歴 == |
== 経歴 == |
||
32行目: | 32行目: | ||
* 第五高等学校の校長に[[嘉納治五郎]]が赴任し、[[講道館柔道]]を始めた。武も通ったが相手をすくい投げで気絶させた。[[碁盤]]で煽ぎ、ロウソクの火を消すという得意芸があった。<ref name=":0" /> |
* 第五高等学校の校長に[[嘉納治五郎]]が赴任し、[[講道館柔道]]を始めた。武も通ったが相手をすくい投げで気絶させた。[[碁盤]]で煽ぎ、ロウソクの火を消すという得意芸があった。<ref name=":0" /> |
||
* 弟子に[[八方山主計]]がいる。武は将来[[力士]]として有望だと感じ、在京の徳永為次氏([[吉田司家]]の故実門人)に紹介、さらに藤島親方(元横綱[[常ノ花寛市|常ノ花]])に話が持ち込まれる。<ref>{{Cite web|title=【昭 和 へ・・・・】|url=http://tomoiteruya.otemo-yan.net/e72502.html|website=【NPO法人 行司】|accessdate=2021-06-25|language=ja}}</ref> |
* 弟子に[[八方山主計]]がいる。武は将来[[力士]]として有望だと感じ、在京の徳永為次氏([[吉田司家]]の故実門人)に紹介、さらに藤島親方(元横綱[[常ノ花寛市|常ノ花]])に話が持ち込まれる。<ref>{{Cite web|title=【昭 和 へ・・・・】|url=http://tomoiteruya.otemo-yan.net/e72502.html|website=【NPO法人 行司】|accessdate=2021-06-25|language=ja}}</ref> |
||
== 脚注 == |
|||
{{脚注ヘルプ}} |
|||
=== 注釈 === |
|||
{{Reflist|group="注釈"}} |
|||
=== 出典 === |
|||
<references />{{Reflist}} |
|||
== 参考文献 == |
|||
{{empty section|date=2021年6月}} |
|||
== 関連項目 == |
|||
{{empty section|date=2021年6月}} |
|||
== 外部リンク == |
|||
{{Authority control}} |
|||
[[Category:大日本帝国陸軍の人物]] |
|||
[[Category:正八位受位者]] |
|||
[[Category:1873 establishments in California]] |
|||
[[Category:1873 deaths]] |
|||
[[Category:1873年生]] |
|||
[[Category:1940s British helicopters]] |
|||
[[Category:1940s British experimental aircraft]] |
|||
[[Category:1940年没]] |
|||
{{DEFAULTSORT:おがた たけし}} |
|||
[[Category:熊本県議会議員]] |
|||
[[Category:剣道家]] |
|||
[[Category:熊本県出身の人物]] |
|||
[[Category:熊本県立済々黌高等学校出身の人物]] |
|||
[[Category:東京教育大学出身の人物]] |
|||
[[Category:日本の高等教育の教員]] |
|||
[[Category:食道癌で亡くなった人物]] |
2021年6月27日 (日) 06:31時点における版
緒方 武(おがた たけし[1]、明治6年(1873年)1月12日 - 昭和15年(1940年)6月4日[1])は、熊本県出身の日本の剣道家(教士)、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は、陸軍歩兵中尉(正八位)、元熊本県議会議員。
経歴
明治6年(1873年)1月12日、父清彦、母千伊の長男として熊本県西合志村梅屋敷(現合志市)に生まれる。
合志小学校から済々黌で学び、東京師範学校に入る。剣道は新陰流(戸波派)宮川末五郎の相伝を受け、第十九代当主となる。[2]
明治30年(1897年)から明治33年まで第五高等学校に奉職[3]。同僚に夏目漱石がいる。
明治33年(1900年)三宅多留次と武徳祭にて柔道試合。[4]
明治36年(1903年)より紫溟会から熊本県議会議員選挙に出馬、当選。明治38年(1905年)より日露戦争に従軍[5]。西合志村耕地整理委員長を務める。
明治40年(1907年)満州(現中国東北)に渡り、明治43年(1910年)より旅順工科学堂(旅順工科大学校)学生監[6]に迎えられ16年間剣道、教練の指導に当たる。
大正13年(1924年)満州より帰国。
昭和2年(1927年)11月、熊本県菊池郡西合志村弘生の自宅敷地内に剣道道場「護国殿」を創立。細川護立氏命名。
昭和12年(1937年)5月に行われた第八回春季青年演武大会で優勝[1]。
昭和15年(1940年)門弟700人、68歳で食道癌で逝去するまで青少年指導につくした。辞世の句は「たびたびの地獄のつかいうるさくて、こんどこのたび退治せん」
武逝去後、二代目殿主、緒方勲が護国殿の運営にあたる。終戦後、諸事情で禁止されていた剣道が昭和28年に解禁となり、菊池の剣道の先がけとして稽古を開始する。
昭和43年(1968年)文部大臣より表彰(剣道における体育教育普及及び振興)を受ける。平成4年、二代目緒方勲が逝去。三代目殿主、緒方隆が指導にあたるが闘病を余儀なくされ、初稽古は続いていたものの平成19年逝去。現在、道場の稽古は希望者に開放されており、床を踏みならす音は絶えていない。[1]
人物
- 徳富蘇峰の大江義塾に対抗心をもやし「大江の耶蘇ッポ」とののしり出てくると殴った。あまりの乱暴ぶりに蘇峰に捕まることもあった。[1]
- 第五高等学校の校長に嘉納治五郎が赴任し、講道館柔道を始めた。武も通ったが相手をすくい投げで気絶させた。碁盤で煽ぎ、ロウソクの火を消すという得意芸があった。[1]
- 弟子に八方山主計がいる。武は将来力士として有望だと感じ、在京の徳永為次氏(吉田司家の故実門人)に紹介、さらに藤島親方(元横綱常ノ花)に話が持ち込まれる。[7]
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f 『菊池郡市剣道連盟記念誌』菊池郡市剣道連盟。
- ^ “「嘉納治五郎が最も恐れた流派」不遷流・田辺又右衛門&タロー・ミヤケとは?「講道館史観」では語られぬ影の歴史を追う企画が進行中(那嵯涼介)”. Togetter. 2021年6月25日閲覧。
- ^ “第五高等学校一覧. 明治32-33年 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2021年6月25日閲覧。
- ^ “秘伝2016年10月号 | MAGAZINE | 武道・武術の総合情報サイト WEB秘伝”. webhiden.jp. 2021年6月25日閲覧。
- ^ “佐佐友房関係文書目録”. https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/tmp/index_sassatomohusa.pdf閲覧。
- ^ “旅順工科学堂一覧. 大正5年度 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2021年6月25日閲覧。
- ^ “【昭 和 へ・・・・】”. 【NPO法人 行司】. 2021年6月25日閲覧。
参考文献
この節には内容がありません。(2021年6月) |
関連項目
この節には内容がありません。(2021年6月) |