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'''エリーザベト・フォン・ハプスブルク'''({{lang-de-short|Elisabeth von Habsburg}})または'''エリーザベト・フォン・エスターライヒ'''(Elisabeth von Österreich, [[1437年]]頃 - [[1505年]][[8月30日]])は、[[ポーランド国王|ポーランド王]]および[[リトアニア大公]]である[[カジミェシュ4世 (ポーランド王)|カジミェシュ4世]]の妃。[[ポーランド語]]名は'''エルジュビェタ・ラクシャンカ'''(Elżbieta Rakuszanka)。[[ローマ王]][[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト2世]]([[ボヘミア王国|ボヘミア王]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー王]]、[[オーストリア公国|オーストリア公]]を兼ねた)と妃[[エリーザベト・フォン・ルクセンブルク]](同じく皇帝と2つの王位を兼ねた[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]の娘)の次女。姉に[[テューリンゲン方伯]][[ヴィルヘルム3世 (テューリンゲン方伯)|ヴィルヘルム3世]]夫人[[アンナ・フォン・エスターライヒ (1432-1462)|アンナ]]、弟にオーストリア公を継承し、2つの王位にもついた[[ラディスラウス・ポストゥムス|ラディスラウス]]がいる。 |
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[[1439年]]に父を、[[1442年]]に母を幼くして亡くし、一族の[[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]](皇帝、当時は戴冠前でローマ王)の後見を受ける。[[1454年]]にカジミェシュ4世と結婚し、2人の間には、曾祖父・祖父・叔父と同様にボヘミアとハンガリーの王を兼ねた[[ウラースロー2世 (ハンガリー王)|ウラースロー2世]]、相次いでポーランド王位を継承した[[ヤン1世 (ポーランド王)|ヤン1世]]、[[アレクサンデル (ポーランド王)|アレクサンデル]]、[[ジグムント1世]]ら13人の子が生まれた。 |
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*[[ウラースロー2世]](1456年 - 1516年) ボヘミア王およびハンガリー王 |
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*[[ヤドヴィガ・ヤギェロンカ (1457-1502)|ヤドヴィガ]](1457年 - 1502年) - [[バイエルン大公|バイエルン=ランツフート公]][[ゲオルク (バイエルン公)|ゲオルク]]と結婚 |
*[[ヤドヴィガ・ヤギェロンカ (1457-1502)|ヤドヴィガ]](1457年 - 1502年) - [[バイエルン大公|バイエルン=ランツフート公]][[ゲオルク (バイエルン公)|ゲオルク]]と結婚 |
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*[[カジミェシュ (聖人)|カジミェシュ]](1458年 - 1484年) - リトアニアの[[守護聖人]] |
*[[カジミェシュ (聖人)|カジミェシュ]](1458年 - 1484年) - リトアニアの[[守護聖人]] |
2021年5月24日 (月) 22:14時点における版
エリーザベト・フォン・ハプスブルク Elisabeth von Habsburg | |
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ポーランド王妃 | |
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在位 | 1454年2月10日 - 1492年6月7日 |
戴冠式 | 1454年2月10日 ヴァヴェル大聖堂 |
出生 |
1437年頃 神聖ローマ帝国 オーストリア公国、ウィーン |
死去 |
1505年8月30日 ポーランド王国、クラクフ |
埋葬 | ポーランド王国、クラクフ、ヴァヴェル大聖堂 |
結婚 | 1454年2月10日 ヴァヴェル大聖堂 |
配偶者 | カジミェシュ4世 |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ハプスブルク家 |
父親 | ローマ王アルブレヒト2世 |
母親 | エリーザベト・フォン・ルクセンブルク |
エリーザベト・フォン・ハプスブルク(独: Elisabeth von Habsburg)またはエリーザベト・フォン・エスターライヒ(Elisabeth von Österreich, 1437年頃 - 1505年8月30日)は、ポーランド王およびリトアニア大公であるカジミェシュ4世の妃。ポーランド語名はエルジュビェタ・ラクシャンカ(Elżbieta Rakuszanka)。ローマ王アルブレヒト2世(ボヘミア王、ハンガリー王、オーストリア公を兼ねた)と妃エリーザベト・フォン・ルクセンブルク(同じく皇帝と2つの王位を兼ねたジギスムントの娘)の次女。姉にテューリンゲン方伯ヴィルヘルム3世夫人アンナ、弟にオーストリア公を継承し、2つの王位にもついたラディスラウスがいる。
1439年に父を、1442年に母を幼くして亡くし、一族のフリードリヒ3世(皇帝、当時は戴冠前でローマ王)の後見を受ける。1454年にカジミェシュ4世と結婚し、2人の間には、曾祖父・祖父・叔父と同様にボヘミアとハンガリーの王を兼ねたウラースロー2世、相次いでポーランド王位を継承したヤン1世、アレクサンデル、ジグムント1世ら13人の子が生まれた。
子女
- ウラースロー2世(1456年 - 1516年) ボヘミア王およびハンガリー王
- ヤドヴィガ(1457年 - 1502年) - バイエルン=ランツフート公ゲオルクと結婚
- カジミェシュ(1458年 - 1484年) - リトアニアの守護聖人
- ヤン1世オルブラフト(1459年 - 1501年) - ポーランド王
- アレクサンデル(1461年 - 1506年) - リトアニア大公、後にポーランド王
- ゾフィア(1464年 - 1512年) - ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯フリードリヒ5世と結婚
- エルジュビェタ(1465年 - 1466年)
- ジグムント1世(1467年 - 1548年) - リトアニア大公、後にポーランド王
- フリデリク(1468年 - 1503年) - 枢機卿、クラクフ司教、グニェズノ大司教
- エルジュビェタ(1472年 - 1480年頃)
- アンナ(1476年 - 1503年) - ポモジェ公ボグスワフ10世と結婚
- バルバラ(1478年 - 1534年) - ザクセン公ゲオルクと結婚
- エルジュビェタ(1483年 - 1517年) - レグニツァ公フリデリク2世と結婚