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「エリーザベト・フォン・ハプスブルク」の版間の差分

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'''エリーザベト・フォン・ハプスブルク'''({{lang-de-short|Elisabeth von Habsburg}})または'''エリーザベト・フォン・エスターライヒ'''(Elisabeth von Österreich, [[1437年]]頃 - [[1505年]][[8月30日]])は、[[ポーランド国王|ポーランド王]]および[[リトアニア大公]]である[[カジミェシュ4世 (ポーランド王)|カジミェシュ4世]]の妃。[[ポーランド語]]名は'''エルジュビェタ・ラクシャンカ'''(Elżbieta Rakuszanka)。[[ローマ王]][[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト2世]]([[ボヘミア王国|ボヘミア王]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー王]]、[[オーストリア公国|オーストリア公]]を兼ねた)と妃[[エリーザベト・フォン・ルクセンブルク]](同じく皇帝と2つの王位を兼ねた[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]の娘)の次女。姉に[[テューリンゲン方伯]][[ヴィルヘルム3世 (テューリンゲン方伯)|ヴィルヘルム3世]]夫人[[アンナ・フォン・エスターライヒ (1432-1462)|アンナ]]、弟にオーストリア公を継承し、2つの王位にもついた[[ラディスラウス・ポストゥムス|ラディスラウス]]がいる。
'''エリーザベト・フォン・ハプスブルク'''({{lang-de-short|Elisabeth von Habsburg}})または'''エリーザベト・フォン・エスターライヒ'''(Elisabeth von Österreich, [[1437年]]頃 - [[1505年]][[8月30日]])は、[[ポーランド国王|ポーランド王]]および[[リトアニア大公]]である[[カジミェシュ4世 (ポーランド王)|カジミェシュ4世]]の妃。[[ポーランド語]]名は'''エルジュビェタ・ラクシャンカ'''(Elżbieta Rakuszanka)。[[ローマ王]][[アルブレヒト2世 (神聖ローマ皇帝)|アルブレヒト2世]]([[ボヘミア王国|ボヘミア王]]、[[ハンガリー王国|ハンガリー王]]、[[オーストリア公国|オーストリア公]]を兼ねた)と妃[[エリーザベト・フォン・ルクセンブルク]](同じく皇帝と2つの王位を兼ねた[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]の娘)の次女。姉に[[テューリンゲン方伯]][[ヴィルヘルム3世 (テューリンゲン方伯)|ヴィルヘルム3世]]夫人[[アンナ・フォン・エスターライヒ (1432-1462)|アンナ]]、弟にオーストリア公を継承し、2つの王位にもついた[[ラディスラウス・ポストゥムス|ラディスラウス]]がいる。


[[1439年]]に父を、[[1442年]]に母を幼くして亡くし、一族の[[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]](皇帝、当時は戴冠前でローマ王)の後見を受ける。[[1454年]]にカジミェシュ4世と結婚し、2人の間には、曾祖父・祖父・叔父と同様にボヘミアとハンガリーの王を兼ねた[[ウラースロー2世]]、相次いでポーランド王位を継承した[[ヤン1世 (ポーランド王)|ヤン1世]]、[[アレクサンデル (ポーランド王)|アレクサンデル]]、[[ジグムント1世]]ら13人の子が生まれた。
[[1439年]]に父を、[[1442年]]に母を幼くして亡くし、一族の[[フリードリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ3世]](皇帝、当時は戴冠前でローマ王)の後見を受ける。[[1454年]]にカジミェシュ4世と結婚し、2人の間には、曾祖父・祖父・叔父と同様にボヘミアとハンガリーの王を兼ねた[[ウラースロー2世 (ハンガリー王)|ウラースロー2世]]、相次いでポーランド王位を継承した[[ヤン1世 (ポーランド王)|ヤン1世]]、[[アレクサンデル (ポーランド王)|アレクサンデル]]、[[ジグムント1世]]ら13人の子が生まれた。


== 子女 ==
== 子女 ==
*[[ウラースロー2世]](1456年 - 1516年) ボヘミア王およびハンガリー王
*[[ウラースロー2世 (ハンガリー王)|ウラースロー2世]](1456年 - 1516年) ボヘミア王およびハンガリー王
*[[ヤドヴィガ・ヤギェロンカ (1457-1502)|ヤドヴィガ]](1457年 - 1502年) - [[バイエルン大公|バイエルン=ランツフート公]][[ゲオルク (バイエルン公)|ゲオルク]]と結婚
*[[ヤドヴィガ・ヤギェロンカ (1457-1502)|ヤドヴィガ]](1457年 - 1502年) - [[バイエルン大公|バイエルン=ランツフート公]][[ゲオルク (バイエルン公)|ゲオルク]]と結婚
*[[カジミェシュ (聖人)|カジミェシュ]](1458年 - 1484年) - リトアニアの[[守護聖人]]
*[[カジミェシュ (聖人)|カジミェシュ]](1458年 - 1484年) - リトアニアの[[守護聖人]]

2021年5月24日 (月) 22:14時点における版

エリーザベト・フォン・ハプスブルク
Elisabeth von Habsburg
ポーランド王妃
在位 1454年2月10日 - 1492年6月7日
戴冠式 1454年2月10日 ヴァヴェル大聖堂

出生 1437年
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
オーストリア公国ウィーン
死去 1505年8月30日
ポーランド王国クラクフ
埋葬 ポーランド王国クラクフヴァヴェル大聖堂
結婚 1454年2月10日 ヴァヴェル大聖堂
配偶者 カジミェシュ4世
子女 一覧参照
家名 ハプスブルク家
父親 ローマ王アルブレヒト2世
母親 エリーザベト・フォン・ルクセンブルク
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エリーザベト・フォン・ハプスブルク: Elisabeth von Habsburg)またはエリーザベト・フォン・エスターライヒ(Elisabeth von Österreich, 1437年頃 - 1505年8月30日)は、ポーランド王およびリトアニア大公であるカジミェシュ4世の妃。ポーランド語名はエルジュビェタ・ラクシャンカ(Elżbieta Rakuszanka)。ローマ王アルブレヒト2世ボヘミア王ハンガリー王オーストリア公を兼ねた)と妃エリーザベト・フォン・ルクセンブルク(同じく皇帝と2つの王位を兼ねたジギスムントの娘)の次女。姉にテューリンゲン方伯ヴィルヘルム3世夫人アンナ、弟にオーストリア公を継承し、2つの王位にもついたラディスラウスがいる。

1439年に父を、1442年に母を幼くして亡くし、一族のフリードリヒ3世(皇帝、当時は戴冠前でローマ王)の後見を受ける。1454年にカジミェシュ4世と結婚し、2人の間には、曾祖父・祖父・叔父と同様にボヘミアとハンガリーの王を兼ねたウラースロー2世、相次いでポーランド王位を継承したヤン1世アレクサンデルジグムント1世ら13人の子が生まれた。

子女