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トゥルグ・ムレシュが初めて記録上に登場したのは、教皇庁の登記で、ノヴム・フォルム・シクロルム(''Novum Forum Siculorum'')の名であった。 |
トゥルグ・ムレシュが初めて記録上に登場したのは、教皇庁の登記で、ノヴム・フォルム・シクロルム(''Novum Forum Siculorum'')の名であった。 |
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1405年、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王で[[神聖ローマ皇帝]]であった[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]が、市を開く権利をトゥルグ・ムレシュの町に授けた(当時の市名はハンガリー語名セーケイヴァーシャールヘイ''Székelyvásárhely''であった)。1482年、[[マーチャーシュ1世]]は市を王立定住地とした。1616年には自治体となり、市名をマロシュヴァーシャールヘイ(''Marosvásárhely'')とした(ルーマニア語のTârgu Mureșの''târg''及び、ハンガリー語vásárはどちらも市場を意味していた)。1754年、[[トランシルヴァニア公国]]の最高裁判所が置かれたことから、社会、経済での活発な成長を経験することとなった。 |
1405年、[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王で[[神聖ローマ皇帝]]であった[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント]]が、市を開く権利をトゥルグ・ムレシュの町に授けた(当時の市名はハンガリー語名セーケイヴァーシャールヘイ''Székelyvásárhely''であった)。1482年、[[マーチャーシュ1世 (ハンガリー王)|マーチャーシュ1世]]は市を王立定住地とした。1616年には自治体となり、市名をマロシュヴァーシャールヘイ(''Marosvásárhely'')とした(ルーマニア語のTârgu Mureșの''târg''及び、ハンガリー語vásárはどちらも市場を意味していた)。1754年、[[トランシルヴァニア公国]]の最高裁判所が置かれたことから、社会、経済での活発な成長を経験することとなった。 |
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[[:en:The Revolutions of 1848 in the Habsburg areas|ハプスブルク領内での1848年革命]]の首領[[:en:Avram Iancu|アヴラム・ヤンク]]は、トランシルヴァニアでルーマニア人の権利獲得闘争を始める前は、トゥルグ・ムレシュの若い弁護士であった。 |
[[:en:The Revolutions of 1848 in the Habsburg areas|ハプスブルク領内での1848年革命]]の首領[[:en:Avram Iancu|アヴラム・ヤンク]]は、トランシルヴァニアでルーマニア人の権利獲得闘争を始める前は、トゥルグ・ムレシュの若い弁護士であった。 |
2021年5月24日 (月) 22:05時点における版
トゥルグ・ムレシュ Târgu Mureș | |||||
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位置 | |||||
トゥルグ・ムレシュの位置 | |||||
座標 : 北緯46度32分59秒 東経24度33分35秒 / 北緯46.54972度 東経24.55972度 | |||||
行政 | |||||
国 | ルーマニア | ||||
県 | ムレシュ県 | ||||
市 | トゥルグ・ムレシュ | ||||
市長 | Dorin Florea | ||||
地理 | |||||
面積 | |||||
市域 | 49.3 km2 | ||||
標高 | 320 m | ||||
人口 | |||||
人口 | (2007年現在) | ||||
市域 | 146,000人 | ||||
人口密度 | 3,043人/km2 | ||||
その他 | |||||
等時帯 | 東ヨーロッパ時間 (UTC+2) | ||||
夏時間 | 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3) | ||||
公式ウェブサイト : http://www.tirgmures.info/ |
トゥルグ・ムレシュ (ルーマニア語: Târgu Mureș; ハンガリー語: Marosvásárhely, (Székely-)Vásárhely; ドイツ語: Neumarkt am Mieresch; ラテン語: Novum Forum Siculorum)は、ルーマニア、トランシルヴァニア地方の都市。ムレシュ県の県都。Tîrgu Mureșとルーマニア語で綴られることもある。
歴史
トゥルグ・ムレシュが初めて記録上に登場したのは、教皇庁の登記で、ノヴム・フォルム・シクロルム(Novum Forum Siculorum)の名であった。
1405年、ハンガリー王で神聖ローマ皇帝であったジギスムントが、市を開く権利をトゥルグ・ムレシュの町に授けた(当時の市名はハンガリー語名セーケイヴァーシャールヘイSzékelyvásárhelyであった)。1482年、マーチャーシュ1世は市を王立定住地とした。1616年には自治体となり、市名をマロシュヴァーシャールヘイ(Marosvásárhely)とした(ルーマニア語のTârgu Mureșのtârg及び、ハンガリー語vásárはどちらも市場を意味していた)。1754年、トランシルヴァニア公国の最高裁判所が置かれたことから、社会、経済での活発な成長を経験することとなった。
ハプスブルク領内での1848年革命の首領アヴラム・ヤンクは、トランシルヴァニアでルーマニア人の権利獲得闘争を始める前は、トゥルグ・ムレシュの若い弁護士であった。
1880年、ポーランドの将軍ユゼフ・ベム像が、市中心部のロセス広場に設置された。1893年、同様にコッシュート・ラヨシュの像も置かれた。1907年にはラーコーツィ・フェレンツ2世像が置かれた。この3体の像は、第一次世界大戦後の1923年に取り払われた。
市の県内での存在は、19世紀終盤と20世紀初頭に大きく変化した。1913年、トランシルヴァニアでのウィーン分離派様式を採用した市庁舎が、市長ジョルジ・ベルナージの都市再開発の一部として開館した。経済の成功は第二次世界大戦まで続いた。対立の後、トゥルグ・ムレシュはトランシルヴァニアの他と同様にルーマニアへ併合され、オショルヘユ(Oșorheiu)と改名した。1910年には89%をハンガリー人人口が占める一方、20世紀半ばにはルーマニア人人口が増加した。
1940年から1944年、ウィーン裁定の結果、トゥルグ・ムレシュを含むルーマニア北部がハンガリーへ割譲された。この時期、ユダヤ人ゲットーが市内につくられた。ルーマニア人が市の支配を取り戻すのは、大戦末期の1944年10月だった。
第二次世界大戦後、ルーマニア共産主義政権は重厚な工業化政策を指揮し、完全に共同体の体裁を変え、市にはハンガリー人自治県首府が置かれた(15年後廃止)。その後、トゥルグ・ムレシュはムレシュ県の経済、社会の中心地となった。
1990年3月、共産主義政権を倒したルーマニア革命のすぐ後、トゥルグ・ムレシュは少数派ハンガリー人とルーマニア人との暴力的対決の舞台となった(en:Ethnic clashes of Târgu Mureș)。
2000年、トゥルグ・ムレシュ人口の相当な割合が、恒常的に外国へ出稼ぎに流出し始めた。地元経済は多様な投資が地域に投入されたことで、強さを取り戻し始めた。
トゥルグ・ムレシュには、多くのハンガリー住民が暮らし、その一部はセーケイ人を自認している。2003年以後、一部のセーケイ人組織が、自治県の中心地になろうと宣伝を行ってきた。現市長ドリン・フロレアは、初の直接選挙で選出されたルーマニア人市長であるが、市議会はハンガリー人が多数派を維持している。
統計
2002年の調査によると、基礎自治体トゥルグ・ムレシュの人口は149,577人で、民族比は以下のようになっている。
民族 | 人数 | % |
---|---|---|
ルーマニア人 | 75,317 | 50.35% |
ハンガリー人 | 69,825 | 46.68% |
ロマ人 | 3,759 | 2.51% |
ドイツ人 | 275 | 0.18% |
不明 | 401 | 0.27% |
2002年の調査は、初めてハンガリー系住民が少数派に登場した。基礎自治体トゥルグ・ムレシュでは公用語はルーマニア語とハンガリー語となっており、行政、司法、教育、公の表示などで公式に使用されている。
交通
- トゥルグ・ムレシュ国際空港 - マレーヴ・ハンガリー航空、ウィズエアーの定期便がある
ギャラリー
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シナゴーグ
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文化宮殿
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「小聖堂」と呼ばれるブナ・ヴェスティレ教会
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ルーマニア正教会のウナルツァレア・ドムヌルイ大聖堂
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ムレシュ県庁舎