「ジョヴァンナ1世 (ナポリ女王)」の版間の差分
m Botによる: {{Normdaten}}を追加 |
m Bot作業依頼: ハンガリー王記事群の改名に伴うリンク修正依頼 (ラヨシュ1世 (ハンガリー王)) - log |
||
33行目: | 33行目: | ||
== 生涯 == |
== 生涯 == |
||
1343年、祖父のロベルトを継いでナポリ女王となった。しかし、王位を[[はとこ|又従兄]]の[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[ラヨシュ1世]]に狙われ([[ラヨシュ1世のナポリ遠征]])、[[1347年]]にナポリから追放され、[[フランス王国|フランス]]へ亡命し、[[1352年]]に復帰を果たした。当初、ジョヴァンナは教皇[[ウルバヌス6世 (ローマ教皇)|ウルバヌス6世]]の支持者であったが、後に対立し、1381年にウルバヌス6世はジョヴァンナをナポリ王位から退位させ、カルロ・ディ・ドゥラッツォに王位を与える決定を行った<ref name=T581>タックマン、p. 581、注91</ref><ref>マックスウェル=スチュアート、p. 180</ref>。一方、子のいなかったジョヴァンナは1382年に[[ヴァロワ=アンジュー家]]の[[ルイ1世・ダンジュー]]を後継者とすることを決定したため<ref name=T581 /><ref name=S86>澤井、p. 86</ref>、同年にムーロ・ルカーノでラヨシュ1世の命を受けた又従弟のカルロ・ディ・ドゥラッツォによって暗殺され<ref name=T581 />、最後の夫に先立って死去した。代わってカルロ・ディ・ドゥラッツォが[[カルロ3世 (ナポリ王)|カルロ3世]]として王位についた。カルロ3世はまた、ジョヴァンナの妹マリア・ディ・カラブリアの娘[[マルゲリータ・ディ・ドゥラッツォ|マルゲリータ]]の夫でもあった。 |
1343年、祖父のロベルトを継いでナポリ女王となった。しかし、王位を[[はとこ|又従兄]]の[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]]に狙われ([[ラヨシュ1世のナポリ遠征]])、[[1347年]]にナポリから追放され、[[フランス王国|フランス]]へ亡命し、[[1352年]]に復帰を果たした。当初、ジョヴァンナは教皇[[ウルバヌス6世 (ローマ教皇)|ウルバヌス6世]]の支持者であったが、後に対立し、1381年にウルバヌス6世はジョヴァンナをナポリ王位から退位させ、カルロ・ディ・ドゥラッツォに王位を与える決定を行った<ref name=T581>タックマン、p. 581、注91</ref><ref>マックスウェル=スチュアート、p. 180</ref>。一方、子のいなかったジョヴァンナは1382年に[[ヴァロワ=アンジュー家]]の[[ルイ1世・ダンジュー]]を後継者とすることを決定したため<ref name=T581 /><ref name=S86>澤井、p. 86</ref>、同年にムーロ・ルカーノでラヨシュ1世の命を受けた又従弟のカルロ・ディ・ドゥラッツォによって暗殺され<ref name=T581 />、最後の夫に先立って死去した。代わってカルロ・ディ・ドゥラッツォが[[カルロ3世 (ナポリ王)|カルロ3世]]として王位についた。カルロ3世はまた、ジョヴァンナの妹マリア・ディ・カラブリアの娘[[マルゲリータ・ディ・ドゥラッツォ|マルゲリータ]]の夫でもあった。 |
||
ジョヴァンナは4度結婚した<ref name=T353>タックマン、p. 353、注102</ref>。最初にハンガリー王[[ラヨシュ1世]]の弟で又従兄に当たる[[アンドレア・ドゥンゲリア|アンドラーシュ(エンドレ)]]と結婚したが、[[1345年]]に暗殺された(ジョヴァンナ自身が加担したとも言われる)<ref name=S86 />。アンドラーシュとの間には1男が生まれたが早世している。翌[[1346年]]に父カルロの従弟であり自身の母方の従兄でもあるターラント公ルイージと2度目の結婚をしたが、[[1362年]]に死別した。ルイージとの間には2女が生まれたが、いずれも早世している。翌[[1363年]]に[[マヨルカ王国|マヨルカ]]王[[ジャウメ4世 (マヨルカ王)|ジャウメ4世]]と結婚したが、[[1375年]]に死別し、子は生まれなかった。翌1376年にブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲン公オットー(ハインリヒ2世の息子)と最後の結婚をしたが、子は生まれなかった。 |
ジョヴァンナは4度結婚した<ref name=T353>タックマン、p. 353、注102</ref>。最初にハンガリー王[[ラヨシュ1世 (ハンガリー王)|ラヨシュ1世]]の弟で又従兄に当たる[[アンドレア・ドゥンゲリア|アンドラーシュ(エンドレ)]]と結婚したが、[[1345年]]に暗殺された(ジョヴァンナ自身が加担したとも言われる)<ref name=S86 />。アンドラーシュとの間には1男が生まれたが早世している。翌[[1346年]]に父カルロの従弟であり自身の母方の従兄でもあるターラント公ルイージと2度目の結婚をしたが、[[1362年]]に死別した。ルイージとの間には2女が生まれたが、いずれも早世している。翌[[1363年]]に[[マヨルカ王国|マヨルカ]]王[[ジャウメ4世 (マヨルカ王)|ジャウメ4世]]と結婚したが、[[1375年]]に死別し、子は生まれなかった。翌1376年にブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲン公オットー(ハインリヒ2世の息子)と最後の結婚をしたが、子は生まれなかった。 |
||
なお、[[1348年]]に[[教皇]][[クレメンス6世 (ローマ教皇)|クレメンス6世]]がジョヴァンナから[[アヴィニョン]]を買い取っている<ref name=T353 />。その後アヴィニョンは[[アヴィニョン教皇庁|教皇宮殿]]を中心に[[国際ゴシック]]様式が流行、[[フランス革命]]で没収されるまで[[教皇領]]の一部となった。 |
なお、[[1348年]]に[[教皇]][[クレメンス6世 (ローマ教皇)|クレメンス6世]]がジョヴァンナから[[アヴィニョン]]を買い取っている<ref name=T353 />。その後アヴィニョンは[[アヴィニョン教皇庁|教皇宮殿]]を中心に[[国際ゴシック]]様式が流行、[[フランス革命]]で没収されるまで[[教皇領]]の一部となった。 |
2021年5月24日 (月) 21:52時点における版
ジョヴァンナ1世 Giovanna I d'Angiò | |
---|---|
ナポリ女王 エルサレム女王 シチリア女王 | |
| |
在位 | 1343年 - 1382年 |
出生 |
1327年 ナポリ王国、ナポリ |
死去 |
1382年5月12日 ナポリ王国、ムーロ・ルカーノ |
埋葬 | ナポリ王国、ナポリ、サンタ・キアラ聖堂 |
配偶者 | アンドレア・ドゥンゲリア |
ターラント公ルイージ | |
マヨルカ王ジャウメ4世 | |
ブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲン公オットー | |
家名 | アンジュー=シチリア家 |
王朝 | ナポリ・アンジュー朝 |
父親 | カラブリア公カルロ |
母親 | マリーア・ディ・ヴァロワ |
ジョヴァンナ1世・ダンジョ(Giovanna I d'Angiò, 1327年 - 1382年5月12日)は、ナポリ女王(在位:1343年 - 1382年)。エルサレム女王、シチリア女王、アカイア公、プロヴァンス伯、フォルカルキエ伯の称号を有した。ナポリ王ロベルトの長男カラブリア公カルロと、フランス王フィリップ6世の異母妹マリーア・ディ・ヴァロワの娘。
生涯
1343年、祖父のロベルトを継いでナポリ女王となった。しかし、王位を又従兄のハンガリー王ラヨシュ1世に狙われ(ラヨシュ1世のナポリ遠征)、1347年にナポリから追放され、フランスへ亡命し、1352年に復帰を果たした。当初、ジョヴァンナは教皇ウルバヌス6世の支持者であったが、後に対立し、1381年にウルバヌス6世はジョヴァンナをナポリ王位から退位させ、カルロ・ディ・ドゥラッツォに王位を与える決定を行った[1][2]。一方、子のいなかったジョヴァンナは1382年にヴァロワ=アンジュー家のルイ1世・ダンジューを後継者とすることを決定したため[1][3]、同年にムーロ・ルカーノでラヨシュ1世の命を受けた又従弟のカルロ・ディ・ドゥラッツォによって暗殺され[1]、最後の夫に先立って死去した。代わってカルロ・ディ・ドゥラッツォがカルロ3世として王位についた。カルロ3世はまた、ジョヴァンナの妹マリア・ディ・カラブリアの娘マルゲリータの夫でもあった。
ジョヴァンナは4度結婚した[4]。最初にハンガリー王ラヨシュ1世の弟で又従兄に当たるアンドラーシュ(エンドレ)と結婚したが、1345年に暗殺された(ジョヴァンナ自身が加担したとも言われる)[3]。アンドラーシュとの間には1男が生まれたが早世している。翌1346年に父カルロの従弟であり自身の母方の従兄でもあるターラント公ルイージと2度目の結婚をしたが、1362年に死別した。ルイージとの間には2女が生まれたが、いずれも早世している。翌1363年にマヨルカ王ジャウメ4世と結婚したが、1375年に死別し、子は生まれなかった。翌1376年にブラウンシュヴァイク=グルーベンハーゲン公オットー(ハインリヒ2世の息子)と最後の結婚をしたが、子は生まれなかった。
なお、1348年に教皇クレメンス6世がジョヴァンナからアヴィニョンを買い取っている[4]。その後アヴィニョンは教皇宮殿を中心に国際ゴシック様式が流行、フランス革命で没収されるまで教皇領の一部となった。
脚注
参考文献
- 澤井繁男 『ナポリの肖像』 中央公論新社、2001年
- バーバラ・W・タックマン、徳永守儀 訳 『遠い鏡』 朝日出版社、2013年
- P.G.・マックスウェル=スチュアート 『ローマ教皇歴代誌』 創元社、1999年
関連項目
|
|
|
|
|