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「クルジュ=ナポカ」の版間の差分

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[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[ラースロー4世 (ハンガリー王)|ラースロー4世]]は、[[1275年]]、トランシルヴァニアにいた[[トランシルヴァニア・ザクセン人|ザクセン人]]に対し、かつてのローマ都市ナポカの近くに植民するよう勧めた。この入植地は[[ドイツ語]]でクラウゼンブルク {{lang|de|''Klausenburg''}} と命名された(クラウゼは[[峠]]を意味する古い語で「峠の城」の意)。[[ルーマニア語]]のクルジュは「クラウゼ」に由来するとも、さらに地名自体[[ラテン語]]の 'clusum'(閉じた)に由来するとも、[[スラブ語]]のクリューチ(鍵) ključ(ハンガリー語 kulucs)に対応するとも推測されている。clusum 説はこの街が丘に囲まれていることに関係あると考えられている。またこの街に住んだハンガリー人は街をコロジュヴァール {{lang|hu|''Kolozsvár''}} と呼んだ。
[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[ラースロー4世 (ハンガリー王)|ラースロー4世]]は、[[1275年]]、トランシルヴァニアにいた[[トランシルヴァニア・ザクセン人|ザクセン人]]に対し、かつてのローマ都市ナポカの近くに植民するよう勧めた。この入植地は[[ドイツ語]]でクラウゼンブルク {{lang|de|''Klausenburg''}} と命名された(クラウゼは[[峠]]を意味する古い語で「峠の城」の意)。[[ルーマニア語]]のクルジュは「クラウゼ」に由来するとも、さらに地名自体[[ラテン語]]の 'clusum'(閉じた)に由来するとも、[[スラブ語]]のクリューチ(鍵) ključ(ハンガリー語 kulucs)に対応するとも推測されている。clusum 説はこの街が丘に囲まれていることに関係あると考えられている。またこの街に住んだハンガリー人は街をコロジュヴァール {{lang|hu|''Kolozsvár''}} と呼んだ。


[[1316年]]、クルジュは[[都市]]としての特許を[[カーロイ1世]]から得た。街は急速に発展し、[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント(ジグモンド)]]王のとき、[[聖ミカエル大聖堂]]が建てられた。[[15世紀]]に[[ザクセン人]]と[[ハンガリー人]]の住民の数が等しくなると、ハンガリー王[[マーチャーシュ1世|マーチャーシュ]](1440年クルジュ生まれ)は、首席判事がザクセン人とハンガリー人から交互に出されるよう命令を出した。
[[1316年]]、クルジュは[[都市]]としての特許を[[カーロイ1世 (ハンガリー王)|カーロイ1世]]から得た。街は急速に発展し、[[ジギスムント (神聖ローマ皇帝)|ジギスムント(ジグモンド)]]王のとき、[[聖ミカエル大聖堂]]が建てられた。[[15世紀]]に[[ザクセン人]]と[[ハンガリー人]]の住民の数が等しくなると、ハンガリー王[[マーチャーシュ1世|マーチャーシュ]](1440年クルジュ生まれ)は、首席判事がザクセン人とハンガリー人から交互に出されるよう命令を出した。


[[1541年]]、クルジュは[[トランシルヴァニア公国]]の一部となった。公国の首府は[[アルバ・ユリア]]におかれたが、クルジュはトランシルヴァニア公国の文化と宗教の中心となった。[[1581年]]、[[ステファン・バートリ (ポーランド王)|ステファン・バートリ]]が[[イエズス会]]の学校をクルジュに建てた。[[1545年]]から[[1570年]]の間、多くのザクセン人が[[ユニテリアン]]の信仰のために街を離れたが、[[オスマン帝国]]とハンガリー王国の戦争で、さらにザクセン人など[[ドイツ系]]住民の人口は減少することになった。かわってハンガリー人の人口が増え、クルジュはハンガリー人の貴族と知識階級の活動の中心都市となった。
[[1541年]]、クルジュは[[トランシルヴァニア公国]]の一部となった。公国の首府は[[アルバ・ユリア]]におかれたが、クルジュはトランシルヴァニア公国の文化と宗教の中心となった。[[1581年]]、[[ステファン・バートリ (ポーランド王)|ステファン・バートリ]]が[[イエズス会]]の学校をクルジュに建てた。[[1545年]]から[[1570年]]の間、多くのザクセン人が[[ユニテリアン]]の信仰のために街を離れたが、[[オスマン帝国]]とハンガリー王国の戦争で、さらにザクセン人など[[ドイツ系]]住民の人口は減少することになった。かわってハンガリー人の人口が増え、クルジュはハンガリー人の貴族と知識階級の活動の中心都市となった。

2021年5月24日 (月) 21:44時点における版

クルジュ=ナポカ
Cluj-Napoca
クルジュ=ナポカの市章
市章
位置
クルジュ=ナポカの位置の位置図
クルジュ=ナポカの位置
地図
座標 : 北緯46度46分 東経23度36分 / 北緯46.767度 東経23.600度 / 46.767; 23.600
行政
 ルーマニア
  クルジュ県
 市 クルジュ=ナポカ
市長 Sorin Apostu(臨時代行)
地理
面積  
  市域 179.5 km2
標高 410 m
人口
人口 (2010年1月1日現在)
  市域 639,300 (住民登録数)人
その他
等時帯 東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間 東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
公式ウェブサイト : http://www.clujnapoca.ro

クルジュ=ナポカルーマニア語: Cluj-Napoca, ラテン語: Claudiopolis)は、ルーマニア北西部の都市。「クルジュ」は「クルージ」とも表記する[1]クルジュ県の県都で、ルーマニア国内の教育・文化・工業の中心のひとつ。トランシルヴァニア地方の中心部、ソメシュル・ミク川の渓谷に位置し、ブカレストから約480kmの位置にある。ブカレストに次ぐルーマニア第2の都市。コロジュヴァールハンガリー語: Kolozsvár)、クラウゼンブルクドイツ語: Klausenburg)という名前でも有名。

歴史

クルジュ=ナポカへの人間の居住は先史時代にさかのぼる。2世紀初めローマ帝国ダキアを征服すると、トラヤヌス帝はローマ軍の宿営地をおき、ナポカNapoca)と命名した。ナポカには軍人以外も多く定住するようになり、ハドリアヌス帝のとき、自由都市municipium)に格上げされ、ムニキピウム・アエリウム・ハドリアヌム・ナポカと命名された。のちにおそらくマルクス・アウレリウス帝のとき、植民市に格上げされた。ポロリッセンシス属州の首都とされ、行政の中心となった。しかし民族大移動の時期に征服され、荒廃した。

ハンガリーラースロー4世は、1275年、トランシルヴァニアにいたザクセン人に対し、かつてのローマ都市ナポカの近くに植民するよう勧めた。この入植地はドイツ語でクラウゼンブルク Klausenburg と命名された(クラウゼはを意味する古い語で「峠の城」の意)。ルーマニア語のクルジュは「クラウゼ」に由来するとも、さらに地名自体ラテン語の 'clusum'(閉じた)に由来するとも、スラブ語のクリューチ(鍵) ključ(ハンガリー語 kulucs)に対応するとも推測されている。clusum 説はこの街が丘に囲まれていることに関係あると考えられている。またこの街に住んだハンガリー人は街をコロジュヴァール Kolozsvár と呼んだ。

1316年、クルジュは都市としての特許をカーロイ1世から得た。街は急速に発展し、ジギスムント(ジグモンド)王のとき、聖ミカエル大聖堂が建てられた。15世紀ザクセン人ハンガリー人の住民の数が等しくなると、ハンガリー王マーチャーシュ(1440年クルジュ生まれ)は、首席判事がザクセン人とハンガリー人から交互に出されるよう命令を出した。

1541年、クルジュはトランシルヴァニア公国の一部となった。公国の首府はアルバ・ユリアにおかれたが、クルジュはトランシルヴァニア公国の文化と宗教の中心となった。1581年ステファン・バートリイエズス会の学校をクルジュに建てた。1545年から1570年の間、多くのザクセン人がユニテリアンの信仰のために街を離れたが、オスマン帝国とハンガリー王国の戦争で、さらにザクセン人などドイツ系住民の人口は減少することになった。かわってハンガリー人の人口が増え、クルジュはハンガリー人の貴族と知識階級の活動の中心都市となった。

1791年、ハンガリーで最初の新聞がクルジュで発行された。1792年にはハンガリーで最初の劇団が設立された。1798年の大火で、街は大きな被害を負った。

市の中心街

1790年から1848年にかけて、また1861年から1867年にかけて、クルジュはトランシルヴァニア大公国の首都となった。またトランシルヴァニア議会がおかれた。1830年初頭、クルジュはトランシルヴァニアにおけるハンガリー人の民族運動の中心となった。1848年の革命において、クルジュは12月にポーランド人のユゼフ・ベム将軍に率いられたハンガリー人に占拠された。

1867年アウスグライヒ(妥協)のあとオーストリア・ハンガリー帝国が建国されると、クルジュとトランシルヴァニア大公国はふたたびハンガリー王国に編入された。この時期、クルジュはブダペストに次いで王国第2の都市であり、コロジュ県の県都とされた。

第一次世界大戦後、他のトランシルヴァニア地方とともに、ルーマニア王国の一部となった。1940年ウィーン裁定Vienna Award)によりハンガリーに与えられたが、1944年10月、クルジュに駐屯していたハンガリー軍はソ連軍とルーマニア軍の合同部隊に敗走した。1947年パリ条約により、クルジュのルーマニアへの帰属が確定した。

1950年まで、ハンガリー人はクルジュの住民のうち最大の人数を占めていた。1966年の国勢調査によると、185,663人の住民がおり、56%がルーマニア人、41%がハンガリー人だった。1974年に市は改称され、現在のクルジュ=ナポカとなった。12年市長を務めたジョルジ・フナールは反ハンガリー人感情を高めたことで注目される。クルジュ=ナポカにおけるハンガリー人の文化遺産を目立たなくするために、数多くの公共美術事業が企図された。

1994年2000年に、クルジュ=ナポカは、中央ヨーロッパ情報オリンピックCentral European Olympiad in Informatics、略称CEOI、1994年より開催)の開催地となった。

経済と交通

ビール醸造、木製家具製造、乳製品加工、毛織物生産が行われる。近年は通信情報産業も盛んである。

鉄道・道路の結節点として、交通の要衝である。またクルジュ=ナポカ国際空港英語版があり、国内便・国際便の発着がある。ハンガリー・イタリア・ドイツ・オーストリアへの定期便のほか、夏には主に地中海地方へのチャーター便が運航される。

教育

バベシュ=ボーヤイ大学の内部

ヴィクトル・バベシュボーヤイ・ヤーノシュの名を冠したルーマニア最大の大学であるバベシュ=ボーヤイ大学を初め、多数の国立・私立の大学が集中する大学都市である。

ハンガリー時代のコロジュヴァール大学セゲドに移転した。

スポーツ

出身の人物

姉妹都市

脚注

  1. ^ 『地球の歩き方 2017〜18 ブルガリア/ルーマニア』ダイヤモンド・ビッグ社、2017年、251頁。ISBN 978-4-478-06019-3 

外部リンク