「ヤロスラフ・ウラジミロヴィチ (ガーリチ公)」の版間の差分
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'''ヤロスラフ・ウラジミロヴィチ(ウラジミルコヴィチ) / ヤロスラフ・オスモムィスル'''({{lang-ru|Ярослав Владимирович (Владимиркович) / Ярослав Осмомысл}}、1130年頃 - 1187年10月1日)はガーリチ公[[ウラジーミル・ヴォロダレヴィチ|ウラジーミル(ウラジミルコ)]]の子である(母は[[ハンガリー王]][[カールマーン1世]]の娘。名はおそらくZsófia)。通称の「オスモムィスル(Осмомысл)」は8人の知恵を持つ者{{refnest|group="注"|現代ロシア語ではвосемь(原型はおそらくосмь<ref>井桁貞義『コンサイス露和辞典』p114</ref> )は8、мысльは思考、思惟、思想等を意味する。}}、すなわち優れて聡明な者を意味する言葉であり、日本語文献では「八重に賢き」等と表現されている<ref>中村喜和『イーゴリ軍記』p217</ref>。 |
'''ヤロスラフ・ウラジミロヴィチ(ウラジミルコヴィチ) / ヤロスラフ・オスモムィスル'''({{lang-ru|Ярослав Владимирович (Владимиркович) / Ярослав Осмомысл}}、1130年頃 - 1187年10月1日)はガーリチ公[[ウラジーミル・ヴォロダレヴィチ|ウラジーミル(ウラジミルコ)]]の子である(母は[[ハンガリー王]][[カールマーン1世 (ハンガリー王)|カールマーン1世]]の娘。名はおそらくZsófia)。通称の「オスモムィスル(Осмомысл)」は8人の知恵を持つ者{{refnest|group="注"|現代ロシア語ではвосемь(原型はおそらくосмь<ref>井桁貞義『コンサイス露和辞典』p114</ref> )は8、мысльは思考、思惟、思想等を意味する。}}、すなわち優れて聡明な者を意味する言葉であり、日本語文献では「八重に賢き」等と表現されている<ref>中村喜和『イーゴリ軍記』p217</ref>。 |
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2021年5月24日 (月) 21:01時点における版
ヤロスラフ・ウラジミロヴィチ(ウラジミルコヴィチ) / ヤロスラフ・オスモムィスル(ロシア語: Ярослав Владимирович (Владимиркович) / Ярослав Осмомысл、1130年頃 - 1187年10月1日)はガーリチ公ウラジーミル(ウラジミルコ)の子である(母はハンガリー王カールマーン1世の娘。名はおそらくZsófia)。通称の「オスモムィスル(Осмомысл)」は8人の知恵を持つ者[注 1]、すなわち優れて聡明な者を意味する言葉であり、日本語文献では「八重に賢き」等と表現されている[2]。
生涯
ガーリチ公位の確立
1149年、スーズダリ公ユーリー・ドルゴルーキーの娘・オリガと結婚した。それはヤロスラフの父ウラジーミルと、ユーリーとの同盟を記念したものだった(共にキエフ大公イジャスラフと対立関係にあった)。1153年に父が死に、ガーリチ公位を継いだのちに、父の代から係争地となっていたヴォルィーニの都市をかけてイジャスラフと戦った。しかし1154年のテレボヴリの会戦(ru)では大損害を受け、最終的にはガーリチ軍の多くを捕虜として奪われた。イジャスラフは、捕虜とヤロスラフの長子権(ru)とを交換にして引き上げた。ただし、同年イジャスラフは死亡する。
1158年、ヤロスラフと、キエフ大公イジャスラフ(上記の人物とは別人)との間に争いが生じた。それはヤロスラフの従兄弟であり、ガーリチ公位の返還を求めるイヴァン(イヴァンはヤロスラフの父の存命中の1144年に、武力を持ってガーリチ公位を奪っていた(ru)。)の身柄を確保しようとするヤロスラフに対し、イジャスラフが引渡しを拒否して保護したことによるものだった。ヤロスラフは他の諸公や、ハンガリー王、ポーランド諸公の後援を取り付けて、再度イヴァンの引渡しを要求したがイジャスラフは応じず、逆にイヴァンの扇動に乗り、ポロヴェツ族、トルク族、ベレンデイ族らを率いてヤロスラフへ攻撃をしかけた。ヤロスラフの同盟者であったヴォルィーニ公ムスチスラフはベルゴロド(ベルゴロド=キエフスキー)で包囲された。しかしベレンデイ族が裏切ったため、イジャスラフはベルゴロドからの撤退を余儀なくされた。翌年(1159年)、ヤロスラフとヴォルィーニ公ムスチスラフはキエフ大公位にロスチスラフを就けた(ロスチスラフの死(1167年)の後はヴォルィーニ公ムスチスラフがキエフ大公に就く。)。ヤロスラフと対立していたイジャスラフは1161年に、イヴァンは1162年に死亡した。以降、ヤロスラフは自身の死までガーリチ公国を統治し、他のルーシ諸公に対する大きな影響力を有した。そのドルジーナ(近衛兵)隊はポロヴェツ族への遠征を行い、ヤロスラフの名は遊牧民の間で恐れられた。
1164年、ビザンツ皇帝マヌエル1世に追われたアンドロニコスがガーリチに逃亡してきた(後にマヌエルとアンドロニコスは和解)。その後、1167年にハンガリー王国に対する同盟を締結した。1170年にはムスチスラフ(上記の同盟者ムスチスラフ)のキエフ大公位奪還戦(ru)を支援した。
ヤロスラフと同時代の(1185年の)ポロヴェツ族への遠征を題材とした『イーゴリ軍記』において、語り手である作者がルーシ各地の有力諸公に対し、団結して外敵とあたるべく呼びかける場面がある。そのうちヤロスラフに対する記述は以下のとおりである。
ガリツィヤの八重に賢きヤロスラーフよ。御身は黄金づくりの高御座に坐し、鉄壁の軍勢をもってウグルの山々をささえ、マジャール王の進路をさえぎった。またドナウの門をとざして、雲のかなたに重いいわおを投げかけながら、ドナウの岸まで君主の裁きを行なった。その威光はもろもろの地にとどろいている。(…後略) 。 — 中村喜和編訳、『イーゴリ軍記』(『ロシア中世物語集』所収) 筑摩書房、1970年。217頁より引用[注 2]
上記の記述はヤロスラフの権勢をうかがわせるものである。ヤロスラフはプルト川河口(ドナウ川に合流)の都市・マルィー=ガーリチ(小ガーリチの意。現ルーマニア・ガラツィ)を領有することで、ブルガリア、ビザンツ地域とのドナウ川交易を手中に収め、ガーリチ公国の交易・農業を発展させた。ヤロスラフの通称であるオスモムィスルは、その聡明さを称えるものであるとする説の他に、ヤロスラフが8種の言語を解したことに由来するという説がある。
ボヤーレとの確執
ただし、ヤロスラフのその対外的な権勢の高さにもかかわらず、国内では、隣国であるポーランド王国、ハンガリー王国の貴族政治を範として結束したボヤーレ(貴族)層の反発への対応を迫られた。ヤロラフとボヤーレとの軋轢は、ヤロスラフと妻のオリガとの関係が決裂した時期に特に高まった。1171年、オリガは息子のウラジーミルと共にポーランドへ亡命した。ヤロスラフはこの時、アナスタシヤという名の女性を愛しており、正統な妻子であるオリガとウラジーミルよりも、アナスタシヤとその子のオレグに愛着を示すようになっていた。反ヤロスラフ派のボヤーレのうち、コンスタンチンがオリガに付添いポーランドへ同行した。他のボヤーレたちはガーリチで反乱を起こすと、アナスタシヤを捕らえて焼き殺し、ヤロスラフに、オリガと和解することの宣誓を強いた。(結局は、翌年にはオリガとウラジーミルは、ウラジーミル(オリガはウラジーミル・スーズダリ公国出身。)へ逃亡している。)結果的には、ヤロスラフはボヤーレに渡った権力の回復には至らなかった。
死と継承者
ヤロスラフは1187年にガーリチで死亡し、生神女就寝大聖堂に埋葬された。その地位は庶子であるオレグに譲られ、正妻の子であるウラジーミルはペレムィシュリを受領した。その後オレグは毒殺され、ガーリチ公位は一時ウラジーミルの手に渡るが、ウラジーミルの死後、その子達がガーリチ公位を継ぐことはなく、ヤロスラフの血統は途絶えた。ガーリチ公位にはガーリチのボヤーレによって招聘された、隣国・ヴォルィーニ公国のロマンが就き、両国を併せたガーリチ・ヴォルィーニ公国が成立することになる。
妻子
妻はスーズダリ公ユーリーの娘・オリガ。後にアナスタシヤという愛人を持った。子には以下の人物がいる。
オリガの子:
アナスタシヤの子:
脚注
注釈
出典
- ^ 井桁貞義『コンサイス露和辞典』p114
- ^ 中村喜和『イーゴリ軍記』p217
- ^ Wyrozumski J. L., Dzieje Polski piastowskiej: (VIII wiek — 1370). / Komitet red. Stanisław Grodziski. — Kraków: Fogra, 1999. — S. 153. — (Wielka historia Polski, 2)
- ^ Łaguna S., Rodowód Piastów. // Kwartalnik Historyczny, t. 11. — 1897. — S. 762—763
参考文献
- Ярослав Владимиркович // Энциклопедический словарь Брокгауза и Ефрона(ブロックハウス・エフロン百科事典)— СПб., 1890—1907.
- Фроянов И. Я. Древняя Русь IX—XIII веков. Народные движения. Княжеская и вечевая власть. М.: Русский издательский центр, 2012. С. 489—502.
- 中村喜和訳 『イーゴリ軍記』 // 『ロシア中世物語集』 筑摩書房、1985年