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「オレシニツァ公国」の版間の差分

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オレシニツァ一帯は当初[[ヴロツワフ公国]]に属していたが、[[グウォグフ公国|グウォグフ]]公[[ヘンリク3世 (グウォグフ公)|ヘンリク3世]]と[[レグニツァ公国|レグニツァ]]=ヴロツワフ公[[ヘンリク5世ブジュハティ|ヘンリク5世]]の紛争の後、[[1294年]]にグウォグフ公国に併合された。ヘンリク3世が[[1309年]]に死ぬと、グウォグフ公国の分割に伴ってオレシニツァは大幅な自治権を獲得し、[[1313年]]にはヘンリク3世の3男[[ボレスワフ (オレシニツァ公)|ボレスワフ]]がこの地に公国を創設した。ボレスワフが[[1321年]]に死ぬと、公国はその兄[[コンラト1世 (オレシニツァ公)|コンラト1世]]に受け継がれた。
オレシニツァ一帯は当初[[ヴロツワフ公国]]に属していたが、[[グウォグフ公国|グウォグフ]]公[[ヘンリク3世 (グウォグフ公)|ヘンリク3世]]と[[レグニツァ公国|レグニツァ]]=ヴロツワフ公[[ヘンリク5世ブジュハティ|ヘンリク5世]]の紛争の後、[[1294年]]にグウォグフ公国に併合された。ヘンリク3世が[[1309年]]に死ぬと、グウォグフ公国の分割に伴ってオレシニツァは大幅な自治権を獲得し、[[1313年]]にはヘンリク3世の3男[[ボレスワフ (オレシニツァ公)|ボレスワフ]]がこの地に公国を創設した。ボレスワフが[[1321年]]に死ぬと、公国はその兄[[コンラト1世 (オレシニツァ公)|コンラト1世]]に受け継がれた。


コンラト1世は一族の[[ポーランド君主一覧|ポーランド王]][[ヴワディスワフ1世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ1世]]の圧迫から逃れるため[[ボヘミア|ボヘミア王冠]]の元に庇護を求め、[[1328年]]に[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]][[ヨハン・フォン・ルクセンブルク]]に臣従の礼をとった。[[シロンスク・ピャスト家]]の流れをくむオレシニツァ公家は[[1492年]]、[[コンラト10世ビャウィ|コンラト10世]]の死により断絶した。ボヘミアの先王[[イジー・ス・ポジェブラト]]の息子[[インジフ1世・ス・ポジェブラト|インジフ1世]]が当主のいなくなったオレシニツァ公国を獲得し、[[1495年]]にはボヘミア王[[ウラースロー2世|ヴラジスラフ]]に同国の領有を認めさせた。
コンラト1世は一族の[[ポーランド君主一覧|ポーランド王]][[ヴワディスワフ1世 (ポーランド王)|ヴワディスワフ1世]]の圧迫から逃れるため[[ボヘミア|ボヘミア王冠]]の元に庇護を求め、[[1328年]]に[[ボヘミア君主一覧|ボヘミア王]][[ヨハン・フォン・ルクセンブルク]]に臣従の礼をとった。[[シロンスク・ピャスト家]]の流れをくむオレシニツァ公家は[[1492年]]、[[コンラト10世ビャウィ|コンラト10世]]の死により断絶した。ボヘミアの先王[[イジー (ボヘミア王)]]の息子[[インジフ1世・ス・ポジェブラト|インジフ1世]]が当主のいなくなったオレシニツァ公国を獲得し、[[1495年]]にはボヘミア王[[ウラースロー2世|ヴラジスラフ]]に同国の領有を認めさせた。


ポジェブラト家も[[1647年]]には断絶し、[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント3世]]は同公国を、ポジェブラト家最後の公[[カレル・ベジフ (エールス公)|カレル・ベジフ]]の娘と結婚した[[ヴュルテンベルク家]]出身のヴュルテンベルク=ユリウスブルク公[[ジルフィウス1世ニムロート (ヴュルテンベルク=エールス公)|ジルフィウス1世ニムロート]]に与えた。公国は長くボヘミア王冠の属領であったが、[[シュレージエン戦争]]の結果、[[1742年]]に[[プロイセン王国]]に征服された。しかしヴュルテンベルク家の公爵達は領主として同国を領有し続け、[[1792年]]に公国は[[ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル君主一覧|ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯]][[カール1世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|カール1世]]の息子の一人[[フリードリヒ・アウグスト (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=エールス公)|フリードリヒ・アウグスト]]に相続された。
ポジェブラト家も[[1647年]]には断絶し、[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント3世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント3世]]は同公国を、ポジェブラト家最後の公[[カレル・ベジフ (エールス公)|カレル・ベジフ]]の娘と結婚した[[ヴュルテンベルク家]]出身のヴュルテンベルク=ユリウスブルク公[[ジルフィウス1世ニムロート (ヴュルテンベルク=エールス公)|ジルフィウス1世ニムロート]]に与えた。公国は長くボヘミア王冠の属領であったが、[[シュレージエン戦争]]の結果、[[1742年]]に[[プロイセン王国]]に征服された。しかしヴュルテンベルク家の公爵達は領主として同国を領有し続け、[[1792年]]に公国は[[ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル君主一覧|ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯]][[カール1世 (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|カール1世]]の息子の一人[[フリードリヒ・アウグスト (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル=エールス公)|フリードリヒ・アウグスト]]に相続された。

2021年5月19日 (水) 21:53時点における版

エールス公国
Herzogtum Oels (de)
Olešnické knížectví (cs)
Księstwo Oleśnickie (pl)
グウォグフ公国 1313年 - 1884年 プロイセン王国
オレシニツァ公国の国章
(国章)
首都 オレシニツァ
オレシニツァ公
1313年 - 1321年 ボレスワフ
1803年 - 1884年ヴィルヘルム
変遷
グウォグフ公国から分立 1313年
ボヘミア王冠領の属領1328年
プロイセン王国の属領1742年
プロイセン王国による併合1884年
オレシニツァ公国の地図、1720年頃
オレシニツァ城

オレシニツァ公国またはエールス公国ラテン語: Ducatus Olsnensisドイツ語: Herzogtum Oelsチェコ語: Olešnické knížectvíポーランド語: Księstwo Oleśnickie)は、シロンスク公国群を構成していた公国の一つ。首都は現在のポーランドオレシニツァにあった。

歴史

オレシニツァ一帯は当初ヴロツワフ公国に属していたが、グウォグフヘンリク3世レグニツァ=ヴロツワフ公ヘンリク5世の紛争の後、1294年にグウォグフ公国に併合された。ヘンリク3世が1309年に死ぬと、グウォグフ公国の分割に伴ってオレシニツァは大幅な自治権を獲得し、1313年にはヘンリク3世の3男ボレスワフがこの地に公国を創設した。ボレスワフが1321年に死ぬと、公国はその兄コンラト1世に受け継がれた。

コンラト1世は一族のポーランド王ヴワディスワフ1世の圧迫から逃れるためボヘミア王冠の元に庇護を求め、1328年ボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルクに臣従の礼をとった。シロンスク・ピャスト家の流れをくむオレシニツァ公家は1492年コンラト10世の死により断絶した。ボヘミアの先王イジー (ボヘミア王)の息子インジフ1世が当主のいなくなったオレシニツァ公国を獲得し、1495年にはボヘミア王ヴラジスラフに同国の領有を認めさせた。

ポジェブラト家も1647年には断絶し、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世は同公国を、ポジェブラト家最後の公カレル・ベジフの娘と結婚したヴュルテンベルク家出身のヴュルテンベルク=ユリウスブルク公ジルフィウス1世ニムロートに与えた。公国は長くボヘミア王冠の属領であったが、シュレージエン戦争の結果、1742年プロイセン王国に征服された。しかしヴュルテンベルク家の公爵達は領主として同国を領有し続け、1792年に公国はブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯カール1世の息子の一人フリードリヒ・アウグストに相続された。

1815年からオレシニツァ公国(当時はエールス公国)はブラウンシュヴァイク公国同君連合を結成、同国最後の統治者ヴィルヘルム1884年に死ぬまでこの関係は続いた。

オレシニツァ公

シロンスク・ピャスト家
ポジェブラト家
ヴュルテンベルク家
ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家