「大空位時代」の版間の差分
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File:Ottokar II of Bohemia.jpg|ボヘミア王オタカル2世 |
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File:Miniature Philippe III Courronement.jpg|フランス王フィリップ3世 |
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</gallery>皇帝不在となった神聖ローマ帝国では、諸侯による複雑な権力闘争が起こる一方、[[1257年]]のローマ王選挙で帝国外から2人の次期皇帝候補者が推された。[[ケルン大司教]]、[[マインツ大司教]]、[[ライン宮中伯]]、[[ボヘミア王国|ボヘミア]]王[[オタカル2世]]が[[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]の弟[[リチャード (コーンウォール伯)|コーンウォール伯リチャード]]を推薦し、リチャードが候補に挙げられた3か月後に[[トリーア大司教]]、[[ザクセン大公]]、[[ブランデンブルク辺境伯]]、支持者を変えたオタカル2世が[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]王[[アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ10世]](賢王)を推薦した<ref name="yamauchi"/>。このうちアルフォンソ10世は[[教皇|ローマ教皇]]の強硬な反対と国内事情から国を離れて神聖ローマ帝国に駆けつけることができず、即位はならなかった<ref name="yamauchi"/>。リチャードは4度帝国に渡ったが、滞在期間はごく短いものだった<ref name="yamauchi"/>。 |
</gallery>皇帝不在となった神聖ローマ帝国では、諸侯による複雑な権力闘争が起こる一方、[[1257年]]のローマ王選挙で帝国外から2人の次期皇帝候補者が推された。[[ケルン大司教]]、[[マインツ大司教]]、[[ライン宮中伯]]、[[ボヘミア王国|ボヘミア]]王[[オタカル2世 (ボヘミア王)|オタカル2世]]が[[イングランド王国|イングランド]]王[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]の弟[[リチャード (コーンウォール伯)|コーンウォール伯リチャード]]を推薦し、リチャードが候補に挙げられた3か月後に[[トリーア大司教]]、[[ザクセン大公]]、[[ブランデンブルク辺境伯]]、支持者を変えたオタカル2世が[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]王[[アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ10世]](賢王)を推薦した<ref name="yamauchi"/>。このうちアルフォンソ10世は[[教皇|ローマ教皇]]の強硬な反対と国内事情から国を離れて神聖ローマ帝国に駆けつけることができず、即位はならなかった<ref name="yamauchi"/>。リチャードは4度帝国に渡ったが、滞在期間はごく短いものだった<ref name="yamauchi"/>。 |
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その後、ボヘミア王として帝国内で大勢力を誇るオタカル2世(母クニグンデがローマ王[[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ]]の次女でアルフォンソ10世の従兄)が王位獲得を目指したが、帝国諸侯やローマ教皇はオタカル2世のような強力な君主の出現を望まなかった<ref name="sehara">[[瀬原義生]]『スイス独立史研究』(Minerva西洋史ライブラリー, ミネルヴァ書房, 2009年11月)、3-4頁</ref>。しかし長引く空位は帝国内の荒廃を招き、[[シチリア王国|シチリア]]王[[カルロ1世 (シチリア王)|カルロ1世(シャルル・ダンジュー)]]は甥の[[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]を帝位につけ、ヨーロッパをフランス勢力でまとめる野望を抱いていた<ref name="sehara" />。そのため、諸侯や教皇は1273年、当時としては弱小勢力に過ぎなかった[[ハプスブルク家]]の[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]をローマ王として擁立した。これによって大空位時代は終わりを告げた。ただしルドルフ1世はローマで皇帝としての戴冠を受けることはなかった。 |
その後、ボヘミア王として帝国内で大勢力を誇るオタカル2世(母クニグンデがローマ王[[フィリップ (神聖ローマ皇帝)|フィリップ]]の次女でアルフォンソ10世の従兄)が王位獲得を目指したが、帝国諸侯やローマ教皇はオタカル2世のような強力な君主の出現を望まなかった<ref name="sehara">[[瀬原義生]]『スイス独立史研究』(Minerva西洋史ライブラリー, ミネルヴァ書房, 2009年11月)、3-4頁</ref>。しかし長引く空位は帝国内の荒廃を招き、[[シチリア王国|シチリア]]王[[カルロ1世 (シチリア王)|カルロ1世(シャルル・ダンジュー)]]は甥の[[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]を帝位につけ、ヨーロッパをフランス勢力でまとめる野望を抱いていた<ref name="sehara" />。そのため、諸侯や教皇は1273年、当時としては弱小勢力に過ぎなかった[[ハプスブルク家]]の[[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]をローマ王として擁立した。これによって大空位時代は終わりを告げた。ただしルドルフ1世はローマで皇帝としての戴冠を受けることはなかった。 |
2021年5月19日 (水) 21:30時点における版
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大空位時代(だいくういじだい、ラテン語: Interregnum)は、神聖ローマ帝国で王権が不安定であった時代(空位時代)。期間は1250年[1]、1254年[2]または1256年[3]から1273年[1][2]まで。この時期にローマ王(ドイツ王)を世襲する有力な家門はなく、権力の真空が生じた。そこで、選帝侯など有力諸侯が帝国の直轄領を蚕食し、帝国の権利の多くを奪った。彼らはライン都市同盟までも分解し、影響力を極端に増した。
定義と特徴
「大空位時代」とはローマ王(ドイツ王)の不在を意味する言葉であるが、この時期に決して王が不在であったわけではなく[4]、この言葉は皇帝の空位時期を示す言葉でもない。大空位時代以前にも皇帝にならなかったローマ王はコンラート3世、フィリップなどがいる。大空位時代の終焉はルドルフ1世のローマ王即位に置かれるが、ルドルフは皇帝として戴冠していない。語義的にも「王権」(regnum)を対象としており、「帝権」(Imperium)と「王権」にはこの時期明確な区別が存在した[要出典]。したがってこの時代の特色は、二重選挙によってローマ王権が著しく衰退したこと、また王位が弱小諸侯もしくは帝国外の人物によって獲得され、ほとんどローマ王不在と同じような状況に陥ったことである。また、ローマ王の選挙権は7人の選帝侯にあるという考えが、大空位時代の時点で確立していたことにも注目される[2]。
歴史的展開
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フリードリヒ2世
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コンラート4世
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ホラント伯ウィレム2世
ホーエンシュタウフェン朝では、1250年にフリードリヒ2世が死去した後、次男のコンラート4世が後を継いだが、コンラート4世は1254年に在位わずか4年で死去した。コンラート4世の子コンラディン(コッラディーノ)はローマ王位に就けず、継嗣もなかったため、ホーエンシュタウフェン朝は断絶した。
コンラート4世には対立王としてホラント伯ウィレム2世(ヴィルヘルム・フォン・ホラント、在位:1247年 - 1256年)がいたが、コンラート4世の死で対立者がいなくなり、形の上では唯一のローマ王となった。ウィレムは「神聖ローマ帝国」を正式な国号として使用した最初の君主であったが、1256年に遠征の帰路で溺死し、ローマ王位は空になった[5]。
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コーンウォール伯リチャード
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カスティーリャ王アルフォンソ10世
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ボヘミア王オタカル2世
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フランス王フィリップ3世
皇帝不在となった神聖ローマ帝国では、諸侯による複雑な権力闘争が起こる一方、1257年のローマ王選挙で帝国外から2人の次期皇帝候補者が推された。ケルン大司教、マインツ大司教、ライン宮中伯、ボヘミア王オタカル2世がイングランド王ヘンリー3世の弟コーンウォール伯リチャードを推薦し、リチャードが候補に挙げられた3か月後にトリーア大司教、ザクセン大公、ブランデンブルク辺境伯、支持者を変えたオタカル2世がカスティーリャ王アルフォンソ10世(賢王)を推薦した[2]。このうちアルフォンソ10世はローマ教皇の強硬な反対と国内事情から国を離れて神聖ローマ帝国に駆けつけることができず、即位はならなかった[2]。リチャードは4度帝国に渡ったが、滞在期間はごく短いものだった[2]。
その後、ボヘミア王として帝国内で大勢力を誇るオタカル2世(母クニグンデがローマ王フィリップの次女でアルフォンソ10世の従兄)が王位獲得を目指したが、帝国諸侯やローマ教皇はオタカル2世のような強力な君主の出現を望まなかった[6]。しかし長引く空位は帝国内の荒廃を招き、シチリア王カルロ1世(シャルル・ダンジュー)は甥のフランス王フィリップ3世を帝位につけ、ヨーロッパをフランス勢力でまとめる野望を抱いていた[6]。そのため、諸侯や教皇は1273年、当時としては弱小勢力に過ぎなかったハプスブルク家のルドルフ1世をローマ王として擁立した。これによって大空位時代は終わりを告げた。ただしルドルフ1世はローマで皇帝としての戴冠を受けることはなかった。
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ルドルフ1世
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アドルフ
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ハインリヒ7世
ルドルフ1世が帝国君主として諸侯から擁立されたのは、ルドルフ1世の祖父・ハプスブルク伯ルドルフ2世がホーエンシュタウフェン家の一族の娘アグネス・フォン・シュタウフェンと結婚していてその血を引いていたこと、フリードリヒ2世とコンラート4世の時代にルドルフ1世が皇帝・ローマ王に忠実に仕えていたのが評価されたため[7]でもあった。しかし、ルドルフ1世は諸侯の思惑に反して優秀な人物であり、1278年にはオタカル2世をマルヒフェルトの戦いで敗死させ、オーストリア公国を獲得するなどして勢力を伸張させるとともに、帝国の安定化に努めた。
ただし、これによってハプスブルク家が帝位を独占することにはならず、ナッサウ家のアドルフ、ルクセンブルク家のハインリヒ7世といったその時点での弱小勢力の君主擁立というパターンがなおも続いた。
脚注
参考文献
- 菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社現代新書, 講談社, 2003年7月)
関連文献
- ハンス・K・シュルツェ著、五十嵐修ほか訳『西欧中世史事典Ⅱ』ミネルヴァ書房、2003年
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