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[[9世紀]]頃に[[プシェミスル朝|プシェミスル家]]のもとで公国を形成した。[[10世紀]]以降は[[神聖ローマ帝国|ローマ帝国]]に属して政治的に現在のドイツと結びついた。1003-1004年に[[チェコの歴史#ピャスト朝(1003年-1004年)|ピャスト朝]]を挟む。
[[9世紀]]頃に[[プシェミスル朝|プシェミスル家]]のもとで公国を形成した。[[10世紀]]以降は[[神聖ローマ帝国|ローマ帝国]]に属して政治的に現在のドイツと結びついた。1003-1004年に[[チェコの歴史#ピャスト朝(1003年-1004年)|ピャスト朝]]を挟む。


[[1198年]]にボヘミア公[[オタカル1世]]はローマ帝国領内では当時まだほとんど存在しなかった王号をもつボヘミア王となり([[ボヘミア王国]]、[[1198年]] - [[1918年]])、高いステータスを獲得するが王権は弱く、実質上は歴代の王の後ろ盾となったローマ皇帝などの[[ドイツ人]]勢力の傀儡として存在した。
[[1198年]]にボヘミア公[[オタカル1世 (ボヘミア王)|オタカル1世]]はローマ帝国領内では当時まだほとんど存在しなかった王号をもつボヘミア王となり([[ボヘミア王国]]、[[1198年]] - [[1918年]])、高いステータスを獲得するが王権は弱く、実質上は歴代の王の後ろ盾となったローマ皇帝などの[[ドイツ人]]勢力の傀儡として存在した。


チェコ及びボヘミアは、その地理的な重要性から[[中世]]から[[近世]]にかけては「ボヘミアを征する者は、ヨーロッパを征す」とも言われた。[[1241年]]、[[モンゴル帝国]]が[[モンゴルのポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]]した際には、ボヘミア軍を送り支援したが、東隣の[[モラヴィア]]の[[オロモウツ]]までモンゴル軍に迫られた({{仮リンク|オロモウツの戦い|cs|Mongolský vpád na Moravu roku 1241|ru|Битва при Оломоуце}})。[[1245年]]には[[ガリツィア]]軍に[[ポーランド王国]]・[[ハンガリー王国]]が加わり、ヨーロッパ側の最前線であった[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国]](現在の[[ウクライナ]]。当時、[[ルーシ (地名)|ルーシ]]と呼ばれた地方)へ侵攻して属国化した({{仮リンク|ヤロスラヴの戦い|uk|Битва під Ярославом|ru|Ярославское сражение|pl|Bitwa pod Jarosławiem (1245)}})<ref>後にポーランドとの関係が悪化した[[ガリツィア]]公国は、[[ハールィチ・ヴォルィーニ戦争]]([[1340年]]-[[1392年]])で分割され、ポーランドに併合される。</ref>。[[1246年]] [[ライタ川の戦い]]で[[ハンガリー王国]]の[[ベーラ4世]]とハールィチ・ヴォルィーニ大公国の連合軍が、オーストリア公[[フリードリヒ2世 (オーストリア公)|フリードリヒ2世]]を敗死させる。[[1248年]] バーベンベルク家の断絶につけこんだボヘミア王[[オタカル2世]]がオーストリアなどの支配権を獲得。[[1260年]] [[クレッセンブルンの戦い]]でハンガリー王国のベーラ4世がオタカル2世に敗れる。[[1278年]] [[マルヒフェルトの戦い]]で、ボヘミアのオタカル2世は、[[ローマ王]][[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]と[[ラースロー4世]]の連合軍に敗れ、[[ハプスブルク家]]が欧州の有力な勢力となる。
チェコ及びボヘミアは、その地理的な重要性から[[中世]]から[[近世]]にかけては「ボヘミアを征する者は、ヨーロッパを征す」とも言われた。[[1241年]]、[[モンゴル帝国]]が[[モンゴルのポーランド侵攻|ポーランドに侵攻]]した際には、ボヘミア軍を送り支援したが、東隣の[[モラヴィア]]の[[オロモウツ]]までモンゴル軍に迫られた({{仮リンク|オロモウツの戦い|cs|Mongolský vpád na Moravu roku 1241|ru|Битва при Оломоуце}})。[[1245年]]には[[ガリツィア]]軍に[[ポーランド王国]]・[[ハンガリー王国]]が加わり、ヨーロッパ側の最前線であった[[ハールィチ・ヴォルィーニ大公国]](現在の[[ウクライナ]]。当時、[[ルーシ (地名)|ルーシ]]と呼ばれた地方)へ侵攻して属国化した({{仮リンク|ヤロスラヴの戦い|uk|Битва під Ярославом|ru|Ярославское сражение|pl|Bitwa pod Jarosławiem (1245)}})<ref>後にポーランドとの関係が悪化した[[ガリツィア]]公国は、[[ハールィチ・ヴォルィーニ戦争]]([[1340年]]-[[1392年]])で分割され、ポーランドに併合される。</ref>。[[1246年]] [[ライタ川の戦い]]で[[ハンガリー王国]]の[[ベーラ4世]]とハールィチ・ヴォルィーニ大公国の連合軍が、オーストリア公[[フリードリヒ2世 (オーストリア公)|フリードリヒ2世]]を敗死させる。[[1248年]] バーベンベルク家の断絶につけこんだボヘミア王[[オタカル2世]]がオーストリアなどの支配権を獲得。[[1260年]] [[クレッセンブルンの戦い]]でハンガリー王国のベーラ4世がオタカル2世に敗れる。[[1278年]] [[マルヒフェルトの戦い]]で、ボヘミアのオタカル2世は、[[ローマ王]][[ルドルフ1世 (神聖ローマ皇帝)|ルドルフ1世]]と[[ラースロー4世]]の連合軍に敗れ、[[ハプスブルク家]]が欧州の有力な勢力となる。

2021年5月19日 (水) 21:23時点における版

ボヘミアラテン語: Bohemiaチェコ語: Čechyチェコ語発音: [ˈt͡ʃɛxɪ]ドイツ語: Böhmen, ベーメン)は、現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指した。西はドイツで、東は同じくチェコ領であるモラヴィア、北はポーランド(シレジア)、南はオーストリアである。

この地方は牧畜が盛んである。牧童の黒い皮の帽子に皮のズボンにベストは、オーストリア帝国馬術や馬を扱う人たちに気に入られた。このスタイルは、オーストリアと遠戚関係にあるスペインを経て、アメリカカウボーイの服装になったといわれる。西欧にも伝わり、芸術家気取り、芸術家趣味と解されて、ボヘミアンやボヘミアニズムという言い方も生まれた。

ボヘミア チェコ西部から中部に位置する緑色の部分

名称

ボヘミアをチェコ語ではチェヒチェコ語: Čechy)と呼び、チェコ共和国チェコ語: Česká republika)、通称チェコ(チェコ語: Česko)をチェヒとも呼ぶ。由来は6世紀頃までに形成されたチェコ人チェコ語: Češi)にあり、意味は「『人々/光』の土地」である。

ラテン語における『ボヘミア』(ラテン語: Bohemia)の呼称は、古代にボヘミアからモラヴィアスロバキアにかけての地域に居住していたケルト人の一派、ボイイ人古代ギリシア語: Βόϊοιラテン語: Boii)に由来し[1]、意味は「『(戦士の)人々』の土地」と考えられている。ドイツ語ではベーメンドイツ語: Böhmen)と言い、ラテン語の『ボヘミア』の語源と同じ由来と考えられている。

歴史

ケルト人

古代にはボイイ人古代ギリシア語: Βόϊοιラテン語: Boii)がボヘミアからモラヴィア、スロバキアにかけての地域に住んでいた。

ローマ帝国との戦い

紀元前9年大ドルスス率いるローマ軍団マルコマンニをボヘミアに追いやった。マルコマンニ王のマルボドゥウスの治世下では、同じゲルマン系で北方のケルスキ族英語版アルミニウスと不仲であった為、トイトブルク森の戦いには参加せず、中立を保った。マルボドゥウスの死後、強大化したマルコマンニはマルクス・アウレリウスコンモドゥスの治世下でマルコマンニ戦争162年 - 180年)を起こし、ローマ帝国衰退のきっかけとなった。

チェコ人の形成

567年アヴァールパンノニア平原アヴァール可汗国を建国すると、その侵攻を受け、6世紀以降、西スラヴ人が移住し、モラヴィアの西スラヴ人とともに現在のチェコ人となった。7世紀始めにサモ王国623年-658年)が建国された。この後については、モラヴィア#歴史を参照されたい。

プシェミスル家

ボヘミア王国の紋章

9世紀頃にプシェミスル家のもとで公国を形成した。10世紀以降はローマ帝国に属して政治的に現在のドイツと結びついた。1003-1004年にピャスト朝を挟む。

1198年にボヘミア公オタカル1世はローマ帝国領内では当時まだほとんど存在しなかった王号をもつボヘミア王となり(ボヘミア王国1198年 - 1918年)、高いステータスを獲得するが王権は弱く、実質上は歴代の王の後ろ盾となったローマ皇帝などのドイツ人勢力の傀儡として存在した。

チェコ及びボヘミアは、その地理的な重要性から中世から近世にかけては「ボヘミアを征する者は、ヨーロッパを征す」とも言われた。1241年モンゴル帝国ポーランドに侵攻した際には、ボヘミア軍を送り支援したが、東隣のモラヴィアオロモウツまでモンゴル軍に迫られた(オロモウツの戦いチェコ語版ロシア語版)。1245年にはガリツィア軍にポーランド王国ハンガリー王国が加わり、ヨーロッパ側の最前線であったハールィチ・ヴォルィーニ大公国(現在のウクライナ。当時、ルーシと呼ばれた地方)へ侵攻して属国化した(ヤロスラヴの戦いウクライナ語版ロシア語版ポーランド語版[2]1246年 ライタ川の戦いハンガリー王国ベーラ4世とハールィチ・ヴォルィーニ大公国の連合軍が、オーストリア公フリードリヒ2世を敗死させる。1248年 バーベンベルク家の断絶につけこんだボヘミア王オタカル2世がオーストリアなどの支配権を獲得。1260年 クレッセンブルンの戦いでハンガリー王国のベーラ4世がオタカル2世に敗れる。1278年 マルヒフェルトの戦いで、ボヘミアのオタカル2世は、ローマ王ルドルフ1世ラースロー4世の連合軍に敗れ、ハプスブルク家が欧州の有力な勢力となる。

ルクセンブルク家

1331年、帝国郵便の発祥地ロンバルディアのベルガモからは、王が都市を献じられている。

プシェミスル家断絶後の1310年からはドイツ貴族ルクセンブルク家がボヘミア王を受け継いだ。ローマ皇帝カール4世となったルクセンブルク家のボヘミア王カレル1世は、1348年プラハプラハ大学を設立してボヘミアに学問を根付かせた。中世から近世にかけてはプラハを中心に学問、とくにキリスト教の学者が多く活躍した。

15世紀にはプラハ大学からヤン・フスが出て宗教改革に乗り出した。1410年に始まったグルンヴァルトの戦いヤン・ジシュカ率いるボヘミア義勇隊が、それまでチェコを実質支配していたドイツ人を追放し、ポーランドのフス派プロテスタントと協力して戦い抜いたことはスラヴ民族主義の萌芽として注目される。外圧により1415年にフスがジギスムントに処刑されて宗教改革が失敗に終わると、1419年のプラハ窓外投擲事件をきっかけにフス戦争が始まった。

ハプスブルク家

1600年のヨーロッパ

16世紀からはルクセンブルク家断絶後にその所領を獲得したハプスブルク君主国の支配を受けた。

三十年戦争1618年 - 1648年)では、1620年には白山の戦いでハプスブルク軍相手にたった半日で敗北した結果、チェコのスラヴ人貴族は完全に根絶され、ドイツ人貴族のみとなった(チェコ貴族の入れ替え)。ヨハン・アモス・コメニウスの属した共同生活の兄弟団というプロテスタントの一派が三十年戦争でこの地を追われ、二度とここに戻ってくることができなかったことはヨーロッパ精神史の中でよく知られた事件である。三十年戦争後期にスウェーデンに占領された。1648年ヴェストファーレン条約によってハプスブルクに返還され、絶対王政下に置かれた。しかし、この戦争を経て、金融センターであるイギリスとオランダへ接近したことには注意が必要である。

19世紀にはオーストリア帝国の一部となった。19世紀前半にはチェコ人の民族運動が盛り上がって次第にドイツ人から自立しようとする動きが高まった。1899年、ボヘミアはモラヴィアをともないオーストリア・ハンガリーに反乱した。翌年にかけてウィーン手形交換所はその交換総額を倍以上に増やした。

チェコスロバキア

1918年10月28日1004年以来914年ぶりにようやくドイツ人の支配から離れチェコスロバキアとして独立すると、新たに独立したチェコスロバキアの中心地域となった。翌10月29日にはドイツ人帝国議会議員らがエーガラントチェコ語版ドイツ語版英語版と北ボヘミアをドイツ系ボヘミア州ドイツ語版チェコ語版英語版とする宣言。10月30日にはシレジア、北モラヴィア、東部ボヘミアに「ズデーテンラント州ドイツ語版チェコ語版英語版」が形成された。

1918年11月に成立したドイツ=オーストリア共和国政府は、ドイツボヘミア州ドイツ語版、ズデーテンラント州、オーバーエスターライヒ州に区分し、領有権を主張していた。11月には南部ボヘミアと南部モラビアでベーマーヴァルト(Böhmerwald、ende)とツナイム(Zneim)の両自治政府(encs)が作られたが、11月20日にはチェコ軍団がドイツ系諸政府域への侵攻を開始し、12月18日までにドイツ系諸政府は解体された。

ドイツ

1938年9月30日ミュンヘン会談では宥和政策を取るイギリスのネヴィル・チェンバレン首相、フランスのエドゥアール・ダラディエ首相がズデーテン地方のドイツ編入を容認した。1939年3月1日にチェコスロバキアが解体され、ベーメン・メーレン保護領となった。

1945年2月のヤルタ会談ソ連の要求によりドイツ人強制移住方針が固まった。

チェコスロバキア

1945年5月、ベネシュ布告。8月2日のポツダム協定ドイツ人追放が正式決定。

1990年10月30日にドイツ再統一

チェコ

1993年スロバキアと分離し、チェコチェコ語: Česko)となった。

1997年1月21日ドイツ=チェコ和解宣言ドイツ語版チェコ語版

出身者

文学作品

脚注

  1. ^ 上田篤, 田端修『路地研究 もうひとつの都市の広場』鹿島出版会、2013年、169頁。ISBN 978-4-306-09423-9 
  2. ^ 後にポーランドとの関係が悪化したガリツィア公国は、ハールィチ・ヴォルィーニ戦争1340年-1392年)で分割され、ポーランドに併合される。

関連項目