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「マイセン辺境伯」の版間の差分

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2021年5月19日 (水) 21:20時点における版

アルブレヒト城および大聖堂

マイセン辺境伯Markgraf von Meißen)は、中世ドイツの有力な諸侯及びその称号の一つ。その領邦は現在のザクセン州の一部にあたる。

歴史

マイセン辺境伯の紋章
11世紀初めのマイセン辺境伯領

東フランク国王ハインリヒ1世928年から929年のスラブ地方への出兵に際し、エルベ川に面した丘陵の上に城塞を建造した。この城は近くを流れる小川マイザ川にちなんで命名された。この城の麓には、その世紀の内に街が開け、同じ名(マイセン)で呼ばれるようになった。965年神聖ローマ皇帝オットー1世がマイセン辺境伯を任命したとされるが、文献上の証拠は968年のものが最も古い記録である。この年、マイセンの城山は、新たに設けられたマイセン司教区の司教のための司教座にもなった。1068年からはこれに加えて、マイセン城伯が設けられた。この頃からマイセン城伯領は発展を遂げ、マインヘリンク家を興す事になる。

これに対してマイセン辺境伯領は965年にゲロ辺境伯領の分割によって創設され、11世紀にはナイセ川まで、後には南に拡大しエルツ山地にまでその版図を拡げた。983年リクダックがマイセン辺境伯に任命されたのは確実で、985年以降はエッケハルディン家がこの位を継承した。1046年からはヴァイマール=オーラミュンデ伯家1067年ブルノン家と続いたが、1089年にブルノン家のエクベルト2世叙任権闘争に関わって解任された。同年、義弟に当たるヴェッティン家ハインリヒ1世が後継となり、マイセン辺境伯領はそのまま維持される事となった。その後の辺境伯達、特にコンラートオットーディートリヒは領土を拡げ強化を図った。

ハインリヒ3世は、1243年/1255年にまず、嫁資としてアルテンブルク周辺のプライセンラント地方を獲得した。次いで叔父のハインリヒ・ラスペが子供を遺さずに1247年に亡くなったことから起こったテューリンゲン方伯領をめぐる遺産相続争いに、1264年に打ち勝った。こうして領土拡大は成功したが、子のアルブレヒト2世と孫のフリードリヒ1世との間で内戦が発生、一時はテューリンゲンを失う事になった(後に奪回)。この内戦のさなかにローマ王アルブレヒト1世はマイセン辺境伯領を自らの版図に収めようと試みたが、1307年ルッカの戦いで挫折した。

その後、ヴェッティン家の数人の男系血縁者による共同統治となり、1382年1445年にはマイセン辺境伯領、テューリンゲン方伯領、およびプライセンラントがその対象となった。一方、この地方の他の家系はしばしば断絶し、ヴェッティン家は結婚や購入、あるいは戦争によってこうした土地を手に入れてその影響地域を拡大、1426年にはマイセン城伯の権限をも手に入れた。15世紀末のヴェッティン家の勢力はヴェラ川オーデル川の間の地域にまで程度の差こそあれ拡大している。

1423年にマイセン辺境伯フリードリヒ4世にザクセン=ヴィッテンベルク公の位が与えられた。更に同年、ザクセン選帝侯にも選ばれた(フリードリヒ1世)。これにより、ザクセン選帝侯領内のマイセン辺境伯領は、独立した領邦国家としての性質を失った。フリードリヒ1世の孫のエルンストアルブレヒトの兄弟間でなされた1485年ライプツィヒ分割は、長期にわたってザクセンとテューリンゲンを分けている。同時に、ヴェッティン家もエルンストの家系(エルネスティン家)とアルブレヒトの家系(アルベルティン家)に分かれていった。

本来のマイセン辺境伯領は、現在のマイセン郡とほぼ同じであった。

歴代マイセン辺境伯の一覧

家系 名前 統治期間 備考
ヴィクベルト
Wigbert
965年 - 976年
ティートマール1世
Thietmar I.
976年 - 979年 メルゼブルク辺境伯でもある
エッケハルディン家 ギュンター
Günther von Merseburg
981年 - 982年 メルゼブルク辺境伯でもある
ヴェッティン家? リクダック
Rikdag II.
978年 - 985年 982年以降メルゼブルク辺境伯でもある。
エッケハルディン家 エッケハルト1世
Ekkehard I. von Meißen
985年 - 1002年 ギュンターの長男
エッケハルディン家 グンツェリン
Gunzelin von Kuckenburg
1002年 - 1010年 ギュンターの次男、エッケハルト1世の弟
エッケハルディン家 ヘルマン1世
Hermann I.
1009年 - 1038年 エッケハルト1世の長男
エッケハルディン家 エッケハルト2世
Ekkehard II. von Meißen
1032年 - 1046年 エッケハルト1世の次男、ヘルマン1世の弟
ヴァイマール伯家 ヴィルヘルム
Wilhelm von Weimar
1046年 - 1062年 ヴァイマール伯ヴィルヘルム3世の長男
ヴァイマール=オーラミュンデ伯家 オットー
Otto I. von Weimar-Orlamünde
1062年 - 1067年 ヴァイマール伯ヴィルヘルム3世の次男、ヴィルヘルム4世の弟
ブルノン家 エクベルト1世
Ekbert I.
1067年 - 1068年 フリースラント辺境伯リウドルフの次男
ブルノン家 エクベルト2世
Ekbert II.
1068年 - 1089年 エクベルト1世の息子
プシェミスル家 ヴラチスラフ2世
Vratislav II.
1076年 - 1089年 ボヘミア王も兼ねた
ヴェッティン家 ハインリヒ1世
Heinrich I. von Eilenburg
1089年 - 1103年
ヴェッティン家 ハインリヒ2世
Heinrich II. von Eilenburg
1103年 - 1123年
ヴィプレヒト2世
Wiprecht II.
1123年 - 1124年
ヘルマン2世
Hermann II. von Winzenburg
1124年 - 1129年 フォルムバッハ伯の一門でもある
ヴェッティン家 コンラート1世
Konrad der Große
1125年 - 1157年 ハインリヒ1世の従兄弟
ヴェッティン家 オットー
Otto der Reiche
1157年 - 1190年 コンラート1世の息子
ヴェッティン家 アルブレヒト1世
Albrecht der Stolze
1190年 - 1195年 オットーの長男
ヴェッティン家 ディートリヒ
Dietrich der Bedrängte
1198年 - 1221年 オットーの次男、アルブレヒト1世の弟
ヴェッティン家 ハインリヒ3世
Heinrich III. der Erlauchte
1221年 - 1288年 ディートリヒの息子
ヴェッティン家 アルブレヒト2世
Albrecht der Entartete
1288年 - 1292年 ハインリヒ3世の長男
ヴェッティン家 フリードリヒ・トゥタ
Friedrich Tuta
1288年 - 1291年 ハインリヒ3世の孫、アルブレヒト2世の甥
ヴェッティン家 フリードリヒ1世
Friedrich I. der Freidige
1292年 - 1323年 アルブレヒト2世の長男
ヴェッティン家 フリードリヒ2世
Friedrich II. der Ernsthafte
1323年 - 1349年 フリードリヒ1世の息子
ヴェッティン家 フリードリヒ3世
Friedrich III. der Strenge
1349年 - 1381年 フリードリヒ2世の長男
ヴェッティン家 ゲオルク
Georg
1380年 - 1401年 フリードリヒ3世の三男、フリードリヒ4世、ヴィルヘルム2世の弟
ヴェッティン家 ヴィルヘルム1世
William I. der Einäugige
1382年 - 1407年 フリードリヒ2世の次男、フリードリヒ3世の弟
ヴェッティン家 ヴィルヘルム2世
Wilhelm II. der Reiche
1407年 - 1425年 フリードリヒ3世の次男、フリードリヒ4世の弟、ゲオルクの兄
ヴェッティン家 フリードリヒ4世
Friedrich der Streitbare
1407年 - 1428年 フリードリヒ3世の長男。後にザクセン選帝侯に選ばれた。

脚注

参考文献

  • Thompson, James Westfall. Feudal Germany, Volume II. New York: Frederick Ungar Publishing Co., 1928.

関連項目