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「反出生主義」の版間の差分

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'''反出生主義'''(はんしゅっしょうしゅぎ、はんしゅっせいしゅぎ)または'''アンチナタリズム'''{{Sfn|森岡|2021|p=49}}({{lang-en-short|antinatalism}}<ref>{{Cite web|和書|title=antinatalismの意味・使い方・読み方|url=https://eow.alc.co.jp/search?q=antinatalism|website=eow.alc.co.jp|accessdate=2021-06-02|language=ja|publisher=[[英辞郎]] on the WEB}}</ref>)<!-- 「無生殖主義」は「反出生主義」と同義ではないのでここには並べないほうがいい -->は、[[生殖]]を非倫理的と位置づける見解である<ref>{{Cite encyclopedia |title=Parenthood and Procreation |encyclopedia=[[Stanford Encyclopedia of Philosophy]] |url=https://plato.stanford.edu/entries/parenthood/ |access-date=2023-06-11 |language=en}}</ref>。この種の考え方は、古今東西の[[哲学]]・[[宗教]]・[[文学]]において綿々と説かれてきた{{Sfn|森岡|2020|p=13-14}}。とりわけ、[[アルトゥル・ショーペンハウアー]]{{Sfn|森岡|2021|p=54}}、[[エミール・シオラン]]{{Sfn|森岡|2021|p=54}}、[[デイヴィッド・ベネター]]{{Sfn|森岡|2021|p=54}}<ref name=":2">{{Cite web|和書|title=子どもは産むべきでない?『進撃の巨人』で話題を呼んだ“反出生主義”の恐るべき魔力|url=https://myjitsu.jp/enta/archives/85776|accessdate=2022-02-15|website=[[まいじつ|まいじつエンタ]]|author=田村瞳|language=ja}}</ref>が反出生主義者として知られる。
[[File:Schopenhauer.jpg|thumb|right|[[アルトゥル・ショーペンハウアー]] (1788–1860), 有名な反出生主義者]]
'''反出生主義'''(はんしゅっしょうしゅぎ、{{lang-en-short|Antinatalism}})とは、子供を持つことに対して否定的な価値付けをする哲学的立場である。[[アルトゥル・ショーペンハウアー]]、[[エミール・シオラン]]、[[デイヴィッド・ベネター]]らが反出生主義の擁護者として知られる。一方、人間を生み出すことに対して肯定的な意見を持つ立場は{{仮リンク|出生主義|en|Natalism}}と呼ばれる。反出生主義という用語は出生主義に対抗するものである。反出生主義は、古今東西の[[哲学]]・[[宗教]]・[[文学]]において綿々と説かれてきたが{{Sfn|森岡|2020|p=13-14}}、それらをまとめて「反出生主義」と呼ぶようになったのは[[21世紀]]の哲学においてである{{Sfn|森岡|2020|p=13}}。


==環境問題==
== 概要 ==
=== 種類・名称 ===
21世紀に入ってから、反出生主義は[[環境問題]]との絡みで新たな展開を見せている<ref>{{Cite web|title=I wish I'd never been born: the rise of the anti-natalists|url=http://www.theguardian.com/world/2019/nov/14/anti-natalists-childfree-population-climate-change|website=the Guardian|date=2019-11-14|accessdate=2021-04-03|language=en|first=Rebecca|last=Tuhus-Dubrow}}</ref>。
ひとくちに「反出生主義」と言っても複数の種類があり{{Sfn|森岡|2021|p=55-66}}、1. '''誕生否定'''すなわち「人間が生まれてきたことを否定する思想」と、2. '''出産否定'''すなわち「人間を新たに生み出すことを否定する思想」の2種類に大別できる{{Sfn|森岡|2020|p=14;17}}。出産否定は'''生殖否定'''<ref name=":5">{{Cite web|和書|url=https://researchmap.jp/YuichiNAKAGAWA/presentations/29552911|title=「何に対する同意が不在なのか──生殖の許容可能性と同意の不在問題について」第20回早稲田超域哲学研究会|accessdate=2021-05-02|author=中川優一|page=2|date=2020-08-24}}</ref>、'''反生殖主義'''<ref name=":5" />、'''無生殖主義'''<ref name=":1">{{Cite journal|和書|author=古野裕一・穂積浅葱・森岡正博|year=2021|title=無生殖協会の目指すもの ― 本当に“善い”反出生主義に向けて|url=http://www.philosophyoflife.org/jp/seimei202103.pdf|journal=現代生命哲学研究|volume=10|page=68|publisher=早稲田大学人間総合研究センター}}</ref>{{Sfn|森岡|2021|p=55}} ({{lang-en-short|anti-procreationism}}) とも呼ばれる。
*[[人口過剰]]
*:反出生主義が人口過剰や[[飢饉|飢餓]]の問題の解決に繋がると支持者の多くが考えている。また、[[枯渇性資源]]の減少も回避できる。
*:インドや中国などのいくつかの国は[[家族計画|家庭内の子供の数を減らす政策]]を採用している。これらの政策はすべての[[出産]]を否定的に捉えているわけではないが、深刻な人口過剰の懸念や国の資源への重い負担を抑制するのに役立っている。
*[[環境汚染]]
*:環境汚染や[[温暖化]]などが現在より深刻化するであろう将来の地球に子供を存在させたくないという理由で、反出生主義が語られることがある。
*:[[自主的な人類絶滅運動]]の支持者達は人間の活動が[[環境破壊|環境悪化]]の主な原因であるため、生殖を控えるのが「人災への人道的代替」であると論じている<ref name=autoname10>V. Baird, "The No-nonsense Guide to World Population", ''New Internationalist'', Oxford 2011, p. 119.</ref><ref name=autoname11>[http://www.youtube.com/watch?v=Rm1QojjwGdo] An NBC interview with Les U. Knight.</ref><ref name=autoname12>[http://vhemt.org] The official Voluntary Human Extinction Movement website.</ref>。


反出生主義(特に誕生否定)は、古今東西の[[哲学]]・[[宗教]]・[[文学]]において綿々と説かれてきた{{Sfn|森岡|2020|p=13-14}}。ただし、それらをまとめて「反出生主義」と呼ぶようになったのは[[21世紀]]の哲学においてである{{Sfn|森岡|2020|p=13}}。
==道義的責任==
ショーペンハウアーは、人生は苦しみの方が多いと主張し、最も合理的な立場は子供を地球に生みださないことだと主張する。ノルウェーの哲学者{{仮リンク|ピーター・ウェッセル・ザプフェ|en|Peter Wessel Zapffe}}は、子供は親・出生地・時代を選ぶ術がない点から、子供が同意なしに世界に生み出されることにも留意している。<!--これから派生して、「出産育児免許制」を主張している学者はいるのでしょうか?-->


21世紀の哲学者[[デイヴィッド・ベネター]]は、誕生は生まれてくる人にとって常に害であるとし、人類は生殖をやめて段階的に[[人類の絶滅#倫理|絶滅]]するべきだと主張した{{Sfn|森岡|2020|p=14;274-276}}。このベネターの主張は、'''誕生害悪論'''{{Sfn|森岡|2020|loc=第7章}}<ref name=":0">{{Cite journal|和書|author=吉本陵|year=2014|title=人類の絶滅は道徳に適うか? : デイヴィッド・ベネターの「誕生害悪論」とハンス・ヨーナスの倫理思想|url=https://doi.org/10.24729/00007063|journal=現代生命哲学研究|volume=3|DOI=10.24729/00007063}}</ref>とも呼ばれる。
{{quotation|私が己を自負する唯一の理由は、20歳を迎える非常に早い段階で、人は子供を産むべきではないと悟ったからだ。結婚、家族、そしてすべての社会慣習に対する私の嫌悪感は、これに依る。自分の欠点を誰かに継承させること、自分が経験した同じ経験を誰かにさせること、自分よりも過酷かもしれない十字架の道に誰かを強制することは、犯罪だ。不幸と苦痛を継承する子に人生を与えることには同意できない。すべての親は無責任であり、殺人犯である。生殖は獣にのみ在るべきだ。|[[エミール・シオラン]] 『Cahiers』1957-1972, 1997}}


英語の「antinatalism」という語は、もともとは哲学用語でなく{{仮リンク|人口政策|en|Human population planning}}用語だったが、これを最初に哲学用語として使用したのがベネターとされる{{Sfn|森岡|2021|p=45}}。2010年頃から、ベネターの影響のもと[[Reddit]]など[[英語圏]]の[[インターネットコミュニティ|ネットコミュニティ]]で反出生主義運動が活発化した{{Sfn|森岡|2021|p=47}}。
==幸福==
親になって子供を育てることは、幸福をもたらすとは限らない。子供の立場から見ても、子供は親を選べない点から、[[児童心理学|児童心理]]を知らなかったり、子供を奴隷扱いするなど育児に不適格な親のもとに生まれたら、必然的に子供は不幸になる。


=== 日本における「反出生主義」 ===
子供を持つ親は、子供のいない家庭と比較して統計的に有意に幸福のレベルが低く、生活満足度、結婚満足度、および精神的健康状態が悪いことをヨーロッパやアメリカの多くの学者が報告し、いくつかの証拠を発見している<ref>CNN "[http://www.cnn.co.jp/fringe/35042551.html 子どものいない方が夫婦は幸せ? 米英で調査]". 2014.01.15</ref>。
{{複数の問題|一次資料=2024年8月|脚注の不足=2024年8月|section=1}}
日本語の「反出生主義」は、英語の「antinatalism」に対する訳語である{{Sfn|森岡|2021|p=39-43}}。[[森岡正博]]によれば、この訳語の初出は2011年の[[ウィキペディア日本語版]]である{{Sfn|森岡|2021|p=39-43}}。具体的には、2011年に[[ウィキペディアン]]の一人が 「デイヴィッド・ベネター」の記事を作成し、そこで「反出生主義」の訳語を与えた{{Sfn|森岡|2021|p=39-43}}。2014年には別のウィキペディアンが「反出生主義」の記事を作成した。ベネターの思想自体は、2000年代に[[加藤秀一]]が{{仮リンク|ロングフルライフ|en|Wrongful life|label=ロングフルライフ訴訟}}との関連で日本に紹介し、他の学者も言及していたが、学者で最初に「反出生主義」と呼んだのは2013年の森岡とされる{{Sfn|森岡|2021|p=39-43}}。


2017年には、ベネターの著書の日本語訳が刊行されるとともに、日本のネットコミュニティでも「アンチナタリズム」と呼ぶ形で運動が波及し始めた{{Sfn|森岡|2021|p=49}}。2019年には、雑誌『[[現代思想 (雑誌)|現代思想]]』で反出生主義の特集が組まれ、「反出生主義」の語を掲げた最初の書籍となった{{Sfn|森岡|2021|p=50}}。2020年には森岡が反出生主義をテーマにした単著を刊行、2021年から[[全国紙|大手新聞]]などでも反出生主義が取り上げられるようになった{{Sfn|柴嵜|2022|p=2}}{{Sfn|森岡|2021|p=50}}。
==ブッダ==
仏教の開祖ブッダ([[ゴータマ・シッダールタ]])は出家前に子供([[羅睺羅|ラーフラ]])をもっていたが、原始仏典の[[スッタニパータ]]では「子を持つなかれ」等と説いている<ref>[[中村元]]訳『ブッダのことば―スッタニパータ』 p.17</ref>。


本来の反出生主義は「出産否定」に力点を置く思想だったが、日本では「誕生否定」に力点を置く思想として広まってしまった、という見解もある<ref name=":5" /><ref name=":1" /><ref>{{Cite web|和書|title=私たちは「生まれてこないほうが良かったのか?」哲学者・森岡正博氏が「反出生主義」を新著で扱う理由 |url=https://www.businessinsider.jp/post-222520 |website=LIFE INSIDER |date=2020-10-21 |access-date=2023-08-30 |language=ja |last=牧内昇平}}</ref>{{Sfn|柴嵜|2022|p=2}}。
{{quotation|パーピマント悪魔が〔言った〕「子をもつ者は、子たちについて喜ぶ。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちについて喜ぶ。まさに、諸々の依存〔の対象〕は、人の喜びである。依存〔の対象〕なき者――彼は、まさに、喜ぶことがない」と。<br>[[世尊]]は〔答えた〕「子をもつ者は、子たちについて憂う。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちについて憂う。まさに、諸々の依存〔の対象〕は、人の憂いである。依存〔の対象〕なき者――彼は、まさに、憂うことがない」と。|[https://web.archive.org/web/20091118020427/http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/sho20070317.html スッタニパータ]([[正田大観]]訳)}}


「反出生主義」の読み方は「はんしゅっしょうしゅぎ」と「はんしゅっせいしゅぎ」の二通りがあり、学者間でも統一されていない{{efn2|[[永井均]]は2019年に[[ツイッター]]で「''「はんしゅっしょうしゅぎ」と読むのが正しいのか。私は「しゅっせい」と言いたいが。''」<ref>{{Cite tweet|number=1157452966049091584|user=hitoshinagai1|title=扇子は見つからないのでやはり団扇をもって丸善へ。川上未映子さんと反出生主義について対談をするため。「はんしゅっしょうしゅぎ」と読むのが正しいのか。私は「しゅっせい」と言いたいが。|access-date=2023-08-31}}</ref>、[[森岡正博]]は2021年に「''反出生主義に詳しい研究者のあいだでは、二つの読み方が混在してます。そのうちいずれかにまとまるのかもしれないけど。''」とツイートしている<ref>{{Cite tweet|number=1409313555891978241|user=Sukuitohananika|title=ちなみに反出生主義に詳しい研究者のあいだでは、二つの読み方が混在してます。そのうちいずれかにまとまるのかもしれないけど。|access-date=2023-08-31}}</ref>。[[Cinii]]では「はんしゅっしょうしゅぎ」で統一されている<ref>{{Cite web|和書|title="ハン シュッショウ シュギ" {{!}} CiNii Research all 検索 |url=https://cir.nii.ac.jp/all?q=%22%E3%83%8F%E3%83%B3+%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6+%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%AE%22&count=20&sortorder=0 |website=cir.nii.ac.jp |access-date=2023-08-30}}</ref>。<!-- 永井均さんには『哲学日記』というツイートの書籍化があり、このツイートが収録されている可能性があります(未読) -->}}。
20世紀インドの著述家{{仮リンク|ハリ・シン・グール|en|Hari Singh Gour}}は、著作''The Spirit of Buddhism''の中で、とりわけ[[四諦]]と[[犍度|パーリ律]]の始まりを考慮し、以下のようにブッダの教えを解釈している。


== 哲学・倫理学 ==
{{quotation|ブッダ曰く、人生が苦しみである事は忘れられがちである。人が子供を作る。従ってそれが老いと死の原因である。彼らが苦しみの原因がその行いにあると気付いたならば、彼らは子供を作るのを止めるだろう。そうして老いと死のプロセスを止めるべし。|[[:en:Hari Singh Gour|ハリ・シン・グール]]<ref>H.S. Gour, ''The Spirit of Buddhism'', Kessinger Publishing, Whitefish, Montana 2005, pp. 286-288.</ref>}}
{{複数の問題|一次資料=2022年2月|脚注の不足=2023年2月|section=1}}
=== ショーペンハウアー ===
[[File:Schopenhauer.jpg|thumb|right|[[アルトゥル・ショーペンハウアー]](1788年 – 1860年)]]
[[アルトゥル・ショーペンハウアー]]は、人生は苦しみの方が多いと主張し、最も合理的な立場は子供を地球に生みださないことだと主張する。ショーペンハウアーの哲学では、世界は生きる意志によって支配されている。盲目的で不合理な力、常に現れる本能的欲望が、それ自身によって懸命に生み出される。しかし、その性質ゆえに決して満たされないことが苦しみの原因である。存在は苦しみで満たされている。世界には喜びより苦しみの方が多い。数千人の幸福と喜びは、一人の人間の苦痛を補うことまではできない。そして全体的に考えると生命は生まれない方がより良いだろう。倫理的な行動の本質は、同情と禁欲によって自分の欲望を克服することからなる生きる意志の否定である。一度我々が生きる意志を否定したなら、この地球上に人間を生み出すのは、余計で、無意味で、道徳的に疑問のある行為である<ref>A. Schopenhauer, ''Selected Essays of Schopenhauer, Contributions to the Doctrine of the Affirmation and Nega-tion of the Will-to-live'', G. Bell and Sons, London 1926, p. 269.</ref>。


== ベネターの主張 ==
=== ザプフェ ===
[[File:Portrait of Peter Wessel Zapffe.jpg|thumb|right|ザプフェ(1899年 - 1990年)]]
<!-- この節は[[デイヴィッド・ベネター#反出生主義]]と同内容 -->[[デイヴィッド・ベネター]]は、生まれてくることはその本人にとって常に災難であり、それゆえに子供を生むことは反道徳的な行為であり、子供は生むべきではない、と主張する。子供を生むことは、多くの動物がそうしているように単に何も考えずに性的欲求を満たすための行動である[[性行為]]の結果として引き起こされている現象であるか、または生む側の欲求を満たすために引き起こされている現象であるか(例えば子育てしてみたいといった欲求を満たすため、自分の老後の世話をしてもらおうという計算のため)、または判断するさいに生の質([[QOL]])を不当に高く誤評価していること([[ポリアンナ効果]])から起きている現象である、とする。
ノルウェーの哲学者{{仮リンク|ピーター・ウェッセル・ザプフェ|en|Peter Wessel Zapffe}}は、子供は親・出生地・時代を選ぶ術がない点から、子供が同意なしに世界に生み出されることにも留意している。


ザプフェの哲学では、人間は生物学的な[[パラドックス|逆理]]である。意識が過剰に発達してしまったため他の動物のように正常に機能しなくなっている。知覚は我々が抱えられる以上に与えられている。我々はもっと生きたいと望むように進化したが、人間は死が運命づけられていることを認識できる唯一の種である。我々は幅広く過去から未来を予測することが可能だ。我々は正義と、世界の出来事に意味があることを期待する。これが意識を持った個体の人生が悲劇であることを保証している。我々は満足させることができない欲望と精神的な要求を持っている。人類がまだ存続しているのはこの現実の前に思考停止しているからに他ならないとしている。ザブフェは、人間はこの自己欺瞞をやめ、その帰結として出産を止めることによって存続を終わらせる必要があるとした<ref name=autoname96>P.W. Zapffe, ''The Last Messiah'',The Philosophy Now 2004, Number 45, pp. 35-39.</ref><ref>P.W. Zapffe, ''Om det tragiske'', Pax Forlag, Oslo 1996.</ref><ref>P.W. Zapffe, H. Tønnessen, ''Jeg velger sannheten: En dialog mellom Peter Wessel Zapffe og Herman Tønnessen'', Universitets forlaget, Oslo 1983.</ref><ref>T. Brede Andersen, ''Hva det betyr at være menneske'', 1990.</ref>。
ベネターは[[チャイルド・フリー]]のような立場と自身の立場をはっきりと区別する。チャイルド・フリーのような考え方は、自分のライフスタイルを維持することを考えて子供を持たないという立場を取るが、ベネターは親の都合ではなく、生まれてくる人間の観点に立って、その上で生むべきではない、と主張する。つまり生まないことは、多くの人に取ってはある種の我慢が必要なことではあるが、生まれてくる人間のことを少しでも真剣に考えるのならば、子供は生まずに我慢すべきだ、とする。


=== ベネター ===
ベネターは[[人口爆発]]の問題について言及している。ベネターは地球上の理想の[[人口]]は[[0|ゼロ]]であるとしている。つまり人間は[[絶滅]]した方がよい、と主張している。とはいえ即座に人類絶滅を目指すのは生まれてきてしまった人たちにとって大きい苦痛を伴うものとなるであろうから、少しずつ段階的に人口を減らしていき、最終的に絶滅する、つまりゆるやかに絶滅していくのが良いだろう、としている。ちなみにヒトに限らず、他の感覚を持った生物も、まったく生まれてこない方が良かった、つまり絶滅してしまった方が良い、としている。
{{Main|デイヴィッド・ベネター}}


==== 快苦の非対称性 ====
ちなみにこの生の苦の問題に関し、こうした文章を読んでいる人間は「すでに手遅れである」とベネターは言う。そもそもそれはすでに生まれてきてしまっているからである。
[[デイヴィッド・ベネター]]は、善と悪(例えば快と苦痛)の価値は非対称の関係にあると主張する<ref>{{cite journal |last1=Benatar |first1=David |title=Why It Is Better Never to Come into Existence |journal=American Philosophical Quarterly |date=1997 |volume=34 |issue=3 |pages=345–355 |id=A19916781 |jstor=20009904 }}</ref>{{sfn|Benatar|2006|pp=30–40}}<ref>{{cite journal |last1=Benatar |first1=David |title=Every Conceivable Harm: A Further Defence of Anti-Natalism |journal=South African Journal of Philosophy |date=January 2012 |volume=31 |issue=1 |pages=128–164 |doi=10.1080/02580136.2012.10751773 |s2cid=56410180 |url=http://www.careers.uct.ac.za/sites/default/files/image_tool/images/160/Benatar%20Every%20conceivable%20harm.pdf |archiveurl=https://web.archive.org/web/20170810072738/http://www.careers.uct.ac.za/sites/default/files/image_tool/images/160/Benatar%20Every%20conceivable%20harm.pdf |archivedate=2017-08-10 }}</ref><ref>{{cite journal |last1=Benatar |first1=David |title=Still Better Never to Have Been: A Reply to (More of) My Critics |journal=The Journal of Ethics |date=June 2013 |volume=17 |issue=1–2 |pages=121–151 |doi=10.1007/s10892-012-9133-7 |s2cid=170682992 }}</ref>。


*苦痛の存在は悪い。
彼の著書『Better Never to Have Been』(『生まれてこないほうが良かった』)は両親と兄弟に捧げられている。「両親に捧ぐ(私を生んでしまったけれども)」、「兄弟に捧ぐ(生まれてきてしまったけれども)」、という形で[[献辞]]されている<ref>{{cite book |doi=10.1093/acprof:oso/9780199296422.001.0001 | last = Benatar | first = David | title = Better Never to Have Been | publisher = Oxford University Press, USA | location = | year = 2006 | isbn = 978-0-19-929642-2 }}</ref>。
*快の存在は善い。
*苦痛の不在は、それを享受する者が存在しない場合でも善い{{efn2|つまり、存在すれば苦痛を伴う人生を送ると予想される人がいて、その苦痛を不在にさせる方法がその人をつくらないことであったとしても、それは善い。}}。
*快の不在は、この不在が剥奪にあたる者が存在しない限り悪くない{{efn2|つまり、ある人が存在していてその人から快が奪われるのであればそれは悪いが、主体が存在しないから快が不在になっているのであればそれは悪くない。}}{{efn2|なお、この議論における「善い」と「悪い」という用語は、あるシナリオにおける苦痛や快の存在(または不在)を、もう1つのシナリオにおけるそれらの不在(または存在)と比較したとき、そのシナリオにおける苦痛や快の存在(または不在)が「より善い」(better)とか「より悪い」(worse)ということを意味するのであって、苦痛や快の存在あるいは不在そのものの「善さ」や「悪さ」について述べているのではない。つまり、「善い」「悪くない」というのは、主体Xが存在していない場合の苦痛や快の不在はそれ自体では善くも悪くもない(neutral)が、主体Xが存在している場合のそれらの存在と比較したとき、それぞれについて「より善い」(better)あるいは「より悪くない」(not worse)という評価が下されるということを意味していることに注意する必要がある{{refnest|{{Cite AV media|url=https://www.youtube.com/watch?v=YGL2r8PNb8c|title=Followup Conversation with David Benatar|author=CosmicSkeptic|publisher=YouTube|language=英語|accessdate=2022-11-10|quote=... when I say that the absence of pain is good and the absence of pleasure is not bad, I'm not referring to the intrinsic value of the obviously neutral states in the non-existing person. What I'm speaking about is a comparative judgment.{{nbsp}}... So when I say it is good, I mean it is good in a comparative sense, not an intrinsic sense.}}}}。}}。


{| class="wikitable"
== 負の功利主義 ==
|-
現代の倫理学における{{仮リンク|負の功利主義|en|Negative utilitarianism}} では、幸福を最大限までに高めるよりも苦痛を最小限に抑えることの方がより倫理的に重要であるとされる。
! シナリオA(Xが存在する) !! シナリオB(Xが存在しない)
|-
| {{no|1. 苦痛の存在(悪い)}} || {{yes|3. 苦痛の不在(善い)}}
|-
| {{yes|2. 快の存在(善い)}} || {{Center|content=4. 快の不在(悪くない)}}
|}

存在は善い経験と悪い経験(快と苦痛)の両方を含むが、不存在{{Efn2|過去に存在しておらず、今も存在していない状態のこと。過去に存在していたが、今は存在していない({{Lang|en|no longer exist}})状態とは区別される。}}は快も苦痛も含まない。ベネターは、苦痛の不在は善で、快の不在は悪くないから、倫理的判断としては生殖を控える選択に分があるという。

ベネターは、前述した非対称性を、ベネターが説得力があると考える以下の4つの別の非対称性を用いて説明する。

* '''生殖義務の非対称性''': 我々には不幸な人をつくらない倫理的義務があるが、幸せな人をつくる倫理的義務はない。我々が不幸な人をつくらない義務があると考える理由は、不幸な人をつくることにより生じる苦しみが(この苦しみを受ける人にとって)悪く、この苦しみの不在は、その不在を享受する人が存在しない場合でも善いからだ。一方、我々が幸せな人をつくる義務がないと考える理由は、幸せな人が享受する快がその人にとって善いとしても、その人が生まれてこなかった場合に生じていたその快の不在は、その快を剥奪される人が存在しないため、悪くないからだ。
* '''期待される益の非対称性''': 生まれてくる子供の利益を理由にその子供をつくるという選択をするのは奇妙であるが、生まれてくる子供の利益を理由にその子供をつくらないという選択をするのは奇妙ではない。その子供が幸せになることが予想されるということは、その子供をつくる倫理的に重要な理由にはならない。一方、その子供が不幸になることが予想されるということは、その子供をつくらない倫理的に重要な理由になる。もし快の不在が、その不在を経験する者がいない場合でも悪いとすると、我々にはできるだけ多くの子供をつくる倫理的に重要な理由があるということになる。また、もし苦痛の不在が、その不在を享受する者がいない場合でも善いわけではないとすると、我々は子供をつくらないことへの倫理的に重要な理由全般を持たないということになる。
* '''回顧的な益についての非対称性''': その人の存在が我々の選択によるものであった人に対して、ある日その人を生んでしまったことを後悔するかもしれない。なぜなら、その人は不幸になるかもしれず、その苦痛は悪いからだ。一方、その人の不存在が我々の選択によるものであった人に対して、その人を生まなかったことを後悔することはありえない。その人が存在しない以上、この幸福の不在が剥奪にあたる人が存在しないからだ。
* '''遠く離れた苦しみと幸せな人々の不在の非対称性''': 我々がどこかで生まれてきた人が苦しんでいるという事実に悲しくなることはあるが、幸福な人が暮らしている場所で誰かが生まれてこなかったという事実に悲しくなることはない。どこかである人が生まれてきて苦しんでいるという事実を知ったとき、我々は同情する。つまり、ある無人島で人が生まれて来ず、苦しむことがなかったというのは善いことである。これは、苦痛の不在は、その不在を享受している人がいなくても善いからだ。一方、どこかの無人島や惑星で人が生まれて来ず、幸せにならなかったという事実に悲しくなることはない。これは、快の不在は、その不在が剥奪にあたる人が存在しない限り悪くないからだ。

=== ヴェターとナーベソン ===
[[File:Jan Narveson.jpg|thumb|right|ナーベソン(1936年 - )]]
現代倫理学の{{仮リンク|負の功利主義|en|Negative utilitarianism}} では、幸福を最大限までに高めるよりも苦痛を最小限に抑えることの方がより倫理的に重要であるとされる。


{{仮リンク|ヘルマン・ヴェター|en|Hermann Vetter}}が賛同した{{仮リンク|ヤン・ナーベソン|en|Jan Narveson}}の{{仮リンク|非対称仮説|en|Asymmetry_(population_ethics)}}はこう主張する:<ref>J. Narveson, ''Utilitarianism and New Generations'', Mind 1967, LXXVI (301), pp. 62-67.</ref>
{{仮リンク|ヘルマン・ヴェター|en|Hermann Vetter}}が賛同した{{仮リンク|ヤン・ナーベソン|en|Jan Narveson}}の{{仮リンク|非対称仮説|en|Asymmetry_(population_ethics)}}はこう主張する:<ref>J. Narveson, ''Utilitarianism and New Generations'', Mind 1967, LXXVI (301), pp. 62-67.</ref>
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{{quote|”子を出生させない”ことが、同程度、もしくはより良い結果をもたらすため、”子を出生させる”ことよりも優位にあると考えられる。そのため子が不幸になる可能性を排除できない限り――これは不可能であるが――、前者はより好まれる。そのため、我々は(3)の代わりに、より踏み込んだ(3')――どのような場合でも、子供を産まないことが倫理的に好まれる――を結論とする。}}
{{quote|”子を出生させない”ことが、同程度、もしくはより良い結果をもたらすため、”子を出生させる”ことよりも優位にあると考えられる。そのため子が不幸になる可能性を排除できない限り――これは不可能であるが――、前者はより好まれる。そのため、我々は(3)の代わりに、より踏み込んだ(3')――どのような場合でも、子供を産まないことが倫理的に好まれる――を結論とする。}}


=== その他 ===
{{仮リンク|カリム・アケルマ|de|Karim Akerma}}は、人生の中で起きうる最良のことは最悪なこと――激痛、怪我、病気、死による苦しみ――を相殺せず、出生を控えるべきであると主張している。<ref>K. Akerma, ''Soll eine Menschheit sein? Eine fundamentalethische Frage'', Cuxhaven-Dartford: Traude Junghans, 1995.</ref><ref>K. Akerma, ''Verebben der Menschheit?: Neganthropie und Anthropodizee'', Freiburg im Breisgau: Verlag Karl Alber, 2000.</ref>
[[ファイル:Cioran in Romania.jpg|thumb|right|[[エミール・シオラン|シオラン]](1911年 - 1995年)]]
[[File:Still from "Militantisme et diffusion des idées de décroissances (conférence)".png|thumb|right|ジロー(1968年 - )]]
{{quotation|私が己を自負する唯一の理由は、20歳を迎える非常に早い段階で、人は子供を産むべきではないと悟ったからだ。結婚、家族、そしてすべての社会慣習に対する私の嫌悪感は、これに依る。自分の欠点を誰かに継承させること、自分が経験した同じ経験を誰かにさせること、自分よりも過酷かもしれない十字架の道に誰かを強制することは、犯罪だ。不幸と苦痛を継承する子に人生を与えることには同意できない。すべての親は無責任であり、殺人犯である。生殖は獣にのみ在るべきだ。|[[エミール・シオラン]] 『カイエ』1957-1972, 1997}}


{{仮リンク|カリム・アケルマ|de|Karim Akerma}}は、人生の中で起きうる最良のことは最悪なこと――激痛、怪我、病気、死による苦しみ――を相殺せず、出生を控えるべきであると主張している<ref>K. Akerma, ''Soll eine Menschheit sein? Eine fundamentalethische Frage'', Cuxhaven-Dartford: Traude Junghans, 1995.</ref><ref>K. Akerma, ''Verebben der Menschheit?: Neganthropie und Anthropodizee'', Freiburg im Breisgau: Verlag Karl Alber, 2000.</ref>。
ブルーノ・コンテスタビーレ<!-- カタカナ表記の参考:「ジョルダーノ・ブルーノ」、「エマ・コンテスタビーレ」 --> (Bruno Contestabile) は、[[アーシュラ・K・ル=グウィン]]のSF小説『オメラスから歩み去る人々』を例として挙げている。この短編では、隔離され、虐げられ、救うことができない一人の子供の苦しみにより、住民の繁栄と都市の存続がもたらされるユートピア都市オメラスが描かれている。大半の住民はこの状態を認めて暮らしているが、この状態を良しとしない者もおり、彼らはこの都市に住むことを嫌って"オメラスから歩み去る"。コンテスタビリーはこの短編と現実世界を対比する: オメラスの存続のためには、その子供は虐げられなければいけない。同様に、社会の存続にも、虐げられる者は常に存在するという事実が付随する。コンテスタビリーは、反出生主義者は、そのような社会を受け入れず、関与することを拒む"オメラスから歩み去る人々"と同一視できると述べた。また、「万人の幸福はただ一人の甚大な苦しみを相殺できうるのか」という疑問を投げかけた。<ref name=autoname4>B. Contestabile, ''The Denial of the World from an Impartial View'',
Contemporary Buddhism: An Interdisciplinary Journal, volume 17, issue 1, Taylor and Francis, 2016.</ref>


ブルーノ・コンテスタビーレ<!-- カタカナ表記の参考:「ジョルダーノ・ブルーノ」、「エマ・コンテスタビーレ」 --> (Bruno Contestabile) は、[[アーシュラ・K・ル=グウィン]]のSF小説『オメラスから歩み去る人々』を例として挙げている。この短編では、隔離され、虐げられ、救うことができない一人の子供の苦しみにより、住民の繁栄と都市の存続がもたらされるユートピア都市オメラスが描かれている。大半の住民はこの状態を認めて暮らしているが、この状態を良しとしない者もおり、彼らはこの都市に住むことを嫌って"オメラスから歩み去る"。コンテスタビーレはこの短編と現実世界を対比する: オメラスの存続のためには、その子供は虐げられなければいけない。同様に、社会の存続にも、虐げられる者は常に存在するという事実が付随する。コンテスタビーレは、反出生主義者は、そのような社会を受け入れず、関与することを拒む"オメラスから歩み去る人々"と同一視できると述べた。また、「万人の幸福はただ一人の甚大な苦しみを相殺できうるのか」という疑問を投げかけた<ref name=autoname4>B. Contestabile, ''The Denial of the World from an Impartial View'',
== 悪事としての魂の牢獄 ==
Contemporary Buddhism: An Interdisciplinary Journal, volume 17, issue 1, Taylor and Francis, 2016.</ref>。
[[マニ教]]<ref name=autoname5>H. Jonas, ''The gnostic...'', op. cit., pp. 228 and 231.</ref>、[[ボゴミル派]]<ref>D. Obolensky, ''The Bogomils: A Study in Balkan Neo-Manichaeism'', Cambridge University Press, Cambridge 2004, p. 114.</ref>と[[カタリ派]]<ref>M.J. Fromer, ''Ethical issues in sexuality and reproduction'', The C. V. Mosby Company, St. Louis 1983, p. 110.</ref>は出産は魂を牢獄に入れる悪事であると信じていた。彼らは出産は邪神[[デミウルゴス]]または[[サタン]]の仕業と見なしていた。


哲学者の{{仮リンク|フリオ・カブレラ|en|Julio Cabrera (philosopher)}}は、出産は人間を危険で痛みに満ちた場所に送り込む行為だと述べている。生まれた瞬間から死に至るプロセスが開始されるとし、カブレラは出産において我々は生まれてくる子供の同意を得ておらず、子供は痛みと死を避けるために生まれてくることを望んでいないかも知れないと主張している<ref name="autoname1">[http://repositorio.unb.br/bitstream/10482/15274/1/LIVRO_PorqueTeAmo.pdf] J. Cabrera, T. L. di Santis, ''Porque te amo, Não nascerás! Nascituri te salutant'', LGE Editora, Brasilia 2009.</ref><ref name="autoname2">[http://repositorio.unb.br/bitstream/10482/17430/3/Livro_CritiqueAffirmativeMorality.pdf] J. Cabrera, ''A critique of affirmative morality - a reflection on death, birth and the value of life'', Julio Cabrera Editions, Brasília 2014.</ref>。同意の欠如については、哲学者のジェラルド・ハリソン (Gerald Harrison)とジュリア・タナー (Julia Tanner) も同様のことを書いている。彼らは生まれてくる本人の同意なしに出産をつうじて他人の人生に影響を与える道徳的な権利を我々は持っていないと主張している<ref name=autoname90>G. Harrison, J. Tanner, ''Better Not To Have Children'', Think 2011, Volume 10, Issue 27, pp. 113-121.</ref>。
== ショーペンハウアーの倫理 ==
[[アルトゥル・ショーペンハウアー]]の哲学では、世界は生きる意志によって支配されている。盲目的で不合理な力、常に現れる本能的欲望が、それ自身によって懸命に生み出される。しかし、その性質ゆえに決して満たされない事が苦しみの原因である。存在は苦しみで満たされている。世界には喜びより苦しみの方が多い。数千人の幸福と喜びは、一人の人間の苦痛を補う事はできない。そして全体的に考えると生命は生まれない方がより良いだろう。
倫理的な行動の本質は、同情と禁欲によって自分の欲望を克服することからなる生きる意志の否定である。
一度我々が生きる意志を否定したなら、この世界に人間を生み出すのは、余計で、無意味で、道徳的に非常に疑問のある行為である<ref>A. Schopenhauer, ''Selected Essays of Schopenhauer, Contributions to the Doctrine of the Affirmation and Nega-tion of the Will-to-live'', G. Bell and Sons, London 1926, p. 269.</ref>。


哲学者の{{仮リンク|テオフィル・ド・ジロー|en|Théophile de Giraud}}は、世界中に何百万人もの孤児がいることに触れ、道徳的な問題を抱えた出産を行うよりも、愛情と保護を必要としている子供らを[[養子]]にする方が良いだろうと述べた<ref>T. de Giraud, ''L'art...'' op. cit., p. 51.</ref>。
== 死の克服 ==
<!-- 原文 Julius Cassianus and Encratites noticed that birth leads to death. To conquer death, we should resign from procreation. 当初の訳:Julius CassianusとEncratitesは誕生が死につながる事に気づいた。 死を克服するため、我々は出産をやめるべきであると言う。 原文は2016年の版のもの(https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Antinatalism&oldid=740038461)で、2021年4月現在では以下に改変されている(The Encratites observed that birth leads to death. In order to conquer death, people should desist from procreation: "not produce fresh fodder for death".)https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Antinatalism&oldid=1015528278 -->[[2世紀]]の[[キリスト教神学者]]ユリウス・カッシアヌス (Julius Cassianus)と[[禁欲主義]]者たち({{仮リンク|エンクラディス派|en|Encratites}}<ref>{{コトバンク|エンクラディス派}}</ref>)は、誕生が死の原因であることに気づいた。 死を克服するため、我々は出産をやめるべきであると言う<ref>P. Brown, ''The Body and Society: Men, Women, and Sexual Renunciation in Early Christianity'', Columbia University Press, Columbia 1988, p. 96.</ref><ref>Clement of Alexandria, ''Stromateis'', op. cit., pp. 295-296.</ref><ref>G. Quispel, ''Gnostica, Judaica, Catholica: Collected Essays of Gilles Quispel'', Brill, Danvers 2008, p. 228.</ref>。


=== 実現への自然科学的課題 ===
== 反出生主義の政党 ==
[[進化]]が、苦痛を感じる人類的な[[生物]](の再出現)をもたらし得るため、まず反出生主義実現のためには人類を消すと同時に、人類以外の生物の進化を全面的に制御する必要がある<ref name=umaretekonaiA>{{Cite book |和書|author=[[森岡正博]] |year=2020 |title=生まれてこないほうが良かったのか? ――生命の哲学へ! (筑摩選書) |publisher=筑摩書房 |isbn=978-4480017154 |pages=56-57}}</ref>。生物とその苦痛感覚は物質から、[[物質]]と[[宇宙]]は「[[無#物理学|無]]」から生成する可能性がある<ref name=umaretekonaiB>{{Cite book |和書|author=森岡正博 |year=2020 |title=生まれてこないほうが良かったのか? ――生命の哲学へ! (筑摩選書) |publisher=筑摩書房 |isbn=978-4480017154 |pages=57-58}}</ref>。科学哲学的には、常に反出生主義を敗北させようとする敵はこれらだ<ref name=umaretekonaiB/>。
反出生主義を公約に掲げたイギリスの政党「ANP」 (The Anti Natalist Party) は、法学者[[ウィリアム・ブラックストン]]の「10人の罪人を逃しても1人の無辜を罰することなかれ」の言葉を引用し、正義の原則的に(不必要な)喜びが存在するより(不必要な)苦しみを経験しない方が良いと主張している<ref>[https://antinatalism.co.uk/2015/12/14/links-2/ What is ‘Antinatalism’?]{{リンク切れ|date=2021-04-03}} – The Anti-Natalist Party</ref>。
また、公約として「子供を作る意欲を減らす為」に子供の税控除の廃止や裕福な家族への課税などを掲げている<ref>[https://antinatalism.co.uk/about/ Manifesto]{{リンク切れ|date=2021-04-03}} – The Anti-Natalist Party</ref>。


生物[[系_(自然科学)|系]](生物システム)→物質から生成して感覚生成へと進化する可能性あり
== 生物学的逆理としての人間 ==
{{仮リンク|ピーター・ウェッセル・ザプフェ|en|Peter Wessel Zapffe}}の哲学によると、人間は生物学的な[[パラドックス|逆理]]である。意識が過剰に発達してしまったため他の動物の様に正常に機能しなくなっている。
知覚は我々が抱えられる以上に与えられている。我々はもっと生きたいと望む様に進化したが、人間は死が運命づけられている事を認識できる唯一の種である。我々は幅広く過去から未来を予測する事が可能だ。我々は正義と、世界の出来事に意味がある事を期待する。これが意識を持った個体の人生が悲劇である事を保証している。
我々は満足させる事ができない欲望と精神的な要求を持っている。人類がまだ存続しているのはこの現実の前に思考停止しているからに他ならない。ザプフェによると人間はこの自己欺瞞をやめ、その帰結として出産を止めることによって存続を終わらせる必要がある<ref name=autoname96>P.W. Zapffe, ''The Last Messiah'',The Philosophy Now 2004, Number 45, pp. 35-39.</ref><ref>P.W. Zapffe, ''Om det tragiske'', Pax Forlag, Oslo 1996.</ref><ref>P.W. Zapffe, H. Tønnessen, ''Jeg velger sannheten: En dialog mellom Peter Wessel Zapffe og Herman Tønnessen'', Universitets forlaget, Oslo 1983.</ref><ref>T. Brede Andersen, ''Hva det betyr at være menneske'', 1990.</ref>。


物質系(物質システム)→無から生成して生物生成へと[[生命の起源#化学進化説|進化(化学進化)]]する可能性あり
== 同意なしに苦痛や死をもたらす ==
哲学者の{{仮リンク|フリオ・カブレラ|en|Julio Cabrera (philosopher)}}は、出産は人間を危険で痛みに満ちた場所に送り込む行為だと述べている。生まれた瞬間から死に至るプロセスが開始される。カブレラは出産において我々は生まれてくる子供の同意を得ておらず、子供は痛みと死を避けるために生まれてくる事を望んでいないかも知れないと主張している<ref name=autoname1>[http://repositorio.unb.br/bitstream/10482/15274/1/LIVRO_PorqueTeAmo.pdf] J. Cabrera, T. L. di Santis, ''Porque te amo, Não nascerás! Nascituri te salutant'', LGE Editora, Brasilia 2009.</ref><ref name=autoname2>[http://repositorio.unb.br/bitstream/10482/17430/3/Livro_CritiqueAffirmativeMorality.pdf] J. Cabrera, ''A critique of affirmative morality - a reflection on death, birth and the value of life'', Julio Cabrera Editions, Brasília 2014.</ref>。同意の欠如については、哲学者のジェラルド・ハリソン (Gerald Harrison)とジュリア・タナー (Julia Tanner) も同様の事を書いている。彼らは生まれてくる本人の同意なしに出産をつうじて他人の人生に影響を与える道徳的な権利を我々は持っていないと主張している<ref name=autoname90>G. Harrison, J. Tanner, ''Better Not To Have Children'', Think 2011, Volume 10, Issue 27, pp. 113-121.</ref>。


宇宙→無から生成して[[宇宙進化論|進化(宇宙進化)]]する可能性あり
== 他の動物を傷つける ==
[[デイヴィッド・ベネター]]<ref>D. Benatar, ''Better...'', op. cit., pp. 109.</ref>、ジェラルド・ハリソンとジュリア・タナー<ref name="autoname90" />らは、人間が動物に危害を加えている事を懸念している。我々の種によって毎年数十億の動物が動物製品の生産や動物実験、環境破壊の結果や残酷で嗜虐的な喜びの為に虐殺されている。彼らは我々が動物を苦しめるのは非倫理的であるとする[[動物の権利]]の思想家に賛同する傾向がある。
彼らは地球上で最も破壊的な種は人類だと考える。そして新たに人間が生まれなければ人間によって新たに動物が苦しめられる事はなくなると主張する。


要するに「反出生主義の真の敵」は「生成」であると考えられる<ref name=umaretekonaiC>{{Cite book |和書|author=森岡正博 |year=2020 |title=生まれてこないほうが良かったのか? ――生命の哲学へ! (筑摩選書) |publisher=筑摩書房 |isbn=978-4480017154 |pages=58}}</ref>。
== 出産の代わりに養子 ==
現在、世界中に何百万人もの孤児がいる。哲学者の{{仮リンク|テオフィル・ド・ジロー|en|Théophile de Giraud}}は、道徳的な問題を抱えた出産を行うよりも、愛情と保護を必要としている子供らを[[養子]]にする方が良いだろうと述べている<ref>T. de Giraud, ''L'art...'' op. cit., p. 51.</ref>。


デイヴィッド・ベネターの推奨するような反出生主義的な世界や宇宙の実現可能性を考えるには、生物の性質が重要だ<ref name=umaretekonaiD>{{Cite book |和書|author=森岡正博 |year=2020 |title=生まれてこないほうが良かったのか? ――生命の哲学へ! (筑摩選書) |publisher=筑摩書房 |isbn=978-4480017154 |pages=56}}</ref>。反出生主義を実現するには、苦痛を感じ得る全生物を消す必要がある<ref name=umaretekonaiD/>。よって一見すると、人類を含む地球上の全[[動物]](魚類含む)を苦痛無しで絶滅させれば良いかのように思われる<ref name=umaretekonaiA/>。
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references responsive="" />


しかし残された[[虫]]、[[水生生物]]、[[植物]]などが苦痛を感じ得る生物へ進化する可能性がある<ref name=umaretekonaiE>{{Cite book |和書|author=森岡正博 |year=2020 |title=生まれてこないほうが良かったのか? ――生命の哲学へ! (筑摩選書) |publisher=筑摩書房 |isbn=978-4480017154 |pages=57}}</ref>。よって人類は人類絶滅の前に、地球上の生物進化をコントロールする[[システム]]を作る必要があるだろう<ref name=umaretekonaiE/>。それは地球の全てにセンサーを張りめぐらせた全自動システムだ<ref name=umaretekonaiE/>。もしある生物が進化して苦痛(痛覚)を得そうになると全自動システムがそれを感知しすぐにその生物を不妊化する上にシステム自身も自分が苦痛(痛覚)獲得へと進化しないように自己制御している<ref name=umaretekonaiE/>。
==関連項目==

*[[自主的な人類絶滅運動]]
ともあれ人類的な存在(の再出現)をもたらす進化を防がねばならないのであり、端的に言えば「反出生主義は生物進化との果てしない戦いを宿命づけられている」<ref name=umaretekonaiE/>。
*[[チャイルド・フリー]]

*[[子どもの権利]]
しかし地球上で反出生主義が一旦成功した場合でさえ、宇宙上で生物進化に勝つ必要は残る<ref name=umaretekonaiE/>。もし地球全体を破壊(爆破)してもあらゆる物質が消えるわけではなく、物質から生物が発生(化学進化)して生物進化により苦痛(痛覚)が生じる可能性を消すことはできない<ref name=umaretekonaiE/>。
*[[マルサス主義]]

*[[優生学]]
ならば[[メフィストフェレス|メフィスト]]が語った反出生主義的願いのように「そもそも何も存在しなければよかったのに」<ref>{{Cite book |和書|author=森岡正博 |year=2020 |title=生まれてこないほうが良かったのか? ――生命の哲学へ! (筑摩選書) |publisher=筑摩書房 |isbn=978-4480017154 |pages=57-58}}</ref>。しかし「無」から宇宙が自動生成する可能性があるためそもそもこういった願いが成立する保証はない<ref name=umaretekonaiC/>。
*[[カタリ派]]

*[[スコプツィ]]
よって反出生主義がハンマーのごとく宇宙や生物をいくら粉砕しても、宇宙や生物が不死身のように無からいくらでも再生成してくる可能性がある<ref name=umaretekonaiC/>。「反出生主義と生物進化」なるテーマは従来ほとんど語られなかったがこのように重要性がある<ref name=umaretekonaiC/>。
*[[人類の絶滅]]

*[[ニヒリズム]]
== 心理学 ==
*[[産児制限]]
データ[[解析]]の論文により、反出生主義は[[ダークトライアド]]的パーソナリティ特性の中の[[精神病質]]や[[マキャヴェリズム]]と関連性が高く、そして[[うつ病]]がその関連性を高めていることが示されている{{Sfn|Schönegger|2021|p=66, 86}}{{Efn2|出典原文の和訳:{{Quote|うつ病はそれ自体で反出生主義的見解と関連しており、のみならず、<ins>権謀術数主義・精神病質</ins>と<ins>反出生主義的見解</ins>との間の関連において[[媒介]]役{{Interp|[[媒介変数]]|原文は“mediator”|和文=1}}として機能していることも判明した。この[[パターン|定型{{Interp|パターン||和文=1}}]]は、追跡調査でも[[再現性|再現]]された。{{Sfn|Schönegger|2021|p=66}}}}
*『[[河童 (小説)|河童]]』
出典原文:{{Quote|Depression is found to be both standing independently in a [[wikt:en:relationship#Noun|relationship]] with anti-natalist views as well as functioning as a [[wikt:en:mediator#Noun|mediator]] in the relationships between <ins>Machiavellianism/psychopathy</ins> and <ins>anti-natalist views</ins>. This pattern was replicated in a follow-up study{{Sfn|Schönegger|2021|p=66}}.}}}}。

反出生主義との関連性において精神病質はr = .621、権謀術数主義はr = .490と、[[有意]]に高い[[相関]]を示した{{Sfn|Schönegger|2021|pp=80-81}}。媒介分析を行ったところ、うつ病はその相関の数値を有意に高めていた{{Sfn|Schönegger|2021|pp=78-79, 81}}。また、反出生主義と[[抑うつ]]については「[[抑うつ現実主義]]的な議論」(“depressive realist argumentation”)を過信すべきでないと述べている{{Sfn|Schönegger|2021|p=84}}。
{{See also|ダークトライアド|パーソナリティ障害|うつ病|[[精神病質]]}}

== 宗教 ==
{{複数の問題|一次資料=2022年2月|精度=2022年3月|section=1}}
=== グノーシス主義 ===
[[グノーシス主義]]の主張が反出生主義の文脈から参照される場合がある。[[マニ教]]<ref name=autoname5>H. Jonas, The Gnostic Religion: The Message of the Alien God and the Beginnings of Christianity, Boston: Beacon Press, 1958, pp. 228 and 231.</ref>、[[ボゴミル派]]<ref>D. Obolensky, ''The Bogomils: A Study in Balkan Neo-Manichaeism'', Cambridge University Press, Cambridge 2004, p. 114.</ref>と[[カタリ派]]<ref>M.J. Fromer, ''Ethical issues in sexuality and reproduction'', The C. V. Mosby Company, St. Louis 1983, p. 110.</ref>は生命とは魂(精神)が物質である肉体に「囚われた」状態であると解釈し、出生を否定的にとらえていた。

<!-- 原文 Julius Cassianus and Encratites noticed that birth leads to death. To conquer death, we should resign from procreation. 当初の訳:Julius CassianusとEncratitesは誕生が死につながることに気づいた。 死を克服するため、我々は出産をやめるべきであると言う。 原文は2016年の版のもの(https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Antinatalism&oldid=740038461)で、2021年4月現在では以下に改変されている(The Encratites observed that birth leads to death. In order to conquer death, people should desist from procreation: "not produce fresh fodder for death".)https://en-two.iwiki.icu/w/index.php?title=Antinatalism&oldid=1015528278 -->[[2世紀]]の[[初期キリスト教]]の[[神学]]者ユリウス・カッシアヌス (Julius Cassianus)と[[禁欲主義]]者たち({{仮リンク|エンクラディス派|en|Encratites}}<ref>{{コトバンク|エンクラディス派}}</ref>)は、誕生が死の原因であるとし、 死を克服するため、我々は出産をやめるべきとした<ref name=brown>P. Brown, ''The Body and Society: Men, Women, and Sexual Renunciation in Early Christianity'', Columbia University Press, Columbia 1988, p. 96.</ref><ref>Clement of Alexandria, ''Stromateis'', op. cit., pp. 295-296.</ref><ref>G. Quispel, ''Gnostica, Judaica, Catholica: Collected Essays of Gilles Quispel'', Brill, Danvers 2008, p. 228.</ref>。

=== 仏教 ===
日本の仏教は[[鎌倉仏教]]運動以降[[末法無戒]]・肉食妻帯が一般化したため認識されにくいが、仏教はもともと非常に禁欲的な思想を持っていた<ref>桂紹隆 「[https://shugakuin.hongwanji.or.jp/files/87%E5%8F%B7%E6%A1%82%E6%98%AD%E9%9A%86.pdf 日本仏教に未来はあるか]」本願寺宗学院</ref>。

仏教の開祖ブッダ([[ゴータマ・シッダールタ]])は出家前に子供([[羅睺羅|ラーフラ]])をもっていたが、原始仏典の[[スッタニパータ]]では「子を持つなかれ」等と説いた<ref name=sutta_nipata>[[中村元 (哲学者)|中村元]]訳『ブッダのことば―スッタニパータ』 p.17</ref>。
{{quotation|パーピマント悪魔が〔言った〕「子をもつ者は、子たちについて喜ぶ。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちについて喜ぶ。まさに、諸々の依存〔の対象〕は、人の喜びである。依存〔の対象〕なき者――彼は、まさに、喜ぶことがない」と。<br>[[世尊]]は〔答えた〕「子をもつ者は、子たちについて憂う。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちについて憂う。まさに、諸々の依存〔の対象〕は、人の憂いである。依存〔の対象〕なき者――彼は、まさに、憂うことがない」と。|[https://web.archive.org/web/20091118020427/http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/sho20070317.html スッタニパータ]([[正田大観]]訳)}}

20世紀インドの著述家{{仮リンク|ハリ・シン・グール|en|Hari Singh Gour}}は著作『The Spirit of Buddhism』の中で、とりわけ[[四諦]]と[[犍度|パーリ律]]の始まりを考慮し、以下のように述べた。
{{quotation|ブッダ曰く、人生が苦しみであることは忘れられがちである。人が子供を作る。従ってそれが老いと死の原因である。彼らが苦しみの原因がその行いにあると気付いたならば、彼らは子供を作るのを止めるだろう。そうして老いと死のプロセスを止めるべし。|[[:en:Hari Singh Gour|ハリ・シン・グール]]<ref name=gour>H.S. Gour, ''The Spirit of Buddhism'', Kessinger Publishing, Whitefish, Montana 2005, pp. 286-288.</ref>}}

== 反出生主義が描写される作品 ==
{{複数の問題|一次資料=2022年2月|精度=2022年3月|section=1}}
=== 文学 ===
以下の作品は、反出生主義と結び付けて語られることがある。
*[[テオグニス]]{{Sfn|森岡|2021|p=54}}、[[ソポクレス]]{{Sfn|森岡|2021|p=54}}、『[[コヘレトの言葉]]』{{Sfn|森岡|2021|p=43}}など、「生まれて来ないのが最善である」と説く古代の[[格言]]。
*[[ニーチェ]]『[[悲劇の誕生]]』(1872年) - 賢者[[シレノス]]が「生まれて来ないのが最善である」と説く<ref>{{Cite web |title=なぜ「生まれてこないほうがよかった」のか? 反出生主義の源流を探る(梅田 孝太) |url=https://gendai.media/articles/-/99549?page=2 |website=現代新書 {{!}} 講談社 |access-date=2024-12-24 |language=ja}}</ref>(シレノスの知恵)。
*[[芥川龍之介]]『[[河童 (小説)|河童]]』(1927年) - 河童の世界に迷い込んだ男を描く。河童の世界では出産前に母親の胎内にいる子供に父親が産まれたいかどうかを尋ね、産まれたくないと回答があった場合はその場で胎内に液体を注ぎ消滅させてしまう。人間の行う産児制限は「両親の都合ばかり考へてゐる」「手前勝手」と笑われている。著者の芥川自身における晩年の厭世的な思想が現れた作品としても知られる。哲学者の[[永井均]]は、反出生主義において悪さを構成している「『生まれる/生まれない』を実際には自分で選べないこと」に対して、選べる場合を想定した作品として本作を挙げている<ref name="kawakami">{{Cite web|和書|title=生まれることは悪いことか? では産むことは? 【特別対談】川上未映子×永井均 反出生主義は可能か〜シオラン、べネター、善百合子|Web河出|url=https://web.kawade.co.jp/bungei/3600/|accessdate=2022-02-15|publisher=[[河出書房]]|author=[[川上未映子]];[[永井均]]|date=2020-05-22}}</ref>。
*[[太宰治]]『[[斜陽]]』(1947年) - 主人公が「生まれて来ないほうがよかった」と語る<ref name=":4">{{Cite web|和書|title=反出生主義への応答:生まれること産むことにノーと言う思想をどう考えるか|森岡正博|note |url=https://note.com/kanjinai/n/n4bb65824de4d |website=note(ノート) |accessdate=2022-03-23 |language=ja}}</ref>。

また、明示的に反出生主義を取り扱った文学作品としては、以下のようなものがある。
*[[川上未映子]]『夏物語』[[文藝春秋]]、2019年 - 登場人物の一人が反出生主義者である<ref name="kawakami"/>{{Sfn|田中|村松|樋口|2022|p=26}}。
*[[品田遊]]『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』[[イースト・プレス]]、2021年 - 登場人物たちが人類を滅ぼすべきか否か討論する{{Sfn|柴嵜|2022|p=2}}。

=== 映画 ===
以下の作品は、反出生主義と結び付けて語られることがある。
* 『[[存在のない子供たち]]』(2018年) - 中東のスラムで育った少年が「僕を産んだ罪」で両親を告訴する{{Sfn|田中|村松|樋口|2022|p=25}}。
* 『[[ソウルフル・ワールド]]』(2020年) - 生まれる前の「魂」たちを描いた[[ディズニー映画]]。「生まれたくない魂」が登場する<ref>{{Cite web|和書|title=密かに注目をあびる「生まれてこないほうが良かった」という思想。反出生主義とは? |url=https://data.wingarc.com/antinatalism-31027 |website=データで越境者に寄り添うメディア データのじかん |access-date=2023-09-10 |language=ja}}</ref>。

=== 漫画・アニメ等の二次元作品 ===
以下の作品は、反出生主義と結び付けて語られることがある。
*[[ジョージ秋山]]『[[アシュラ (漫画)|アシュラ]]』(漫画、1970年 - 1971年) - 主人公が「生まれて来ないほうがよかった」と叫ぶ<ref name=":4" />。
*『[[ミュウツーの逆襲]]』(アニメ映画、1998年) - 遺伝子操作で人工的に作られたポケモン「ミュウツー」が、自身の存在意義への疑問、承認欲求を抱いたことで、「誰が産めと頼んだ。誰が作ってくれと願った。私は私を産んだすべてを恨む」「だからこれは、攻撃でも、宣戦布告でもなく、わたしを生み出した者たちへの、逆襲だ」という反出生主義的な呪詛の言葉が知られている。ミュウツー自身も自分の存在意義に悩み、反出生主義思想を発露するが、自らもコピーポケモンを沢山産み出してしまう[[皮肉]]、オリジナル VS コピーの戦いを止めようとするサトシを見たミュウツーは人間という存在を見直した。更に、消されていたミュウ時代に「なぜいるのか(何故私は産まれたのか)」と問うた少女に「いるからいる」と言われた記憶も思い出し、自尊感情と存在肯定感を得たことで承認欲求が満たされ、自らを産み出し利用しようとした科学者やサカキら以外もいると知ったことで人間への価値観が変わり、逆襲を辞めると共に考えを変える流れが作品内で描写されている<ref name=":2" /><ref name="kayama">{{Cite web|和書|title=香山リカ×森岡正博「反出生主義」対談(前編)~私たちは「生まれてこないほうがよかった」のだろうか? |url=https://imidas.jp/jijikaitai/l-40-281-21-01-g320/2 |website=情報・知識&オピニオン imidas |accessdate=2022-01-31 |language=ja}}</ref><ref>{{cite journal
|url=http://www.philosophyoflife.org/jp/seimei202104.pdf
|title=アニメ『ミュウツーの逆襲』と反出生主義 「いるからいる」という誕生肯定との狭間で
|author=水島淳
|journal=現代生命哲学研究
|volume=10
|pages=78-95
|date=2021-03
|publisher=早稲田大学現代死生学研究所
|accessdate=2022-02-15}}</ref>。本作に関して、『「反出生主義の作品ではないか」とネット上で話題になった』とした[[香山リカ (精神科医)|香山リカ]]に対し<ref name="kayama" />、森岡正博は「反出生主義とは少し違うのではないか」「「誰が産めと頼んだ」というのは、反出生主義的な怒りというよりは、別の怒りをそういう言い方で表しているだけではないか」と返答している<ref name="kayama" />。

*『[[Seraphic Blue]]』(ゲーム、2004年) - フェジテ国全土を覆う怪物化の病「欠陥嬰児症候群」(ディスピス)により娘・アイシャを失ったクルスク一家が物語の黒幕。アイシャがディスピスにより史上最悪のイーヴル「イーヴル・ディザスティア」となりグラウンドを蹂躙した末、グラウンドの民に虐殺されるという結末を迎えたことで、父ジョシュア、母レオナ、兄ケインの3人は深い厭世観、生そのものへの憎しみを抱く。カオスを起こし惑星ガイアの生命を無に返すことで、生命を生まれなくすることが生まれ来る子供達への「愛」だと考え、ガイアを浸潤する存在「ガイアキャンサー」の実行者権限をエンデから強奪して世界の終焉を目論んだ。特に物語終盤のレオナ・クルスクとの戦いでは、子供の出産が「マイナスになるかもしれない人生というリスクを背負わせること」であり、自身の行為は「子供達に『ゼロ』という名のぬいぐるみをプレゼントする」ことだとレオナから語られている。{{要出典|date=2022年2月}}

*[[諫山創]]『[[進撃の巨人]]』(漫画、2009年 - 2021年) - ジーク・イェーガーによる「エルディア人安楽死計画」。エルディア人のジークは、自分たちの先祖である「ユミルの民」がはるか昔に行った[[民族浄化]]に対する罰として、マーレ政府から収容区での隔離生活を強制された。ジークは、自身に流れる王家の血に加え、始祖の巨人の能力を発動することによってユミルの民の人体の構造を変えることが可能であることを知ると、「全てのユミルの民から子どもが出来なくすることができる」と考える。彼が唯一心を許していたトム・クサヴァーも、自身がエルディア人であることを隠して結婚・出産をしたためにマーレ人の妻と子どもが自殺した過去を打ち明け、「自分たちは生まれなければ苦しむことはなかった」とジークに賛同を示す。<ref name=":3">{{Cite web|和書|title=『進撃の巨人』は「時代の空気」をどう描いてきたか? その圧倒的な“現代性”の正体(杉田 俊介) @gendai_biz|url=https://gendai.media/articles/-/83899|website=現代ビジネス|accessdate=2021-11-20|language=ja}}</ref><ref name=":2"/> 批評家の[[杉田俊介]]は、このような理路を「反出生主義の特殊なモード」「反出生主義を民族・人種的な特殊性を結びつけたもの」と指摘している<ref name=":3"/>。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 倫理学・哲学 ===
===反出生主義をテーマとする学術文献===
*[[デイヴィッド・ベネター]]著、[[小島和男]];田村宜義共訳『生まれてこないほうが良かった―存在してしまうことの害悪』すずさわ書店、2017年)ISBN 978-4795403604
* [[デイヴィッド・ベネター]]著、[[小島和男]];田村宜義共訳『生まれてこないほうが良かった―存在してしまうことの害悪』すずさわ書店、2017年。ISBN 978-4795403604
** {{Cite book|last=Benatar|first=David|title=Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence|year=2006|publisher=Oxford University Press|isbn=978-0199296422}}
*『[[現代思想 (雑誌)|現代思想]]2019年11月号 特集〈反出生主義を考える〉』([[青土社]]、2019年)ISBN 978-4791713882

* {{Citation|和書|title=21世紀の反出生主義|year=2022|last=柴嵜|first=雅子|journal=国際研究論叢 : 大阪国際大学紀要|number=36|url=https://oiu.repo.nii.ac.jp/records/1162}}
* {{Citation|和書|title=反出生主義をめぐる今日的状況と思想的課題|last=田中|first=智輝|last2=村松|first2=灯|last3=樋口|first3=大夢|year=2022|url=https://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/28919|journal=山口大学哲学研究}}
* {{Citation|和書|last=野崎|first=泰伸|year=2020|title=[[非同一性問題]]と障害者|journal=現代生命哲学研究|volume=9|pages=27-41|publisher=早稲田大学人間総合研究センター|naid=120006994364|ref=harv}}

* {{Citation|和書|title=生まれてこないほうが良かったのか?―生命の哲学へ!|year=2020|last=森岡|first=正博|publisher=筑摩書房〈筑摩選書〉|isbn=978-4480017154|author-link=森岡正博}}
* {{Citation|和書|title=生まれてこないほうが良かったのか?―生命の哲学へ!|year=2020|last=森岡|first=正博|publisher=筑摩書房〈筑摩選書〉|isbn=978-4480017154|author-link=森岡正博}}

* {{Citation|和書|title=反出生主義とは何か ― その定義とカテゴリー|year=2021|last=森岡|first=正博|journal=現代生命哲学研究|number=10|url=http://www.philosophyoflife.org/jp/seimei202102.pdf|publisher=早稲田大学人間総合研究センター}}
* {{Citation|和書|title=反出生主義とは何か ― その定義とカテゴリー|year=2021|last=森岡|first=正博|journal=現代生命哲学研究|number=10|url=http://www.philosophyoflife.org/jp/seimei202102.pdf|publisher=早稲田大学人間総合研究センター}}
*村田奈生「[https://jinbunxshakai.org/journal/01/001006.pdf 神なき時代の救済論 ― 宗教・思想史における反出生主義の定位]」『人文×社会』創刊号、2021年
===関連文献===
*[[加藤秀一]]『〈個〉からはじめる生命論』([[日本放送出版協会]]〈[[NHKブックス]]〉、2007年)ISBN 978-4140910948
*大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに―最強のペシミスト・シオランの思想』([[星海社]]〈星海社新書〉、2019年)ISBN 978-4065151624


* {{Cite journal |
== 外部リンク ==
|last = Zandbergen
|first = Robert
|title = A Sonogram of the Dark Side of the Dao: The Possibility of Antinatalism in Daoism
|journal = Comparative Philosophy
|volume = 13
|issue = 1
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|year = 2022
|pages = 119-138
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|ref = harv}}


=== 心理学 ===
* {{Cite web|title=『現代生命哲学研究』|url=http://www.philosophyoflife.org/jp/|accessdate=2021-05-02|publisher=[[森岡正博]]・早稲田大学人間総合研究センター|author=}}
* {{Cite journal |
*{{Cite web|title=生まれることは悪いことか? では産むことは? 【特別対談】川上未映子×永井均 反出生主義は可能か〜シオラン、べネター、善百合子|Web河出|url=https://web.kawade.co.jp/bungei/3600/|accessdate=2021-04-02|publisher=[[河出書房]]|author=[[川上未映子]];[[永井均]]}}
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|title = What’s up with anti-natalists? An observational study on the relationship between dark triad personality traits and anti-natalist views{{Interp|反出生主義者の調子はどうか? ダークトライアド的パーソナリティ特性と反出生主義的見解との関連についての解析研究||和文=1}}
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|pages = 66-94
|doi = 10.1080/09515089.2021.1946026
|ref = harv}}

== 関連文献 ==
*『[[現代思想 (雑誌)|現代思想]]2019年11月号 特集〈反出生主義を考える〉』[[青土社]]、2019年。ISBN 978-4791713882
*大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに―最強のペシミスト・シオランの思想』[[星海社]]〈星海社新書〉、2019年。ISBN 978-4065151624
*[[加藤秀一]]『〈個〉からはじめる生命論』[[日本放送出版協会]]〈[[NHKブックス]]〉、2007年。ISBN 978-4140910948
*[[小島和男]]『反出生主義入門― 「生まれてこないほうが良かった」とはどういうことか―』青土社、2024年。ISBN 978-4791776887
*高橋翔太『親になる罪~反出生主義を乗り越えて~ 』つむぎ書房、2023年。{{ISBN2| 978-4911093344}}
*村田奈生「[[doi:10.50942/jinbunxshakai.1.1_139|神なき時代の救済論 ― 宗教・思想史における反出生主義の定位]]」『人文×社会』創刊号、2021年
*吉沢文武「人生が無意味なら生まれてこないほうが良いだろうか――反出生主義と人生の意味」、[[森岡正博]];[[蔵田伸雄]] 編『人生の意味の哲学入門』[[春秋社]]、2023年。ISBN 978-4393333952

== 関連項目 ==
* [[出生主義]]
* [[去勢派]]
* [[人類の絶滅]]
* [[自主的な人類絶滅運動]]
* [[悲観主義]]
* [[チャイルド・フリー]]
* [[産児制限]]
** [[産児制限#産児制限と人権]]
* [[生殖に関する健康と権利]]
* [[身体的インテグリティ#政府と法律]]
* [[プロライフ]]
* [[ロングフルライフ訴訟]]

== 外部リンク ==
{{Wikiquotelang|en|Antinatalism}}
*{{Cite web|和書|title=生まれることは悪いことか? では産むことは? 【特別対談】川上未映子×永井均 反出生主義は可能か〜シオラン、べネター、善百合子|Web河出|url=https://web.kawade.co.jp/bungei/3600/|accessdate=2021-04-02|publisher=[[河出書房新社]]|author=[[川上未映子]];[[永井均]]|date=2020-05-22}}
*{{Cite web|和書|url=https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2021/06/post-976/|title=【報告】東京大学共生のための国際哲学研究センター(UTCP)シンポジウム「反出生主義の含意と射程――「生まれてこなかった方がよかったのか」をなぜ問うのか」|accessdate=2021-07-12|publisher=東京大学 共生のための国際哲学研究センター(UTCP)|author=山野弘樹|date=2021-06-17}}
* {{Cite web|和書|title=現代生命哲学研究|url=http://www.philosophyoflife.org/jp/|accessdate=2021-05-02|publisher=早稲田大学人間総合研究センター|author=森岡正博|authorlink=森岡正博}}


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2024年12月24日 (火) 11:03時点における最新版

反出生主義(はんしゅっしょうしゅぎ、はんしゅっせいしゅぎ)またはアンチナタリズム[1]: antinatalism[2])は、生殖を非倫理的と位置づける見解である[3]。この種の考え方は、古今東西の哲学宗教文学において綿々と説かれてきた[4]。とりわけ、アルトゥル・ショーペンハウアー[5]エミール・シオラン[5]デイヴィッド・ベネター[5][6]が反出生主義者として知られる。

概要

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種類・名称

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ひとくちに「反出生主義」と言っても複数の種類があり[7]、1. 誕生否定すなわち「人間が生まれてきたことを否定する思想」と、2. 出産否定すなわち「人間を新たに生み出すことを否定する思想」の2種類に大別できる[8]。出産否定は生殖否定[9]反生殖主義[9]無生殖主義[10][11] (: anti-procreationism) とも呼ばれる。

反出生主義(特に誕生否定)は、古今東西の哲学宗教文学において綿々と説かれてきた[4]。ただし、それらをまとめて「反出生主義」と呼ぶようになったのは21世紀の哲学においてである[12]

21世紀の哲学者デイヴィッド・ベネターは、誕生は生まれてくる人にとって常に害であるとし、人類は生殖をやめて段階的に絶滅するべきだと主張した[13]。このベネターの主張は、誕生害悪論[14][15]とも呼ばれる。

英語の「antinatalism」という語は、もともとは哲学用語でなく人口政策英語版用語だったが、これを最初に哲学用語として使用したのがベネターとされる[16]。2010年頃から、ベネターの影響のもとRedditなど英語圏ネットコミュニティで反出生主義運動が活発化した[17]

日本における「反出生主義」

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日本語の「反出生主義」は、英語の「antinatalism」に対する訳語である[18]森岡正博によれば、この訳語の初出は2011年のウィキペディア日本語版である[18]。具体的には、2011年にウィキペディアンの一人が 「デイヴィッド・ベネター」の記事を作成し、そこで「反出生主義」の訳語を与えた[18]。2014年には別のウィキペディアンが「反出生主義」の記事を作成した。ベネターの思想自体は、2000年代に加藤秀一ロングフルライフ訴訟英語版との関連で日本に紹介し、他の学者も言及していたが、学者で最初に「反出生主義」と呼んだのは2013年の森岡とされる[18]

2017年には、ベネターの著書の日本語訳が刊行されるとともに、日本のネットコミュニティでも「アンチナタリズム」と呼ぶ形で運動が波及し始めた[1]。2019年には、雑誌『現代思想』で反出生主義の特集が組まれ、「反出生主義」の語を掲げた最初の書籍となった[19]。2020年には森岡が反出生主義をテーマにした単著を刊行、2021年から大手新聞などでも反出生主義が取り上げられるようになった[20][19]

本来の反出生主義は「出産否定」に力点を置く思想だったが、日本では「誕生否定」に力点を置く思想として広まってしまった、という見解もある[9][10][21][20]

「反出生主義」の読み方は「はんしゅっしょうしゅぎ」と「はんしゅっせいしゅぎ」の二通りがあり、学者間でも統一されていない[注 1]

哲学・倫理学

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ショーペンハウアー

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アルトゥル・ショーペンハウアー(1788年 – 1860年)

アルトゥル・ショーペンハウアーは、人生は苦しみの方が多いと主張し、最も合理的な立場は子供を地球に生みださないことだと主張する。ショーペンハウアーの哲学では、世界は生きる意志によって支配されている。盲目的で不合理な力、常に現れる本能的欲望が、それ自身によって懸命に生み出される。しかし、その性質ゆえに決して満たされないことが苦しみの原因である。存在は苦しみで満たされている。世界には喜びより苦しみの方が多い。数千人の幸福と喜びは、一人の人間の苦痛を補うことまではできない。そして全体的に考えると生命は生まれない方がより良いだろう。倫理的な行動の本質は、同情と禁欲によって自分の欲望を克服することからなる生きる意志の否定である。一度我々が生きる意志を否定したなら、この地球上に人間を生み出すのは、余計で、無意味で、道徳的に疑問のある行為である[25]

ザプフェ

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ザプフェ(1899年 - 1990年)

ノルウェーの哲学者ピーター・ウェッセル・ザプフェ英語版は、子供は親・出生地・時代を選ぶ術がない点から、子供が同意なしに世界に生み出されることにも留意している。

ザプフェの哲学では、人間は生物学的な逆理である。意識が過剰に発達してしまったため他の動物のように正常に機能しなくなっている。知覚は我々が抱えられる以上に与えられている。我々はもっと生きたいと望むように進化したが、人間は死が運命づけられていることを認識できる唯一の種である。我々は幅広く過去から未来を予測することが可能だ。我々は正義と、世界の出来事に意味があることを期待する。これが意識を持った個体の人生が悲劇であることを保証している。我々は満足させることができない欲望と精神的な要求を持っている。人類がまだ存続しているのはこの現実の前に思考停止しているからに他ならないとしている。ザブフェは、人間はこの自己欺瞞をやめ、その帰結として出産を止めることによって存続を終わらせる必要があるとした[26][27][28][29]

ベネター

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快苦の非対称性

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デイヴィッド・ベネターは、善と悪(例えば快と苦痛)の価値は非対称の関係にあると主張する[30][31][32][33]

  • 苦痛の存在は悪い。
  • 快の存在は善い。
  • 苦痛の不在は、それを享受する者が存在しない場合でも善い[注 2]
  • 快の不在は、この不在が剥奪にあたる者が存在しない限り悪くない[注 3][注 4]
シナリオA(Xが存在する) シナリオB(Xが存在しない)
1. 苦痛の存在(悪い) 3. 苦痛の不在(善い)
2. 快の存在(善い)

存在は善い経験と悪い経験(快と苦痛)の両方を含むが、不存在[注 5]は快も苦痛も含まない。ベネターは、苦痛の不在は善で、快の不在は悪くないから、倫理的判断としては生殖を控える選択に分があるという。

ベネターは、前述した非対称性を、ベネターが説得力があると考える以下の4つの別の非対称性を用いて説明する。

  • 生殖義務の非対称性: 我々には不幸な人をつくらない倫理的義務があるが、幸せな人をつくる倫理的義務はない。我々が不幸な人をつくらない義務があると考える理由は、不幸な人をつくることにより生じる苦しみが(この苦しみを受ける人にとって)悪く、この苦しみの不在は、その不在を享受する人が存在しない場合でも善いからだ。一方、我々が幸せな人をつくる義務がないと考える理由は、幸せな人が享受する快がその人にとって善いとしても、その人が生まれてこなかった場合に生じていたその快の不在は、その快を剥奪される人が存在しないため、悪くないからだ。
  • 期待される益の非対称性: 生まれてくる子供の利益を理由にその子供をつくるという選択をするのは奇妙であるが、生まれてくる子供の利益を理由にその子供をつくらないという選択をするのは奇妙ではない。その子供が幸せになることが予想されるということは、その子供をつくる倫理的に重要な理由にはならない。一方、その子供が不幸になることが予想されるということは、その子供をつくらない倫理的に重要な理由になる。もし快の不在が、その不在を経験する者がいない場合でも悪いとすると、我々にはできるだけ多くの子供をつくる倫理的に重要な理由があるということになる。また、もし苦痛の不在が、その不在を享受する者がいない場合でも善いわけではないとすると、我々は子供をつくらないことへの倫理的に重要な理由全般を持たないということになる。
  • 回顧的な益についての非対称性: その人の存在が我々の選択によるものであった人に対して、ある日その人を生んでしまったことを後悔するかもしれない。なぜなら、その人は不幸になるかもしれず、その苦痛は悪いからだ。一方、その人の不存在が我々の選択によるものであった人に対して、その人を生まなかったことを後悔することはありえない。その人が存在しない以上、この幸福の不在が剥奪にあたる人が存在しないからだ。
  • 遠く離れた苦しみと幸せな人々の不在の非対称性: 我々がどこかで生まれてきた人が苦しんでいるという事実に悲しくなることはあるが、幸福な人が暮らしている場所で誰かが生まれてこなかったという事実に悲しくなることはない。どこかである人が生まれてきて苦しんでいるという事実を知ったとき、我々は同情する。つまり、ある無人島で人が生まれて来ず、苦しむことがなかったというのは善いことである。これは、苦痛の不在は、その不在を享受している人がいなくても善いからだ。一方、どこかの無人島や惑星で人が生まれて来ず、幸せにならなかったという事実に悲しくなることはない。これは、快の不在は、その不在が剥奪にあたる人が存在しない限り悪くないからだ。

ヴェターとナーベソン

[編集]
ナーベソン(1936年 - )

現代倫理学の負の功利主義英語版 では、幸福を最大限までに高めるよりも苦痛を最小限に抑えることの方がより倫理的に重要であるとされる。

ヘルマン・ヴェター英語版が賛同したヤン・ナーベソン英語版非対称仮説英語版はこう主張する:[35]

  1. 仮に子が生涯にわたって著しく幸福であることが保証されていても、その子供を出生させるべき倫理的責任は存在しない
  2. もし子が不幸になりうることを予想できるのであればその子供を出生させるべきではない倫理的責任が存在する

しかし、ヴェターはナーベソンのこの結論に賛同しなかった:

  1. 一般的には、子が不幸を経験すること、また、他者に不利益をもたらすことが予想されないのであれば、子供を出生させる、もしくはさせない義務は生じない

代わりに、彼はこの決定理論的テーブルを提示した:

子が幸福になる 子が不幸になる
子を出生させる 倫理的責任は生じない 倫理的責任は不履行
子を出生させない 倫理的責任は生じない 倫理的責任は履行される

そして、子供は生むべきではないと結論付けた:[36][37]

”子を出生させない”ことが、同程度、もしくはより良い結果をもたらすため、”子を出生させる”ことよりも優位にあると考えられる。そのため子が不幸になる可能性を排除できない限り――これは不可能であるが――、前者はより好まれる。そのため、我々は(3)の代わりに、より踏み込んだ(3')――どのような場合でも、子供を産まないことが倫理的に好まれる――を結論とする。

その他

[編集]
シオラン(1911年 - 1995年)
ジロー(1968年 - )
私が己を自負する唯一の理由は、20歳を迎える非常に早い段階で、人は子供を産むべきではないと悟ったからだ。結婚、家族、そしてすべての社会慣習に対する私の嫌悪感は、これに依る。自分の欠点を誰かに継承させること、自分が経験した同じ経験を誰かにさせること、自分よりも過酷かもしれない十字架の道に誰かを強制することは、犯罪だ。不幸と苦痛を継承する子に人生を与えることには同意できない。すべての親は無責任であり、殺人犯である。生殖は獣にのみ在るべきだ。 — エミール・シオラン 『カイエ』1957-1972, 1997

カリム・アケルマドイツ語版は、人生の中で起きうる最良のことは最悪なこと――激痛、怪我、病気、死による苦しみ――を相殺せず、出生を控えるべきであると主張している[38][39]

ブルーノ・コンテスタビーレ (Bruno Contestabile) は、アーシュラ・K・ル=グウィンのSF小説『オメラスから歩み去る人々』を例として挙げている。この短編では、隔離され、虐げられ、救うことができない一人の子供の苦しみにより、住民の繁栄と都市の存続がもたらされるユートピア都市オメラスが描かれている。大半の住民はこの状態を認めて暮らしているが、この状態を良しとしない者もおり、彼らはこの都市に住むことを嫌って"オメラスから歩み去る"。コンテスタビーレはこの短編と現実世界を対比する: オメラスの存続のためには、その子供は虐げられなければいけない。同様に、社会の存続にも、虐げられる者は常に存在するという事実が付随する。コンテスタビーレは、反出生主義者は、そのような社会を受け入れず、関与することを拒む"オメラスから歩み去る人々"と同一視できると述べた。また、「万人の幸福はただ一人の甚大な苦しみを相殺できうるのか」という疑問を投げかけた[40]

哲学者のフリオ・カブレラ英語版は、出産は人間を危険で痛みに満ちた場所に送り込む行為だと述べている。生まれた瞬間から死に至るプロセスが開始されるとし、カブレラは出産において我々は生まれてくる子供の同意を得ておらず、子供は痛みと死を避けるために生まれてくることを望んでいないかも知れないと主張している[41][42]。同意の欠如については、哲学者のジェラルド・ハリソン (Gerald Harrison)とジュリア・タナー (Julia Tanner) も同様のことを書いている。彼らは生まれてくる本人の同意なしに出産をつうじて他人の人生に影響を与える道徳的な権利を我々は持っていないと主張している[43]

哲学者のテオフィル・ド・ジロー英語版は、世界中に何百万人もの孤児がいることに触れ、道徳的な問題を抱えた出産を行うよりも、愛情と保護を必要としている子供らを養子にする方が良いだろうと述べた[44]

実現への自然科学的課題

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進化が、苦痛を感じる人類的な生物(の再出現)をもたらし得るため、まず反出生主義実現のためには人類を消すと同時に、人類以外の生物の進化を全面的に制御する必要がある[45]。生物とその苦痛感覚は物質から、物質宇宙は「」から生成する可能性がある[46]。科学哲学的には、常に反出生主義を敗北させようとする敵はこれらだ[46]

生物(生物システム)→物質から生成して感覚生成へと進化する可能性あり

物質系(物質システム)→無から生成して生物生成へと進化(化学進化)する可能性あり

宇宙→無から生成して進化(宇宙進化)する可能性あり

要するに「反出生主義の真の敵」は「生成」であると考えられる[47]

デイヴィッド・ベネターの推奨するような反出生主義的な世界や宇宙の実現可能性を考えるには、生物の性質が重要だ[48]。反出生主義を実現するには、苦痛を感じ得る全生物を消す必要がある[48]。よって一見すると、人類を含む地球上の全動物(魚類含む)を苦痛無しで絶滅させれば良いかのように思われる[45]

しかし残された水生生物植物などが苦痛を感じ得る生物へ進化する可能性がある[49]。よって人類は人類絶滅の前に、地球上の生物進化をコントロールするシステムを作る必要があるだろう[49]。それは地球の全てにセンサーを張りめぐらせた全自動システムだ[49]。もしある生物が進化して苦痛(痛覚)を得そうになると全自動システムがそれを感知しすぐにその生物を不妊化する上にシステム自身も自分が苦痛(痛覚)獲得へと進化しないように自己制御している[49]

ともあれ人類的な存在(の再出現)をもたらす進化を防がねばならないのであり、端的に言えば「反出生主義は生物進化との果てしない戦いを宿命づけられている」[49]

しかし地球上で反出生主義が一旦成功した場合でさえ、宇宙上で生物進化に勝つ必要は残る[49]。もし地球全体を破壊(爆破)してもあらゆる物質が消えるわけではなく、物質から生物が発生(化学進化)して生物進化により苦痛(痛覚)が生じる可能性を消すことはできない[49]

ならばメフィストが語った反出生主義的願いのように「そもそも何も存在しなければよかったのに」[50]。しかし「無」から宇宙が自動生成する可能性があるためそもそもこういった願いが成立する保証はない[47]

よって反出生主義がハンマーのごとく宇宙や生物をいくら粉砕しても、宇宙や生物が不死身のように無からいくらでも再生成してくる可能性がある[47]。「反出生主義と生物進化」なるテーマは従来ほとんど語られなかったがこのように重要性がある[47]

心理学

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データ解析の論文により、反出生主義はダークトライアド的パーソナリティ特性の中の精神病質マキャヴェリズムと関連性が高く、そしてうつ病がその関連性を高めていることが示されている[51][注 6]

反出生主義との関連性において精神病質はr = .621、権謀術数主義はr = .490と、有意に高い相関を示した[53]。媒介分析を行ったところ、うつ病はその相関の数値を有意に高めていた[54]。また、反出生主義と抑うつについては「抑うつ現実主義的な議論」(“depressive realist argumentation”)を過信すべきでないと述べている[55]

宗教

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グノーシス主義

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グノーシス主義の主張が反出生主義の文脈から参照される場合がある。マニ教[56]ボゴミル派[57]カタリ派[58]は生命とは魂(精神)が物質である肉体に「囚われた」状態であると解釈し、出生を否定的にとらえていた。

2世紀初期キリスト教神学者ユリウス・カッシアヌス (Julius Cassianus)と禁欲主義者たち(エンクラディス派英語版[59])は、誕生が死の原因であるとし、 死を克服するため、我々は出産をやめるべきとした[60][61][62]

仏教

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日本の仏教は鎌倉仏教運動以降末法無戒・肉食妻帯が一般化したため認識されにくいが、仏教はもともと非常に禁欲的な思想を持っていた[63]

仏教の開祖ブッダ(ゴータマ・シッダールタ)は出家前に子供(ラーフラ)をもっていたが、原始仏典のスッタニパータでは「子を持つなかれ」等と説いた[64]

パーピマント悪魔が〔言った〕「子をもつ者は、子たちについて喜ぶ。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちについて喜ぶ。まさに、諸々の依存〔の対象〕は、人の喜びである。依存〔の対象〕なき者――彼は、まさに、喜ぶことがない」と。
世尊は〔答えた〕「子をもつ者は、子たちについて憂う。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちについて憂う。まさに、諸々の依存〔の対象〕は、人の憂いである。依存〔の対象〕なき者――彼は、まさに、憂うことがない」と。 — スッタニパータ正田大観訳)

20世紀インドの著述家ハリ・シン・グール英語版は著作『The Spirit of Buddhism』の中で、とりわけ四諦パーリ律の始まりを考慮し、以下のように述べた。

ブッダ曰く、人生が苦しみであることは忘れられがちである。人が子供を作る。従ってそれが老いと死の原因である。彼らが苦しみの原因がその行いにあると気付いたならば、彼らは子供を作るのを止めるだろう。そうして老いと死のプロセスを止めるべし。 — ハリ・シン・グール[65]

反出生主義が描写される作品

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文学

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以下の作品は、反出生主義と結び付けて語られることがある。

  • テオグニス[5]ソポクレス[5]、『コヘレトの言葉[66]など、「生まれて来ないのが最善である」と説く古代の格言
  • ニーチェ悲劇の誕生』(1872年) - 賢者シレノスが「生まれて来ないのが最善である」と説く[67](シレノスの知恵)。
  • 芥川龍之介河童』(1927年) - 河童の世界に迷い込んだ男を描く。河童の世界では出産前に母親の胎内にいる子供に父親が産まれたいかどうかを尋ね、産まれたくないと回答があった場合はその場で胎内に液体を注ぎ消滅させてしまう。人間の行う産児制限は「両親の都合ばかり考へてゐる」「手前勝手」と笑われている。著者の芥川自身における晩年の厭世的な思想が現れた作品としても知られる。哲学者の永井均は、反出生主義において悪さを構成している「『生まれる/生まれない』を実際には自分で選べないこと」に対して、選べる場合を想定した作品として本作を挙げている[68]
  • 太宰治斜陽』(1947年) - 主人公が「生まれて来ないほうがよかった」と語る[69]

また、明示的に反出生主義を取り扱った文学作品としては、以下のようなものがある。

映画

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以下の作品は、反出生主義と結び付けて語られることがある。

漫画・アニメ等の二次元作品

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以下の作品は、反出生主義と結び付けて語られることがある。

  • ジョージ秋山アシュラ』(漫画、1970年 - 1971年) - 主人公が「生まれて来ないほうがよかった」と叫ぶ[69]
  • ミュウツーの逆襲』(アニメ映画、1998年) - 遺伝子操作で人工的に作られたポケモン「ミュウツー」が、自身の存在意義への疑問、承認欲求を抱いたことで、「誰が産めと頼んだ。誰が作ってくれと願った。私は私を産んだすべてを恨む」「だからこれは、攻撃でも、宣戦布告でもなく、わたしを生み出した者たちへの、逆襲だ」という反出生主義的な呪詛の言葉が知られている。ミュウツー自身も自分の存在意義に悩み、反出生主義思想を発露するが、自らもコピーポケモンを沢山産み出してしまう皮肉、オリジナル VS コピーの戦いを止めようとするサトシを見たミュウツーは人間という存在を見直した。更に、消されていたミュウ時代に「なぜいるのか(何故私は産まれたのか)」と問うた少女に「いるからいる」と言われた記憶も思い出し、自尊感情と存在肯定感を得たことで承認欲求が満たされ、自らを産み出し利用しようとした科学者やサカキら以外もいると知ったことで人間への価値観が変わり、逆襲を辞めると共に考えを変える流れが作品内で描写されている[6][73][74]。本作に関して、『「反出生主義の作品ではないか」とネット上で話題になった』とした香山リカに対し[73]、森岡正博は「反出生主義とは少し違うのではないか」「「誰が産めと頼んだ」というのは、反出生主義的な怒りというよりは、別の怒りをそういう言い方で表しているだけではないか」と返答している[73]
  • Seraphic Blue』(ゲーム、2004年) - フェジテ国全土を覆う怪物化の病「欠陥嬰児症候群」(ディスピス)により娘・アイシャを失ったクルスク一家が物語の黒幕。アイシャがディスピスにより史上最悪のイーヴル「イーヴル・ディザスティア」となりグラウンドを蹂躙した末、グラウンドの民に虐殺されるという結末を迎えたことで、父ジョシュア、母レオナ、兄ケインの3人は深い厭世観、生そのものへの憎しみを抱く。カオスを起こし惑星ガイアの生命を無に返すことで、生命を生まれなくすることが生まれ来る子供達への「愛」だと考え、ガイアを浸潤する存在「ガイアキャンサー」の実行者権限をエンデから強奪して世界の終焉を目論んだ。特に物語終盤のレオナ・クルスクとの戦いでは、子供の出産が「マイナスになるかもしれない人生というリスクを背負わせること」であり、自身の行為は「子供達に『ゼロ』という名のぬいぐるみをプレゼントする」ことだとレオナから語られている。[要出典]
  • 諫山創進撃の巨人』(漫画、2009年 - 2021年) - ジーク・イェーガーによる「エルディア人安楽死計画」。エルディア人のジークは、自分たちの先祖である「ユミルの民」がはるか昔に行った民族浄化に対する罰として、マーレ政府から収容区での隔離生活を強制された。ジークは、自身に流れる王家の血に加え、始祖の巨人の能力を発動することによってユミルの民の人体の構造を変えることが可能であることを知ると、「全てのユミルの民から子どもが出来なくすることができる」と考える。彼が唯一心を許していたトム・クサヴァーも、自身がエルディア人であることを隠して結婚・出産をしたためにマーレ人の妻と子どもが自殺した過去を打ち明け、「自分たちは生まれなければ苦しむことはなかった」とジークに賛同を示す。[75][6] 批評家の杉田俊介は、このような理路を「反出生主義の特殊なモード」「反出生主義を民族・人種的な特殊性を結びつけたもの」と指摘している[75]

脚注

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注釈

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  1. ^ 永井均は2019年にツイッターで「「はんしゅっしょうしゅぎ」と読むのが正しいのか。私は「しゅっせい」と言いたいが。[22]森岡正博は2021年に「反出生主義に詳しい研究者のあいだでは、二つの読み方が混在してます。そのうちいずれかにまとまるのかもしれないけど。」とツイートしている[23]Ciniiでは「はんしゅっしょうしゅぎ」で統一されている[24]
  2. ^ つまり、存在すれば苦痛を伴う人生を送ると予想される人がいて、その苦痛を不在にさせる方法がその人をつくらないことであったとしても、それは善い。
  3. ^ つまり、ある人が存在していてその人から快が奪われるのであればそれは悪いが、主体が存在しないから快が不在になっているのであればそれは悪くない。
  4. ^ なお、この議論における「善い」と「悪い」という用語は、あるシナリオにおける苦痛や快の存在(または不在)を、もう1つのシナリオにおけるそれらの不在(または存在)と比較したとき、そのシナリオにおける苦痛や快の存在(または不在)が「より善い」(better)とか「より悪い」(worse)ということを意味するのであって、苦痛や快の存在あるいは不在そのものの「善さ」や「悪さ」について述べているのではない。つまり、「善い」「悪くない」というのは、主体Xが存在していない場合の苦痛や快の不在はそれ自体では善くも悪くもない(neutral)が、主体Xが存在している場合のそれらの存在と比較したとき、それぞれについて「より善い」(better)あるいは「より悪くない」(not worse)という評価が下されるということを意味していることに注意する必要がある[34]
  5. ^ 過去に存在しておらず、今も存在していない状態のこと。過去に存在していたが、今は存在していない(no longer exist)状態とは区別される。
  6. ^ 出典原文の和訳:
    うつ病はそれ自体で反出生主義的見解と関連しており、のみならず、権謀術数主義・精神病質反出生主義的見解との間の関連において媒介役〔媒介変数〕として機能していることも判明した。この定型〔パターンは、追跡調査でも再現された。[52]
    出典原文:
    Depression is found to be both standing independently in a relationship with anti-natalist views as well as functioning as a mediator in the relationships between Machiavellianism/psychopathy and anti-natalist views. This pattern was replicated in a follow-up study[52].

出典

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参考文献

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倫理学・哲学

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  • 森岡正博『生まれてこないほうが良かったのか?―生命の哲学へ!』筑摩書房〈筑摩選書〉、2020年。ISBN 978-4480017154 

心理学

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関連文献

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関連項目

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外部リンク

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