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デトフォード毒殺事件(デプトフォードどくさつじけん、Deptford Poisoning Cases)は、1889年イギリスロンドンのデトフォード(Deptford)で発生した一連の悪名高い謀殺事件である。

捜査員らは、アメリア・ウィンターズによって、ことによると娘エリザベス・フロストの助けを借りてかもしれない、少なくとも3人が毒殺された、と判断した。彼女ら2人は20人超に保険をかけたし、うち5人が怪しげな状況で死亡した。犠牲者らには、ウィンターズおよびフロストの親戚である幼い子供2人が含まれていた。

ウインターズは公判に付される前に死亡した。フロストは保険文書の改ざんで文書偽造罪で有罪判決を受け、7年間刑務所に送られた[1][2]

諸事件

これら謀殺事件の犠牲者らは、ウィンターズと暮らす姪の息子シドニー・ボルトン(Sidney Bolton)11歳、別の親戚の年配の父親ウィリアム・サットン(William Sutton)、娘エリザベス・フロスト(Elizabeth Frost)の義母エリザベス・フロスト(Elizabeth Frost)であった。医師の証明書は、死因が「胃痛、下痢およびけいれん」('gastrodynia, diarrhoea and convulsions')としていた。

アメリアの夫ジョセフ・ウィンターズは保険証券を発見したとき、警察に行った。捜査員らは、ウィンターズがリバプール・ビクトリア・フレンドリー・ソサイアティー(Liverpool Victoria Friendly Society) で22人に、合わせて240ポンドの生命保険をかけていた、と判断した。これら個人のうち5人が1886年までに死亡していたし、ソサイアティーは彼らに対して支払っていた。ウィンターズにはプルーデンシャルとの14の保険証書もあった。プルーデンシャルはその5人の死亡に対しても支払っていた。

被保険人らとの彼女の関係についての確認はなかった。シドニー・ボルトンのためのリバプール・ビクトリアの保険書式に、彼女は母親の名前に対して「X」と書いただけであった[3]

死因審問

デトフォードの女毒殺犯ら。5人毒殺。公判に付される母娘。

1889年7月にロンドン、ブロックリー(Brockley)のブレークスピア・ホテル(Breakspear Hotel)で行われた死因審問において、ミセス・アメリア・ウィンターズと娘エリザベス・フロスト(旧姓ウィンターズ)は故意の殺人で有罪とされ、検死官は彼女らを中央刑事裁判所で公判に付した。

死因審問につながった死者たちは、シドニー・ボルトン11歳とウィリアム・サットン74歳であった。彼らの遺体は発掘され、3人目、被告人エリザベス・フロストの義理の母親エリザベス・フロスト47歳の遺体とともに調べられた。内務省の分析官ドクタ・スティーブンソンは、検視を実施した。ミスタ・トマス・ボンドFRCS(Fellowship of the Royal Colleges of Surgeons)は死因審問に証拠を提出し、サットンはヒ素によって毒殺された可能性が十分ある、フロストの身体はヒ素の存在によって引き起こされた可能性のある異常な保存を示している、と証言した。

動機の証拠が提示された。1886年7月と1889年2月の間に、ミセス・ウィンターズによって保険をかけられた5人が死亡していたし、彼女は、サットンとボルトンのために保持した保険証書に対して請求し、支払いを受け取っていたことが示された。

死因審問の新聞報道は、ミスタ・フロストの、妻が母親の謀殺で公判に付されるために法廷から刑務所に連れて行かれたときの反応を記述している。彼は完全に悲しみに打ちひしがれ、子供のようにすすり泣いていたと言われた[4]

ミセス・ウィンターズの死亡

ウィンターズは公判前に死亡した。しかしながら、彼女は夫と娘に、罪を犯した臨終の告白をした[5]。彼女の死亡のために死因審問は開かれなかったし、審問医師はそれが「衰弱――全身のやせやつれ」('marasmus — a general wasting away.')の結果であると言った[6][7]

1889年7月22日にウィンターズはロンドン、ルイシャム(Lewisham)の、聖別されていない地のブロックリー共同墓地(Brockley cemetery)に埋葬された。この埋葬は、デモンストレーションを阻止するために警察が立ち会うことによって秘密にされた[8][9]

エリザベス・フロストの公判

エリザベス・フロストは当初謀殺で訴えられたが、訴えは取り下げられた。 彼女は1889年7月にオールド・べーリー(Old Bailey)で、詐欺を目的として金銭の支払いのための文書を偽造した罪で公判に付され、有罪判決を受けた[10][11]。フロストは懲役7年の刑を宣告された[12]

生命保険

サリーの検死官アソルスタン・ブラクストン・ヒックス(Athelstan Braxton Hicks)は、1889年2月14日にタイムズに手紙を書き、児童生命保険の危険と戦うための11の提案を表にした。デトフォード中毒事件は、1875年のフレンドリー・ソサエティ法(1875 Friendly Societies Act)の強化に影響を及ぼした[13]

ほかの犠牲者ら

捜査官らは、ウィンターズの、他の毒殺の犠牲者であるかもしれない者らを特定した。これらの場合、訴えられなかった。

  • ジョセフ・ウィンターズの兄弟ベンジャミン・ウィンターズ(Benjamin Winters)。ミセス・ウィンターズは彼に18ギニーの保険をかけていた。1885年に彼はグリニッジ救貧院を立ち去り、休暇でウィンターズの家に泊まった。そこにいる間、ベンジャミンは「下痢、病気、胃の痛み、および前の症例で説明されたものと同様の症状で気分が悪くなった。ドクタ・マクノートンがその男を担当し、その男は数日後に発作を起こしてこときれた」("was taken ill with diarrhaea, sickness, pains in the stomach, and similar symptoms to those described in the previous cases. Dr McNaughten attended the man, who expired in a few days in a fit.")
  • ウィリアム・ウィンターズ(William Winters)、5歳、ウィンターズの孫息子。彼女は彼に5ポンドの保険をかけていた。1886年夏に、ウィリアムはウィンターズの家に滞在するために病院から連れてこられた。ウィリアムは数日後に死亡した。
  • アン・ボルトン(Ann Bolton)。ウィンターズが3ポンド10シリングの保険をかけた年配の女性。1886年11月に、ウィンターズが彼女の看病をしていた後、彼女はデトフォードのフレンドリー・ストリートで死亡した[14]

事件のいち目撃者ジョージ・フランシス・ディア(George Francis Dear)。彼はウィンターズとともに泊まっていて、のちにウィンターズが自分にリバプール・ソサエティの19ギニーの生命保険をかけていたことを知った後に、首つり自殺をした[15][16]

脚注

  1. ^ “The Deptford Poisoning Cases”. Times [London, England]: p. The Times Digital Archive. (1889年7月10日). http://tinyurl.galegroup.com/tinyurl/8gngL3 
  2. ^ “The Deptford Poisoning Case”. Greenwich & Deptford Observer: p. 5. (1889年6月7日) 
  3. ^ Rose, Lionel (2015). Massacre of the Innocents: Infanticide in Great Britain 1800–1939. Routledge. ISBN 9781317370635. https://books.google.com/?id=6dFzCgAAQBAJ&lpg=PA178&dq=Athelstan+Braxton+Hicks&pg=PA178#v=onepage 
  4. ^ “FEMALE POISONERS AT DEPTFORD”. The Colonist XXXII (5588): p. 4. (1889年9月2日). https://paperspast.natlib.govt.nz/newspapers/TC18890902.2.35   この記述には、アメリカ合衆国内でパブリックドメインとなっている記述を含む。
  5. ^ “Deptford Poisoning Cases: Confession of the late Mrs Winters”. Illustrated Police News: p. 2. (1889年7月27日) 
  6. ^ “The Late Mrs Winters”. St James's Gazette: p. 8. (1889年7月19日) 
  7. ^ “The Deptford Poisoning Cases”. Lloyd's Weekly Newspaper: p. 5. (1889年7月21日) 
  8. ^ “Deptford Poisoning Case: Burial of Mrs Winters”. Croydon Guardian and Surrey County Gazette: p. 7. (1889年7月27日) 
  9. ^ “Deptford Poisoning Case. Burial of Mrs Winters”. The Pontypridd Chronicle and Workman's News. (1889年7月26日). https://newspapers.library.wales/view/3810729/3810731/14/ 
  10. ^ 651. ELIZABETH JANE FROST”. Old Bailey Proceedings Online (1889年7月). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  11. ^ “The Deptford Poisoning”. London Evening News and Post: p. 4. (1889年8月2日) 
  12. ^ “SPIRIT OF THE NEWS”. Lloyd's List: p. 11. (1889年10月26日) 
  13. ^ “Child Life Insurance”. Times [London, England]: p. 10. (1890年7月19日). http://tinyurl.galegroup.com/tinyurl/8gngM1 
  14. ^ “Deptford Poisoning Cases Further Revelations”. South Wales Echo: p. 3. (1889年7月26日). hdl:10107/4411522 
  15. ^ “Yesterday's Inquests”. Reynolds's Newspaper: p. 8. (1889年7月21日) 
  16. ^ “The Deptford Poisoning Case”. South Wales Echo: p. 3. (1889年7月19日). https://newspapers.library.wales/view/4411489/4411492/35/LIVERPOOL