「アイストゥルフ」の版間の差分
m Botによる: {{Normdaten}}を追加 |
|||
34行目: | 34行目: | ||
744年に兄の[[ラトキス]]がランゴバルド王となると、アイストゥルフはフリウーリ公を譲られ、749年にラトキスが退位すると王位を継いだ。ランゴバルド王となったアイストゥルフは751年に[[東ローマ帝国]]領の[[ラヴェンナ]]を征服して[[ラヴェンナ総督府|総督府]]を滅ぼし、同じく帝国領の[[イストリア半島]]を征服した。また[[教皇]]に対しても圧迫を強め、[[人頭税]]を要求して[[ローマ]]を脅かした。 |
744年に兄の[[ラトキス]]がランゴバルド王となると、アイストゥルフはフリウーリ公を譲られ、749年にラトキスが退位すると王位を継いだ。ランゴバルド王となったアイストゥルフは751年に[[東ローマ帝国]]領の[[ラヴェンナ]]を征服して[[ラヴェンナ総督府|総督府]]を滅ぼし、同じく帝国領の[[イストリア半島]]を征服した。また[[教皇]]に対しても圧迫を強め、[[人頭税]]を要求して[[ローマ]]を脅かした。 |
||
東ローマ帝国の支援を期待できなくなったローマ教皇は、北方の[[フランク王国]]で強大な権力を持つ[[アウストラシア]][[宮宰]]の[[カロリング家]]を頼ろうとした。739年、[[グレゴリウス3世 (ローマ教皇)|グレゴリウス3世]]は[[カール・マルテル]]にイタリアへの介入を要請したが、カール・マルテルはランゴバルド王国との同盟を優先しこれを拒否した<ref>レジーヌ・ル・ジャン 『メロヴィング朝』 白水社、2009年 p. 37</ref>。753年、[[ステファヌス3世]]はカール・マルテルの息子[[ピピン3世]]の元を訪れた。ピピン3世は先立つ751年に[[ザカリアス (ローマ教皇)|ザカリアス]]の支持を受けてフランク王になっていた。その見返りとしてピピン3世はステファヌス3世の要請に応じ、[[アルプス山脈]]を越えてアイストゥルフを破った。ピピン3世は、アイストゥルフに征服されていた旧ラヴェンナ総督領([[エミリア=ロマーニャ]]や[[ペンタポリス]])や[[ローマ公国]]領を教皇に[[ピピンの寄進|寄進]]した。 |
東ローマ帝国の支援を期待できなくなったローマ教皇は、北方の[[フランク王国]]で強大な権力を持つ[[アウストラシア]][[宮宰]]の[[カロリング家]]を頼ろうとした。739年、[[グレゴリウス3世 (ローマ教皇)|グレゴリウス3世]]は[[カール・マルテル]]にイタリアへの介入を要請したが、カール・マルテルはランゴバルド王国との同盟を優先しこれを拒否した<ref>レジーヌ・ル・ジャン 『メロヴィング朝』 白水社、2009年 p. 37</ref>。753年、[[ステファヌス3世 (ローマ教皇)|ステファヌス3世]]はカール・マルテルの息子[[ピピン3世]]の元を訪れた。ピピン3世は先立つ751年に[[ザカリアス (ローマ教皇)|ザカリアス]]の支持を受けてフランク王になっていた。その見返りとしてピピン3世はステファヌス3世の要請に応じ、[[アルプス山脈]]を越えてアイストゥルフを破った。ピピン3世は、アイストゥルフに征服されていた旧ラヴェンナ総督領([[エミリア=ロマーニャ]]や[[ペンタポリス]])や[[ローマ公国]]領を教皇に[[ピピンの寄進|寄進]]した。 |
||
756年、アイストゥルフは狩猟中の落馬事故で死去した。ランゴバルド王は[[デシデリウス (ランゴバルド王)|デシデリウス]]、スポレート公は[[アルボイン (スポレート公)|アルボイン]]が継いだ。フリウーリ公はアイストゥルフが749年に王位についた時に、妻ギスアルトルダの兄弟の[[アンセルム (フリウーリ公)|アンセルム]]に譲っていた<ref>{{Cite web|url=http://www.germantribes.org/tribes/Lombards/Lombard%20Rulers/kingsline.htm|title=German Tribes org Lombard Kings|accessdate=2010-07-18|website=GermanTribes.org|work=GermanTribes.org|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100718043340/http://www.germantribes.org/tribes/Lombards/Lombard%20Rulers/kingsline.htm|archivedate=2010-07-18}}</ref>が、デシデリウスはアンセルムを追放し[[ペトルス (フリウーリ公)|ペトルス]]を公位につけた。 |
756年、アイストゥルフは狩猟中の落馬事故で死去した。ランゴバルド王は[[デシデリウス (ランゴバルド王)|デシデリウス]]、スポレート公は[[アルボイン (スポレート公)|アルボイン]]が継いだ。フリウーリ公はアイストゥルフが749年に王位についた時に、妻ギスアルトルダの兄弟の[[アンセルム (フリウーリ公)|アンセルム]]に譲っていた<ref>{{Cite web|url=http://www.germantribes.org/tribes/Lombards/Lombard%20Rulers/kingsline.htm|title=German Tribes org Lombard Kings|accessdate=2010-07-18|website=GermanTribes.org|work=GermanTribes.org|archiveurl=https://web.archive.org/web/20100718043340/http://www.germantribes.org/tribes/Lombards/Lombard%20Rulers/kingsline.htm|archivedate=2010-07-18}}</ref>が、デシデリウスはアンセルムを追放し[[ペトルス (フリウーリ公)|ペトルス]]を公位につけた。 |
2021年4月30日 (金) 21:52時点における版
アイストゥルフ | |
---|---|
ランゴバルド王 | |
アイストゥルフ時代のフォリス貨 | |
別号 |
フリウーリ公:744年 - 749年 スポレート公:751年 - 756年 |
死去 |
756年 |
配偶者 | ギスアルトルダ |
父親 | フリウーリ公ペッモ |
アイストゥルフまたはアストルフォ(ラテン語: Aistulfus, イタリア語: Astolfo, 756年没)は、フリウーリ公(在位:744年 - 749年)、ランゴバルド王(在位:749年 - 756年)、スポレート公(在位:751年 - 756年)[1]。父はフリウーリ公ペッモである[2]。
生涯
744年に兄のラトキスがランゴバルド王となると、アイストゥルフはフリウーリ公を譲られ、749年にラトキスが退位すると王位を継いだ。ランゴバルド王となったアイストゥルフは751年に東ローマ帝国領のラヴェンナを征服して総督府を滅ぼし、同じく帝国領のイストリア半島を征服した。また教皇に対しても圧迫を強め、人頭税を要求してローマを脅かした。
東ローマ帝国の支援を期待できなくなったローマ教皇は、北方のフランク王国で強大な権力を持つアウストラシア宮宰のカロリング家を頼ろうとした。739年、グレゴリウス3世はカール・マルテルにイタリアへの介入を要請したが、カール・マルテルはランゴバルド王国との同盟を優先しこれを拒否した[3]。753年、ステファヌス3世はカール・マルテルの息子ピピン3世の元を訪れた。ピピン3世は先立つ751年にザカリアスの支持を受けてフランク王になっていた。その見返りとしてピピン3世はステファヌス3世の要請に応じ、アルプス山脈を越えてアイストゥルフを破った。ピピン3世は、アイストゥルフに征服されていた旧ラヴェンナ総督領(エミリア=ロマーニャやペンタポリス)やローマ公国領を教皇に寄進した。
756年、アイストゥルフは狩猟中の落馬事故で死去した。ランゴバルド王はデシデリウス、スポレート公はアルボインが継いだ。フリウーリ公はアイストゥルフが749年に王位についた時に、妻ギスアルトルダの兄弟のアンセルムに譲っていた[4]が、デシデリウスはアンセルムを追放しペトルスを公位につけた。
脚注
- ^ Lars Ulwencreutz (November 2013). Ulwencreutz's The Royal Families in Europe V. Lulu.com. p. 350–. ISBN 978-1-304-58135-8
- ^ Thomas Hodgkin (1899). Italy and Her Invaders: Frankish invasions, 744-744. Clarendon Press. p. 164
- ^ レジーヌ・ル・ジャン 『メロヴィング朝』 白水社、2009年 p. 37
- ^ “German Tribes org Lombard Kings”. GermanTribes.org. GermanTribes.org. 2010年7月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年7月18日閲覧。
外部リンク
- Macpherson, Ewan (1907). Catholic Encyclopedia. Vol. 1. .
- The American Cyclopædia (英語). 1879. .