「東出剛」の版間の差分
編集の要約なし |
m Bot作業依頼: 寛仁親王→寬仁親王の修正依頼 (寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメント) - log |
||
6行目: | 6行目: | ||
この他にも何度かGI決勝進出を果たしており、しかも当時無敵の強さを誇った[[神山雄一郎]]や、絶好調の[[金古将人]]の後位を回る事が多かったこともあり、「タイトルに最も近い男」と呼ばれ続けてきた。 |
この他にも何度かGI決勝進出を果たしており、しかも当時無敵の強さを誇った[[神山雄一郎]]や、絶好調の[[金古将人]]の後位を回る事が多かったこともあり、「タイトルに最も近い男」と呼ばれ続けてきた。 |
||
しかし2003年7月の[[ |
しかし2003年7月の[[寬仁親王牌・世界選手権記念トーナメント|寛仁親王牌]]で2日目に失格となり、この日よりレースから遠ざかったが、しばらく後に9月開催の地元記念レース欠場と共に[[胃癌]]を患っていることを公表した。復帰を目指し闘病生活を送ったものの、翌年の2月22日に千葉県内の病院で逝去、享年39。 |
||
なお、2月22日は[[花月園競輪場]]において[[東西王座戦|東王座戦]]が開催中であり、東出を非常に慕っていた後輩・森下太志(千葉・61期)が東出の道具を装着して競走に臨み、自身初のGII決勝戦進出を果たした。しかし東出の危機的状況を知りながら参加していた森下は、レース後しばらくの間は泣き崩れていたという。 |
なお、2月22日は[[花月園競輪場]]において[[東西王座戦|東王座戦]]が開催中であり、東出を非常に慕っていた後輩・森下太志(千葉・61期)が東出の道具を装着して競走に臨み、自身初のGII決勝戦進出を果たした。しかし東出の危機的状況を知りながら参加していた森下は、レース後しばらくの間は泣き崩れていたという。 |
2021年4月27日 (火) 14:52時点における版
東出 剛(ひがしで たけし、1964年9月25日 - 2004年2月22日)は競輪選手。千葉県出身。日本競輪学校第54期卒業。ホームバンクは千葉競輪場。初出走は1984年9月2日の玉野競輪場で初勝利も同レース。最後のレースは2003年7月19日の前橋競輪場。血液型はA型。
戦績
千葉経済大学附属高等学校を卒業後、日本競輪学校に入学。早い時期から追い込み選手として活躍し、1990年代半ばからトップクラスに定着。特別競輪では1996年の高松宮杯競輪、1997年の競輪祭で2着に入るなど活躍を見せた。1997年と1999年は獲得賞金額上位でKEIRINグランプリにも出場している。
この他にも何度かGI決勝進出を果たしており、しかも当時無敵の強さを誇った神山雄一郎や、絶好調の金古将人の後位を回る事が多かったこともあり、「タイトルに最も近い男」と呼ばれ続けてきた。
しかし2003年7月の寛仁親王牌で2日目に失格となり、この日よりレースから遠ざかったが、しばらく後に9月開催の地元記念レース欠場と共に胃癌を患っていることを公表した。復帰を目指し闘病生活を送ったものの、翌年の2月22日に千葉県内の病院で逝去、享年39。
なお、2月22日は花月園競輪場において東王座戦が開催中であり、東出を非常に慕っていた後輩・森下太志(千葉・61期)が東出の道具を装着して競走に臨み、自身初のGII決勝戦進出を果たした。しかし東出の危機的状況を知りながら参加していた森下は、レース後しばらくの間は泣き崩れていたという。
志半ばで逝った東出の生前の功績を称え、現在では東出の冠レース(東出剛メモリアルカップ・グランドチャンピオン500)が千葉競輪場[1]で年1回行われている。
主な記録
記念競輪(GIII)優勝数は28回。その年のベストナインを意味するKEIRINグランプリ出場を2度果たしながら、GI2着2回、GII2着2回と常に惜しいところでタイトルを逃しており、「最も活躍したタイトルに一番近かった選手」と言われている。
競走スタイル
追い込み選手として活躍。堅実なマーク、先行選手の援護に加え、直線でのハンドル捌きも一流の技術を持っていた。 特に全盛時の直線の切れ味は天下一品だった。TVの画面では力を抜いているようにしか見えないのに、実際には車体がグンと伸びるという差し方で注目を集めた。 最終日の負け戦でも手を抜かないことで知られていた。
エピソード
- 中野浩一著、「中野浩一の競輪へ行こう」によると、デビューまもない頃から競り合いに強かった反面、フォームが悪いため、とりわけ、併走状態になると、いつ「落とされるか」(あるいは、東出自身が落車するか)分からない状態だったという、非常に危なっかしい走り方をしていたという。
- 2009年の寛仁親王牌を優勝した海老根恵太が優勝インタビューで開口一番、「天国の東出さんありがとう」といった。その背景には、海老根の素質を誰よりも認め、見抜いていた東出が、決勝2着に終わった名古屋記念で、結果的に期待を裏切っていた海老根に、「もっと自信持って逃げろ」と叱り飛ばし、別府記念では東出に気を遣い過ぎる海老根に「要らん気遣うな、自分のレースをちゃんとやれ」と説教していたから、ではないか、と述べている(熊本の競輪専門紙・コンドルの2009年7月7日付記事より)。