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== 生涯 ==
== 生涯 ==
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[[1906年]]5月にラザレフ学院を卒業すると、しばらくの間[[公証人]]役場に勤めたがほどなく退職し、同年8月に[[モスクワ大学]]歴史・文献学部 ([[:ru:Историко-филологический факультет Московского университета|ru]]) ロシア語・ロシア文学科へ入学した<ref name="combiography"/>。この間にも詩作を重ね、[[1908年]]夏にチフリスで最初の詩集『黄昏の夢』([[:hy:Մթնշաղի անուրջներ|hy]]) が出版されるや、テリアンの名は瞬く間に知れ渡った<ref name="combiography"/>。[[1910年]]には、大学での研究の傍ら文芸・芸術年鑑『春』{{lang|hy|«Գարուն»}} を編集・発行し、同時期には[[オスカー・ワイルド]]の戯曲『[[サロメ (戯曲)|サロメ]]』の翻訳も行った<ref name="combiography"/>。翌[[1911年]]2月、テリアンはモスクワでスサンナ・パハロヴァ ({{lang|ru|Сусанна Пахалова}}) と結婚した<ref name="combiography"/>。[[1912年]]には、[[アルトゥル・シュニッツラー]]の小説『{{仮リンク|ベルタ・ガルラン夫人|de|Frau Bertha Garlan}}』や、[[ヴァレリー・ブリューソフ]]のいくつかの詩を翻訳し、テリアンの詩集はモスクワでも出版されるようになった<ref name="combiography"/>。だが、この頃のテリアンは金銭的には困窮した<ref name="combiography"/>。革命運動への関与によって{{仮リンク|ブトゥイルキ監獄|ru|Бутырская тюрьма}}への勾留も経験した<ref name="am">{{lang|en|{{cite web|title= Vahan Teryan|url= http://www.writers.am/en/portfolio-item/vahan-teryan/|publisher= Writers.am|accessdate= 2016-09-17}}}}</ref>。

2021年4月15日 (木) 23:51時点における版

ヴァハン・テリアン
Վահան Տերյան
Ваан Терьян
誕生 ヴァハン・テル=グリゴリアン
(Վահան Տեր- Գրիգորյան)
ヴァアン・スキアソヴィチ・テル=グリゴリャン
(Ваан Сукиасович Тер-Григорян)

(1885-02-09) 1885年2月9日
ロシア帝国の旗 ロシア帝国チフリス県ロシア語版アハルカラキ郡ガンジャ
死没 (1920-01-07) 1920年1月7日(34歳没)
ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の旗 ロシア社会主義連邦ソビエト共和国オレンブルク県ロシア語版オレンブルク郡ロシア語版オレンブルク
墓地 アルメニア コミタス・パンテオン英語版
職業 詩人、翻訳家
言語 東アルメニア語[1]
教育 モスクワ大学歴史・文献学部(1906年 - 1913年
サンクトペテルブルク大学東方言語学部(1913年 - )
最終学歴 ラザレフ東方言語学院ロシア語版
活動期間 1902年[2] - 1919年
ジャンル 抒情詩
デビュー作 『黄昏の夢』(1908年刊)
配偶者 スサンナ・パハロヴァ
パートナー アナヒト・シャヒンジャニアン
子供 1女(婚外子)
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ヴァハン(ヴァアン)・テリアンアルメニア語: Վահան Տերյան, ロシア語: Ваан Терьян1885年2月9日 - 1920年1月7日)、本名ヴァハン・テル=グリゴリアンՎահան Տեր- Գրիգորյան, Ваан Сукиасович Тер-Григорян〈ヴァアン・スキアソヴィチ・テル=グリゴリャン〉)は、アルメニア人の詩人、翻訳家。

生涯

1885年2月9日(ユリウス暦1月28日)、ロシア帝国チフリス県ロシア語版ガンジャ (ka) で、アルメニア人の聖職者の家庭に生まれた[2]。地元の学校からチフリスのギムナジウムを経て、1899年8月にモスクワラザレフ東方言語学院ロシア語版へ入学した[2]。在学中から、友人たちと手書きの新聞を発行し、テリアンはその論説と詩のコーナーを担当していた[2](同級生にはアレクサンドル・ミャスニコフ、ツォラク・ハンザジャン (hy)、ポゴス・マキンツャンらがいた[5])。そしてこの頃から、詩人のアヴェティク・イサハキアン英語版とも親交を持つようになった[2]。同時期の1905年ロシア第一革命を目の当たりにしたことにより、テリアンは労働運動社会民主主義への共感を強くしていった[6]

1906年5月にラザレフ学院を卒業すると、しばらくの間公証人役場に勤めたがほどなく退職し、同年8月にモスクワ大学歴史・文献学部 (ru) ロシア語・ロシア文学科へ入学した[2]。この間にも詩作を重ね、1908年夏にチフリスで最初の詩集『黄昏の夢』(hy) が出版されるや、テリアンの名は瞬く間に知れ渡った[2]1910年には、大学での研究の傍ら文芸・芸術年鑑『春』«Գարուն» を編集・発行し、同時期にはオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』の翻訳も行った[2]。翌1911年2月、テリアンはモスクワでスサンナ・パハロヴァ (Сусанна Пахалова) と結婚した[2]1912年には、アルトゥル・シュニッツラーの小説『ベルタ・ガルラン夫人ドイツ語版』や、ヴァレリー・ブリューソフのいくつかの詩を翻訳し、テリアンの詩集はモスクワでも出版されるようになった[2]。だが、この頃のテリアンは金銭的には困窮した[2]。革命運動への関与によってブトゥイルキ監獄ロシア語版への勾留も経験した[1]

1913年10月、テリアンはモスクワ大学からサンクトペテルブルク大学東方言語学部 (ru) へ移り、ニコライ・マルに師事した[2]。テリアンは詩作や翻訳、文芸誌の編集を続けたが、1917年結核の診断を受け、療養のためスフミのサナトリウムへ入った。この年と前年には妻が女児を出産したが、いずれも死産か夭逝であった[2]

十月革命ペトログラードで勃発すると、テリアンはボリシェヴィキステパン・シャウミャンから、新たなソビエト・ロシア政府でのポスト就任を打診された[2]。そして1917年12月、テリアンはヴァルラーム・アヴァネソフの副官として、民族問題人民委員部アルメニア人部門の委員に就任した[2]。同年にはボリシェヴィキに入党し[7]ウラジーミル・レーニンの要請に基づいて「トルコ領アルメニアについて」の布告草案を作成した[8]。翌1918年ブレスト=リトフスク条約締結交渉においても、テリアンはロシア側顧問として交渉に参加している[2]。6月には、アヴァネソフとともにアルメニア人向けのロシア政府機関紙の発行を開始した[2]。また、アルメニア人虐殺を逃れた避難民を援助するため、医療チームを引き連れて北カフカースヴォルガ地域へ赴いたりもした[2]。第3回 (ru)・第4回 (ru) の全ロシア・ソビエト大会英語版にも出席者として選ばれている[7]

同年秋からテリアンの結核は悪化し、モスクワのサナトリウムへと入ったが、アルメニア第一共和国ダシュナク党政府から派遣された医師による治療は拒否した[2]。この時期、テリアンは人民委員部の部下であったアナヒト・シャヒンジャニアン (Անահիտ Շահինջանյան) との間に女児を儲けている[2]1919年には全ロシア中央執行委員会ロシア語版メンバーとしてトルクメニスタンへの派遣が予定されていたが[1]、病状の悪化により秋には療養のためサマーラへ、次いでオレンブルクへと移り、このオレンブルクへの列車内で最後の詩を書いた[2]。そして、テリアンはそのまま回復することなく、1920年1月7日にオレンブルクで死去した[2]

遺体はオレンブルクの墓地に葬られたが、正確な墓所はいつしか分からなくなり、1964年に娘の手によって、墓地の土のみがエレヴァンコミタス・パンテオン英語版へ改葬された[2]

作風

テリアンの詩は抽象的かつ感覚的であり[6]、その頭韻法擬音語を駆使したスタイルは西洋文学にはあまり見られない特徴を持っている[9]韻律やリフレインが多用されるため、他言語への翻訳には困難が伴う[9]。テリアンはトリオレドイツ語版ソネットガザルテルツァ・リーマなど様々な詩形をアルメニア語詩へ持ち込んだ第一人者であるが[6]、死後に社会主義リアリズムの時代が始まると、その抽象詩は退廃的であるとして当局からの批判にも晒された[9]

遺産

脚注

  1. ^ a b c Vahan Teryan”. Writers.am. 2016年9月17日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w Vahan Teryan - A Chronological Biography Compiled for Teryan.com Site”. Teryan.com. 2015年8月15日閲覧。
  3. ^ Терьян // Стансы — Фортегуерри. — М. : Художественная литератураロシア語版, 1939. — (Литературная энциклопедия : [в 12 т.] / гл. ред. А. В. Луначарский ; 1929—1939, т. 11).
  4. ^ Hachikyan, Agop J.; Basmajian, Gabriel; Franchuk, Edward S. et al., eds (2005). The Heritage of Armenian Literature. III: From the Eighteenth Century to Modern Times. Detroit, Michigan: Wayne State University Press. p. 958. ISBN 978-0814332214. https://books.google.co.jp/books?id=GmtPLvnrc38C&printsec=frontcover&hl=ja#v=onepage&q&f=false 
  5. ^ Арутюнян А. (2015). "Александр Мясникян и становление Второй Республики" (PDF) (журнал) (1 (34)) (21-й ВЕК ed.). Ер.: НОФ «Нораванк»: 60. {{cite journal}}: Cite journalテンプレートでは|journal=引数は必須です。 (説明)
  6. ^ a b c Ганаланян О. “Ваан Терьян, биография”. Teryan.com. 2015年8月15日閲覧。
  7. ^ a b Терьян // Струнино — Тихорецк. — М. : Советская энциклопедия, 1976. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 25).
  8. ^ 中島偉晴『閃光のアルメニア - ナゴルノ・カラバフはどこへ』J.P.P. 神保出版会、1990年、422頁。ISBN 978-4915757037 
  9. ^ a b c Der Hovanessian, Diana. “Vahan Derian”. Teryan.com. 2015年8月15日閲覧。
  10. ^ “Վահան Տերյանի տուն-թանգարանը, Գանձա, Ջավախք”. Ջավախք Մեդիա. (2013年11月1日). http://javakhkmedia.com/%D5%BE%D5%A1%D5%B0%D5%A1%D5%B6-%D5%BF%D5%A5%D6%80%D5%B5%D5%A1%D5%B6%D5%AB-%D5%BF%D5%B8%D6%82%D5%B6-%D5%A9%D5%A1%D5%B6%D5%A3%D5%A1%D6%80%D5%A1%D5%B6%D5%A8-%D5%A3%D5%A1%D5%B6%D5%B1%D5%A1-%D5%BB%D5%A1-2/ 2017年4月17日閲覧。 
  11. ^ ՀՈՒՇԱՐՁԱՆ` ՎԱՀԱՆ ՏԵՐՅԱՆԻ”. Հայաստանի Հանրապետության մշակույթի նախարարությունアルメニア語版 Պատմամշակութային ժառանգության գիտահետազոտական կենտրոն. 2017年4月17日閲覧。
  12. ^ Երևանի քաղաքապետարանի տեղեկատվությանև հասարակայնության հետ կապերի վարչություն (2016年2月10日). “Տերյանական ընթերցումներ` Վահան Տերյանի ծննդյան տարեդարձի առիթով”. Երևանի քաղաքապետարանի պաշտոնական կայք. 2017年4月17日閲覧。
  13. ^ Հուշարձաններ”. Երևանի քաղաքապետարանի պաշտոնական կայք. 2017年4月17日閲覧。

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