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=== 北カフカースでの活動 === |
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ジャジコフは{{仮リンク|ロシア共産党(ボリシェヴィキ)第12回大会|label= 第12回|ru|XII съезд РКП(б)}}・{{仮リンク|全連邦共産党(ボリシェヴィキ)第14回大会|label= 第14回|ru|XIV съезд ВКП(б)}}・{{仮リンク|全連邦共産党(ボリシェヴィキ)第15回大会|label= 第15回|ru|XV съезд ВКП(б)}}の党大会および第10回{{仮リンク|全ロシア・ソビエト大会|en|All-Russian Congress of Soviets}}および第1回[[ソビエト連邦ソビエト大会|全連邦ソビエト大会]] ([[:ru:I Всесоюзный съезд Советов|ru]]) にも出席し、{{仮リンク|全ロシア中央執行委員会|ru|Всероссийский центральный исполнительный комитет}}メンバーにもなった<ref name="ri">{{lang|ru|{{ |
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=== 失脚 === |
=== 失脚 === |
2021年4月15日 (木) 23:50時点における版
イドリス・ベイスルタノヴィチ・ジャジコフ Идрис Бейсултанович Зязиков Заьзгнаькъан Байсултана Идрис | |
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生年月日 | 1896年1月31日 |
出生地 | ロシア帝国テレク州ナズラン管区バルスキ |
没年月日 | 1938年7月5日(42歳没) |
死没地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国、グロズヌイ |
出身校 |
モスクワ農業学院(中退) マルクス主義北カフカース地方コース 全連邦共産党(ボ)中央委員会附属マルクス・レーニン主義コース(中退) |
前職 | 教師 |
所属政党 | ボリシェヴィキ |
配偶者 | ジャネッタ |
親族 | ムラト・ジャジコフ(甥) |
在任期間 | 1924年2月 - 8月1日 |
在任期間 | 1924年11月 - 1929年9月3日 |
在任期間 | 1922年1月 - 1924年1月 |
ファイル:Flag of Mountain ASSR (1921-1924).svg 山岳自治ソビエト社会主義共和国 内務人民委員 | |
在任期間 | 1921年4月25日 - 1922年1月 |
在任期間 | 1921年 - 1921年 |
イドリス・ベイスルタノヴィチ・ジャジコフ(ロシア語: Идрис Бейсултанович Зязиков, イングーシ語: Заьзгнаькъан Байсултана Идрис, 1896年1月31日 - 1938年7月5日)は、イングーシ人の政治家。ロシア社会主義連邦ソビエト共和国内の山岳自治ソビエト社会主義共和国やイングーシ自治州の要職を務めたが、大粛清の犠牲となった。
生涯
前半生
1896年1月31日、ロシア帝国テレク州バルスキで、バルハネの古いイングーシ人氏族 (ru) の家庭に生まれた[1]。父は、ジャジコフが後に入学するナズラン山岳学校の、最初のイングーシ人教師の一人であった[2]。ウラジカフカス実科学校を卒業した後は地元で教師を務め[3]、その後さらに1914年から1917年までモスクワ農業学院で学んだが中退[4]。北カフカースでの革命運動に参加し[4]、翌1918年10月にはボリシェヴィキ党員となり、同年からテレク州の革命委員会およびソビエト執行委員会メンバーとなった[5]。
北カフカースでの活動
1921年にはナズラン(イングーシ)管区ソビエト執行委議長を務め[6]、山岳自治ソビエト社会主義共和国中枢ではまず中央執行委副議長に[3]、次いで同年4月25日から翌1922年1月までは内務人民委員に、同月から1924年1月までは中央執行委議長に就いた[5]。翌2月から8月1日までは党山岳州委、同月から11月までは党中央委イングーシ自治州組織局、同月から1929年9月3日までは党イングーシ自治州委の責任書記を歴任した[5]。
イングーシ代表としてジャジコフは、イナルク・マリサゴフとともに、北オセチア自治州およびスンジャ・コサック管区との間の領土交渉に役割を果たした[3]。ジャジコフの政権下でイングーシの経済は発展し、「ステクロタルィ」工場・エズミン水力発電所・アルハンチュルト運河 (ru)・ナズラン粉砕工場およびナズラン煉瓦・タイル工場・「アチャルキ」ミネラルウォーター工場・アルムヒ温泉リゾート・農業基地・ヤンディエヴォ要塞・ガムルジエヴォ要塞・ナズラン要塞工業・教育・獣医学校などが建設された[3]。民族劇場も復興され、民族語の新聞も刊行されるようになった[3]。
ジャジコフは第12回・第14回・第15回の党大会および第10回全ロシア・ソビエト大会および第1回全連邦ソビエト大会 (ru) にも出席し、全ロシア中央執行委員会メンバーにもなった[4]。その他1918年から1924年までに務めた地位には、イングーシ防衛委メンバー、山岳コミューン局書記、地下イングーシ管区委メンバー、イングーシ革命委メンバー、テレク・ソビエト共和国農業人民委員、南東地方 (ru) 委ウラジカフカス局書記、ソビエト連邦中央執行委員会メンバーなどがある[1]。
失脚
ジャジコフは政務の傍ら1925年にはマルクス主義北カフカース地方コースを聴講していたが[5]、1929年4月12日には党北カフカース地方委局決定により、党中央委附属マルクス・レーニン主義コース[5]の聴講生としてモスクワへ派遣されることとなった[3]。
ジャジコフの後任としてイングーシ自治州委責任書記に就いたのは、元アディゲ(チェルケス)自治州委責任書記のヨシフ・チェルノグラズであった[3]。しかし、チェルノグラズは現地の習俗や宗教を軽視した高圧的な態度をとったことで、住民の反発を招いた[3]。結果として翌1930年2月3日、チェルノグラズは政治宣伝活動のため山村に赴いたところを、側近らとともに殺害されるに至った[3]。そしてジャジコフは、妻ジャネッタとともに、この事件の謀議に参加した容疑で同年に逮捕された[3](妻はほどなく証拠不十分で釈放された[4])。
1932年6月11日、ジャジコフはロシア社会主義連邦ソビエト共和国最高裁によって、刑法第58条に基づき死刑判決を下されたが、セルゴ・オルジョニキゼやアナスタス・ミコヤンなどの党幹部の尽力によって、懲役10年へと減刑された[3]。ジャジコフは1934年4月までコミ自治共和国のNKVDラーゲリで過ごし、翌1935年にソビエト連邦中央執行委員会幹部会決議により出獄した[4]。その後ウリヤノフスクへ追放されたが、翌年には連邦中央執行委決議によって完全に放免された[4]。
その後はトゥーラで「クラスヌィー・オクチャブリ」工場のプランナーを務めていたが、1937年10月初頭にはモスクワで、妻とともに再び逮捕された[4]。そして、ジャジコフは翌1938年7月5日にグロズヌイのNKVD刑務所で獄死した[4]。
没後
2002年6月、イングーシ共和国大統領ムラト・ジャジコフ(イドリスの甥[7])の大統領令により、イドリス・ジャジコフはイングーシ民族国家の形成・発展における優れた功績を顕彰された[8]。イドリス・ジャジコフの名は、イングーシ共和国の首都マガスのイドリス・ジャジコフ大通り、そして故郷バルスキの学校に残されている[2]。バルスキには記念碑も立てられているが、記念碑は2006年4月と2008年11月の2度爆破されている[7][9]。
脚注
- ^ a b “В Мемориальном комплексе жертвам репрессий открылась выставка "Верой и правдой", посвященная 120-летию со дня рождения Идриса Зязикова, основателя ингушской государственности”. Мемориальный комплекс жертвам репрессий (2016年1月22日). 2019年8月3日閲覧。
- ^ a b Таргимов Х. (31 января 2018). "В Ингушетии вспоминают выдающегося государственного и политического деятеля Идриса Зязикова" (газета) (Ингушетия ed.). Магас.
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の日付が不正です。 (説明) - ^ a b c d e f g h i j k Яндиев А. (30 января 2017). "Идрис Бейсултанович Зязиков" (газета) (Сердало ed.). Назрань.
{{cite journal}}
: Cite journalテンプレートでは|journal=
引数は必須です。 (説明);|year=
、|date=
の日付が不正です。 (説明) - ^ a b c d e f g h Дзарахова З. (30 января 2015). "Он до конца остался верен народу" (газета) (Ингушетия ed.). Магас.
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: Cite journalテンプレートでは|journal=
引数は必須です。 (説明);|year=
、|date=
の日付が不正です。 (説明) - ^ a b c d e “Зязиков Идрис Бейсултанович”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. knowbysight.info. 2019年8月3日閲覧。
- ^ “Назранский (Ингушский) национальный округ - Ингушская автономная область”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. knowbysight.info. 2019年8月3日閲覧。
- ^ a b “Близ Назрани взорван памятник дяде президента Ингушетии”. Интерфакс. NEWSru.com. (2017年12月7日) 2019年8月5日閲覧。
- ^ “В январе 2016 года исполняется 120 лет со дня рождения славного сына ингушского народа, основателя Ингушской Государственности Идриса Бейсултановича Зязикова”. МКУ "ЦБС Сунженского района" (2016年1月27日). 2019年8月3日閲覧。
- ^ “В Назрани взорвали памятник Идрису Зязикову”. М.: Интерфакс. (2008年11月14日) 2019年8月5日閲覧。
党職 | ||
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先代 アレクセイ・ボルヒン |
ファイル:Flag of Mountain ASSR (1921-1924).svg ロシア共産党(ボ)山岳州委員会責任書記 1924年2月 - 8月1日 |
次代 なし |
先代 なし |
ロシア共産党(ボ)イングーシ自治州委員会責任書記 1924年11月 - 1929年9月3日 |
次代 ヨシフ・チェルノグラズ |
公職 | ||
先代 タシュテミル・エリダルハノフ |
ファイル:Flag of Mountain ASSR (1921-1924).svg 山岳自治ソビエト社会主義共和国中央執行委員会議長 1922年1月 - 1924年1月 |
次代 マルク・アフサラゴフ |
先代 なし |
ファイル:Flag of Mountain ASSR (1921-1924).svg 山岳自治ソビエト社会主義共和国内務人民委員 1921年4月25日 - 1922年1月 |
次代 マルク・アフサラゴフ |