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フランス北部にあるサン=テティエンヌ=オ=モンは、[[ブローニュ=シュル=メール]]の南5kmのところにある<ref>{{cite web2|title=Distance à vol d'oiseau entre Saint-Étienne-au-Mont et Boulogne-sur-Mer|url=http://www.lion1906.com/Php/Resultats/Resultat_orthodromie.php?Insee1=62746&Insee2=62160|website=www.lion1906.com|access-date=30 March 2011|publication-date=}}</ref>。 |
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コミューンは、数km離れた2つの地域に分かれている。 |
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町はブローネ地方に属している。エコー集落は標高約100mの丘の上にあるが、一方でポン・ド・ブリックはリアーヌ川沿いにあり、川床が島に伸びている。西側のエコー山地はエコーの森とエコー砂丘からなる。エコーの砂浜は全長2555mあり、エスキエン浜とアルドゥロ浜の間、山地の背後にある<ref>[http://www.saintetienneaumont.com/index.php/le-massif-dunaire/la-plage La plage] sur ''www.saintetienneaumont.com''</ref>。 |
町はブローネ地方に属している。エコー集落は標高約100mの丘の上にあるが、一方でポン・ド・ブリックはリアーヌ川沿いにあり、川床が島に伸びている。西側のエコー山地はエコーの森とエコー砂丘からなる。エコーの砂浜は全長2555mあり、エスキエン浜とアルドゥロ浜の間、山地の背後にある<ref>[http://www.saintetienneaumont.com/index.php/le-massif-dunaire/la-plage La plage] sur ''www.saintetienneaumont.com''</ref>。 |
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コミューンの北側はリアーヌ川と隣接する。リアーヌ川は全長36.7kmあり、ブローニュにてマンシュ海峡に注ぐ。ワレンヌ川とカシェーヌ川はエコーが水源の河川である。ワレンヌ川はマンシュ海峡に注ぎ、カシェーヌ川はリアーヌ川に合流する。町は、2012年11月1日から3日にかけてポン・ド・ブリックのリアーヌ川近くで発生した、洪水や土砂崩れをきっかけに、自然災害の状態であると認識されている<ref>{{fr}} {{ |
コミューンの北側はリアーヌ川と隣接する。リアーヌ川は全長36.7kmあり、ブローニュにてマンシュ海峡に注ぐ。ワレンヌ川とカシェーヌ川はエコーが水源の河川である。ワレンヌ川はマンシュ海峡に注ぎ、カシェーヌ川はリアーヌ川に合流する。町は、2012年11月1日から3日にかけてポン・ド・ブリックのリアーヌ川近くで発生した、洪水や土砂崩れをきっかけに、自然災害の状態であると認識されている<ref>{{fr}} {{cite web2|title=Intempéries de fin octobre : 30 premières communes en état de catastrophe naturelle|url=http://www.lavoixdunord.fr/region/intemperies-de-fin-octobre-30-premieres-communes-en-ia0b0n881721|website=[[La Voix du Nord]]|date=7 December 2012|access-date=24 February 2013|publication-date=}}</ref>。 |
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コート・ドパールにあるため、町は海洋性気候である。気温のふり幅は狭く、冬は穏やかで夏は涼しい。降霜や降雪は非常に少ない。風は常に活動的で、吹く方向に応じて気候に大きな影響を与える。西からの風が比較的清浄な空気をもたらし、沿岸に雲を押し込む。北または東からの冷たい風も吹く。 |
コート・ドパールにあるため、町は海洋性気候である。気温のふり幅は狭く、冬は穏やかで夏は涼しい。降霜や降雪は非常に少ない。風は常に活動的で、吹く方向に応じて気候に大きな影響を与える。西からの風が比較的清浄な空気をもたらし、沿岸に雲を押し込む。北または東からの冷たい風も吹く。 |
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===ポン・ド・ブリック=== |
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ポン・ド・ブリックという用語の中で、briquesは同じ名称である『レンガ』とは何の関係もない。これは古いゲルマン語で、橋を意味するbrickeからきており、直訳するとポン・ド・ブリックとは『橋の橋』となる<ref name="Commune - histoire">{{ |
ポン・ド・ブリックという用語の中で、briquesは同じ名称である『レンガ』とは何の関係もない。これは古いゲルマン語で、橋を意味するbrickeからきており、直訳するとポン・ド・ブリックとは『橋の橋』となる<ref name="Commune - histoire">{{cite web2|title=Commune de Saint-Étienne-au-Mont|url=http://www.saintetienneaumont.com/tourisme/historique/origine.php|website=www.saintetienneaumont.com|access-date={{date|3|juin|2010}}|publication-date=}}</ref>。住民の自称はポン・ド・ブリコワ(Pont-de-Briquois)である。 |
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==歴史== |
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2つの岸、ウトロー半島、ブローニュとリアーヌ川南岸の地域とをつなぎ、かの地はGesoriacumと呼ばれていた。また、荒れ狂う河川を止めるために、谷が狭くなるイスクの下流側に橋を架けた。これがポン・ド・ブリックの人口密集地の起源である。古代ローマの歴史家フロルスの一節は、この橋が[[ティベリウス]]帝の弟[[大ドルスス]]の時代である、紀元前12年から紀元前9年の間に建設されたことを示唆している。 |
2つの岸、ウトロー半島、ブローニュとリアーヌ川南岸の地域とをつなぎ、かの地はGesoriacumと呼ばれていた。また、荒れ狂う河川を止めるために、谷が狭くなるイスクの下流側に橋を架けた。これがポン・ド・ブリックの人口密集地の起源である。古代ローマの歴史家フロルスの一節は、この橋が[[ティベリウス]]帝の弟[[大ドルスス]]の時代である、紀元前12年から紀元前9年の間に建設されたことを示唆している。 |
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さらに、1世紀から2世紀の間につくられたガロ=ローマ時代の小さな定住地が、エコーで2004年に発掘された。日常の道具に加えて、6軒分の住宅の基礎の周りには、廃棄された堆積物が発見された。この堆積物から、金属加工の職人がいたとわかった<ref>{{ |
さらに、1世紀から2世紀の間につくられたガロ=ローマ時代の小さな定住地が、エコーで2004年に発掘された。日常の道具に加えて、6軒分の住宅の基礎の周りには、廃棄された堆積物が発見された。この堆積物から、金属加工の職人がいたとわかった<ref>{{cite web2|title=Les fouilles archéologiques à Écault|url=http://www.saintetienneaumont.com/tourisme/historique/hameau.php|website=www.saintetienneaumont.com|access-date=30 March 2011|publication-date=}}</ref>。 |
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ポン・ド・ブリックの地名は、1278年に書かれた憲章で初めて言及される。このことは、ポン・ド・ブリックがブローニュ郊外の最も端であったことを意味している。橋はブローニュと[[アミアン]]の間の道でもあった。この道はアタンの盆地でカシャンを横断してブローネ地方に入ってきた。13世紀の公文書では、1121年頃にムスティエ・サンテティエンヌという教会があったことを報告している。この教会は、現在のエコーの教会の起源だろう。教会は14世紀に[[イングランド王国|イングランド]]軍によって大規模に破壊されている。1630年、教区司祭ルイ・マケは教会を再建しようとしたが、適切な結果を得られず失敗している。 |
ポン・ド・ブリックの地名は、1278年に書かれた憲章で初めて言及される。このことは、ポン・ド・ブリックがブローニュ郊外の最も端であったことを意味している。橋はブローニュと[[アミアン]]の間の道でもあった。この道はアタンの盆地でカシャンを横断してブローネ地方に入ってきた。13世紀の公文書では、1121年頃にムスティエ・サンテティエンヌという教会があったことを報告している。この教会は、現在のエコーの教会の起源だろう。教会は14世紀に[[イングランド王国|イングランド]]軍によって大規模に破壊されている。1630年、教区司祭ルイ・マケは教会を再建しようとしたが、適切な結果を得られず失敗している。 |
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1803年から1805年にかけ、[[ナポレオン・ボナパルト]]は、イギリスへの攻撃準備のため、ブローニュ=シュル=メールの周囲にあった軍の野営地に移動した。ブローニュ駐屯地は、[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]になる大西洋岸軍を迎えた。皇帝はポン・ド・ブリックにある小さなシャトーに住まいを構えた(このシャトーは現在、隣のコミューン、サン・レオナールにある)。このシャトーを住まいとしたのは、ブローニュと往来が容易なこと、駐屯地がリアーヌ川沿いにあるのが理由である。 |
1803年から1805年にかけ、[[ナポレオン・ボナパルト]]は、イギリスへの攻撃準備のため、ブローニュ=シュル=メールの周囲にあった軍の野営地に移動した。ブローニュ駐屯地は、[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]になる大西洋岸軍を迎えた。皇帝はポン・ド・ブリックにある小さなシャトーに住まいを構えた(このシャトーは現在、隣のコミューン、サン・レオナールにある)。このシャトーを住まいとしたのは、ブローニュと往来が容易なこと、駐屯地がリアーヌ川沿いにあるのが理由である。 |
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[[第二次世界大戦]]中、ブローネ地方の他のコミューンと同様に、コミューンは大規模な被害を受けた。具体的には、戦争が終わってから、エコーに残っていた住宅は数軒にすぎなかったのである<ref>{{ |
[[第二次世界大戦]]中、ブローネ地方の他のコミューンと同様に、コミューンは大規模な被害を受けた。具体的には、戦争が終わってから、エコーに残っていた住宅は数軒にすぎなかったのである<ref>{{cite web2|title=Le bâti historique à Écault|url=http://www.saintetienneaumont.com/tourisme/historique/bati.php#|website=www.saintetienneaumont.com|access-date=30 March 2011|publication-date=}}</ref>。 |
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==人口統計== |
==人口統計== |
2021年4月15日 (木) 23:07時点における版
Saint-Étienne-au-Mont | |
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行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | オー=ド=フランス地域圏 |
県 (département) | パ=ド=カレー県 |
郡 (arrondissement) | ブローニュ=シュル=メール郡 |
小郡 (canton) | ウトロー小郡 |
INSEEコード | 62746 |
郵便番号 | 62360 |
市長(任期) |
ブリジット・パスボスク (2014年 - 2020年) |
自治体間連合 (fr) | fr:Communauté d'agglomération du Boulonnais |
人口動態 | |
人口 |
5097人 (2012年) |
人口密度 | 363人/km2 |
住民の呼称 | Stéphanois[1] |
地理 | |
座標 | 北緯50度40分56秒 東経1度37分37秒 / 北緯50.6822222222度 東経1.62694444444度座標: 北緯50度40分56秒 東経1度37分37秒 / 北緯50.6822222222度 東経1.62694444444度 |
標高 |
平均:m 最低:3 m 最高:113 m |
面積 | 14.05km2 |
公式サイト | www.saintetienneaumont.com |
サン=テティエンヌ=オ=モン (Saint-Étienne-au-Mont)は、フランス、オー=ド=フランス地域圏、パ=ド=カレー県のコミューン。
町は、数km離れていて地元住民には独立しているようにみなされている、非常に異なる2つの地域にまたがって人口5000人が暮らしている。東側が都市化されたポン・ド・ブリックで、西側が農村地帯のエコーである。
地理
フランス北部にあるサン=テティエンヌ=オ=モンは、ブローニュ=シュル=メールの南5kmのところにある[2]。
コミューンは、数km離れた2つの地域に分かれている。
- ポン・ド・ブリック - 東側を占め、都市化されており、人口密度が十分にある(コミューン人口の約9割を占める)。
- エコー - 西側にあり、主に牧草地や野原、自然地域が占める農村地帯。コート・ドパール(オパール海岸)にあり、マンシュ海峡に面している。
2つの地域はどちらも同じコミューンである(役場はポン・ド・ブリックにある)が、地元住民はしばしば2つは独立した存在であるようにみなしている。
町はブローネ地方に属している。エコー集落は標高約100mの丘の上にあるが、一方でポン・ド・ブリックはリアーヌ川沿いにあり、川床が島に伸びている。西側のエコー山地はエコーの森とエコー砂丘からなる。エコーの砂浜は全長2555mあり、エスキエン浜とアルドゥロ浜の間、山地の背後にある[3]。
コミューンの北側はリアーヌ川と隣接する。リアーヌ川は全長36.7kmあり、ブローニュにてマンシュ海峡に注ぐ。ワレンヌ川とカシェーヌ川はエコーが水源の河川である。ワレンヌ川はマンシュ海峡に注ぎ、カシェーヌ川はリアーヌ川に合流する。町は、2012年11月1日から3日にかけてポン・ド・ブリックのリアーヌ川近くで発生した、洪水や土砂崩れをきっかけに、自然災害の状態であると認識されている[4]。
コート・ドパールにあるため、町は海洋性気候である。気温のふり幅は狭く、冬は穏やかで夏は涼しい。降霜や降雪は非常に少ない。風は常に活動的で、吹く方向に応じて気候に大きな影響を与える。西からの風が比較的清浄な空気をもたらし、沿岸に雲を押し込む。北または東からの冷たい風も吹く。
由来
サン=テティエンヌ=オ=モン
フランス革命の間、コミューンはオディスク(Audisque)にちなみサン=テティエンヌと呼ばれていた。1937年に現在の名称となった。この名前は、エコーの教会が建っているサン=テティエンヌ山にちなんでいる[5]。
エコー
エコーの17世紀のつづりはElcauであった。18世紀にはEcauxとなった。住民は自らをエコートワ(Écaultois)と呼ぶ。
ポン・ド・ブリック
ポン・ド・ブリックという用語の中で、briquesは同じ名称である『レンガ』とは何の関係もない。これは古いゲルマン語で、橋を意味するbrickeからきており、直訳するとポン・ド・ブリックとは『橋の橋』となる[6]。住民の自称はポン・ド・ブリコワ(Pont-de-Briquois)である。
歴史
古代、サン=テティエンヌ=オ=モンの土地はベルガエ族のモリニ族(en)が占領していた。リアーヌ川は豊富な水を運ぶ川で、河口は潮が満ちると事実上の湖となり、隣接するコミューンのイスクに達するほどだった(村の名前はケルト語で水を意味する言葉が起源である)。干潮になると、湖は通り抜けられない潟となった。
2つの岸、ウトロー半島、ブローニュとリアーヌ川南岸の地域とをつなぎ、かの地はGesoriacumと呼ばれていた。また、荒れ狂う河川を止めるために、谷が狭くなるイスクの下流側に橋を架けた。これがポン・ド・ブリックの人口密集地の起源である。古代ローマの歴史家フロルスの一節は、この橋がティベリウス帝の弟大ドルススの時代である、紀元前12年から紀元前9年の間に建設されたことを示唆している。
さらに、1世紀から2世紀の間につくられたガロ=ローマ時代の小さな定住地が、エコーで2004年に発掘された。日常の道具に加えて、6軒分の住宅の基礎の周りには、廃棄された堆積物が発見された。この堆積物から、金属加工の職人がいたとわかった[7]。
ポン・ド・ブリックの地名は、1278年に書かれた憲章で初めて言及される。このことは、ポン・ド・ブリックがブローニュ郊外の最も端であったことを意味している。橋はブローニュとアミアンの間の道でもあった。この道はアタンの盆地でカシャンを横断してブローネ地方に入ってきた。13世紀の公文書では、1121年頃にムスティエ・サンテティエンヌという教会があったことを報告している。この教会は、現在のエコーの教会の起源だろう。教会は14世紀にイングランド軍によって大規模に破壊されている。1630年、教区司祭ルイ・マケは教会を再建しようとしたが、適切な結果を得られず失敗している。
1803年から1805年にかけ、ナポレオン・ボナパルトは、イギリスへの攻撃準備のため、ブローニュ=シュル=メールの周囲にあった軍の野営地に移動した。ブローニュ駐屯地は、大陸軍になる大西洋岸軍を迎えた。皇帝はポン・ド・ブリックにある小さなシャトーに住まいを構えた(このシャトーは現在、隣のコミューン、サン・レオナールにある)。このシャトーを住まいとしたのは、ブローニュと往来が容易なこと、駐屯地がリアーヌ川沿いにあるのが理由である。
第二次世界大戦中、ブローネ地方の他のコミューンと同様に、コミューンは大規模な被害を受けた。具体的には、戦争が終わってから、エコーに残っていた住宅は数軒にすぎなかったのである[8]。
人口統計
1962年 | 1968年 | 1975年 | 1982年 | 1990年 | 1999年 | 2006年 | 2012年 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
3423 | 4389 | 4301 | 4632 | 5037 | 4995 | 5059 | 5097 |
source=1999年までLdh/EHESS/Cassini[9]、2004年以降INSEE[10][11]
友好都市
- コボンゴイェ、セネガル
脚注
- ^ Nom des habitants de la commune sur habitants.fr.
- ^ "Distance à vol d'oiseau entre Saint-Étienne-au-Mont et Boulogne-sur-Mer". www.lion1906.com. 2011年3月30日閲覧。
- ^ La plage sur www.saintetienneaumont.com
- ^ "Intempéries de fin octobre : 30 premières communes en état de catastrophe naturelle". La Voix du Nord. 7 December 2012. 2013年2月24日閲覧。
- ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=31627
- ^ "Commune de Saint-Étienne-au-Mont". www.saintetienneaumont.com. 3閲覧。
{{cite web}}
:|access-date=
の日付が不正です。 (説明) - ^ "Les fouilles archéologiques à Écault". www.saintetienneaumont.com. 2011年3月30日閲覧。
- ^ "Le bâti historique à Écault". www.saintetienneaumont.com. 2011年3月30日閲覧。
- ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=31627
- ^ http://www.statistiques-locales.insee.fr
- ^ http://www.insee.fr