「ウラル核惨事」の版間の差分
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近隣にあった町{{仮リンク |キシュテム| en|Kyshtym|label=キシュテム(クイシトゥイム)}}の名前をとってキシュテム事故と呼ばれている。 |
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放射性廃棄物タンクは、絶えず生じる[[崩壊熱]]により高温となるため、冷却装置を稼働し安全性を保つ必要があるが、[[1957年]][[9月29日]]、肝心の冷却装置が故障、タンク内温度は急上昇し、内部調整機器から生じた火花により、容積300立方メートルのタンクに入っていた[[硝酸塩]]結晶と再処理残渣が爆発した。この結果、[[ストロンチウム90|<sup>90</sup>Sr]] (29年)、[[セシウム137|<sup>137</sup>Cs]] (30年)、[[プルトニウム239|<sup>239</sup>Pu]] (24,110年)などの[[半減期]]が長い同位体を含む大量の放射性物質が大気中に放出された(East Urals Radioactive Trace)。核爆発ではなく化学的な爆発であったが、その規模は[[トリニトロトルエン|TNT]]火薬70t相当で、約1,000m上空まで舞い上がった放射性廃棄物は南西の風に乗り、北東方向に幅約9km、長さ105kmの帯状の地域を汚染、約1万人が避難した。避難した人々は1週間に0.025-0.5シーベルト、合計で平均0.52シーベルト、最高0.72シーベルトを[[被曝]]した。特に事故現場に近かった1,054人は骨髄に0.57シーベルトを被曝した。 |
放射性廃棄物タンクは、絶えず生じる[[崩壊熱]]により高温となるため、冷却装置を稼働し安全性を保つ必要があるが、[[1957年]][[9月29日]]、肝心の冷却装置が故障、タンク内温度は急上昇し、内部調整機器から生じた火花により、容積300立方メートルのタンクに入っていた[[硝酸塩]]結晶と再処理残渣が爆発した。この結果、[[ストロンチウム90|<sup>90</sup>Sr]] (29年)、[[セシウム137|<sup>137</sup>Cs]] (30年)、[[プルトニウム239|<sup>239</sup>Pu]] (24,110年)などの[[半減期]]が長い同位体を含む大量の放射性物質が大気中に放出された(East Urals Radioactive Trace)。核爆発ではなく化学的な爆発であったが、その規模は[[トリニトロトルエン|TNT]]火薬70t相当で、約1,000m上空まで舞い上がった放射性廃棄物は南西の風に乗り、北東方向に幅約9km、長さ105kmの帯状の地域を汚染、約1万人が避難した。避難した人々は1週間に0.025-0.5シーベルト、合計で平均0.52シーベルト、最高0.72シーベルトを[[被曝]]した。特に事故現場に近かった1,054人は骨髄に0.57シーベルトを被曝した。 |
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マヤーク会社と官庁によれば、事故後に全体として400 PBq (4×10<sup>17</sup> B)の放射能が2万平方キロメートルの範囲にわたって撒き散らされた。27万人が高い放射能にさらされた。官庁が公表した放射能汚染をもとに比較計算すると、事故により新たに100人がガンになると予想される<ref name=nrdc>{{ |
マヤーク会社と官庁によれば、事故後に全体として400 PBq (4×10<sup>17</sup> B)の放射能が2万平方キロメートルの範囲にわたって撒き散らされた。27万人が高い放射能にさらされた。官庁が公表した放射能汚染をもとに比較計算すると、事故により新たに100人がガンになると予想される<ref name=nrdc>{{cite web2|title=Making the Russian Bomb - From Stalin to Yeltsin|periodical=|publisher=Natural Resources Defence Council|url=http://docs.nrdc.org/nuclear/files/nuc_01019501a_138.pdf|url-status=|format=PDF; 2,2 MB|access-date=2010-11-14|archive-url=|archive-date=|last=Thomas B. Cochran, Robert S. Norris, Oleg A. Bukharin|date=1995|year=|language=en|pages=65-109|quote=}}</ref>。 |
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2021年4月15日 (木) 20:52時点における版
座標: 北緯55度42分45秒 東経60度50分53秒 / 北緯55.71250度 東経60.84806度
ウラル核惨事(ウラルかくさんじ、ロシア語: Кыштымская авария)は、1957年9月29日、ソビエト連邦ウラル地方チェリャビンスク州マヤーク核技術施設で発生した原子力事故(爆発事故)。また、後年にかけて放射性廃棄物に起因して発生した事故等を包括することも多い。
概要
オジョルスク市にあるマヤーク核技術施設(Маяк、MayakМа)は、原子爆弾用プルトニウムを生産する原子炉5基および再処理施設を持つプラントであり、1948年から建設された。プラント周囲には技術者居住区として暗号名チェリヤビンスク65という秘密都市が建設された。事故は、この施設を中心に発生した。国際原子力事象評価尺度(INES)では二番目に高いレベル6(大事故)とみなされる[1]。 近隣にあった町キシュテム(クイシトゥイム)の名前をとってキシュテム事故と呼ばれている。
キシュテム事故
1950年代当時のソ連では、一般には放射能の危険性が認知されていない、もしくは影響が低いと考えられていたため、放射性廃棄物の扱いはぞんざいであり、液体廃棄物(廃液)は付近のテチャ川(オビ川支流)や湖(後にイレンコの熱い湖、カラチャイ湖と呼ばれる)に放流された。やがて付近住民に健康被害が生じると、液体高レベル放射性廃棄物は濃縮しタンク貯蔵する方法に改められた。
放射性廃棄物タンクは、絶えず生じる崩壊熱により高温となるため、冷却装置を稼働し安全性を保つ必要があるが、1957年9月29日、肝心の冷却装置が故障、タンク内温度は急上昇し、内部調整機器から生じた火花により、容積300立方メートルのタンクに入っていた硝酸塩結晶と再処理残渣が爆発した。この結果、90Sr (29年)、137Cs (30年)、239Pu (24,110年)などの半減期が長い同位体を含む大量の放射性物質が大気中に放出された(East Urals Radioactive Trace)。核爆発ではなく化学的な爆発であったが、その規模はTNT火薬70t相当で、約1,000m上空まで舞い上がった放射性廃棄物は南西の風に乗り、北東方向に幅約9km、長さ105kmの帯状の地域を汚染、約1万人が避難した。避難した人々は1週間に0.025-0.5シーベルト、合計で平均0.52シーベルト、最高0.72シーベルトを被曝した。特に事故現場に近かった1,054人は骨髄に0.57シーベルトを被曝した。
マヤーク会社と官庁によれば、事故後に全体として400 PBq (4×1017 B)の放射能が2万平方キロメートルの範囲にわたって撒き散らされた。27万人が高い放射能にさらされた。官庁が公表した放射能汚染をもとに比較計算すると、事故により新たに100人がガンになると予想される[2]。
国際原子力事象評価尺度ではレベル6(大事故)に分類される。これは1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故と2011年の福島第一原子力発電所事故のレベル7(深刻な事故)に次いで歴史上3番目に重大な原子力事故にあたる。ミュンヘンのヘルムホルツ・センターによればキシュテム事故はこれまで過小評価されていたという[3]。
放射性廃棄物の飛散
放射性廃棄物貯蔵所でもあった湖(イレンコの熱い湖)は、放射性ストロンチウム90などで汚染されたが、1967年春に干魃が発生した際に湖底が干上がって乾燥した。放射性物質を含む砂や泥が風にのって空気中に飛散し、汚染地域が広がり周辺住民に放射性物質による被曝で、新たな健康被害を生むこととなった。
また1950年代に河川に投棄された放射性廃棄物は、対策が講じられず河床に沈殿されたままとなっており、年々下流域の住民の健康被害を深刻なものとしている。
事故の表面化
事故はソビエト連邦の軍事施設で起こったため極秘であったが、1958年には「何かがあったらしい」程度の情報がアメリカ合衆国にも伝わった。概要が明らかになったのは、1976年11月、ソ連から亡命した科学者ジョレス・A・メドベージェフの、イギリスの科学誌「ニュー・サイエンティスト」掲載論文による。
彼はその後『ウラルの核事故』(日本語翻訳有り)を出版。この告発をソ連は真っ向から否定した。原子力を推進する立場の人々からは、このような事故はあり得ず、単なる作り話と一蹴され、ソ連の陰謀論という扱いだった。当初流布された噂では、核爆発に達する臨界事故が起きたとされていたためである。
このため、1989年9月20日にグラスノスチ(情報公開)の一環として外国人(日本人5人)記者団に資料が公開されるまで真相は、明らかにされなかった。また地域住民に、放射能汚染が正式に知らされたのは、ソビエト連邦の崩壊後その後継となったロシア連邦政府発足後の1992年前後であり、対策は後手に回り放射能被害を拡大させた。
備考
- ロシア閣僚会議幹部会によれば、工場周辺に放出された放射性廃棄物の放射能総量は3700万テラベクレル以上で、チェルノブイリ原発事故の20倍に達し、被爆者は約45万人に上ったとしている[4]。
脚注
- ^ 国際原子力機関. "INES - The International Nuclear and Radiological Event Scale" (PDF; 193 kB) (英語). 2011年3月13日閲覧。
- ^ Thomas B. Cochran, Robert S. Norris, Oleg A. Bukharin (1995). "Making the Russian Bomb - From Stalin to Yeltsin" (PDF; 2,2 MB) (英語). Natural Resources Defence Council. pp. 65–109. 2010年11月14日閲覧。
- ^ ヘルムホルツ・センター(ミュンヘン): 50 yeare Strahlenunfall von Kysthym (PDF, 55 kB), 音声の書写, 2007年9月25日
- ^ 高田純 『世界の放射線被曝地調査 自ら測定した渾身のレポート』 講談社 2002年 p.74.
参考文献
- 『ウラルの核惨事』 ジョレス・A・メドベージェフ著 梅林宏道訳 技術と人間 1982年7月 ISBN 4764500248
- 『ウラルの核惨事ジョレス・メドヴェージェフ、ロイ・メドヴェージェフ選集 第2巻』 ジョレス・A・メドベージェフ著 名越陽子訳 現代思潮新社 2017年5月 ISBN 9784329100030