「武王克殷」の版間の差分
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2021年4月3日 (土) 05:58時点における版
牧野の戦い | |
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戦争:殷周革命 | |
年月日:紀元前1027年又は紀元前1046年[1](周の武王11年) | |
場所:牧野 | |
結果:周の決定的勝利 | |
交戦勢力 | |
殷(商) | 周 |
指導者・指揮官 | |
帝辛 | 姫発 姫旦 呂尚 姫奭 |
戦力 | |
700,000(諸説あり) | 400,000(諸説あり) |
損害 | |
不明 | 不明 |
武王克殷(ぶおうこくいん)は、『説苑』の武王が殷の帝辛を討つ場面の冒頭の4字、およびその場面[2]。本文では後者について説明する。
1度目の挙兵
姫発(後の武王)の父の姫昌は、諸侯に幾度となく放伐を薦められたが、主君である帝辛を討つのは道に反するということで、これを退けた。
姫昌亡き後を継いだ姫発は、太公望と呼ばれた呂尚の助けも借りつつ、父同様に善政を敷き、諸侯は殷の帝辛の下を離れ、周の姫発の下に集った。そして諸侯に促され、姫発は帝辛を討つことを決意した。
姫発は徳があることで知られていた父の位牌を掲げて挙兵した。父の位牌とともに盟津まで進軍した。この時、幾つもの瑞兆が現れ、800にもおよぶ諸侯が参加した。しかしこの時、姫発は天の声を聞き時期尚早と考え、撤兵した。
2度目の挙兵
兵を引いて2年の後、帝辛の苛政は一層激しさを増し、再び挙兵した。諸侯はこれに応じ、戦車300乗、士官3000人、武装兵45000人が集まった。牧野において、殷兵70万[注釈 1]と対峙したが、殷の奴隷兵は帝辛に反旗を翻し、姫発はこの戦いに勝利した。
一方で牧野の戦いに敗れた帝辛は、首都朝歌(現在の殷墟)に退き、鹿台という高塔に登り、火を放って焼身自殺した。これにより、殷王朝は滅びたとされる。帝辛の死後、朝歌に入城した姫発は、帝辛の焼死体を探し出し、矢を打ち込んで、首を鉞で落とし、殷放伐の完了を宣言した。これが紀元前1027年[3][4]のことであったとされる。
姫昌の考えと同じく、帝辛を討たずに世を治まることを姫発に進言していた伯夷・叔斉は、これに反発して周を去り、周の作物は食べられないと言って首陽山に籠もり、草木を食べていたがやがて餓死したとされる。司馬遷はこれについて、悪人とされた盜蹠も比較対象として、「天道是邪非邪」(善人が報われるのは本当だろうか)と述べている[5]。
周の創始
周を建てるにあたり、帝辛の叔父の箕子を朝鮮に封じ、帝辛の異母兄の微子啓を宋に封じ、殷の祭祀が絶えないようにした。また、神農の子孫[注釈 2]を焦、黄帝の子孫[注釈 3]を祝、堯の子孫を薊、舜の子孫を陳、禹の子孫[注釈 4]を杞に封じ、古代の王たちの祭祀も継承するようにした。
また、国師・軍師の呂尚(太公望)を斉、弟の周公旦を魯、召公奭を燕、管叔鮮を管、蔡叔度を蔡に封じた。
太伯の弟にあたる虞仲の曾孫である周章[注釈 5]を呉、さらにその弟の虞仲を北方の虞に封じた。
また、鎬京に都し、武器を捨てることで、今後は平和を保つという意思を示した。これにより、周王朝1000年の基礎が築かれた。
関連項目
脚注
- 注釈
- ^ 17万とも。
- ^ 詳しくは神農氏を参照。
- ^ 但し、夏・殷・周は全て黄帝の子孫にあたる。
- ^ つまり夏王朝の子孫。
- ^ 太伯に子は無く、ここに記されるのは全て虞仲の子孫である。また、彼らは姫発の再従兄弟の子にあたる。
- 出典
- ^ 夏商周年表プロジェクトの結果から
- ^ 『説苑・貴徳 三』
武王克殷,召太公而問曰:「将奈其士衆何?」太公対曰:「臣聞愛其人者,兼屋上之烏;憎其人者,悪其餘胥;咸劉厥敵,使靡有餘,何如?」王曰:「不可。」太公出,邵公入,王曰:「為之奈何?」邵公對曰:「有罪者殺之,無罪者活之,何如?」王曰:「不可。」邵公出,周公入,王曰:「為之奈何?」周公曰:「使各居其宅,田其田,無変旧新,唯仁是親,百姓有過,在予一人!」武王曰:「広大乎,平天下矣。凡所以貴士君子者,以其仁而有徳也!」
(武王が殷を滅ぼし、太公を召して問うて言った:「殷の多くの士はどうすべきか?」太公は答えて言った:「私の聞く所では『ある人を愛する者は、その人の家の屋上の烏までも可愛く思えてくる。ある人を憎む者は、その家の周りの柵まで憎たらしく思えてくる。』と言います。だから全部ひとまとめに敵を殺して一人も残さない。これでいかがですか?」王は言った「それはいけない。」太公が出て、邵公が入った。王が言った:「どうすべきか?」邵公は答えて言った:「罪ある者は殺し、罪なき者は活かす。これでいかがですか?」王は言った:「それはいけない。」邵公が出て、周公が入った。王が言った:「どうすべきか?」周公は言った:「それぞれ自分の家に帰らせ、それぞれの田を耕作させ、旧来からの民も、新しくわが民となった者も平等に扱い、ただ仁をもって親しむ。殷の士人たちに過失があったとすれば、その責任は殷王一人にある!」武王は言った:「なんと広大なことか。それでこそ天下を平らげられる。凡そ士・君子を貴ぶ人は、心に仁をもって徳を行うものだ!」) - ^ 『竹書紀年・帝辛』、『竹書紀年・周武王』
- ^ 夏商周年表プロジェクトに拠れば紀元前1046年
- ^ 『史記 巻六十一 伯夷列傳 第一 5』