コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「武王克殷」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「召公奭」の改名に伴うリンク修正依頼 - log
11行目: 11行目:
|combatant2=周
|combatant2=周
|commander1=[[帝辛]]
|commander1=[[帝辛]]
|commander2=[[武王 (周)|姫発]]<br/>[[周公旦|姫旦]]<br/>[[呂尚]]<br/>[[召公セキ|姫奭]]
|commander2=[[武王 (周)|姫発]]<br/>[[周公旦|姫旦]]<br/>[[呂尚]]<br/>[[召公|姫奭]]
|strength1=700,000(諸説あり)
|strength1=700,000(諸説あり)
|strength2=400,000(諸説あり)
|strength2=400,000(諸説あり)

2021年4月3日 (土) 05:58時点における版

牧野の戦い
殷の領土(紫)
戦争殷周革命
年月日紀元前1027年又は紀元前1046年[1](周の武王11年)
場所牧野
結果の決定的勝利
交戦勢力
(商)
指導者・指揮官
帝辛 姫発
姫旦
呂尚
姫奭
戦力
700,000(諸説あり) 400,000(諸説あり)
損害
不明 不明

武王克殷(ぶおうこくいん)は、『説苑』の武王が殷の帝辛を討つ場面の冒頭の4字、およびその場面[2]。本文では後者について説明する。

1度目の挙兵

姫発(後の武王)の父の姫昌は、諸侯に幾度となく放伐を薦められたが、主君である帝辛を討つのは道に反するということで、これを退けた。

姫昌亡き後を継いだ姫発は、太公望と呼ばれた呂尚の助けも借りつつ、父同様に善政を敷き、諸侯は殷の帝辛の下を離れ、周の姫発の下に集った。そして諸侯に促され、姫発は帝辛を討つことを決意した。

姫発は徳があることで知られていた父の位牌を掲げて挙兵した。父の位牌とともに盟津まで進軍した。この時、幾つもの瑞兆が現れ、800にもおよぶ諸侯が参加した。しかしこの時、姫発は天の声を聞き時期尚早と考え、撤兵した。

2度目の挙兵

兵を引いて2年の後、帝辛の苛政は一層激しさを増し、再び挙兵した。諸侯はこれに応じ、戦車300乗、士官3000人、武装兵45000人が集まった。牧野において、殷兵70万[注釈 1]と対峙したが、殷の奴隷兵は帝辛に反旗を翻し、姫発はこの戦いに勝利した。

一方で牧野の戦いに敗れた帝辛は、首都朝歌(現在の殷墟)に退き、鹿台という高塔に登り、火を放って焼身自殺した。これにより、殷王朝は滅びたとされる。帝辛の死後、朝歌に入城した姫発は、帝辛の焼死体を探し出し、矢を打ち込んで、首をで落とし、殷放伐の完了を宣言した。これが紀元前1027年[3][4]のことであったとされる。

姫昌の考えと同じく、帝辛を討たずに世を治まることを姫発に進言していた伯夷・叔斉は、これに反発して周を去り、周の作物は食べられないと言って首陽山に籠もり、草木を食べていたがやがて餓死したとされる。司馬遷はこれについて、悪人とされた盜蹠も比較対象として、「天道是邪非邪」(善人が報われるのは本当だろうか)と述べている[5]

周の創始

周を建てるにあたり、帝辛の叔父の箕子朝鮮に封じ、帝辛の異母兄の微子啓に封じ、殷の祭祀が絶えないようにした。また、神農の子孫[注釈 2]黄帝の子孫[注釈 3]の子孫をの子孫をの子孫[注釈 4]に封じ、古代の王たちの祭祀も継承するようにした。

また、国師・軍師の呂尚(太公望)を、弟の周公旦召公奭管叔鮮蔡叔度に封じた。

太伯の弟にあたる虞仲の曾孫である周章中国語版[注釈 5]、さらにその弟の虞仲を北方のに封じた。

また、鎬京に都し、武器を捨てることで、今後は平和を保つという意思を示した。これにより、周王朝1000年の基礎が築かれた。

関連項目

脚注

  • 注釈
  1. ^ 17万とも。
  2. ^ 詳しくは神農氏を参照。
  3. ^ 但し、は全て黄帝の子孫にあたる。
  4. ^ つまり夏王朝の子孫。
  5. ^ 太伯に子は無く、ここに記されるのは全て虞仲の子孫である。また、彼らは姫発の再従兄弟の子にあたる。
  • 出典
  1. ^ 夏商周年表プロジェクトの結果から
  2. ^ 『説苑・貴徳 三』
    武王克殷,召太公而問曰:「将奈其士衆何?」太公対曰:「臣聞愛其人者,兼屋上之烏;憎其人者,悪其餘胥;咸劉厥敵,使靡有餘,何如?」王曰:「不可。」太公出,邵公入,王曰:「為之奈何?」邵公對曰:「有罪者殺之,無罪者活之,何如?」王曰:「不可。」邵公出,周公入,王曰:「為之奈何?」周公曰:「使各居其宅,田其田,無変旧新,唯仁是親,百姓有過,在予一人!」武王曰:「広大乎,平天下矣。凡所以貴士君子者,以其仁而有徳也!」
    (武王が殷を滅ぼし、太公を召して問うて言った:「殷の多くの士はどうすべきか?」太公は答えて言った:「私の聞く所では『ある人を愛する者は、その人の家の屋上の烏までも可愛く思えてくる。ある人を憎む者は、その家の周りの柵まで憎たらしく思えてくる。』と言います。だから全部ひとまとめに敵を殺して一人も残さない。これでいかがですか?」王は言った「それはいけない。」太公が出て、邵公が入った。王が言った:「どうすべきか?」邵公は答えて言った:「罪ある者は殺し、罪なき者は活かす。これでいかがですか?」王は言った:「それはいけない。」邵公が出て、周公が入った。王が言った:「どうすべきか?」周公は言った:「それぞれ自分の家に帰らせ、それぞれの田を耕作させ、旧来からの民も、新しくわが民となった者も平等に扱い、ただ仁をもって親しむ。殷の士人たちに過失があったとすれば、その責任は殷王一人にある!」武王は言った:「なんと広大なことか。それでこそ天下を平らげられる。凡そ士・君子を貴ぶ人は、心に仁をもって徳を行うものだ!」)
  3. ^ 『竹書紀年・帝辛』『竹書紀年・周武王』
  4. ^ 夏商周年表プロジェクトに拠れば紀元前1046年
  5. ^ 『史記 巻六十一 伯夷列傳 第一 5』