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'''武王'''(ぶおう、? - [[紀元前690年]]、在位:[[紀元前741年]] - 紀元前690年)は、[[中国]]の[[春秋時代]]の[[楚 (春秋)|楚]]の君主。[[姓]]は'''羋'''、[[氏 (中国)|氏]]は'''熊'''。[[諱]]は'''徹'''<ref>[[清華簡]]『楚居』による。『[[史記]]』楚世家が熊通とするのは、[[漢]]の[[武帝 (漢)|武帝]]の[[避諱|諱を避けた]]ためと考えられる。</ref>。 |
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== 脚注 == |
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2021年3月29日 (月) 12:06時点における版
武王 熊徹 | |
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楚 | |
王 | |
王朝 | 楚 |
在位期間 | 前741年 - 前690年 |
都城 | 郢 |
姓・諱 | 熊徹 |
諡号 | 武王 |
没年 | 紀元前690年 |
父 | 霄敖 |
后妃 | 鄧曼 |
武王(ぶおう、? - 紀元前690年、在位:紀元前741年 - 紀元前690年)は、中国の春秋時代の楚の君主。姓は羋、氏は熊。諱は徹[1]。
霄敖の子として生まれた。紀元前741年、兄王の蚡冒が死去すると、兄の子を殺して即位した[2]。紀元前706年、随を攻撃した[3]。紀元前704年、沈鹿に諸侯を召集し、参集しなかった黄と随を攻撃した[4]。周の桓王に昇爵を要求したが拒否され、王号を自称した[2]。紀元前703年、巴とともに鄾を包囲し、鄧軍を撃破した[5]。紀元前700年、絞を攻撃して破り、和を結んで凱旋した。[6]。紀元前699年、屈瑕に羅を攻撃させたが、楚軍は敗れて、屈瑕は自殺した[7]。紀元前690年に随を攻めた際に病没した[8]。
脚注
- ^ 清華簡『楚居』による。『史記』楚世家が熊通とするのは、漢の武帝の諱を避けたためと考えられる。
- ^ a b 『史記』楚世家
- ^ 『春秋左氏伝』桓公6年
- ^ 『春秋左氏伝』桓公8年
- ^ 『春秋左氏伝』桓公9年
- ^ 『春秋左氏伝』桓公12年
- ^ 『春秋左氏伝』桓公13年
- ^ 『春秋左氏伝』荘公4年
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