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{{Infobox Musician <!-- プロジェクト:音楽家を参照 -->
{{ウィキポータルリンク|クラシック音楽}}
|名前 = セオドア・アイスフェルト<br />Theodore Eisfeld
'''セオドア'''('''テオドール''')'''・アイスフェルト'''(Theodore Eisfeld, [[1816年]][[4月11日]] - [[1882年]][[9月16日]])は、[[ブラウンシュヴァイク公国]][[ヴォルフェンビュッテル]]に生まれたドイツ人[[指揮者]]。
|画像 = Theodore Eisfeld.jpg
|画像説明 = 1957年 - 1958年期の写真{{Sfn|Burkat|Ross|Oteri|2013}}
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|出生名 = <!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 -->
|別名 = <!-- ミュージシャン/グループの別名を記載。愛称や略称ではありません -->
|出生 = {{生年月日|1816|4|11}}
|出身地 = ヴォルフェンビュッテル
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|職業 = {{hlist-comma|[[指揮者]]|[[作曲家]]|[[ヴィオラ]]奏者}}
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{{Portal クラシック音楽}}
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'''セオドア・アイスフェルト'''(Theodore Eisfeld, [[1816年]][[4月11日]]-[[1882年]][[9月16日]])は、ドイツの[[指揮者]]、[[作曲家]]、[[ヴィオラ]]奏者である{{Sfn|Shanet|2013}}。ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ(のちの[[ニューヨーク・フィルハーモニック]])の指揮者を務めたほか、ヴィオラ奏者として弦楽四重奏団を組織し、アメリカにおける室内楽演奏のパイオニアとなった{{Sfn|Shanet|2013}}{{Sfn|Ritter|1883|p=275}}{{Sfn|Times|1911|p=8}}。
==生涯==
===渡米以前===
1816年4月11日、ドイツの[[ヴォルフェンビュッテル]]で生まれる{{Sfn|Shanet|2013}}。[[ブラウンシュヴァイク]]でカール・ミュラーにヴァイオリンを師事し、[[ドレスデン]]で[[カール・ゴットリープ・ライシガー]]に作曲を師事したほか、[[ボローニャ]]で[[ジョアキーノ・ロッシーニ]]にも師事した{{Sfn|Shanet|2013}}{{Sfn|Appletons' Cyclopædia of American Biography|1900|p=317}}。1839年から1843年にかけて[[ヴィースバーデン]]の宮廷歌劇場で指揮者を務めたほか、[[パリ]]でも活躍した{{Sfn|Shanet|2013}}。
===アメリカ時代===
1848年に[[ニューヨーク]]へと移住したのち、アイスフェルトはニューヨークのクラシック音楽文化の振興に貢献し、尊敬される存在となった{{Sfn|Ritter|1883|p=275}}。アイスフェルトは作曲家の{{仮リンク|アンソニー・ハインリヒ|en|Anthony Heinrich}}と交流を持ったほか{{Sfn|Upton|1939|p=237}}{{Sfn|Upton|1939|p=238}}、1850年に作成されたアメリカン・アート・ユニオンのメンバーリストには、アイスフェルトの名前が記された{{Sfn|Bulletin of the American Art-Union|1850|p=183}}。


====ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティとの活動====
[[ドレスデン]]で[[カール・ゴットリープ・ライシガー]]より音楽を学ぶ。[[ヴィースバーデン]]宮廷歌劇場の[[音楽監督]](1839年 - 1843年)を務めたのち渡米、[[ニューヨーク・フィルハーモニック]]の初代常任指揮者となる。在任中、[[ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル|ヘンデル]]『[[メサイア (ヘンデル)|メサイア]]』コンサート、室内楽、四重奏団コンサートの創設など、楽団の拡充に尽力した。
アイスフェルトは1849年にニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティを指揮して成功を収めた{{Sfn|Shanet|2013}}{{Sfn|Appletons' Cyclopædia of American Biography|1900|p=317}}。これにより1849年から1850年のシーズンには4つのコンサートのうち3つを指揮するようになり、1852年-1853年シーズンには同団の初代首席指揮者となった{{Sfn|Shanet|2013}}{{Sfn|Thomas|1905|p=34}}{{Sfn|Oestreich|1992}}。アイスフェルトは1865年までこの地位にあったが、途中で病気になったこともあり1854年からは[[カール・バーグマン]]と交互に指揮をするようになった{{Sfn|Shanet|2013}}{{Sfn|Ritter|1883|p=348}}{{Sfn|Thomas|1905|p=36}}。また、アイスフェルトは1850年から1866年にかけて同団の役員を務め、1856年からは副理事長を務めた{{Sfn|Shanet|2013}}。


なお、アイスフェルトはニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティの他にも、ニューヨーク・ハーモニック・ソサエティやブルックリン・フィルハーモニック・ソサエティを指揮したほか{{Sfn|The American Art Journal|1866|p=21}}{{Sfn|Ritter|1883|p=281}}{{efn2|指揮者の[[セオドア・トマス]]は、ブルックリン・フィルハーモニック・ソサエティを指揮した際はアイスフェルトや[[カール・バーグマン]]と同額のギャラを受け取ったが、その額はオーケストラメンバーのギャラよりも低かったと記している{{Sfn|Thomas|1905|p=37}}。なお、ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティについてもギャラは低かったと記している{{Sfn|Thomas|1905|p=37}}。}}、軍楽隊のコンサートも指揮した{{Sfn|Shive|1997}}。また、ニューヨークで初めてイタリアオペラを上演した{{Sfn|Ritter|1883|p=276}}。
[[1865年]]に職を辞して帰国した。ヴィースバーデンで没した。


====室内楽演奏====
ちなみにアイスフェルトは、蒸気船オーストリア号{{enlink|SS Austria|s=off}}の悲劇に際し、辛くも遭難を免れた生存者のひとりである。
オーケストラの指揮の他にも、アイスフェルトはヴィオラ奏者として室内楽の演奏を行っており、アメリカにおける室内楽演奏のパイオニアと言われた{{Sfn|Shanet|2013}}{{Sfn|Ritter|1883|p=275}}{{efn2|アイスフェルトと同時期に室内楽を演奏したグループとしては、1855年から活動を開始した[[セオドア・トマス]]とウィリアム・メイソンによるものがある{{Sfn|Burkat|Ross|Oteri|2013}}。}}。


1849年から1850年にかけて、{{仮リンク|ヘルマン・サロニ|en|Herrman S. Saroni}}が主催する “Saroni’s Musical Times” で行った一連の室内楽コンサートが成功したことを受けて、アイスフェルトは1851年から1859年にかけて自身の室内楽コンサートシリーズを実施した{{Sfn|Shanet|2013}}{{Sfn|Urrows|2013}}。アイスフェルト自身はヴィオラ奏者を務め、ヴァイオリン奏者のヨーゼフ・ノル{{Sfn|Goldberg|2013b}}、同じくヴァイオリン奏者のチャールズ・レイエス、チェロ奏者のL. アイヒホルンと弦楽四重奏団を結成し(1855年にはチェロ奏者がフレデリック・バーグナーに交代した){{Sfn|Goldberg|2013a}}、曲目によってはピアニストの{{仮リンク|オットー・ドレーゼル|en|Otto Dresel}}や{{仮リンク|ギュスターヴ・サッター|en|Gustave Satter}}を加えた{{Sfn|Shanet|2013}}{{Sfn|Thomas|1905|p=31}}{{Sfn|Johnson|1963|p=62}}{{efn2|{{仮リンク|オットー・ドレーゼル|en|Otto Dresel}}とは、ピアニストおよびオルガニストのウィリアム・シャルフェンベルクの仲介で知り合った{{Sfn|Urrows|1994|p=348}}。また、ドレーゼルと同じくアイスフェルトと室内楽で共演したピアニストの{{仮リンク|ギュスターヴ・サッター|en|Gustave Satter}}は、アイスフェルトが指揮するオーケストラとも共演した{{Sfn|Johnson|1963|p=66}}。}}。なお、1851年2月18日にホープ・チャペルで行われた第1回演奏会のプログラムは以下のとおりである{{Sfn|Ritter|1883|p=275}}。
{{ニューヨーク・フィルハーモニック音楽監督|1849年 - 1854年}}


{{Quotation|{{ubl
{{Classic-stub}}
|[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン]]作曲『[[弦楽四重奏曲第78番 (ハイドン)|弦楽四重奏曲第78番「日の出」]]』
{{Music-bio-stub}}
|[[フェリックス・メンデルスゾーン]]作曲の歌曲数曲
|フェリックス・メンデルスゾーン作曲『[[ピアノ三重奏曲第1番 (メンデルスゾーン)|ピアノ三重奏曲第1番]]』
|[[フランツ・シューベルト]]作曲の歌曲
|[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン]]作曲『[[弦楽四重奏曲第1番 (ベートーヴェン)|弦楽四重奏曲第1番]]』}}
}}

アイスフェルトの室内楽コンサートは上流階級のアマチュア音楽家たちから支持された{{Sfn|Ritter|1883|p=276}}。コンサートでは[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]、[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]、[[ルイ・シュポーア|シュポア]]などの曲を取り上げたが、「古典の作品が多すぎる」と言われることもあった{{Sfn|Ritter|1883|p=276}}。ただし、ニューヨークでは室内楽曲が演奏されることは少なかったぶん、これらの曲目はニューヨークの聴衆たちにとっては新鮮なものであった{{Sfn|Ritter|1883|p=276}}。なお、アイスフェルトはヴィオラの他にも、ヴァイオリンやピアノの演奏にも堪能であったという{{Sfn|Ritter|1883|p=275}}。

===ヨーロッパ凱旋後===
1866年にはヨーロッパに戻り引退したとされる{{Sfn|Ritter|1883|p=275}}{{Sfn|Shanet|2013}}。帰国後は、[[フランクフルト]]におけるオペラや音楽祭を鑑賞した様子や{{Sfn|Eisfeld|1866|p=119}}{{Sfn|Eisfeld|1866|p=120}}、[[ヴィースバーデン]]で室内楽を演奏する様子をアメリカにいる友人の評論家に書き送ったりしている{{Sfn|Eisfeld|1867|p=331}}。1882年9月16日にヴィースバーデンで死去した{{Sfn|Ritter|1883|p=275}}。

==作曲活動==
アイスフェルトは作曲家としても認められており、ソリストのために作曲した作品はニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティでも演奏された{{Sfn|Shanet|2013}}。アイスフェルトの作品には以下のようなものがある{{Sfn|Shanet|2013}}。
*ピストン式コルネットのためのエレジー・カンタービレ{{Sfn|Shanet|2013}}
*ソプラノのための “Variations de Bravura”{{Sfn|Shanet|2013}}
*バリトンのための “Scena Italiana di Concerto”{{Sfn|Shanet|2013}}
*クラリネットのためのコンチェルティーノ{{Sfn|Shanet|2013}}

==事故==
1858年、アイスフェルトがヨーロッパに帰る際に乗っていた{{仮リンク|蒸気船オーストリア号|en|SS Austria}}が炎上してしまった{{Sfn|Appletons' Cyclopædia of American Biography|1900|p=317}}。食料もない状態で2日ほど漂流したにもかかわらず、アイスフェルトは奇跡的に助かり、数少ない生還者の1人となった(死者は471人におよんだ){{Sfn|Appletons' Cyclopædia of American Biography|1900|p=317}}{{Sfn|Shanet|2013}}。ただ、これによりアイスフェルトは神経症となってしまった{{Sfn|Shanet|2013}}。

==評価==
アイスフェルトはニューヨークのクラシック音楽文化の振興に貢献し尊敬された{{Sfn|Ritter|1883|p=275}}。1851年にニューヨーク・ハーモニックを指揮して行われた[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]作曲『{{仮リンク|聖パウロ (オラトリオ)|label=聖パウロ|en|St. Paul (oratorio)}}』の公演では、アイスフェルトの統率力や正確さ、力強さなどが賞賛された{{Sfn|The Musical Times and Singing Class Circular|1851|p=185}}。

一方で、指揮者の[[セオドア・トマス]]はアイスフェルトについて「ただ拍子を刻み、間違いを修正するだけの指揮者だった」「アイスフェルトの弦楽四重奏団は特に重要な成果を残していない」と評している{{Sfn|Thomas|1905|p=35}}{{Sfn|Thomas|1905|p=126}}。また、歴史家の{{仮リンク|ジョーゼフ・ホロウィッツ|en|Joseph Horowitz}}は、アイスフェルトよりも[[カール・バーグマン]]の方が魅力的な指揮者であったと記している{{Sfn|Horowitz|2020|p=47}}。

==脚注==
===注釈===
{{notelist2|45em}}
===出典===
{{reflist|25em}}

==参考文献==
*{{Cite journal
|title=A List of Members of the American Art-Union for the Year 1850
|journal=Bulletin of the American Art-Union
|number=10
|year=1850
|date=1850-12-31
|pages=179-188
|url=https://www-jstor-org.wikipedialibrary.idm.oclc.org/stable/20646837?Search=yes&resultItemClick=true&searchText=%22Theodore+Eisfeld%22&searchUri=%2Faction%2FdoBasicSearch%3FQuery%3D%2522Theodore%2BEisfeld%2522%26so%3Drel&ab_segments=0%2Fbasic_phrase_search%2Fcontrol&refreqid=fastly-default%3A34212cc4580d8e9f3e1cf13e63a1282a&seq=1#metadata_info_tab_contents
|ref={{SfnRef|Bulletin of the American Art-Union|1850}}
}}
*{{Cite journal
|title=Brief Chronicle of the Last Month
|journal=The Musical Times and Singing Class Circular
|volume=4
|number=84
|year=1851
|date=1851-5-1
|publisher=Musical Times Publications Ltd.
|pages=185-186
|url=https://www-jstor-org.wikipedialibrary.idm.oclc.org/stable/3370534?Search=yes&resultItemClick=true&searchText=%22Theodore+Eisfeld%22&searchUri=%2Faction%2FdoBasicSearch%3FQuery%3D%2522Theodore%2BEisfeld%2522%26so%3Drel&ab_segments=0%2Fbasic_phrase_search%2Fcontrol&refreqid=fastly-default%3Ac5b33f9568e0944e0ffd41441bcd7748&seq=1#metadata_info_tab_contents
|ref={{SfnRef|The Musical Times and Singing Class Circular|1851}}
}}
*{{Cite journal
|title=Brooklyn Philharmonic Society!
|journal=The American Art Journal
|volume=6
|number=2
|year=1866
|publisher=The American Art Journal
|pages=21-22
|url=https://www-jstor-org.wikipedialibrary.idm.oclc.org/stable/25306538?Search=yes&resultItemClick=true&searchText=%22Theodore+Eisfeld%22&searchUri=%2Faction%2FdoBasicSearch%3FQuery%3D%2522Theodore%2BEisfeld%2522%26so%3Drel&ab_segments=0%2Fbasic_phrase_search%2Fcontrol&refreqid=fastly-default%3Ae8adfc845ee78728414c1a50ae435e69&seq=1#metadata_info_tab_contents
|ref={{SfnRef|The American Art Journal|1866}}
}}
*{{Cite encyclopedia
|first1=Leonard |last1=Burkat
|first2=Gilbert |last2=Ross
|first3=Frank J.|last3=Oteri
|title=Chamber music in the United States
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|encyclopedia=Grove Music Online
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|publisher=Oxford University Press
|date=2013
|accessdate=2021-12-22
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|last=Eisfeld
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|title=A Letter from Theodore Eisfeld
|journal=The American Art Journal
|volume=5
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|last=Eisfeld
|first=Theodore
|title=Correspondence.
|journal=The American Art Journal
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*{{Cite web
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*{{Cite web
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*{{Cite book
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* {{Cite Appletons'
|wstitle=Eisfeld, Theodore
|year=1900
|ref={{SfnRef|Appletons' Cyclopædia of American Biography|1900}}
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==外部リンク==
*[https://nyphil.org/about-us/artists/theodore-eisfeld Theodore Eisfeld] - New York Philharmonic
*{{IMSLP|author=Eisfeld,_Theodor|cname=Eisfeld, Theodor}}

{{ニューヨーク・フィルハーモニック音楽監督|1849年 - 1854年}}
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{{DEFAULTSORT:あいすふえると せおとあ}}

2023年11月13日 (月) 05:05時点における最新版

セオドア・アイスフェルト
Theodore Eisfeld
1957年 - 1958年期の写真[1]
基本情報
生誕 (1816-04-11) 1816年4月11日
出身地 ヴォルフェンビュッテル
死没 (1882-09-16) 1882年9月16日(66歳没)
ジャンル クラシック音楽
職業
担当楽器 ヴィオラ

セオドア・アイスフェルト(Theodore Eisfeld, 1816年4月11日-1882年9月16日)は、ドイツの指揮者作曲家ヴィオラ奏者である[2]。ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティ(のちのニューヨーク・フィルハーモニック)の指揮者を務めたほか、ヴィオラ奏者として弦楽四重奏団を組織し、アメリカにおける室内楽演奏のパイオニアとなった[2][3][4]

生涯

[編集]

渡米以前

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1816年4月11日、ドイツのヴォルフェンビュッテルで生まれる[2]ブラウンシュヴァイクでカール・ミュラーにヴァイオリンを師事し、ドレスデンカール・ゴットリープ・ライシガーに作曲を師事したほか、ボローニャジョアキーノ・ロッシーニにも師事した[2][5]。1839年から1843年にかけてヴィースバーデンの宮廷歌劇場で指揮者を務めたほか、パリでも活躍した[2]

アメリカ時代

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1848年にニューヨークへと移住したのち、アイスフェルトはニューヨークのクラシック音楽文化の振興に貢献し、尊敬される存在となった[3]。アイスフェルトは作曲家のアンソニー・ハインリヒ英語版と交流を持ったほか[6][7]、1850年に作成されたアメリカン・アート・ユニオンのメンバーリストには、アイスフェルトの名前が記された[8]

ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティとの活動

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アイスフェルトは1849年にニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティを指揮して成功を収めた[2][5]。これにより1849年から1850年のシーズンには4つのコンサートのうち3つを指揮するようになり、1852年-1853年シーズンには同団の初代首席指揮者となった[2][9][10]。アイスフェルトは1865年までこの地位にあったが、途中で病気になったこともあり1854年からはカール・バーグマンと交互に指揮をするようになった[2][11][12]。また、アイスフェルトは1850年から1866年にかけて同団の役員を務め、1856年からは副理事長を務めた[2]

なお、アイスフェルトはニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティの他にも、ニューヨーク・ハーモニック・ソサエティやブルックリン・フィルハーモニック・ソサエティを指揮したほか[13][14][注 1]、軍楽隊のコンサートも指揮した[16]。また、ニューヨークで初めてイタリアオペラを上演した[17]

室内楽演奏

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オーケストラの指揮の他にも、アイスフェルトはヴィオラ奏者として室内楽の演奏を行っており、アメリカにおける室内楽演奏のパイオニアと言われた[2][3][注 2]

1849年から1850年にかけて、ヘルマン・サロニ英語版が主催する “Saroni’s Musical Times” で行った一連の室内楽コンサートが成功したことを受けて、アイスフェルトは1851年から1859年にかけて自身の室内楽コンサートシリーズを実施した[2][18]。アイスフェルト自身はヴィオラ奏者を務め、ヴァイオリン奏者のヨーゼフ・ノル[19]、同じくヴァイオリン奏者のチャールズ・レイエス、チェロ奏者のL. アイヒホルンと弦楽四重奏団を結成し(1855年にはチェロ奏者がフレデリック・バーグナーに交代した)[20]、曲目によってはピアニストのオットー・ドレーゼル英語版ギュスターヴ・サッター英語版を加えた[2][21][22][注 3]。なお、1851年2月18日にホープ・チャペルで行われた第1回演奏会のプログラムは以下のとおりである[3]

アイスフェルトの室内楽コンサートは上流階級のアマチュア音楽家たちから支持された[17]。コンサートではハイドンモーツァルトベートーヴェンメンデルスゾーンシュポアなどの曲を取り上げたが、「古典の作品が多すぎる」と言われることもあった[17]。ただし、ニューヨークでは室内楽曲が演奏されることは少なかったぶん、これらの曲目はニューヨークの聴衆たちにとっては新鮮なものであった[17]。なお、アイスフェルトはヴィオラの他にも、ヴァイオリンやピアノの演奏にも堪能であったという[3]

ヨーロッパ凱旋後

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1866年にはヨーロッパに戻り引退したとされる[3][2]。帰国後は、フランクフルトにおけるオペラや音楽祭を鑑賞した様子や[25][26]ヴィースバーデンで室内楽を演奏する様子をアメリカにいる友人の評論家に書き送ったりしている[27]。1882年9月16日にヴィースバーデンで死去した[3]

作曲活動

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アイスフェルトは作曲家としても認められており、ソリストのために作曲した作品はニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティでも演奏された[2]。アイスフェルトの作品には以下のようなものがある[2]

  • ピストン式コルネットのためのエレジー・カンタービレ[2]
  • ソプラノのための “Variations de Bravura”[2]
  • バリトンのための “Scena Italiana di Concerto”[2]
  • クラリネットのためのコンチェルティーノ[2]

事故

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1858年、アイスフェルトがヨーロッパに帰る際に乗っていた蒸気船オーストリア号英語版が炎上してしまった[5]。食料もない状態で2日ほど漂流したにもかかわらず、アイスフェルトは奇跡的に助かり、数少ない生還者の1人となった(死者は471人におよんだ)[5][2]。ただ、これによりアイスフェルトは神経症となってしまった[2]

評価

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アイスフェルトはニューヨークのクラシック音楽文化の振興に貢献し尊敬された[3]。1851年にニューヨーク・ハーモニックを指揮して行われたメンデルスゾーン作曲『聖パウロ英語版』の公演では、アイスフェルトの統率力や正確さ、力強さなどが賞賛された[28]

一方で、指揮者のセオドア・トマスはアイスフェルトについて「ただ拍子を刻み、間違いを修正するだけの指揮者だった」「アイスフェルトの弦楽四重奏団は特に重要な成果を残していない」と評している[29][30]。また、歴史家のジョーゼフ・ホロウィッツ英語版は、アイスフェルトよりもカール・バーグマンの方が魅力的な指揮者であったと記している[31]

脚注

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注釈

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  1. ^ 指揮者のセオドア・トマスは、ブルックリン・フィルハーモニック・ソサエティを指揮した際はアイスフェルトやカール・バーグマンと同額のギャラを受け取ったが、その額はオーケストラメンバーのギャラよりも低かったと記している[15]。なお、ニューヨーク・フィルハーモニック・ソサエティについてもギャラは低かったと記している[15]
  2. ^ アイスフェルトと同時期に室内楽を演奏したグループとしては、1855年から活動を開始したセオドア・トマスとウィリアム・メイソンによるものがある[1]
  3. ^ オットー・ドレーゼル英語版とは、ピアニストおよびオルガニストのウィリアム・シャルフェンベルクの仲介で知り合った[23]。また、ドレーゼルと同じくアイスフェルトと室内楽で共演したピアニストのギュスターヴ・サッター英語版は、アイスフェルトが指揮するオーケストラとも共演した[24]

出典

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参考文献

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外部リンク

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