コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「李陽 (東晋)」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 「温キョウ」→「温嶠」等の改名に伴うリンク修正依頼 (温嶠) - log
4行目: 4行目:
東晋に仕え、[[竟陵郡]]太守に任じられていた。
東晋に仕え、[[竟陵郡]]太守に任じられていた。


[[328年]]9月、[[蘇峻の乱]]を鎮圧すべく、征西大将軍[[陶侃]]は盟主となって戦い、李陽は督護として参戦していた。朝廷側は苦戦が続き、平南将軍[[温キョウ|温嶠]]は自軍の兵糧が不足したため、陶侃から兵糧を借りようとした。陶侃は大いに怒り、荊州への撤退を考えた。[[廬江郡]]太守[[毛宝]]が仲介に入り、李陽も陶侃に「今は討伐軍の足並みが揃っていないことが大事です。公(陶侃)が兵糧があるといえども、安んじて食事をすることなどできましょうか」と説いた。陶侃は米5万石の穀物を温嶠へ供出することで話がまとまり、撤退を取りやめた。
[[328年]]9月、[[蘇峻の乱]]を鎮圧すべく、征西大将軍[[陶侃]]は盟主となって戦い、李陽は督護として参戦していた。朝廷側は苦戦が続き、平南将軍[[温嶠]]は自軍の兵糧が不足したため、陶侃から兵糧を借りようとした。陶侃は大いに怒り、荊州への撤退を考えた。[[廬江郡]]太守[[毛宝]]が仲介に入り、李陽も陶侃に「今は討伐軍の足並みが揃っていないことが大事です。公(陶侃)が兵糧があるといえども、安んじて食事をすることなどできましょうか」と説いた。陶侃は米5万石の穀物を温嶠へ供出することで話がまとまり、撤退を取りやめた。


李陽は[[石頭城 (南京)|石頭城]]の南で[[蘇峻]]軍を迎撃した。驃騎将軍蘇峻は軽騎で出陣したが落馬した。李陽の武将彭世が陣中で蘇峻を斬った<ref>『晋書』巻66 陶侃</ref>。これを知った蘇峻軍は崩壊した。
李陽は[[石頭城 (南京)|石頭城]]の南で[[蘇峻]]軍を迎撃した。驃騎将軍蘇峻は軽騎で出陣したが落馬した。李陽の武将彭世が陣中で蘇峻を斬った<ref>『晋書』巻66 陶侃</ref>。これを知った蘇峻軍は崩壊した。

2021年3月10日 (水) 14:52時点における版

李 陽(り よう、生没年不詳)は、東晋初期の軍人。出身は不明。反乱討伐や後趙の侵攻を防いだ。

生涯

東晋に仕え、竟陵郡太守に任じられていた。

328年9月、蘇峻の乱を鎮圧すべく、征西大将軍陶侃は盟主となって戦い、李陽は督護として参戦していた。朝廷側は苦戦が続き、平南将軍温嶠は自軍の兵糧が不足したため、陶侃から兵糧を借りようとした。陶侃は大いに怒り、荊州への撤退を考えた。廬江郡太守毛宝が仲介に入り、李陽も陶侃に「今は討伐軍の足並みが揃っていないことが大事です。公(陶侃)が兵糧があるといえども、安んじて食事をすることなどできましょうか」と説いた。陶侃は米5万石の穀物を温嶠へ供出することで話がまとまり、撤退を取りやめた。

李陽は石頭城の南で蘇峻軍を迎撃した。驃騎将軍蘇峻は軽騎で出陣したが落馬した。李陽の武将彭世が陣中で蘇峻を斬った[1]。これを知った蘇峻軍は崩壊した。

329年2月、討伐軍は一斉に石頭城を攻めた。李陽は蘇峻の弟の蘇逸と査浦で戦ったが敗れた。しかし、建威長史滕含が精鋭を率いて攻撃、蘇逸を破った。

332年7月、陶侃の兄の子の南陽郡太守陶臻とともに新野を攻めて、これを攻略した。南中郎将桓宣・平西参軍陶斌も樊城を攻略、懼れた後趙の荊州刺史郭敬は荊州から撤退した。桓宣と李陽は襄陽を奪回した[2]

339年9月、後趙の大都督夔安が石城を包囲した。李陽は応戦してこれを破り、斬首5千余の戦果をあげた。敗れた夔安は撤退した。

これ以後、李陽の事跡は史書に記されていない。

脚注

  1. ^ 『晋書』巻66 陶侃
  2. ^ 『晋書』巻7 成帝では、李陽が新野と襄陽を攻略、これらの守りに就いたと記されている。

参考文献