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「シャルマネセル3世」の版間の差分

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{{Infobox monarch
{{基礎情報 君主
| 人名 = シャルマネセル3世
| name = シャルマネセル3世
| title = {{unbulleted list
| 各国語表記 =
| 君主号 = [[アッシリア]]
| [[アッシリアの君主一覧|アッシリアの王]]
| {{仮リンク|全土の王|en|Glorious King of the Lands}}{{訳語疑問点|date=2021年3月}}
| 画像 = King Shalmaneser III Istanbul Museum.JPG
| {{仮リンク|四方世界の王 (メソポタミア)|label=四方世界の王|en|King of the Four Corners of the World}}
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| 画像説明 = シャルマネセル3世像([[イスタンブール考古学博物館]]蔵)
}}
| 在位 = [[紀元前9世紀|紀元前858年]] - [[紀元前824年]]
| image = Shalmaneser III (relief detail).jpg
| 戴冠日 =
| caption =「シャルマネセル3世の玉座の基壇(''Throne Dais of Shalmaneser III'')」に描かれたシャルマネセル3世。[[イラク国立博物館]]収蔵。
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| reign = [[紀元前9世紀|前859年]]-[[紀元前9世紀|前824年]]
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| 王室歌 =
'''シャルマネセル3世'''(''Shalmaneser III''、在位:前859年-前824年)は、古代メソポタミア地方の[[新アッシリア帝国]]の王。ウラルトゥ、パレスティナ、バビロニアなど多方面への遠征を繰り返した。旧約聖書に登場する北イスラエル王[[イエフ]]を記録した[[黒色オベリスク]]は貴重な史料となっている。帝国前半の興隆期を担ったが、彼の死後は王の権力が低下し、帝国は停滞期に入った。
| 父親 = [[アッシュールナツィルパル2世]]
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| サイン =
}}
'''シャルマネセル3世'''('''Shalmaneser III'''、在位:[[紀元前9世紀|紀元前858年]] - [[紀元前824年]])は[[アッシリア|新アッシリア王国]]時代の[[アッシリア]]の[[王]]。[[アッカド語]]ではシャルマヌ・アシャレド(Shulmanu asharid)と表記される。名前の意味は「[[シャルマヌ]]神は至高なり」である。アッシリアの勢力を大幅に拡大したが、晩年には息子の反乱のために国内は大混乱に陥った。


本来の名前はシャルマヌ・アシャレド(''Šulmānu-ašarēdu'')であり、「{{仮リンク|シャルマヌ|en|Shulmanu}}神は至高なり」を意味する。[[アッシュル・ナツィルパル2世]]の息子にして後継者であった{{sfn|Sayce|1901}}。[[アラブ人]]と[[カルデア人]]が初めて[[歴史時代|記録された歴史]]に登場するのはシャルマネセル3世の年代記の前850年代からである。
== 来歴 ==
[[File:Black-obelisk.jpg|thumb|200px|シャルマネセル3世の[[黒色オベリスク]](黒のオベリスク)、[[オースティン・ヘンリー・レヤード]]により[[1846年]]に[[ニムルド]]から発掘、大英博物館蔵]]
[[アッシュールナツィルパル2世]]の息子として生まれた。紀元前858年に即位すると、父の代に大幅に強化されたアッシリアを更に拡大するべく多数の遠征を行った。即位直後に[[歴史的シリア|シリア]]への遠征に向かい、[[アラム人|アラム系]]国家ビート・アディニを征服した。


== 治世 ==
このアッシリアの膨張に対し、シリア地方にある他の諸国は危機感を募らせ反アッシリアの同盟を結んだ。シャルマネセル3世自身が残した碑文によれば[[ダマスカス|ダマスコ]]王ハダドエゼル、[[ハマー (都市)|ハマテ]]王イルフレニ、[[イスラエル王国|イスラエル]]王[[アハブ]]など12の王がこの同盟に参加した。
[[File:Karkar.jpg|thumb|left|220px|[[カルカルの戦い]]を回想(morates{{訳語疑問点|date=2021年3月}})する{{仮リンク|クルクの石碑|en|Kurkh Monolith}}。]]
[[File:Shalmaneser III greets Marduk-zakir-shumi, detail, front panel, Throne Dais of Shalmaneser III at the Iraq Museum.jpg|thumb|{{仮リンク|マルドゥク・ザキル・シュミ1世|en|Marduk-zakir-shumi I}}(左)と挨拶するシャルマネセル3世(右)。シャルマネセル3世の玉座の基壇(Throne Dais)の前面パネル。]]
彼の長期にわたる治世は東方諸部族、[[バビロニア]]、[[メソポタミア]]および[[シリア]]、そして[[キズワトナ]]と[[ウラルトゥ]]への不断の遠征の連続であった。彼の軍隊は[[ヴァン湖]]と[[タウルス山脈]]に侵入し、[[カルケミシュ]]の{{仮リンク|新ヒッタイト|en|Neo-Hittites}}に貢納を強制し、[[ハマー (都市)|ハマト]]と{{仮リンク|アラム・ダマスクス|en|Aram Damascus}}を平定した。


=== 遠征 ===
[[紀元前9世紀|紀元前853年]]に[[カルカルの戦い]]で両者は激突した。シャルマネセル3世はこの戦いを大勝利として記録するが、実際には勝利を収めなかったと考えられる。この戦いの後シャルマネセル3世は一時[[バビロニア]]に矛先を変えて現地の[[カルデア人]]達を征服したが、その後シャルマネセル3世は繰り返しシリア地方に侵攻している。
シャルマネセル3世は[[ウラルトゥ]]王国への遠征を開始し、前858年に{{仮リンク|スグニア|en|Sugunia}}市を破壊、続いて前853年にはアラシャクン(''Araškun'')市を破壊した。この2つの都市は、{{仮リンク|トゥシュパ|en|Tushpa}}市にウラルトゥ人の中心が遷る以前のウラルトゥ王国の首都であったと見られている{{sfn|Çiftçi|2017|p=190}}。前853年、[[ダマスカス]]の[[アラム人]]王{{仮リンク|ハダドエゼル|en|Hadadezer}}、[[ハマー (都市)|ハマト]]王{{仮リンク|イルフレニ|en|Irhuleni}}、[[イスラエル王国|イスラエル]]王[[アハブ]]、[[アラブ人|アラブ]]の王{{仮リンク|ギンディブ|en|Gindibu}}ら、11人の王による連合が形成され、彼らは[[カルカルの戦い]]でシャルマネセル3世と戦った。戦いの結果は決定的なものとはならず、シャルマネセル3世は何年もの間、戦い続けなればならなかった。これらの戦いで、アッシリア帝国は最終的に[[レヴァント]](現在の[[シリア]]と[[レバノン]]および[[アラビア]]を占領した。


前851年、バビロンにおける反乱を受けてシャルマネセル3世はマルドゥク・ベール・ウシャテ(''Marduk-bēl-ušate'')に対する遠征を開始した。彼はシャルマネセル3世の同盟者{{仮リンク|マルドゥク・ザキル・シュミ1世|en|Marduk-zakir-shumi I}}の弟である{{sfn|Jean|2004}}。遠征の2年目、マルドゥク・ベール・ウシャテは退陣を余儀なくされ、殺害された。これらの出来事は[[黒色オベリスク]]に記録されている。
そしてダマスコ王ハダドエゼルが[[紀元前9世紀|紀元前842年]]に死去すると、その息子ハザエルの王位継承に反対してダマスコを攻撃した。なおもダマスコの完全征服はできなかったが、これによってシリア地方での優越した地位を確保し、ダマスコ、イスラエル、[[フェニキア]]の各都市国家に貢納を課した。しかし、完全征服については断念したと見られる。


{{quote|我が治世の第8年、{{仮リンク|カルドニアシュ|en|Karduniaš}}の王マルドゥク・ザキル・シュミの弟、マルドゥク・ベール・ウシャテが彼に反乱を起こし、全土を分割した。彼の復讐のため、余は出陣し{{仮リンク|メ・トゥルナト|fr|Me-Turan}}(''Mê-Turnat'')を占領した。我が治世の第9年、余は再びアッカドへと進軍した。余は''Ganannate''を包囲した。マルドゥク・ベール・ウシャテについては、アッシュル神とマルドゥク神の恐るべき栄光が彼を圧倒し、彼は自らの命を守るため山地へと登っていった。余は彼を追撃した。余はマルドゥク・ベール・ウシャテならびに彼と共にいた反乱軍の将校たちを剣で切り倒した。|シャルマネセル3世|黒色オベリスク<ref >''Black Obelisk'', BM WAA 118885, crafted c. 827 BC, lines 73–84<br>(『黒色オベリスク』(大英博物館、番号118885、紀元前827年作製)73~84行目より)</ref> }}
[[紀元前9世紀|844年]]に[[ウラルトゥ]]王国に遠征を行ってから、ウラルトゥと長期にわたる戦いを繰り返した。更に[[紀元前9世紀|紀元前835年]]以降は[[メディア王国|メディア]]とも戦ったが、[[紀元前832年]]以降は息子の{{仮リンク|アッシュール・ダイン・アピル|en|Assur-danin-pal}}を軍総司令官に任じて彼に指揮を取らせた。しかしアッシュール・ダイン・アピルは[[紀元前827年]]、突如反乱を起こし、カルフ([[ニムルド]])を除くアッシリアの大半の都市を制圧するに到った。シャルマネセル3世は反乱の鎮圧に成功しないまま[[紀元前824年]]死去し、別の息子[[シャムシ・アダド5世]]が後を継いで反乱鎮圧を引き継いだ。


=== 対イスラエル ===
== シャルマネセル3世の遺物 ==
[[File:Jehu-Obelisk-cropped.jpg|thumb|right|300px|シャルマネセル3世に跪く[[イエフ]]{{sfn|Kuan|2016|pp=64&ndash;66}}。これは「古代オリエント美術における現存する唯一のイスラエルまたはユダヤ人の君主の肖像である{{sfn|Cohen|Kangas|2010|p=127}}]]
=== シャルマネセル砦 ===
シャルマネセル3世はカルフ(ニムルド)に軍司令部と武器庫を兼ねた砦を建設した。これは現在'''シャルマネセル砦'''('''Fort Shalmaneser''')と呼ばれている。この砦の玉座にはアッシリアとバビロニアの条約締結の光景が浮き彫りにされており、当時について貴重な情報が得られる。


前841年、シャルマネセル3世はハダドエゼルの後継者{{仮リンク|ハザエル|en|Hazael}}に対して遠征を行い、彼を首都の城壁内に後退させた{{sfn|Bryce|2014|p=14}}。シャルマネセル3世はダマスカス市を占領することができなかったがその領土を荒らし、イスラエルの[[イエフ]](その外交官たちは[[黒色オベリスク]]に登場している。このオベリスクは現在、[[大英博物館]]に収蔵されている。)は[[フェニキア]]人の諸都市と共に、おそらく前841年にシャルマネセル3世に貢納を送った{{sfn|Lamb|2007|p=34|ps= イエフが貢納した年についてはこの文献を参照のこと。}}。[[バビロニア]]は移動生活を送る[[カルデア]]人、{{仮リンク|ストゥ人|en|Sutean}}、[[アラム人]]諸部族の領域を含めて既に征服されており、バビロニア王は処刑されていた{{sfn|Roux|1992}}。
=== 黒色オベリスク ===
現在[[大英博物館]]所蔵の「[[黒色オベリスク]]」と呼ばれる石碑には、イスラエル王[[イエフ]]がシャルマネセル3世に平伏し、貢物を献上する様子とそのリストが刻まれている。[[古代イスラエル]]史を考える上で非常に重要な史料である。


=== 対タバル ===
前836年、シャルマネセル3世は{{仮リンク|タバル|en|Tabal}}(ティバレニ、''Tibareni'')に遠征し、続いて[[カッパドキア]]へ派兵した。そして前832年には[[ウラルトゥ]]に対して別の遠征が行われた{{sfn|Chisholm|Garvin|1926|p=798|ps = 「前836年、シャルマネセル3世はタバル(ティバレニ)への遠征を行い、続いてカッパドキアへと遠征を行った。」}}。翌年、高齢のためにシャルマネセル3世は軍の指揮権を[[タルタン]](''turtānu''、最高司令官)の{{仮リンク|ダヤン・アッシュル|en|Dayyan-Assur}}に引き渡さなければならなかった。そして6年後、[[ニネヴェ]]とその他の都市が息子の{{仮リンク|アッシュル・ダイン・パル|en|Assur-danin-pal}}の下で反乱を起こした。[[内戦]]は2年間続いたが、最後はシャルマネセル3世の別の息子[[シャムシ・アダド5世]]によって撃破された。シャルマネセル3世はその後間もなく死亡した。


=== 後期の遠征 ===
{{先代次代|[[アッシリアの君主一覧#新アッシリア時代|新アッシリア王]]|前858年 - 前824年|[[アッシュールナツィルパル2世]]|[[シャムシ・アダド5世]]}}
[[File:シャルマネセル3世による新アッシリア帝国の拡大図.jpg|thumb|シャルマネセル3世による新アッシリア帝国の拡大]]
その治世後半に発生したこの反乱にもかかわらず、シャルマネセル3世は新アッシリア帝国の国境を拡大し、ザグロスのハブール川と山岳の前線地帯の支配を安定させ、[[ウラルトゥ]]と対抗して見せた。また、彼の治世中、ラクダを駆るアラブ人たちが初めて歴史に登場した。

== 聖書学 ==
シャルマネセル3世が残したモニュメントの2つに『[[旧約聖書]]』の君主名が登場しているため、彼の治世は[[聖書学]]において重要である{{sfn|Cohen|Kangas|2010|pp=127&ndash;128}}。[[黒色オベリスク]]は[[オムリ]]の子[[イエフ]]に言及している(ただし、イエフがオムリの子というのは誤認であるが{{sfn|Cohen|Kangas|2010|pp=127&ndash;128}}。また{{仮リンク|クルクの石碑|en|Kurkh Monolith}}は[[カルカルの戦い]]における[[アハブ]]王に言及している。

{{仮リンク|ラッセル・グミルキン|en|Russell Gmirkin}}は2019年の彼の本の中で、[[ソロモン]]とその帝国に関する神話はシャルマネセル3世の記録を元に構築されたと主張している{{sfn|Pfoh|2019|p=77|ps= ・・・ソロモンの行いの話は、新アッシリア帝国のサマリア州が伝説の征服者にしてユーフラテス川の南に帝国を創設したシャルマネセル3世を祝った話を元にしている。}}。

== 建設事業と黒色オベリスク ==
[[File:The Black Obelisk of Shalmaneser III, 9th century BC, from Nimrud, Iraq. The British Museum.jpg|thumb|[[黒色オベリスク]]。9世紀頃。イラクの[[ニムルド]]で発見。大英博物館収蔵。]]
{{main|黒色オベリスク}}
シャルマネセル3世は[[カルフ]](聖書における[[ニムルド|カラフ]]、現在の[[ニムルド]])に宮殿を建て、彼の諸遠征を記録した王[[年代記]]の複数の版を残した。そしてこれらの最後の版がカラフの[[黒色オベリスク]]に刻まれている。

黒色オベリスクは彼の治世中の重要な出土品である。これは黒い[[石灰岩]]で作られた[[レリーフ|浮彫]][[彫刻]]で、[[イラク]]北部にある[[ニムルド]](古代のカルフ)で発見された。発見された中で最も完全な状態で残るアッシリアの[[オベリスク]]であり、最初期の[[イスラエル人]]の描写を持つため歴史的に重要である。このレリーフの上部と下部には長い楔形文字の碑文でシャルマネセル3世の年代記が記されている。そこにはシャルマネセル3世と彼の最高指揮官が治世31年まで毎年行った遠征が記載されている。いくつかの特徴から、軍を指揮する責務が最高司令官の{{仮リンク|ダヤン・アッシュル|en|Dayyan-Assur}}に与えられていたことが示唆される。

上から2番目の{{仮リンク|レジスタ (彫刻)|label=層|en|Register (sculpture)}}にはイスラエル人の現存する最初期の肖像である[[イスラエル王国]]の王[[イエフ]]の肖像が含まれている{{sfn|Cohen|Kangas|2010|p=127}}。[[イエフ]]は[[イスラエル王国]]と[[フェニキア]]および[[ユダ王国]]との同盟を取りやめ、[[アッシリア]]に臣従した。黒色オベリスクはイエフが前841年頃に貢納を自ら持って行ったか、あるいは送ったことを描写している{{sfn|Kuan|2016|pp=64&ndash;66}}{{sfn|Cohen|Kangas|2010|pp=127&ndash;128}}。この場面の説明はアッシリア楔形文字で書かれており、下記のように訳出できる。

<blockquote>「[[オムリ]]の子[[イエフ]]の貢物。余は彼から銀、金、黄金の鉢、尖底の黄金の壺、黄金の酒杯、黄金の容器(buckets)、錫、王笏[そして]槍を受け取った」{{sfn|Cohen|Kangas|2010|pp=127&ndash;128}}</blockquote>

このオベリスクは前825年の内戦時に公の記念碑として建立された。そして1846年に考古学者[[オースティン・ヘンリー・レヤード]]卿によって発見された。

== 画像 ==
<gallery>
King Shalmaneser III Istanbul Museum.JPG|シャルマネセル3世像。イスタンブル考古学博物館収蔵。
File:Statue of Shalmaneser III from Nimrud, Iraq Museum.jpg|ニムルドで発見されたシャルマネセル3世像。イラク国立博物館収蔵。
File:Kurba'il Statue of Shalmaneser III from Fort Shalmaneser, Iraq Museum.jpg|シャルマネセル要塞で発見されたシャルマネセル3世の''Kurba&#039;il''像。イラク国立博物館収蔵。
File:Shalmaneser III, detail of glazed wall panel from Fort Shalmaneser, Iraq Museum.jpg|シャルマネセル3世。シャルマネセル要塞の塗装された壁面パネルの詳細。イラク国立博物館収蔵。
File:Throne dais of Shalmaneser III from Fort Shalmaneser, Iraq Museum.jpg|シャルマネセル要塞で発見されたシャルマネセル3世の玉座の基壇。イラク国立博物館収蔵。
File:Unfinished basalt statue of Shalmaneser III. From Assur, Iraq. 858-824 BCE. Ancient Orient Museum, Istanbul.jpg|イラクのアッシュルで発見されたシャルマネセル3世の未完成の像。イスタンブル、古代オリエント文明博物館収蔵。
File:The upper end of the Black Obelisk of Shalmaneser III, from Nimrud, Mesopotamia...JPG|シャルマネセル3世の黒色オベリスク頂上部。大英博物館収蔵。
Image:black-obelisk.jpg|シャルマネセル3世の黒色オベリスク。大英博物館収蔵。
File:Throne dais of Shalmaneser III, Royal reception.jpg|シャルマネセル3世の玉座の基壇。王の饗応。
File:Throne dais of Shalmaneser III, procession.jpg|シャルマネセル3世の玉座の基壇。行列。
File:Statue of the Assyrian king Shalmaneser III at the Iraq Museum in Baghdad.jpg|アッシリア王シャルマネセル3世像。イラク、バグダード博物館収蔵。
File:Shalmaneser III, detail, North Face, East End, Throne Dais of Shalmaneser III from Nimrud, Iraq.jpg|シャルマネセル3世像詳細。北面、東端。イラク、ニムルドで発見されたシャルマネセル3世の玉座の基壇。
File:Shalmaneser III, detail, south face, west end, Throne Dais of Shalmaneser III from Nimrud, Iraq.jpg|シャルマネセル3世像詳細。南面、西端。イラク、ニムルドで発見されたシャルマネセル3世の玉座の基壇。
File:Kurba'il Statue of Shalmaneser III at the Iraq Museum in Baghdad.jpg|シャルマネセル3世の''Kurba&#039;il''像。バグダードのイラク国立博物館収蔵。
</gallery>

== 関連項目 ==
* [[新アッシリア帝国]]
* [[新アッシリア帝国における国家通信]]
* {{仮リンク|聖書学における重要な遺物の一覧|en|List of artifacts significant to the Bible}}
* [[黒色オベリスク]]
* [[低年代説]]

== 脚注 ==

=== 出典 ===
{{Reflist}}

=== 参考文献・ウェブサイト ===
* {{cite book|last=Bryce|first=Trevor|title=Ancient Syria: A Three Thousand Year History|url=https://books.google.com/books?id=41-MAgAAQBAJ&pg=PR14|year=2014|date=6 March 2014|publisher=OUP Oxford|isbn=978-0-19-100293-9|ref=harv}}<br>(『古代シリア:三千年の歴史』(著:トレヴァー・ブライス、2014年、オックスフォード大学出版))
* {{cite book |last1=Chisholm|first1=Hugh|last2=Garvin|first2=James Louis|title=The Encyclopædia Britannica: A Dictionary of Arts, Sciences, Literature & General Information |year=1926|publisher=Encyclopædia Britannica Company, Limited|url=https://books.google.com/books?id=JBFGAQAAIAAJ |language=en|ref=harv}}<br>(『ブリタニカ百科事典』(1926年)p.798収録)
* {{Cite book|title=The Socio-Economic Organisation of the Urartian Kingdom|last=Çiftçi|first=Ali|publisher=Brill|year=2017|isbn=9789004347588|ref=harv}}<br>(『ウラルトゥ王国の社会経済組織』(著:アリ・チフチ、2017年、ブリル出版(オランダ)))
* {{cite book|last1=Cohen|first1=Ada|last2=Kangas|first2=Steven E.|title=Assyrian Reliefs from the Palace of Ashurnasirpal II: A Cultural Biography |year=2010|publisher=UPNE |isbn=978-1-58465-817-7 |url=https://books.google.com/books?id=uRKU0YXBWtgC&pg=PA127 |language=en|ref=harv}}<br>(『アッシュル・ナツィルパル2世の宮殿から出土したアッシリアの浮き彫り:文化の歴史』(著:エイダ・コーエン、スティーブン・E・カンガス、2010年、ニュー・イングランド・ユニバーシティ出版(米国)))
* {{Cite book|title=Mesopotamian Chronicles|last=Jean|first=Jacques Glassner|year=2004|publisher=SBL Press|ref=harv}}<br>(『メソポタミアの年代記』(著:ジーン・ジャックス・グラスナー、2004年、聖書文学出版(米国アトランタ)))
* {{cite book|last=Kuan|first=Jeffrey Kah-Jin|title=Neo-Assyrian Historical Inscriptions and Syria-Palestine: Israelite/Judean-Tyrian-Damascene Political and Commercial Relations in the Ninth-Eighth Centuries BCE |year=2016|publisher=Wipf and Stock Publishers |isbn=978-1-4982-8143-0|url=https://books.google.com/books?id=zMOqCwAAQBAJ&pg=PA65 |language=en|ref=harv}}<br>(『新アッシリアの歴史的碑文とシリア・パレスティナ:紀元前9~8世紀におけるイスラエル、ユダ、テュロス、ダマスカスの政治・通商関係』(著:ジェファリー・カー・ジン・クアン、2016年、ウィフ・アンド・ストック出版(米国)))
* {{cite book|last=Lamb|lfirst=David T.|title=Righteous Jehu and His Evil Heirs: The Deuteronomist's Negative Perspective on Dynastic Succession|url=https://books.google.com/books?id=s0YTDAAAQBAJ&pg=PA34|year=2007|date=22 November 2007|publisher=OUP Oxford|isbn=978-0-19-923147-8|ref=harv}}<br>(『正しきイエフとその悪しき後継者:申命記著者の否定的な視点』(著:デーヴィッド・T・ラム、2007年、オックスフォード大学出版))
* {{Cite book|last=Pfoh|first=Emanuel|title=Biblical Narratives, Archaeology and Historicity|publisher=Bloomsbury|year=2019|isbn=978-0-567-68657-2|ref=harv}}<br>(『聖書文学、考古学と歴史的事実』(編:エマニュエル・フォーほか、2019.年、ブルームズベリー出版(英国)))
* {{cite book|last=Roux|first=Georges|year=1992|title=Ancient Iraq|ref=harv}}<br>(『古代イラク』(ジョルジュ・ルー、ペンギンブックス 1992年(93年? 第3版。初版は1964年)))
* {{cite web|url=http://mcadams.posc.mu.edu/txt/ah/Assyria/Inscra01.html |last=Sayce|first=Archibald Henry|title=Black Obelisk of Shalmaneser II |year=1901|publisher=Mcadams.posc.mu.edu |access-date=26 October 2012|ref=harv}}<br>(『シャルマネセル2世の黒色オベリスク』(『バビロニアとアッシリアの文学』(アーチボルド・セイス、1901年)より転載))
*{{EB1911|wstitle = Shalmaneser|volume=24}}<br>(『シャルマネセル』(記事の著者;アーチボルド・ヘンリー・セイス)ブリタニカ百科事典第11版第24巻より)

== 外部リンク ==
{{Commons category-inline}}
* [https://web.archive.org/web/20070212033855/http://library.case.edu/ksl/ecoll/books/kinbro00/kinbro00.html シャルマネセル3世とアッシュルバニパルの門。その門から発見されたアッシリア王シャルマネセル3世の銅製レリーフ。]
* [https://www.gutenberg.org/ebooks/10887 シャルマネセル3世の黒色オベリスク。「バビロニアとアッシリアの文学」。]
* [http://www.kchanson.com/ANCDOCS/meso/obelisk.html シャルマネセル3世の黒色オベリスク。]

{{先代次代|[[アッシリアの君主一覧#新アッシリア時代|新アッシリア王]]|前859年 - 前824年|[[アッシュル・ナツィルパル2世]]|[[シャムシ・アダド5世]]}}


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[[Category:アッシリアの君主]]
[[Category:アッシリアの君主]]
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[[Category:紀元前820年代没]]
[[Category:紀元前820年代没]]
[[Category:生年不明]]

2022年1月16日 (日) 22:24時点における最新版

シャルマネセル3世
「シャルマネセル3世の玉座の基壇(Throne Dais of Shalmaneser III)」に描かれたシャルマネセル3世。イラク国立博物館収蔵。
在位 前859年-前824年

出生 前890年-前885年
死去 前824年
父親 アッシュル・ナツィルパル2世
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シャルマネセル3世Shalmaneser III、在位:前859年-前824年)は、古代メソポタミア地方の新アッシリア帝国の王。ウラルトゥ、パレスティナ、バビロニアなど多方面への遠征を繰り返した。旧約聖書に登場する北イスラエル王イエフを記録した黒色オベリスクは貴重な史料となっている。帝国前半の興隆期を担ったが、彼の死後は王の権力が低下し、帝国は停滞期に入った。

本来の名前はシャルマヌ・アシャレド(Šulmānu-ašarēdu)であり、「シャルマヌ英語版神は至高なり」を意味する。アッシュル・ナツィルパル2世の息子にして後継者であった[1]アラブ人カルデア人が初めて記録された歴史に登場するのはシャルマネセル3世の年代記の前850年代からである。

治世

[編集]
カルカルの戦いを回想(morates[訳語疑問点])するクルクの石碑英語版
マルドゥク・ザキル・シュミ1世英語版(左)と挨拶するシャルマネセル3世(右)。シャルマネセル3世の玉座の基壇(Throne Dais)の前面パネル。

彼の長期にわたる治世は東方諸部族、バビロニアメソポタミアおよびシリア、そしてキズワトナウラルトゥへの不断の遠征の連続であった。彼の軍隊はヴァン湖タウルス山脈に侵入し、カルケミシュ新ヒッタイト英語版に貢納を強制し、ハマトアラム・ダマスクス英語版を平定した。

遠征

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シャルマネセル3世はウラルトゥ王国への遠征を開始し、前858年にスグニア英語版市を破壊、続いて前853年にはアラシャクン(Araškun)市を破壊した。この2つの都市は、トゥシュパ英語版市にウラルトゥ人の中心が遷る以前のウラルトゥ王国の首都であったと見られている[2]。前853年、ダマスカスアラム人ハダドエゼル英語版ハマトイルフレニ英語版イスラエルアハブアラブの王ギンディブ英語版ら、11人の王による連合が形成され、彼らはカルカルの戦いでシャルマネセル3世と戦った。戦いの結果は決定的なものとはならず、シャルマネセル3世は何年もの間、戦い続けなればならなかった。これらの戦いで、アッシリア帝国は最終的にレヴァント(現在のシリアレバノンおよびアラビアを占領した。

前851年、バビロンにおける反乱を受けてシャルマネセル3世はマルドゥク・ベール・ウシャテ(Marduk-bēl-ušate)に対する遠征を開始した。彼はシャルマネセル3世の同盟者マルドゥク・ザキル・シュミ1世英語版の弟である[3]。遠征の2年目、マルドゥク・ベール・ウシャテは退陣を余儀なくされ、殺害された。これらの出来事は黒色オベリスクに記録されている。

我が治世の第8年、カルドニアシュ英語版の王マルドゥク・ザキル・シュミの弟、マルドゥク・ベール・ウシャテが彼に反乱を起こし、全土を分割した。彼の復讐のため、余は出陣しメ・トゥルナトフランス語版Mê-Turnat)を占領した。我が治世の第9年、余は再びアッカドへと進軍した。余はGanannateを包囲した。マルドゥク・ベール・ウシャテについては、アッシュル神とマルドゥク神の恐るべき栄光が彼を圧倒し、彼は自らの命を守るため山地へと登っていった。余は彼を追撃した。余はマルドゥク・ベール・ウシャテならびに彼と共にいた反乱軍の将校たちを剣で切り倒した。
シャルマネセル3世、黒色オベリスク[4]

対イスラエル

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シャルマネセル3世に跪くイエフ[5]。これは「古代オリエント美術における現存する唯一のイスラエルまたはユダヤ人の君主の肖像である[6]

前841年、シャルマネセル3世はハダドエゼルの後継者ハザエル英語版に対して遠征を行い、彼を首都の城壁内に後退させた[7]。シャルマネセル3世はダマスカス市を占領することができなかったがその領土を荒らし、イスラエルのイエフ(その外交官たちは黒色オベリスクに登場している。このオベリスクは現在、大英博物館に収蔵されている。)はフェニキア人の諸都市と共に、おそらく前841年にシャルマネセル3世に貢納を送った[8]バビロニアは移動生活を送るカルデア人、ストゥ人英語版アラム人諸部族の領域を含めて既に征服されており、バビロニア王は処刑されていた[9]

対タバル

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前836年、シャルマネセル3世はタバル英語版(ティバレニ、Tibareni)に遠征し、続いてカッパドキアへ派兵した。そして前832年にはウラルトゥに対して別の遠征が行われた[10]。翌年、高齢のためにシャルマネセル3世は軍の指揮権をタルタンturtānu、最高司令官)のダヤン・アッシュル英語版に引き渡さなければならなかった。そして6年後、ニネヴェとその他の都市が息子のアッシュル・ダイン・パル英語版の下で反乱を起こした。内戦は2年間続いたが、最後はシャルマネセル3世の別の息子シャムシ・アダド5世によって撃破された。シャルマネセル3世はその後間もなく死亡した。

後期の遠征

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シャルマネセル3世による新アッシリア帝国の拡大

その治世後半に発生したこの反乱にもかかわらず、シャルマネセル3世は新アッシリア帝国の国境を拡大し、ザグロスのハブール川と山岳の前線地帯の支配を安定させ、ウラルトゥと対抗して見せた。また、彼の治世中、ラクダを駆るアラブ人たちが初めて歴史に登場した。

聖書学

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シャルマネセル3世が残したモニュメントの2つに『旧約聖書』の君主名が登場しているため、彼の治世は聖書学において重要である[11]黒色オベリスクオムリの子イエフに言及している(ただし、イエフがオムリの子というのは誤認であるが[11]。またクルクの石碑英語版カルカルの戦いにおけるアハブ王に言及している。

ラッセル・グミルキン英語版は2019年の彼の本の中で、ソロモンとその帝国に関する神話はシャルマネセル3世の記録を元に構築されたと主張している[12]

建設事業と黒色オベリスク

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黒色オベリスク。9世紀頃。イラクのニムルドで発見。大英博物館収蔵。

シャルマネセル3世はカルフ(聖書におけるカラフ、現在のニムルド)に宮殿を建て、彼の諸遠征を記録した王年代記の複数の版を残した。そしてこれらの最後の版がカラフの黒色オベリスクに刻まれている。

黒色オベリスクは彼の治世中の重要な出土品である。これは黒い石灰岩で作られた浮彫彫刻で、イラク北部にあるニムルド(古代のカルフ)で発見された。発見された中で最も完全な状態で残るアッシリアのオベリスクであり、最初期のイスラエル人の描写を持つため歴史的に重要である。このレリーフの上部と下部には長い楔形文字の碑文でシャルマネセル3世の年代記が記されている。そこにはシャルマネセル3世と彼の最高指揮官が治世31年まで毎年行った遠征が記載されている。いくつかの特徴から、軍を指揮する責務が最高司令官のダヤン・アッシュル英語版に与えられていたことが示唆される。

上から2番目の英語版にはイスラエル人の現存する最初期の肖像であるイスラエル王国の王イエフの肖像が含まれている[6]イエフイスラエル王国フェニキアおよびユダ王国との同盟を取りやめ、アッシリアに臣従した。黒色オベリスクはイエフが前841年頃に貢納を自ら持って行ったか、あるいは送ったことを描写している[5][11]。この場面の説明はアッシリア楔形文字で書かれており、下記のように訳出できる。

オムリの子イエフの貢物。余は彼から銀、金、黄金の鉢、尖底の黄金の壺、黄金の酒杯、黄金の容器(buckets)、錫、王笏[そして]槍を受け取った」[11]

このオベリスクは前825年の内戦時に公の記念碑として建立された。そして1846年に考古学者オースティン・ヘンリー・レヤード卿によって発見された。

画像

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関連項目

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脚注

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出典

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  1. ^ Sayce 1901.
  2. ^ Çiftçi 2017, p. 190.
  3. ^ Jean 2004.
  4. ^ Black Obelisk, BM WAA 118885, crafted c. 827 BC, lines 73–84
    (『黒色オベリスク』(大英博物館、番号118885、紀元前827年作製)73~84行目より)
  5. ^ a b Kuan 2016, pp. 64–66.
  6. ^ a b Cohen & Kangas 2010, p. 127.
  7. ^ Bryce 2014, p. 14.
  8. ^ Lamb 2007, p. 34 イエフが貢納した年についてはこの文献を参照のこと。
  9. ^ Roux 1992.
  10. ^ Chisholm & Garvin 1926, p. 798 「前836年、シャルマネセル3世はタバル(ティバレニ)への遠征を行い、続いてカッパドキアへと遠征を行った。」
  11. ^ a b c d Cohen & Kangas 2010, pp. 127–128.
  12. ^ Pfoh 2019, p. 77 ・・・ソロモンの行いの話は、新アッシリア帝国のサマリア州が伝説の征服者にしてユーフラテス川の南に帝国を創設したシャルマネセル3世を祝った話を元にしている。

参考文献・ウェブサイト

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  • Bryce, Trevor (6 March 2014). Ancient Syria: A Three Thousand Year History. OUP Oxford. ISBN 978-0-19-100293-9. https://books.google.com/books?id=41-MAgAAQBAJ&pg=PR14 
    (『古代シリア:三千年の歴史』(著:トレヴァー・ブライス、2014年、オックスフォード大学出版))
  • Chisholm, Hugh; Garvin, James Louis (1926) (英語). The Encyclopædia Britannica: A Dictionary of Arts, Sciences, Literature & General Information. Encyclopædia Britannica Company, Limited. https://books.google.com/books?id=JBFGAQAAIAAJ 
    (『ブリタニカ百科事典』(1926年)p.798収録)
  • Çiftçi, Ali (2017). The Socio-Economic Organisation of the Urartian Kingdom. Brill. ISBN 9789004347588 
    (『ウラルトゥ王国の社会経済組織』(著:アリ・チフチ、2017年、ブリル出版(オランダ)))
  • Cohen, Ada; Kangas, Steven E. (2010) (英語). Assyrian Reliefs from the Palace of Ashurnasirpal II: A Cultural Biography. UPNE. ISBN 978-1-58465-817-7. https://books.google.com/books?id=uRKU0YXBWtgC&pg=PA127 
    (『アッシュル・ナツィルパル2世の宮殿から出土したアッシリアの浮き彫り:文化の歴史』(著:エイダ・コーエン、スティーブン・E・カンガス、2010年、ニュー・イングランド・ユニバーシティ出版(米国)))
  • Jean, Jacques Glassner (2004). Mesopotamian Chronicles. SBL Press 
    (『メソポタミアの年代記』(著:ジーン・ジャックス・グラスナー、2004年、聖書文学出版(米国アトランタ)))
  • Kuan, Jeffrey Kah-Jin (2016) (英語). Neo-Assyrian Historical Inscriptions and Syria-Palestine: Israelite/Judean-Tyrian-Damascene Political and Commercial Relations in the Ninth-Eighth Centuries BCE. Wipf and Stock Publishers. ISBN 978-1-4982-8143-0. https://books.google.com/books?id=zMOqCwAAQBAJ&pg=PA65 
    (『新アッシリアの歴史的碑文とシリア・パレスティナ:紀元前9~8世紀におけるイスラエル、ユダ、テュロス、ダマスカスの政治・通商関係』(著:ジェファリー・カー・ジン・クアン、2016年、ウィフ・アンド・ストック出版(米国)))
  • Lamb (22 November 2007). Righteous Jehu and His Evil Heirs: The Deuteronomist's Negative Perspective on Dynastic Succession. OUP Oxford. ISBN 978-0-19-923147-8. https://books.google.com/books?id=s0YTDAAAQBAJ&pg=PA34 
    (『正しきイエフとその悪しき後継者:申命記著者の否定的な視点』(著:デーヴィッド・T・ラム、2007年、オックスフォード大学出版))
  • Pfoh, Emanuel (2019). Biblical Narratives, Archaeology and Historicity. Bloomsbury. ISBN 978-0-567-68657-2 
    (『聖書文学、考古学と歴史的事実』(編:エマニュエル・フォーほか、2019.年、ブルームズベリー出版(英国)))
  • Roux, Georges (1992). Ancient Iraq 
    (『古代イラク』(ジョルジュ・ルー、ペンギンブックス 1992年(93年? 第3版。初版は1964年)))
  • Sayce, Archibald Henry (1901年). “Black Obelisk of Shalmaneser II”. Mcadams.posc.mu.edu. 26 October 2012閲覧。
    (『シャルマネセル2世の黒色オベリスク』(『バビロニアとアッシリアの文学』(アーチボルド・セイス、1901年)より転載))
  •  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Shalmaneser". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 24 (11th ed.). Cambridge University Press.
    (『シャルマネセル』(記事の著者;アーチボルド・ヘンリー・セイス)ブリタニカ百科事典第11版第24巻より)

外部リンク

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