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[[金朝]]末期、趙柔は兵乱を避けて西山に逃れ、柵を築いて家郷を守った。この頃、劉伯元・蔡友資・李純といった数千の部下を率いる有力者たちは趙柔が信義を重んじることを聞き、合流して趙柔を長に戴いた。趙柔は命令を明白にし、約束を厳しく守り、賞罰を重くしたため配下の者達は皆信服していたという。 |
2021年3月1日 (月) 05:24時点における版
趙柔(ちょう じゅう)とは、金朝末期からモンゴル帝国初期にかけて活躍した人物。
概要
淶水(現在の河北省保定市北部)に生まれた。胆力・知略を併せ持ち、騎射を得意とし、好んで施しを行うような人柄であったという。
金朝末期、趙柔は兵乱を避けて西山に逃れ、柵を築いて家郷を守った。この頃、劉伯元・蔡友資・李純といった数千の部下を率いる有力者たちは趙柔が信義を重んじることを聞き、合流して趙柔を長に戴いた。趙柔は命令を明白にし、約束を厳しく守り、賞罰を重くしたため配下の者達は皆信服していたという。
1213年、モンゴル帝国のチンギス・カンが金朝に侵攻し、紫荊関を落とすと、趙柔は配下の者達を率いて降伏した。そこで趙柔は涿州・易州の長官に任じられ、金符を帯びた。チンギス・カンの金朝侵攻後、華北一帯で盗賊が横行したが、趙柔は単騎で多くの城柵に入り説得により降伏させたため、その功績を賞して1226年に龍虎衛上将軍・真定涿等路兵馬都元帥に任じられ、金虎符を帯びた。
1230年にはオゴデイ・カーンの命により管諸処打捕総管を兼ねるようになり、1236年には更に金紫光禄大夫に加えられたが、間もなく亡くなった。1330年(至順元年)には天水郡公に追封され、荘靖と諡された。曾孫の世安は栄禄大夫及び江西行省の左丞となっている。
脚注
- ^ 『元史』巻152列伝39趙柔伝「趙柔、淶水人。有膽略、善騎射、好施予。金末避兵西山、柵険以保郷井。時劉伯元・蔡友資・李純等亦各聚衆数千、聞柔信義、共推為長。柔明号令、厳約束、重賞罰、為衆所服。歳癸酉、太祖遣兵破紫荊関、柔以其衆降、行省八札奏聞、以柔為涿・易二州長官、佩金符。丙戌、群盗並起、柔単騎遍入諸柵、説降其衆、以功遷龍虎衛上将軍・真定涿等路兵馬都元帥、佩金虎符、兼銀冶総管。庚寅、太宗命兼管諸処打捕総管。丙申、加金紫光禄大夫、卒。至順元年、追封天水郡公、諡荘靖。曾孫世安、栄禄大夫・江西行省左丞」