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[[湖南省]][[湘郷市|湘郷]]出身、[[曽国荃]]のいとこ。湘軍に加入後、曽国荃に従って[[江西省]]に救援に赴き、戦功をたてた。県丞に任命され、さらに知府に昇進した。諸軍とともに[[長江]]沿岸の[[当塗県|太平府]]・[[蕪湖市|蕪湖]]などの要衝を攻略し、道員に抜擢され、[[バトゥル]]の称号を与えられた。 |
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[[天京攻防戦]]での功績は大きく、布政使記名(将来の布政使就任を約束されること)となり、一等軽車都尉の世襲職を授かった。福建汀漳龍兵備道となるが、就任する前に曽国荃の推薦で湘軍を率いて[[湖北省]]に赴き、[[捻軍]]の掃討にあることとなった。[[1867年]]3月、軍が[[ |
[[天京攻防戦]]での功績は大きく、布政使記名(将来の布政使就任を約束されること)となり、一等軽車都尉の世襲職を授かった。福建汀漳龍兵備道となるが、就任する前に曽国荃の推薦で湘軍を率いて[[湖北省]]に赴き、[[捻軍]]の掃討にあることとなった。[[1867年]]3月、軍が[[浠水県|蘄水]]に到着したとき、彭毓橘は数百人の小隊を率いて地形を調査していたが、麒麟凹で捻軍に包囲され、戦闘の末に彭毓橘の馬は泥に脚を取られ、捕えられて殺害された。 |
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朝廷は布政使が戦死したときの形式で葬礼を行い、祠を建て、内閣学士の官職、忠壮の[[諡号]]、騎都尉の世襲職、三等男爵の爵位が贈られた。 |
朝廷は布政使が戦死したときの形式で葬礼を行い、祠を建て、内閣学士の官職、忠壮の[[諡号]]、騎都尉の世襲職、三等男爵の爵位が贈られた。 |
2021年3月1日 (月) 05:17時点における版
彭 毓橘(ほう いくきつ、Peng Yuju、1824年 - 1867年)は、湘軍の将帥。
湖南省湘郷出身、曽国荃のいとこ。湘軍に加入後、曽国荃に従って江西省に救援に赴き、戦功をたてた。県丞に任命され、さらに知府に昇進した。諸軍とともに長江沿岸の太平府・蕪湖などの要衝を攻略し、道員に抜擢され、バトゥルの称号を与えられた。
天京攻防戦での功績は大きく、布政使記名(将来の布政使就任を約束されること)となり、一等軽車都尉の世襲職を授かった。福建汀漳龍兵備道となるが、就任する前に曽国荃の推薦で湘軍を率いて湖北省に赴き、捻軍の掃討にあることとなった。1867年3月、軍が蘄水に到着したとき、彭毓橘は数百人の小隊を率いて地形を調査していたが、麒麟凹で捻軍に包囲され、戦闘の末に彭毓橘の馬は泥に脚を取られ、捕えられて殺害された。
朝廷は布政使が戦死したときの形式で葬礼を行い、祠を建て、内閣学士の官職、忠壮の諡号、騎都尉の世襲職、三等男爵の爵位が贈られた。