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「尹隆河の戦い」の版間の差分

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'''尹隆河の戦い'''は[[劉銘伝]]率いる[[清]]軍と[[頼文光]]・[[任柱]]の率いる[[捻軍]]との戦いである。
'''尹隆河の戦い'''は[[劉銘伝]]率いる[[清]]軍と[[頼文光]]・[[任柱]]の率いる[[捻軍]]との戦いである。


[[1867年]]1月15日、[[湖北省]][[安陸市|安陸]]の尹隆河で両軍の戦闘が開始された。捻軍は[[淮軍]]を率いる劉銘伝に猛攻を加え、劉銘伝配下の猛将の総兵[[唐殿魁]]・[[田履安]]が戦死し、劉銘伝は死を覚悟した。しかし[[湘軍]]の[[鮑超]]が援軍に駆けつけ戦局は逆転した。捻軍は数千人が死亡、8千人が馬5千匹をともなって降伏した。頼文光と任柱は[[河南省]]に逃亡した。3月に湘軍の[[彭毓橘]]が捻軍を追跡したが、捻軍の反撃に遭って[[水県|蘄水]]の神港で大敗し、彭毓橘は戦死した。
[[1867年]]1月15日、[[湖北省]][[安陸市|安陸]]の尹隆河で両軍の戦闘が開始された。捻軍は[[淮軍]]を率いる劉銘伝に猛攻を加え、劉銘伝配下の猛将の総兵[[唐殿魁]]・[[田履安]]が戦死し、劉銘伝は死を覚悟した。しかし[[湘軍]]の[[鮑超]]が援軍に駆けつけ戦局は逆転した。捻軍は数千人が死亡、8千人が馬5千匹をともなって降伏した。頼文光と任柱は[[河南省]]に逃亡した。3月に湘軍の[[彭毓橘]]が捻軍を追跡したが、捻軍の反撃に遭って[[水県|蘄水]]の神港で大敗し、彭毓橘は戦死した。


この戦いで捻軍は湖北省に拠点を築くことに失敗し、守勢に転ずることになる。この年の11月に任柱は戦死し、翌年の1月に頼文光は捕えられ、東捻軍は滅亡することとなるのである。
この戦いで捻軍は湖北省に拠点を築くことに失敗し、守勢に転ずることになる。この年の11月に任柱は戦死し、翌年の1月に頼文光は捕えられ、東捻軍は滅亡することとなるのである。

2021年3月1日 (月) 05:17時点における版

捻軍と清軍との戦い。尹隆河の戦いといわれている。

尹隆河の戦い劉銘伝率いる軍と頼文光任柱の率いる捻軍との戦いである。

1867年1月15日、湖北省安陸の尹隆河で両軍の戦闘が開始された。捻軍は淮軍を率いる劉銘伝に猛攻を加え、劉銘伝配下の猛将の総兵唐殿魁田履安が戦死し、劉銘伝は死を覚悟した。しかし湘軍鮑超が援軍に駆けつけ戦局は逆転した。捻軍は数千人が死亡、8千人が馬5千匹をともなって降伏した。頼文光と任柱は河南省に逃亡した。3月に湘軍の彭毓橘が捻軍を追跡したが、捻軍の反撃に遭って蘄水の神港で大敗し、彭毓橘は戦死した。

この戦いで捻軍は湖北省に拠点を築くことに失敗し、守勢に転ずることになる。この年の11月に任柱は戦死し、翌年の1月に頼文光は捕えられ、東捻軍は滅亡することとなるのである。