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'''何 文慶'''(か ぶんけい、''He Wenqing''、[[1801年]] - [[1863年]])<ref name="紹興賢人志">{{cite book |author=朱順佐|title=《紹興賢人志》(二) |date=1984-12|publisher=紹興師專學報增刊|location=中國 |language=中文|isbn=}}</ref>は、[[太平天国]]の指導者の一人。 |
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[[浙江省]][[諸曁市|諸曁]]出身。外科医であったが、武術を善くし、蓮蓬党を結成した。[[1861年]]、太平天国が浙江省に進入すると、蓮蓬党を率いて太平天国軍を迎え入れ、浙東地方攻撃の先鋒となった。たちまち[[嵊州市|嵊県]]・[[新昌県|新昌]]・[[上虞市|上虞]]・[[余姚市|余姚]]・[[慈渓市|慈渓]]・[[鎮海区 (寧波市)|鎮海]]を占領し、さらに息子に命じて[[天台県|天台]]・[[臨海市|台州]]・[[温嶺市|温嶺]]を攻略させた。この功績により志天燕に封ぜられ、さらに志天義に昇進した。[[寧波市|寧波]]の防衛を命じられ、税関業務も担当した。[[1862年]]になると[[清]]軍は西洋人と結んで、鎮海・寧波・慈渓一帯で反撃に出たため、何文慶は戴王[[黄呈忠]]・首王[[范汝増]]とともに抵抗にあたった。[[慈渓の戦い]]では[[常勝軍]]の[[フレデリック・タウンゼント・ウォード]]を戦死させた。[[1863年]]になると浙東地方の形勢は悪化し、何文慶は各地を転戦したが、疲労が蓄積して[[蕭山区|蕭山]]攻撃の途上で病死した。 |
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2021年3月1日 (月) 05:14時点における版
何 文慶(か ぶんけい、He Wenqing、1801年 - 1863年)[1]は、太平天国の指導者の一人。
浙江省諸曁出身。外科医であったが、武術を善くし、蓮蓬党を結成した。1861年、太平天国が浙江省に進入すると、蓮蓬党を率いて太平天国軍を迎え入れ、浙東地方攻撃の先鋒となった。たちまち嵊県・新昌・上虞・余姚・慈渓・鎮海を占領し、さらに息子に命じて天台・台州・温嶺を攻略させた。この功績により志天燕に封ぜられ、さらに志天義に昇進した。寧波の防衛を命じられ、税関業務も担当した。1862年になると清軍は西洋人と結んで、鎮海・寧波・慈渓一帯で反撃に出たため、何文慶は戴王黄呈忠・首王范汝増とともに抵抗にあたった。慈渓の戦いでは常勝軍のフレデリック・タウンゼント・ウォードを戦死させた。1863年になると浙東地方の形勢は悪化し、何文慶は各地を転戦したが、疲労が蓄積して蕭山攻撃の途上で病死した。
参考文献
- 郭穀生・史式編『太平天国大辞典』中国社会科学出版社
- ^ 朱順佐 (1984-12) (中文). 《紹興賢人志》(二). 中國: 紹興師專學報增刊