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太和元年([[366年]])閏4月、会稽郡[[ジョウ州市|剡県]]石城山の栖光寺にて病死した。
太和元年([[366年]])閏4月、会稽郡[[州市|剡県]]石城山の栖光寺にて病死した。


== 著作 ==
== 著作 ==

2021年3月1日 (月) 05:13時点における版

支遁、支道林
314年 - 366年
生地 陳留郡浚儀県
没地 会稽郡剡県
寺院 支山寺、霊嘉寺、栖光寺
著作 『文翰集』
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支遁(しとん、建興2年(314年) - 太和元年閏4月4日366年5月29日))は、東晋の僧。格義仏教の代表的人物。字は道林。号は支硎。本姓は関氏。陳留郡浚儀県(現在の河南省開封市祥符区)の出身。

経歴

父祖の代からの仏教徒であり、幼い頃に已に西晋末の華北の動乱を避け、江南に移り住んでいたが、25歳で出家した。『道行般若経』などの教理研究に専心した。また、老荘思想清談にも精通しており、『荘子』「逍遥遊篇」に注釈を加え、独自の見解を述べている。

その後、呉郡呉県の支山寺に入ったが、王羲之の要請によって会稽郡山陰県の霊嘉寺に移った。以後も、各地で仏典の講説を行い、弟子百人あまりを率いていた。哀帝の招きにより、都の建康に出て、東安寺で『道行般若経』を講ずるなどした。王羲之や孫綽許詢謝安劉恢らの東晋一流の文人らと交遊した。

太和元年(366年)閏4月、会稽郡剡県石城山の栖光寺にて病死した。

著作

彼の著作としては、「即色遊玄論」「聖不弁知論」「道行旨帰」「学道誡」「釈朦論」「切悟章」「弁三乗論」等を残したと、慧皎の『高僧伝』(巻4、本伝)では伝えている。また、彼の文集として「文翰集」10巻があったという。

伝記資料

参考文献

  • 福永光司「支遁と其の周囲」(『仏教史学』5-2、1956年)
  • 湯用彤『漢魏両晋南北朝仏教史』(1955年)