コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「魏植」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Cewbot (会話 | 投稿記録)
4行目: 4行目:
西晋に仕え、[[頓丘郡]]太守に任じられていた。
西晋に仕え、[[頓丘郡]]太守に任じられていた。


[[307年]]12月、頓丘に避難してきた流民に迫られ、西晋に反旗を翻した。兵を集めるとその規模は5・6万にも及び、それらを従えて[[エン州|兗州]]を攻撃し、大いに略奪して回った。
[[307年]]12月、頓丘に避難してきた流民に迫られ、西晋に反旗を翻した。兵を集めるとその規模は5・6万にも及び、それらを従えて[[兗州]]を攻撃し、大いに略奪して回った。


都督青州諸軍事[[苟晞]]は無塩に駐屯し、魏植を攻撃した。魏植はこれに敗れ、その勢力は散亡した。それ以降の生死は不明である。
都督青州諸軍事[[苟晞]]は無塩に駐屯し、魏植を攻撃した。魏植はこれに敗れ、その勢力は散亡した。それ以降の生死は不明である。

2021年3月1日 (月) 05:08時点における版

魏 植(ぎ しょく、生没年不詳)は、西晋末から五胡十六国時代の人物。

生涯

西晋に仕え、頓丘郡太守に任じられていた。

307年12月、頓丘に避難してきた流民に迫られ、西晋に反旗を翻した。兵を集めるとその規模は5・6万にも及び、それらを従えて兗州を攻撃し、大いに略奪して回った。

都督青州諸軍事苟晞は無塩に駐屯し、魏植を攻撃した。魏植はこれに敗れ、その勢力は散亡した。それ以降の生死は不明である。

参考文献